使いづらいことば

用語が難しいからではなく、どのように使ってもしっくりこないという意味合いの「使いづらい」。普段よく使っているのだが、状況によっては「何か変」と感じさせられることばがある。小池昌代という詩人が『生きのびろ、ことば』のまえがきで、「ありがとう」の言いづらさについて次のように書いている。

どうでもいいようなことで恥ずかしいのだが、たとえば何かの飲食店に入り、給仕をしてくれたひとに、「ありがとう」と言いたいとき、相手のひとが自分より年上だと、ありがとうと言い切ることがなかなかむずかしい。なんだか、えらそうに聞こえてしまうから。

ことばは人と人の関係性によってニュアンスが微妙に変わる。「ありがとう」が上から目線にならぬような言い回しを考えて、結局は「ありがとうございます」に落ち着く。しかし、それでは「丁寧すぎる」と言い、著者は続ける。

もっとカジュアルに、そして感謝を素直に伝えるために、どんなことばがあるのか、などと考えていて、あるとき、ふいに口を付いて出た「ありがとう」に、関西風のイントネーションがついた。

すなわち、語頭にアクセントを置く関東人の「あり✓✓がとう」に対して、語尾にアクセントを置く関西人の「ありがとう✓✓」が年下にも年上にもやわらかい、という所見である。

昔住んでいた街によく通った銭湯があった。あの主人は、番台で客からお金を受け取ると「ありが、おおきに」と言った。自分が高い所に座っているから自然そう言うようになったのか。親しみやすく、かつ低姿勢に響いた。ところで、メールやSNSのコメントの最後に「感謝!」と書いてよこすのがいるが、あの機械的な無神経ぶりにはうんざりする。


英語の“Thank you”を使うのにいちいち気遣いはいらないし、使いづらさを感じることもない。さらに言うと、Thank you“you”も唯一の単複同形の二人称として、カジュアルにも丁寧にも、相手が誰であろうと、ごく「普通に」使うことができる。しかし、英語で“you”と済ませられる状況で「あなた」が同じように使えるわけではない。

“You can join a Friday meeting.”を英文和訳してみればいい。「あなたは金曜日の会合に参加できます」として澄ました顔はできない。なんとも不自然な日本語だ。相手が友達なら「金曜日の会に行けるよ」だし、目上の人になら「金曜日の集まりにご参加いただけます」というニュアンスになる。いずれにしても「あなた」を隠さないと文がこなれない。

「あなたの住む町は暮らしやすいですか?」と言うよりも、あなたを省いて「いまお住まいの町は暮らしやすいですか?」のほうが違和感がない。なぜか? 「あなた」は厚かましく響いたり馴れ馴れしい印象を与えたりしかねないからである。歌や映画の世界では「あなた」と平気で言うが、日常的な頻度はきわめて低い。

YOUは何しに日本へ?』というテレビ番組がある。日本にやって来た外国人にいきなりインタビューして物語を作っていく趣向だ。『あなたは何しに日本へ?』と言うくらいなら『日本に何のご用?』のほうがいい。それほど「あなた」には出番がないのだ。女性が男性に「あなた」と甘くささやく時も、男性教師が女学生を指差して「この問題、あなたは分かる?」と尋ねる時も、「あなた」はしっくりこない。日本語は二人称の使い方が難しい。

みずみずしい緑

オフィスに30鉢ほどある観葉植物が気温の上昇と明るい陽射しに反応している。とりわけ窓際のアマゾンオリーブとベンジャミンの新芽と若葉がさわやかだ。

五月下旬から六月中旬のこの季節、梅雨の中休みの頃の緑が特に映える。深い緑、濃い緑、薄い緑、黄緑……よりどりみどり。もちろん、わざわざ選りすぐって見取るには及ばない。散歩していれば勝手に目に入ってくる。

ずいぶん昔、緑色は「あお」と呼ばれていた。青が緑よりも概念上優勢だったのだ。今もなお、緑の信号を青と呼ぶのはその名残である。青のうち、みずみずしい新芽や若葉を特に「みどり」と呼ぶようになって、緑色が常用されるようになった。みどりは「みずみずしい」を語源とするという説もある。


手元にある本には、37色の緑色系の日本の伝統色が紹介されている。そのうちから、萌葱もえぎ色、若緑、青磁せいじ色、青緑の4色を選んで、比較してみた。

色を区別するには色の数だけの名前が必要になる。自然界の中から色を取り出していちいち名付けたに違いない。昆虫や植物採集のようで、並大抵の根気ではない。ところで、すべての色は〈RGB(赤/緑/青)〉の原色でデジタル的に再現できる。

萌葱色 R:10  G:109  B:77
若緑  R:167   G:211  B:152
青磁色 R:104   G:183  B:161
青緑  R:0    G:164  B:141

緑色の系統だから当然G(緑)が強いが、B(青)もかなり強く関わっている。ここにR(赤)が加わって豊富なバリエーションが生まれる。別の伝統色の色見本には82色の緑があり、それぞれに名前が付いている。よくもネタ切れしないものだと感心する。

RGBの数値を小まめに変えて組み合わせれば、緑系統をさらに細かく数百以上再現できるはず。よく似た色が出てくるが、並べて比較してみると肉眼でも十分に差異が認識できる。われらがまなこも大したものだ。この季節、外に出てデリケートな緑を存分に楽しみたい。

割れ、端っこ、切り落とし

時々、お菓子の町工場の裏門を懐かしく思い出す。カステラの端っこが店頭に並んでいる店の前を通り掛かる時に思い出し、精肉店で和牛の切り落としを買う時にも思い出す。割れものや端っこや切り落としの商売は昔からあり、今もなお健在だ。むしろ、安っぽさが消えて、かなり高級なイメージに仕上がっているものさえある。

幼少時に住んでいた下町にチョコレートの町工場があった。五円玉を握りしめて裏門へ行くと、すでに数人の子どもが並んでいる。たった5円で両手で包み切れないほどの割れたチョコレートを売ってくれたのである。新聞紙にくるんで手渡してくれた。微量のカカオと多量の砂糖を混ぜた駄菓子系チョコだったと思うが、それでも贅沢なおやつだった。

小学校二年時に引っ越した先にチョコレート工場はなかったが、その代わりにウエハース工場があった。ここも裏門へ行って作業しているおじさんに声を掛ければ、愛想よく応対してくれた。端っこを何枚も重ねたウエハース、時々規格外に大きいのやクリームを挟んだのが入っていた。圧倒的な量。たしか10円だった。


苦労人の祖母は生活がだいぶ良くなってからも、長年の習慣ゆえか、内職をしていた。近くに引っ越してきてからは、小学校高学年だったぼくに「小遣いあげるから手伝いにおいで」と声を掛けてくれた。その頃はおかきの内職だった。一斗缶にぎっしりおかきが入っている。そんな缶がいつも5つも6つも置いてあった。

小指ほどの大きさのおかきに海苔を巻けば磯巻きができる。少し湿らせた布巾に小さな海苔を一瞬触れさせすばやく巻く。おかきは一斗缶にぎっしり入っていて、時々割れたのが見つかるので口に放り込む。割れおかきは今もあちこちで見かけるし、ネットでも売られている。よく売れるので、最初から割っているというまことしやかな噂もある。

割れたおかきは割れていないおかきよりおいしく感じる。同じく、カステラの端っこはカステラ本体よりも絶対においしい。今はもうないが、オフィスの近くにあった鉄板焼きの店のランチの目玉は、黒毛和牛サーロインステーキの切り落としだった。みんなが注文するから切り落としがなくなる。そうすると、わざわざステーキを切るのだそうだ。たしかに切り落としはおいしいし、ステーキよりもライスによく合う。

雑考と雑念

「人生100年時代」のコンセプトを〈雑考〉している。趣味ではなく、依頼された仕事だ。去る3月に文章を書いて納めたが、次は第二弾。その時も現実のテーマとしては思い浮かぶことが少なく、ずっとことばをまさぐっていた。そして今回も、キーワードを列挙して時々天井に目を向けてことば遊びをしている。

「人生100年時代」に関わる15のキーワードを選んだが、まだ公開前なのでここには書けない。以前、シニアの住まいや暮らしに関してキーワードを選んだ自作の事例があるので、それを紹介しておく。

一見小難しく見えても、漢字はわかりやすい。わかりやすいのはよく使いよく見聞きするからだ。逆に言えば、ことばを超えて想像力を掻き立ててくれるところまでは行かない。そこで、擬音語・擬態語などの副詞に置き換えてみた。

かなりアバウトになるのだが、新鮮味が生まれ、連想が膨らんだ。陳腐でないことばが、コンセプトのきっかけになったりコンセプトを広げたりしてくれる。


冒頭で〈雑考〉と書いた。いろんなことを様々に考えることだが、謙虚のつもりで「系統的でない雑考」などと言うと、とりとめのない考えとして格下げされる。しかし、既存の枠組みに忠実な系統的思考のほうがむしろ二番煎じに終わる。少々の違和感があり混沌としているところに雑考のよさがあるのだ。

他方、〈雑念〉というのもある。これも評判はよくない。集中して考えなければならない時に、わけのわからない思いが去来して集中の邪魔をする。だから「雑念を払え」などと言われるのだが、雑念が消えて無我の悟りに到ってしまうと、肝心かなめの仕事に支障を来す。考える仕事では下手に悟ってはいけない。

一意専心の心掛けで一つのことに集中する。そうできるのは少数の誰かである。誰もかれもが一事に没頭しては社会は分断分業して統合されることがない。一芸を深める人と浅く多芸をこなす人がもたれ合ってこそ成り立つ世間だ。よそ見して迂回して、気になるものなら何にでも目配りして雑考することにも意味がある。こんな具合に仕事における雑考にまだ未練が残っているのは、最近のわが業界の一芸さんたちの深掘り思考が不甲斐ないからである。

ピザ、ピザ、ピザの独り言

🍕 ピザが売りの、ひいきにしているイタリア料理店。ワインを提供してこその店だから、今のところ夜は営業していない。休んでいた昼に再開したので、早速行ってきた。好きなピザかパスタ、ハムを乗せたサラダ、パン、ソフトドリンクのランチが850円。良心的だ。

貼紙に曰く、「消費税のアップ、そして新型コロナ。頑張ってきましたが、71日よりランチを900円にさせていただきます」云々。謙虚な50円アップである。ここの客は1,000円に上げても、いや、1,200円に上げても必ず来るのに。

🍕 10回クイズの古典、「ピザって10回言って」。言い終わったら、ヒジを指差して「これは?」と聞き、「ヒザ」と言わせようという魂胆。もう誰も引っ掛からない。と言うか、流行りだした頃でも引っ掛かっていないのではないか。

パーティーで頃合い見計らって、「みんな、膝って10回言って!」 小馬鹿にした笑い顔で一斉に大声でヒザ、ヒザ、ヒザ……。言い終えたら、テーブルの下からピザを出し、「じゃあ、これは?」 「わぁ、ピザ!」 

このほうがウケる。

🍕 本場ではピザはノーカットでテーブルに出す店が珍しくない。これをフォークとナイフで好きなサイズに切り分けて食べる。ピザ1をシェアすることはめったになく、一人1枚ならではの食べ方だ。テイクアウトなら「何カットにする?」と聞いてくれることがあるし、聞かれなくても好みのカット数を言えばいい。ピザのカットにまつわるジョークを一つ。

店員 「8カットでいいかい?」
客  「8カットだと多くて食べ切れないから、6カットにして」

冒頭のぼくのお気に入りの店は黙って6カット。6カットなら、ナイフで切ってよし、手で持ってよし、また軽く折ったり巻いたりしてもよしだ。

一人ブレスト、最近の話題

会議があまり好きでないので、以前から一人でブレストするのが習わしになっている。自分で文章を書いて自分で推敲することは一人二役の最たるもの。この時期、会議もブレストも相談もすべて自前、一人二役で何とか凌いでいる。


📃 音声POP
店頭から「♪ タターンタタタタン、タターンタタタタン」のメロディが繰り返し聞こえてくる。その場を去った後も耳にこびりついている。そのことをある人にした。メロディとリズムを忠実に再現したら、「ああ、あれは焼き芋の宣伝ですよ」と言った。いやいや、ぼくがいつも耳にするのはドラッグストアのS薬局の店頭で、あそこでは焼き芋など売っていないけどなあ。
ある日、別のドラッグストアKの店頭で流れていた。もしかしてS薬局とKはグループ企業か!?  と思った。しかし、同じ日、プチスーパーのM屋からも流れてきた。ぼくの横で中年の女性二人が立ち止まり、「ねぇ、この曲、ドン・キホーテでかかってる」「えっ、ここドンキ?」と会話を交わしたので、ぼく以外に気になる人がいるのを知る。
知人は焼き芋の宣伝楽曲ジングルだと言い、ぼくはS薬局グループのテーマソングだと思い、見知らぬ女性らはドン・キホーテのメロディだと指摘した。
宣伝している商品はいろいろであり、曲が流れているシチュエーションはほぼ店頭である。企業や商品特有のものではなさそうだと思い、後日しばらく立ち止まってよく見たら、発生源らしき装置が見えた。繰り返し音声POPを流す、その名も「呼び込み君」。なるほど、それでぼくは何度も呼び込まれたのか。

📃 くずし字
幕とほうき、張と強、店と居……極端に字をくずすとよく似てきて、違いがわからなくなる。しかし、心配無用。字はめったにくずされることはない。それどころか、めったに手書きされることもない。

📃 
あまり効果がないのはわかっているのに、眠れない時に相変わらず羊を数える人がいる。途中まで数えて、数え間違いしたことに気づき、一から数え直す生真面目派もいるらしい。神経がピリピリして逆に眠れなくなると察する。そこで「羊肉には誘眠効果がある。だから、数えるよりも食べるのが正解だ」と教えてあげるのだが、「ほんとかな?」と疑う。これは遊牧民の常識、催眠術師の非常識なのである。

📃 みんな
「みんなで大家おおやさん」という
テレビコマーシャルが最近までよく流れていた。ある街で、もし住民みんなが大家さんになったら、貸主ばかりで借主がいなくなり、兼業の大家さんビジネスは成り立たなくなる。この広告に人を欺く悪意はないと思うが、キャッチフレーズに少々問題がある。「みんな」と言っては誤解を招く。正しくは「内緒で大家さん」である。

坂と通りの街歩き

松屋町筋から谷町筋の夕陽丘方面へ、口縄坂くちなわざかのぼり切った所に文学碑がある。織田作之助の短編小説、『木の都』の一節が刻まれている。

 口縄坂は寒々と木が枯れて、白い風が走っていた。
 私は石段を降りて行きながら、もうこの坂を登り降りすることも当分あるまいと思った。青春の回想の甘さは終り、新しい現実が私に向き直って来たように思われた。
 風は木の梢にはげしく突っ掛っていた。

一節と書いたが、物語の最終段落である。〈私〉――おそらく織田作之助――はいくつもの思い出とよみがえる記憶に懐かしさと穏やかならぬ感情を併せ持ちながら、風の強い寒い日に坂を下った。ぼくはと言えば、一昨日の日曜日、何一つ難しいことを考えずに、陽射しの強い朝、いくつもある坂の一つを上ることにした。上り切った時は額に薄っすらと汗をかいていた。それが久しぶりの口縄坂だった。

小説の題名になっている「木の都」については、冒頭のつかみで出てくるだけだ。大阪が樹々溢れる緑豊かな都などと言うと小馬鹿にされるかもしれないが、口縄坂のあるこのエリアは上町台地の西端であり、寺内町でもあることから古木も多く植わっている。写真を撮って後で見てみると、緑を背景にした木が主役の構図になっていることに気づく。


多分にノンフィクション的な私小説だとするなら、この坂を上り切った「ガタロ横丁」のあたりに「名曲堂」というレコード店があった。〈私〉は時に足しげく通ったと思えば、しばらくごぶさたするという具合だったが、主人とは親しくなり、常連的存在になった。

人恋しくなった年の暮れ、〈私〉は懐かしさを覚え、風邪気味だったにもかかわらず、口縄坂を上って行く。そして名曲堂の前へ。表戸が閉まっており、そこに紙が貼ってある。「時局にかんがみ廃業仕候つかまつりそうろう」と書いてあった。戸をたたいたが返事はない。そして、おそらく後ろ髪を引かれるような心模様で坂を下った。

これ以上書くとネタバレになるからやめるが、坂ゆえのノスタルジー、情趣、上った手前下り、下った手前上るという構造が、ただ歩くだけの行動に意味を与えてくれる。平坦な通りを歩いているうちに、高台の緑が広がり始め、路地よりもやや幅が広めの坂が次から次へと現れる。坂が街のアート性に気づかせてくれる。くねくねする坂を蛇坂と言わずに、婉曲的に口縄坂と呼んだのは文化の遊びである。

昭和19年の作品。織田作之助はその3年後に没した。享年33歳。

食卓ネタが最後の砦

「精も根も何もかも尽き果てた」と大仰なジェスチャーで知人が嘆く。同情を禁じ得ない。尽き果てるものは人によって違う。ぼくの場合、ずっと閉じこもって仕事をしているとアイデアが出づらくなる。文章がこなれない。特に「換気」が悪いとアイデアが出にくい。空気の換気ではない。気分の入れ換えのほうだ。

なるべく人が混む場に不要不急で出掛けないように努めているが、こういう状況に置かれても、飲食だけはパスするわけにはいかない。何事があろうと食卓には着くし、さて今日は何を食べようかと思案する。飲食は最重要関心事であり、身内での主たる話題であり、こうして雑文を記すにしても食に関することなら書きやすい。

「ささやかなご馳走でも、手厚くもてなすと宴会は楽しいものになる」(シェークスピア)

強く同意するが、残念なことに、現在その宴会が推奨されないから、ご馳走したりされたりの楽しみがない。

土日くらいはランチ外食したい。徒歩圏内で一、二度行った店を思い浮かべ、営業しているかどうかチェックして出掛ける。11時とか11時半の開店直後やピークを過ぎた13時半頃に店に入る。先週は40分歩いて串天うどんを目指した。別盛りの串6本に麺は大盛り。平日のランチは軽めなのに、休みの日になると食い意地が張る。料理も味わうが、ありがたみまで味わう今日この頃である。

オフィスには常時45種類のコーヒーを置いてある。勝手に「今日の日替わり」を決めて、一日に2杯ほど楽しんでいる。今朝はコスタリカジャガーハニー。生き方や仕事では自分の思うままにならないことが多いが、コーヒーだけは貴重な「自家薬籠中じかやくろうちゅうの嗜好品」になっている。

「で、どんな味だった?」
「キリマンジャロとコロンビアの中間かなあ」
「おいおい、キリマンジャロにもコロンビアにも味はあるけど、中間・・という味はないぞ」

その店では「こし餡入り蒸しパン」と呼んで売っている。目をつぶって口に入れたら「水分多めの饅頭」のように思う。あの一品はパンか饅頭か……論争して決着をつけるべきか。いや、老店主が「こし餡入り蒸しパン」と言っているのだから、逆らわずにそっとしておいてあげたい。

喫茶店の隣りの席に二人のシニア。コロナ談義の後は行きつけの店の話。聞き耳を立てるまでもなく、聞こえてくる。
Y町のあそこもコロナで休業か?」
「あそこて、どこや?」
「ローソンの手前、右に入ったとこ」
「キタガワかいな。長いこと行ってへん。あんなとこ、前から年中休業みたいなもんやろ」
「客はオレらくらいか」
「売上より給付金のほうが大きいやろな」
「ほんまやな。夫婦二人、細々とやってたら潰れへん」

トッピングの作法

日常使われるようになって久しい〈トッピング〉。綴りは“topping”で、おなじみの“top”から派生したことばだ。名詞なら「頂上、先端、最高」などを意味する。動詞から派生しているので、トッピングには「付ける、覆う、乗せる、塗る」のようなニュアンスがある。

トッピングは料理や菓子の上に食材や調味料をふりかけたり乗せたりすることをいう。よく目にするのは、アイスクリームにチョコやナッツをふりかけること、ピザにベーコンやピーマンをあしらうこと、ケーキに粉砂糖をまぶすこと。トッピングが洗練になるか野暮になるかは紙一重。抑制気味にふりかけ、まぶし、あしらうかぎりは料理を下品にしない。しかし、盛り過ぎると残念なことになる。

デザートのケーキとフルーツにミントの葉をあしらい、粉砂糖をまぶす。

具だくさんになって主役の料理がぼんやりしたり、場合によっては台無しになることがある。麺類は昔はシンプルだったが、今は盛るのがはやりのようだ。麺が見えなくなるほどトッピングしたら野暮である。具を多くしたいのなら別皿にして食べればいい。麺類の主役はあくまでも麺である。但し、トッピングを特徴とする海鮮丼やピザはこの限りにはあらず。

有名なお好み焼き店がある。一度行ってみようと思っていた矢先、テレビ番組で紹介され、見ただけで嫌になった。お好み焼きに高級なイセエビやステーキを乗せるのである。お好み焼きは豚肉かイカか、せいぜい二つ三つの小さな具の組み合わせでいい。高級食材をトッピングするコンセプトはたいてい気まぐれだ。そんなことでお好み焼きが進化するわけではない。贅沢にして値段を吊り上げる店側のメリット以外にいいことは何もない。

食のみならず、暮らしや仕事にもトッピングの加減がありそうな気がして、暮らしや仕事のあり方についていろいろ試行錯誤してきた。何かにつけてまずシンプルを目指すのがよさそうだと思うようになった。過剰と不足の見極めが難しく、何事にもシンプルを徹底できているとは言えないが、迷ったら、ひとまず下手なトッピングや過剰を回避するようにしている。

エスプレッソ?(マジで?)

コーヒーが当たり前の嗜好品になって久しいのに、「ある種のコーヒー」だけがまだ蚊帳の外。それは、「急行」という名のコーヒー、エスプレッソだ。


シーン1: 友にウンチク

「またエスプレッソ?」
「また、と言われるほど飲んでない。エスプレッソのマシンが見えて、いかにもエスプレッソを売りにしているような店では注文するけどね」
「エスプレッソってイタリア語だったよね?」
「うん、急行という意味の」
「なんで急行?」
「注文してすぐに出てくるから。それに、出てきたら砂糖をたっぷり入れてかき混ぜ、これまた一気に飲むから。注文から飲み干すまであっと言う間。だから急行」
「本場にはぼくたちがよく飲む、例のホットコーヒーもある?」
「あるよ。カッフェ・アメリカーノ」
「いわゆるアメリカンというやつ?」
「いや、ベースはエスプレッソなんだ。ほとんどのバールではそれを湯で薄める」
「ゆ、湯で!?」
「そう」
「ところで、いまカッフェって言ったよね。エスプレッソとカッフェは違うもの?」
「同じものさ。そもそも、バールに入ってエスプレッソを注文する時、誰もエスプレッソなんて言わない。カッフェと言えばエスプレッソのこと。エスプレッソが苦手な日本人が、普通のホットコーヒーのつもりでカッフェを頼むと、エスプレッソが出てくる」
「イタリア料理店でエスプレッソを飲む場面は稀に見るけど、一緒に喫茶店に入って、エスプレッソを注文した知り合いはきみが最初だ。そしてたぶん、これからもきみだけ」
「コーヒーと言えばエスプレッソを意味するイタリア、コーヒーと言えば絶対にエスプレッソを意味しない日本。おもしろいね」


シーン2: 使用上の注意

「エスプレッソください」
「はい?」
「エスプレッソのシングル」
「お客様、エスプレッソは苦いコーヒーですが、よろしかったでしょうか?」
「はい」
「ごく少量になりますが……」
「知っています。シングルで」
「シングルですとこちらの小さなサイズのカップになりますが、よろしかったでしょうか?」
「それで結構」
「砂糖とミルクはご入用ですか?」
「砂糖だけでいいです」
(しばらくして)
「お客様、こちらエスプレッソのシングルになります」


シーン3: ほんとにいいんですか?

「エスプレッソください」
「えっ? お客さん、いま何て言いました?」
「エスプレッソ」
「エスプレッソ? ほんとに? この店始まって以来の初注文!」
「驚かれても……。だってメニューにあるんだから」
「ええ、マシンがあるので一応書いてはありますがね。ほんとにいいんですかあ? ほら、こんな小さなカップですよ。それにとびきり苦い」
「わかって注文してる。ダブルで」
「ダ、ダブル!? シングルじゃなくて?」
「エスプレッソのダブル」
「お客さん、もう一度確認しますね。いま注文されているのはエスプレッソのダブル。よろしいでしょうか?」
「それでよろしく」
「最終確認です。小さなカップに少量、それで450円。よろしいですね。後悔しても責任は負えませんので。(別のスタッフに)エスプレッソダブル入りました。マジで!」