抜き書き録〈2023年12月〉

今月の抜き書き録のテーマは「消える」。馴染んだものが消えそうになるのは耐え忍び難い。時代に合わなくなって使われずに消えるもの、もったいないとまでは言えないが消えると寂しく思うものなど、いろいろある。ものだけでなく、ことばが消えてなくなってもいくばくかの寂寞感を覚える。

📖 『わたしの「もったいない語」辞典』(中央公論新社編)

「もったいない」とは、本来あるべき姿がなくなってしまうことを惜しみ、嘆く気持ちを表した言葉。「今はあまり使われなくなって”もったいない”と思う言葉=もったいない語」(……)

本書の冒頭で上記のように書名の意味を告げ、次いで150人の著名人が一人一つの言葉を惜しんだり偲んだりして一文をしたためている。その中から川本皓嗣こうじ東京大学名誉教授の『黄昏――楽しみたい魅惑の時』を抜き書きする。

ヨーロッパにあって日本にないものの一つに、黄昏たそがれがある。ただし、夕方うす暗くなって、「かれ」(あれは何だろう)といぶかるような時間帯がないわけではない。日本にないのは黄昏を愛し、存分に楽しむという文化であり、これはまことに勿体もったいない。

いや、そんなことはないと異議を唱える向きもあるかもしれないが、ぼくは著者に同意する。フィレンツェやパリで黄昏時にそぞろ歩きして、同じ印象を受けた。

日本には黄昏ということばはある。しかし、人と黄昏の間には距離がありそうだ。「黄昏」という文字と「たそがれ」という発音から詩情を感じているだけで、自らが黄昏に溶け込んで楽しんでいるとは思えない。わが国の黄昏はロマンチストたちの概念の中にとどまっているのではないか。黄昏と言うだけで、黄昏に身を任せないのは「もったいない」。

📖 『イラストで見る昭和の消えた仕事図鑑』(澤宮優=著/平野恵理子=イラスト)

「消えた」であって、「消えそう」とか「消えつつある」ではない。したがって、本書に収録された仕事のうち、質屋、紙漉き職人、畳屋、駄菓子屋、チンドン屋、靴磨きは今も時々見かけるので消えていない。子どもの頃によく見かけたが、今は絶対に見かけないものの筆頭に「ロバのパン」を指名した。

ロバに荷車を引かせてパンを売る方法は、昭和六年に札幌で(……)石上寿夫が(……)営業したのが始まりだった。たまたま中国から贈られてきたロバをもらった石上は、愛くるしいロバにパンを運ばせると人気が出るのではないかと考え、移動販売を行った。

昭和30年の半ばまでロパのパン屋が大阪の下町の町内にやって来ていた。あの生き物がロパだと見極めたわけではないが、ロバと名乗っているのだからそう思った。しかし、次のくだりを読んであれがはたしてロバだったのか、怪しくなった。

昭和二十八年夏には(……)浜松市、京都市で馬(木曽馬)に荷車を引かせてパンを売るようになった。実際は馬に引かせているが、「ロバのパン」としてイメージされ人気を呼んだ。昭和三十年には『パン売りのロバさん』(後のロバパンの歌)というテーマソングが流れるようになる。

昭和28年や30年ですでにロバではなかったようだ。ぼくが町内に流れてくる歌を耳にして家を飛び出し、物珍しがったのはその数年後であるから、あの生き物はすでにウマだったのである。パンは生き残ったが、ロバは早々に消えた。そして、ロバからバトンを渡されたウマもとうの昔に消えているのである。

他人の口癖を拾って数える

自分の口癖に本人が気づくことはめったにない。口癖は他人の耳に胼胝たこを作る。口癖というものは他人に気づかれ、本人には知らされない。わずか23分の話の間に10回以上「めっちゃ」を繰り返した女性がいたが、高揚した本人はそのことをまったく自覚していない。

語彙不足気味の評論家や講師には口癖の多い人が目立つ。言いよどみかけたら「やはり/やっぱり」を挟む。理由もないのに「だから」を多用して、筋が通っているように見せかける。「要は、要するに、つまり、言い換えれば」と転じたものの結論めいたものはなく、何を言っているのかよくわからない人もいる。

政治や行政の関係者には微妙な違いを「温度差がある」と言い、最優先課題という意味の「1丁目1番地」が気に入っている人が少なくない。また、「~するところでございます」や「~してまいります」という時代がかった常套句もよく耳にする。口癖は形式であって、ほとんど意味を持たない。

一対一の会話の中の口癖は一人で一手に引き受けなくてはならず、リアクションのしかたに困ることがある。大げさに「ウソ!? ホント!?  マジで!?」と合いの手を入れる人。以前、何を言っても、ワンパターンな「でしょ!?」で同意する強者つわものもいた。「はい」や「そうです」と軽やかでいいのに、「左様でございます」と応じた人よ、あなたは武士の末裔か。

どんなことを尋ねても、「全然大丈夫です」という店員もいる。「有料のレジ袋はご入用ですか?」や「○○アプリはお持ちですか?」も耳に付く。どちらも口癖ではなく、教えられたマニュアルトークだ。「バッグ持ってます。ポイントはないです」と機先を制すれば聞かれずに済む。 

1分や2分の短い間に同じことばが繰り返されるから口癖だと認識する。他人の口癖を拾ってしまうのは話の中身が薄く手持ちぶさたになるからだ。退屈な話をする話者のせいで、口癖を数える癖がついてしまった。逆の立場にならぬよう気をつけたい。

言い表せないもどかしさ

思っていること、感じていることをうまく言い表せない。いろいろ言ってみたいことがあるけれどまとまらない。伝えたつもりが伝わっていなかった。ああ、もどかしい。ことばだけの話ではない。もどかしさは人生の常。

人間がいるから人間関係が生まれる。しかし、人間が先で関係が後なのに、人間から人間関係を取り去ると、人間は残らずに、何もかもが消えてしまう。そうか、人間とは人間関係そのものだったのか。道理で人にはもどかしさがつきまとう。

スムーズなことば遣いができず、意思疎通がうまくいかないもどかしさ。考えていることをことばにしようとするからそうなるのか。もしそうなら、悪戦苦闘してもいいから、余計なことを考えずに語ればいいのか。いやいや、ただただことばにしてみることはさらにもどかしい。しかも、空しい。

それでもなお、語りえぬものを懲りずに饒舌に語ることしか、もどかしさから逃れられないような気がする。黙り上手になるくらいなら、話下手でいいのではないか。石のように沈黙して何事かを伝えることなど願っても叶わない。人は石のような沈黙のことばの使い手にはなれないのだ。

数年前の12月間近の午前8時、見慣れない形の雲が流れていた。写真を撮った。この写真一枚でいろいろとイメージが膨らみそうな気がしたので、まだ11月なのに「12月の空」と名付けて保存しておいた。ところが、今に至るまでことばを何一つ紡げていない。

空と雲は変幻自在に図柄を変えて一度きりの題材を提供してくれているのに、そのつどことばで言い表すだけの余裕もなく、しゃれた詩情も湧かずひらめきも浮かばない……

と、ここまで書いたところで、加湿機能付き空気清浄機が、得意の音声合成で一言喋った。

「ヒートランプ、光ってるよ」

それ、何度も聞くけど、何? 購入して3年半経つが、未だに意図がよくわからないことを言う。ちょっと待てよ。意図はわからないが、「光るヒートランプ」はわかる。そうか、こんなふうに軽やかに適当に言えばもどかしさと無縁なのか。

空と雲の写真には実景にない枠があり、それが1:1のサイズで箱に見える。書いてみた。

「冬間近の雲、詰め合わせたよ」

「旧何々」という言い回し

旧は新の対義語で、「新旧しんきゅう」は新しいものと以前の古いものを指す。「旧い」は「ふるい」と読む。同じものであっても、今と昔で呼称が変われば、以前の呼称を「旧何々なになに」という。ちなみに、旧は「舊」に同じである。

(もと)」の姿や形に「す(かえす)」ことを復旧・・という。しかし、無理やり復旧しするまでもなく、「旧何々」の多くは何食わぬ顔して今に残る。たとえば、旧家は、家が消えて後継者がいなくなっても、名前だけは長く使われ続ける。旧華族もしかり。旧暦もしかり。ほとんど常用しないのに、今と昔の季節感を比較するために古い暦が引用される。

上記とは違って、旧約聖書の場合の旧は「以前の」ではなく、「古い」という意味である。旧約聖書とは「い契の書」であり、新約聖書は「しい契の書」である。言うまでもなく、旧約聖書が新約聖書に改まったのではない。


さて、旧何々が使いやすくてわかりやすいせいか、新しい名称があるにもかかわらず、「旧統一教会」や「旧ジャニーズ事務所」などと旧名で言及するケースが目立つ。最近では「旧ツイッター」をよく見聞きする。前の名前も挙げるなら「X(旧ツイッター)」とするのが筋だと思うが、「旧ツイッター」と先に言ってから、ついでに新しい名称のXが付け加えられる印象だ。

マスコミがこの調子で旧名を使い続けると、新しい名称を誰も覚えないから、もしかするとこの先何年も何十年も「旧何々」が一般呼称であり続けるのではないか。旧の後になじみの名称が続くのだから、名称を変更した意味がない。

わが社の社名変更を何度か検討したことがあるが、それまでに培ってきたささやかな知名度のことを考えると決断できなかった。しかし、「旧」が使えるなら改名もまんざらではない。イロハ株式会社がABC株式会社に社名を変えても、ずっと「旧イロハ株式会社(現ABC株式会社)」と名乗り続ければいいのだから。いっそのこと、厚かましく「旧イロハ株式会社」に改名してしまう手もありえる。

原稿の「旧中山道きゅうなかせんどう」を「いち日中にちじゅう山道やまみち」と読み上げたアナウンサーのエピソードはよく知られているが、「旧」は「1日」どころか10年も100年も続く、なだらかな道なのかもしれない。

語句の断章(47)「さわり」

タッチや触れるという意味の「さわり」ではなく、主として物語や楽曲に言及する時の「さわり」について取り上げたい。と言うのも、意味を間違って理解している人が半数を上回ると知ったからだ。

ぼくが見た資料には「誤用」と書いてあったが、さわりということばを使おうとする人はあまり間違わないと思う。自分で使ったことがなく、もっぱら見聞きする側にいて何となくわかったような気になる人が「誤解」しているのではないか。

ずいぶん前の話だが、企業の情報誌に「ほんのさわり」というタイトルの書評コラムがあった。「本の」ではなく「ほんの」と表記したために、「ちょっとした」という意味に取られたようだ。「本のちょっとしたさわり」と読めば、簡単な要約か最初の書き出しのように思うのも無理はない。さわりもちょっと触れるという感じだから、なおさらである。

「さわり」とは出だしやイントロのことではない。物語や楽曲の一番感動的で興味をそそるハイライトのことである。物語なら読ませどころ、楽曲なら聞かせどころ、そして舞台なら見せどころである。曲のサビや物語のクライマックスがさわり。にもかかわらず、「では、ほんの・・・さわりだけ・・少し・・」というような言い方をするから、クライマックスのことだとは思えないのだろう。

さわりは浄瑠璃由来なので、それに類するような朗読、音楽、演劇、講演には使える。1時間のうち半時間がさわりということはおそらくないので、たとえば「通常1時間の講演ですが、今日はさわりだけ10分で」という使い方になる。

さわりを比喩的に使う例はあまり見聞きしたことがない。「本日の晩餐、コース料理のさわりは……」などとは言わない。和食でも洋食でも「さわりの一皿」は主菜に決まっているから、わざわざ比喩として使う出番はほとんどない。

抜き書き録〈2023年11月〉

語感を磨き語彙を増やすという、骨のあるテーマで話をすることになった。音読に適した文章は前々からいろいろと収集している。他に何かないかと本棚をずっと眺めていたら、何度か読んだ一冊に目が止まる。これがいいと即決。『教科書でおぼえた名文』(文春ネスコ編)がそれ。その一冊から抜き書きしてみた。


📖 「よい文章とは」(金田一京助『心の小径』より)

(……)どうしたら、よくわかる文章が書かれるであろうか。
よくわかる文章を書くには、文章だからといって、特別に角ばらず、「話すように」書くことである。

国語の専門家にこう助言されては真向から反論しづらい。しかし、そもそも誰もがきちんと話すことに苦心している。特別に意識せずに毎日話しているが、適当に話しているようなことを書いてわかりやすい文章になっても自慢できるとは思わない。話すように書くのは、書くように話すよりも難しい。

📖 「文章とは何か」(谷崎潤一郎『文章読本』より)

人間が心に思うことを他人に伝え、知らしめるのには、いろいろな方法があります。(……)泣くとか、うなるとか、叫ぶとか、にらむとか、嘆息たんそくするとか、なぐるとか言う手段もありまして、急な、激しい感情をと息に伝えるのには、そう言う原始的な方法の方が適する場合もありますが、しかしやや細かい思想を明瞭めいりょうに伝えようとすれば、言語にる外はありません。

この文章を読んで「ことばじゃない、心なんだ!」と力説した講演者を思い出す。あれから30年かそこら経ったが、未熟なせいか心で伝えるすべを今も知らない。言語によって今もなお下手な鉄砲を打っている、谷崎先生の後押しを味方につけて。

📖 「美を求める心」(小林秀雄『美を求めて』より)

近頃の絵や音楽は難しくてよく判らぬ、ああいうものが解るようになるには、どういう勉強をしたらいいか、どういう本を読んだらいいか、という質問が、大変多いのです。(……)
極端に言えば、絵や音楽を、解るとか解らないとかいうのが、もう間違っているのです。絵は、眼で見て楽しむものだ。音楽は、耳で聴いて感動するものだ。頭で解るとか解らないとか言うべき筋のものではありますまい。ず、何をいても、見ることです。聞くことです。

コンサートでは聴衆の中から評論する声を聞いたことはないが、美術館では二人連れや三人組が絵の構図や描かれた時代背景などを小声で語り、すでに本で仕入れた知識に基づいてああだこうだと言っているのを耳にする。絵は好きかそうでないか、快いかそうでないかが基本。この絵は難しいなどと評するのは、鑑賞者が小難しく考えるからだ。

📖 「春はあけぼの」(清少納言『枕草子』より)

春はあけぼの。やうやうしろくなりゆく山ぎはすこしあかりて、むらさきだちたる雲のほそくたなびきたる。

万葉集や古今集も「五感」に響く表現の宝庫だが、和歌は意味を汲むのに苦労する。その点、少々語彙が不足していても、古典随筆はある程度意味がわかり、声に出して読むと「語感」の良さが伝わってくる。

📖 「安寿と厨子王」(森鴎外『山椒大夫』より)

水がぬるみ、草がもえるころになった。あすからは外の仕事が始まるという日に、二郎が屋敷を見回るついでに、三の木戸の小屋に来た。

だらだらと書くのを戒め、切れ味よく直截的に表現しようとするなら、森鴎外を手本にするのがいい。無駄な婉曲をせず、動詞がテンポがよく文章をつむぐ。なお、語彙は文章の中で語感の響きをともなって増えていく。単語だけを増やそうとしても意味がないし、だいいち増えない。

消えゆく季節のことば

大阪城南外濠の六番櫓付近

オフィスに近い大阪城と天満橋八軒家浜はちけんやはまには「標本的地点」と呼べそうなスポットが随所にあり、季節の移ろいを感知しやすい。9月下旬から11月上旬に撮った写真を数年前と今年で比較してみると、明らかに今年は秋が遅れている。ここ1ヵ月、夏を引きずったまま季節がほとんど動いていない。

最近とみに季節のメリハリの無さを痛感する。「春夏秋冬」が消滅危惧四字熟語になりかねない。四季でそうなのだから、ましてや繊細なグラデーションの二十四節気の趣がいつ消えてもおかしくない。暦以外でほとんど見聞きすることのない、雨水、清明、小満、芒種、白露、霜降などはとりわけ危うい。

旧暦に倣って暦月れきづきで区切ると、今よりも2ヵ月早く、春が正月~3月、夏が4月~6月、秋が7月~9月、冬が10月~12月になる。一方、二十四節気の節で区切れば、立春~立夏~立秋~立冬……と巡り、春は2月初旬、夏は5月初旬、秋は8月初旬、冬は11月初旬に、それぞれ始まる。


わが国は地域に寒暖差があるから、春だから暖かいとか、11月は紅葉真っ盛りなどと一概に言えない。暦月も節月せつづきも現代人が知覚している春夏秋冬とズレてきている。四季の名と体感を合わせようと思えば、結局は気象学的に区切ることになる。つまり、3月~5月の春、6月~8月の夏、9月~11月の秋、12月~2月の冬。

しかし、今年のような場合、四季に分けることにも一季に3ヵ月を割り振ることにも無理があるような気がする。夏が6月~10月と5ヵ月続き、秋が11月のみという異変ぶり。その11月がほぼ連日の夏日なのだから、このまま冬に突入すれば秋が消滅しかねない。かろうじてスーパーマーケットの食材に季節の味覚を想像しようと努める今日この頃だ。

世界には7,168の言語があり、そのうちの約40パーセントが消滅危惧言語とされている。日本語という同一言語内においても、同じようなことが起こりうる。四季折々の表現を口にしたり書いたりする人が減っていくと、季節のことばが一つずつ日本語から消えていくのである。今年に関して言えば、ファッションは春夏でも秋冬でもなく、「夏秋もの」を先取りするべきだった。

語句の断章(46)「おざなり、なおざり」

「おざなり」と「なおざり」は語感が似ている。実際、類語だと思っている人も少なくない。辞書を引いて調べれば済むのに、ついついあやふやな知識に依って誤用を覚えてしまうことがある。誤用が一般的になってしまうと、もう正してくれる人もいなくなる。誤用が正用を駆逐して誤用がまかり通る。

「おざなりとなおざりは全然違う。おざなりは『御座なり』と書き、なおざりは『等閑』と書く。意味が違う。それどころか、用法も語源もまったく異なる」と、自信に満ちて講義で話したことがある。全然違うと言ったのは極論に過ぎたかもと後日反省し、よく調べてみた。両者に「血縁関係」がないのは確かであり、厳密に言えば違うが、共通の概念が浮かび上がった。

おざなりは、その場しのぎで事を済ませてしまうこと。辞書には「計画がおざなりだ」とか「おざなりな謝罪で済む問題ではない」などの例文が挙がっている。客が来た。客用の座布団を押し入れから出すのを面倒がって近くにある座布団をすすめたら、ほころびていた。それを見られる前に咄嗟に裏返したら大きな穴が開いていた。その場かぎりのいい加減な間に合わせ。これがおざなり。

他方、なおざりは怠りであり手抜かりである。注意を払わないこと、心がこもっていないことだ。「なおざりな返事」は相手の言うことを聴き入れようとしないことだし、「なおざりにされてきたテーマ」と言えば、真剣に向き合わずに生半可に扱ってきたというニュアンスを感じさせる。

用法にうるさい人は「おざなりとなおざりは全然違う」と主張する。しかし、互換性がないとしても、二つの表現は「適当にする」とか「いい加減にする」という意味を共有している。「はいはい」と人の話を適当に流して、心にもないいい加減な「ごめんごめん」で済ます様子は、おざなりでもなおざりでもいいような気がする。

とは言え、決定的な違いがある。おざなりは、その時の一度きりの所作に対して用いるのに対して、なおざりは、恒常的におざなりなことをする性格や姿勢について使う。「その場しのぎのおざなり・・・・な行為、いつもそれを繰り返すなおざり・・・・な態度」と覚えればいい。

帰納法の取り扱い

以前、知人が自分の専門分野の事例をブログで紹介していた。ほぼ毎日である。いくつかの事例から共通項を見つけて一般法則を導き出すのを〈帰納法〉という。事例は複数であるべきだが、知り合いは一日1事例を取り上げるだけで、即一般化していたのである。

1事例即一般化」とは、たとえば「じっくりコトコト煮込んだスープ」というネーミングでヒットした商品を事例として、「スープの名称は長いほど売れる」という一般法則を導くような場合。これには簡単にアンチテーゼを唱えることができる。短い名称でよく売れているスープを示せば済む。

複数の事例から一般法則を導けても、帰納法の「賞味期限」は案外短い。例外事例が出てくると、法則を見直す必要に迫られる。価値が多様化する時代、何事においても一つのセオリーでやりくりはできない。多様化と一般化はたいてい相反するのである。

帰納法/帰納推理/帰納的表現は「特殊から一般」を導く。

帰納は、いくつかの(小さな)データや事例(a, b, c, d, e)から〈PQである〉という一般法則やモデルを導く。但し、部分を集めて共通項を見つけても、それが必ずしも普遍的な法則や確固とした原理になるとは言えず、結論の妥当性には不明点もつきまとう。

香川県、徳島県、愛媛県、高知県をまとめて「四国」と呼ぶのも帰納的表現。いちいち4県の名称を列挙しなくても四国でいいから便利である。もし「文具店」という表現がなかったら、鉛筆、ペン、インク、ノート、消しゴム、のり、ハサミ、ホッチキスなど延々と枚挙して看板に記さなければならない。

せっかく個々では具体的でわかりやすいのに、すべてひっくるめて帰納的表現でまとめようとすると抽象的になることがある。あるいは、新しいカテゴリーの名称を編み出す必要が出てくる。双子、三つ子、四つ子、五つ子などを「多胎児」と呼ぶのがそれ。耳から「たたいじ」を初めて聞いた時、ポカンとしたのを覚えている。

個々の元の表現よりも上位概念としてまとめた言い方がわかりづらくなっては元も子もない。帰納的表現につきまとう欠点と言うよりも、上位概念の一言でくくろうと格好をつけて見せびらかそうとするからである。すでに十分にわかりやすいのに、「要はね……」と口を挟む人がいるが、あれも帰納の一種。たいてい結論に至らない蛇足にすぎない。

ランチのこと、町中華のこと

たわいもない外食談議の折に気づいたこと。粉もんのメッカ大阪の、歴史のある住宅街でありオフィス街でもあるのに、うどん店が一つ消え二つ消え、今では徒歩圏内にはない。チェーンの店ならあるが、昔ながらの麺類一式を扱ううどん屋が見当たらないのだ。

うどんはないが、蕎麦屋は有名店も含めて56店ある。カレーとラーメンは十数年前から超激戦区なので、それぞれ10店舗は下らない。粉もんのお好み焼きと焼きそばもカレーとラーメンに次いで多い。洋食店はまずまずあるが、和食処は減った。

ここ3年出張が減って、オフィスでの弁当や近くの店での食事が増えた。ランチタイムはたいてい一人で出る。即決できそうだが、自由度が高いと逆に迷う。そして、先週と先々週に食べたものを振り返っているうちに、迷った末に中華を選択することになる。

ところで、大衆的な町中華の原点は青少年時代の「若水」という店の中華そば一択。ラーメンではなく、中華そばという呼び方が習わしだった。今思えば「五香粉」の、八角と山椒と丁子ちょうじを混ぜたような焼豚かメンマの独特の香りを漂わせる中華そば。


中華のメニューは他のジャンルよりも圧倒的な種類を誇る。麺類や飯類はもちろん、スパイス料理や揚げ物・焼き物・煮物もある。店を中華に決めるのは簡単だが、入店してから迷い始める。日替わり4種、週替わり2種だけならいいが、中華料理店のメニューは昼夜の別がないので、メニューの定番料理は昼でも注文できる。選択肢が多すぎる。

ワンタンメンと半チャーハンのセット(焼売2個付き)
醤油ラーメンと半チャーハン

迷わないようにと、どの店でも麺と半チャーハンのセットにしようと決めたことがある。店によって味が変わるから飽きないだろうし、値段も700円~850円とお得感もある。しばらく続ければ麺と半チャーハンの食レポができるかもしれないとも思った。

週始めに2日連続注文した。月曜日に入った店では日替わりの海鮮XO醤炒めに心を奪われながらも半チャーハンセットを指名。火曜日の店では日替わりの酢豚定食を我慢して、この日も初心貫徹。2日にわたるこんな食べ比べは生涯初だ。月曜日の店のチャーハンは決して「半」ではなかった。ラーメンスープの味はだいぶ違ったが、どちらも味は濃厚だった。

3日目の水曜日。中華料理店に行きかけたが、和食店の店頭に並んでいる天ぷらと惣菜の弁当を買った。濃いスープの麺と、「半」とは言え少なからぬ量のチャーハンを3日連続狙い撃ちするほど麺とチャーハン好きではない。世の中には、ランチ処には、そして中華料理店には、毎日注文を変えてみたくなる料理がいろいろあるのだ。