街路樹の取扱い

つい先日のニュース。東京都日野市の緑道でイチョウの木の枝が折れて、その下を歩いていた男性(36)を直撃。男性は死亡した。最近、街路樹の倒木や枝の落下が目立つようになってきた。イチョウの木はこの時期ギンナンの実をつける。専門家によれば一本の枝に数10キロの実がたわわにることも稀ではなく、その重みで枝が折れて落下する。

経年した街路樹の老朽化が人の通行の安全に支障をきたすことなど、計画時には想定していなかっただろう。それが死亡事故に至ったとなれば、老木から順番に街路樹の撤去または植え替えを急がねばならない。やむをえないが、理解を示したい。


たまたまわが家のそばを通る熊野街道の始点に近い街路でも、樹木の撤去が予定されている。対象となる街路樹は約15本。「お知らせ」と書いた紙が養生テープで幹に貼られている。

このは、水道工事すいどうこうじにおいて、掘削くっさく支障ししょうとなるため、撤去てっきょ予定よていしています。
理解りかい・ご協力きょうりょくくださいますよう、よろしくおねがいいたします。
撤去作業てっきょさぎょうは、10月上旬以降がつじょうじゅんいこう予定よていです。

表現がしっくりこないが、それ以上に違和感を覚えるのはすべての漢字にルビを振っている点。誰のためのルビ? 掘削と撤去の漢字を読めない人が、掘削と撤去の意味を理解できるはずがない。行政ならではの「やれることはやっています」という形式的な配慮だ。徹底するのなら「お知らせ」にもとルビを振るべきだった。

さて、「この木は(……)掘削の支障となるため」が引っ掛かる。街路樹と水道工事の局は違うが、同じ自治体。ずっと以前に木は当該自治体が植えた。自ら植えた木をぬけぬけと・・・・・「支障となる」と言えるものだ。街路と木々の経緯や水道工事の内容を語らずに、支障とは非情である。

街路とは街の中を通る道である。適当に作るのではなく、長い目で計画的に・・・・作っている。したがって、街路の街路樹も計画的に構想されて植栽されている。植えた時は、市街の美観、環境の整備と保全が目的と説明したくせに、水道工事の邪魔だと判断したら「掘削の支障」の一言で済ませる。撤去を予定と言うが、これは「決定」の意である。隣の自治会のエリアだから出しゃばらないが、役員が知り合いなので、今度会ったら話題にしてみたいと思う。

見たり読んだり思ったり

📌 大手書店に特設コーナーができて、これでもかとばかりに文庫版『百年の孤独』が並べられている。若い頃に単行本で読み、30代でガルシア・マルケスの他の作品も読んだ。そうだ、もう一度『百年の孤独』を読もうと思った時は見当たらなかった。ダンボールに入れたまま不要品と間違えて捨ててしまっていた。数年前に古書店で単行本を見つけて読んだ。そして、いま最新刊の文庫本も手元にある。
何度読んでもあらすじも登場人物も覚えない。残っているのは風土と空気の匂い、突拍子もない物語と出来事のシーンばかり。今回は文明の5つの利器、磁石、望遠鏡とレンズ、天文学、錬金術、写真術が印象に残る。とても理系的だ。

📌 自民党総裁選の各候補者の決意表明。理屈量の多いことばが耳に入ってこないし、感情量の多いことばは滑稽である。これはことばのせいなのか。もしかして決意なんていうものが、そもそも他人ひとに言うものではないのかもしれない。

📌 「グッドラック!」は、別れ際や離れ際の祈り。その後、実際にどうなるかについては言った本人は関心を示さないし責任も取らない。言われた方も何とも思っていない。

📌 毎日が暑い。暑さが積算されてきて、とんでもない総和になっている。睡眠不足はないが、暑さ疲れで仕事中に眠くなる。歩いていても、食事をしていても、本を読んでいても眠くなる。眠くならないのは眠っている時だけだ。

📌 春に颯爽と出掛けて、その土地の情趣を味わった。夏になると、そこは不毛の場のように思える。行ってみようとも思わない。

📌 『百年の孤独』のせいかもしれないが、本棚からウンベルト・エーコの『バウドリーノ』上下巻を取り出した。『百年の孤独』のページ数を超える大作。いくつかある共通点のうち、特徴的なのが「しつこさ」だ。『バウドリーノ』のしつこさは章立てに顕著である。

 1  バウドリーノは書きはじめる
 8  バウドリーノは地上楽園を想像する
13 バウドリーノは新しい町の誕生を目の当たりにする
16 バウドリーノはゾシモスにだまされる
20 バウドリーノはゾシモスに再会する
25 バウドリーノはフリードリヒが二度死ぬのを見る
32 バウドリーノは一角獣を連れた貴婦人に会う
37 バウドリーノはビザンツの宝物を増やす
40 バウドリーノはもういない

語句の断章(56)「他人」

今さら念を押すまでもなく、他人は「たにん」と読むのが基本。しかし、例外があって、「ひと」とルビが振られていることが稀にある。他人を「たにん」と読ませる時と「ひと」と読ませる時では、意味とニュアンスの違いが出る。

Aを固有の人名だとする。「A他人たにんです」と言えば、Aは自分以外の人である。自分以外の人は、親族・親類とそれ以外の人に大別される。他人たにんは親族・親類以外の人とされる。おそらくAは友人や知人ではない。友人や知人なら、他人たにんなどとは言わない。他人たにんAと自分には道で見知らぬ者どうしが通り掛かる以上の関係はなく、この先どうなるかはわからないが、今のところ利害を共にしたりお互いを必要としたりする仲ではない。

他人を「ひと」と読ませたい時、「A他人ひとです」とは決して言わない。自分に直接関係のない事を「他人事ひとごと」と言うが、Aという人名と他人ひとをセットにしてしまうと、Aを適当に扱っていたり素知らぬ顔をしたりしている感じが色濃く出る。他人ひとと言う場合は、自分との分別を強く意識している。そこには「自他」という――現実の人間関係とは別の――存在関係がうかがえる。他人ひととは、自分とは異なる「他者」という存在なのである。

哲学に「他者問題」というのがある。自分には他者の心がわかるのか、仮にわかるとすれば、どのようにわかるのか……そんなテーマを考察する。今、友人一緒に食べているステーキを自分はおいしいと思っているが、他者である友人は自分と同じおいしさを感じているのかどうか。他者の頭痛、他者が見ている色、他者が言う「わかった!」という理解の程度を、自分はわかることができるのか。

他人たにん他人ひとの違いを出すために、他人ひと他人事ひとごとではなく、他者としてとらえてみたい。その瞬間、哲学の思索が始まって頭を痛めることになるが、やむをえない。赤の他人たにんを他者に見立てて論じようとすれば責任が伴うのである。

店主の決断、言い訳を少々添えて

ランチに何を食べるか、午前11時過ぎ頃から迷い悩み始める。ほぼ毎日のことだ。オフィスに備蓄してあるカレーや丼のレトルトにするか、弁当を買ってくるか、外食するか……。外食が一番悩み多いが、いったん店が決まればメニューもほぼ決まるので、それ以上は迷わないし悩まない。

買い置きしてあるカレーや缶詰類に値上がり感はない。弁当を買う店は限られていて、直近の数年間は500円から600円の範囲で収まっている。問題はランチ処である。ここ12年でどれだけ値上がりしたか近似値でチェックしてみた。

担々麺 800円→950
冷やし担々麺 900円⇢1,050
ビフカツ/トンカツ 1,000円⇢1,300
京御膳 1,100円⇢1,300
中華定食 900円⇢1,200

もちろん値段据え置きの店もある。鯛めし屋の定食は開店以来ずっと1,100円、寿司屋の盛り合わせは相変わらず良心的な650円、鉄板焼きのソース焼きそば定食も目玉焼きをトッピングして850円で奉仕している。据え置き組は5店に1店くらいだと思われる。


大きな薪窯を設えた、ピザが売りのイタリア料理店。先日店の前を通りかかった。しばらくぶりである。「ランチの価格・営業日変更のお知らせ」の貼紙が出ている。この店のランチは長らくお得な800円だったが、2年前に1,000円に値上げされた。それでも十分にリーズナブルな値付けだ。メインのピザの他にハムの入ったサラダ、窯焼きのパン、ドリンクがセットになっているのだから。しかし……

ついに我慢の限界が近づいたようだ。セットをやめ、値段そのままで単品の提供にするか、それともセットを付けたままで1,300円に値上げするか……この二択を夫婦で話し合い、セットを維持して価格をアップすることにした……そんな事情と経緯が詳しく書かれている。客としてはもっと利用して売上に貢献したいが、物価高で苦戦している行きつけの店はここだけではない。困っている店にまんべんなく足繁く通うには限界がある。

昨日は、数ヵ月ぶりに和定食の店に入った。すべての定食にご飯、味噌汁、小鉢2品、漬物がつく。メニュー表の値段に変わりはないが、新しく作り替えられたらしいメニュー表の最上段に食材高騰の影響について注釈があった。この店は、値段を上げずに、値段そのままで小鉢を一つ減らす決断をした。この程度なら大勢に影響はない。

ここまで書いてランチに出掛けた。冒頭のほうで紹介した担々麺の店である。そろそろシーズン最後の冷やし担々麺を注文した。値段は3ヵ月前と変わっていなかった。


常連が会計時にスタッフとことばを交わすのが聞こえた。

「来月から値上げって、ほんと?」
「ええ、そうなんです。でも担々麺はそのまま。醤油ラーメンとチャーシュー麺は上げさせてもらいます」
「いくら? 100円くらい?」
「いえいえ、50円です」

この程度なら深刻な値上げ事象ではない。企業努力と呼んであげたい。

抜き書き録〈テーマ:野菜〉

「キノコは菌類で、ジャガイモはイモ類、野菜に含めるのは変だ」と言う人がいるし、そういう説もある。「メロンもイチゴも果物」という分類にも異論が出る。穀物・肉・魚・野菜と大雑把に分けるなら、キノコやイモやスイカやイチゴは生鮮野菜のグループに入る。

7月と8月、暑さに負けないようにしっかり夏野菜を食べた。野菜に関する本も読んでみた。

📖 『身近な野菜のなるほど観察録』(稲垣栄洋著)

主題は「野菜だって生きている」。「野菜が植物であり、生命ある存在であることは誰もが知っていること」と著者は言う。本書では次の43種類の野菜が紹介されている。

キャベツ、レタス、タマネギ、エンドウ、ソラマメ、アスパラガス、タケノコ、ゴボウ、カボチャ、シソ、エダマメ、ナス、トウモロコシ、トマト、ピーマン、トウガラシ、メロン、スイカ、キュウリ、ニガウリ、オクラ、ショウガ、ミョウガ、ネギ、ニラ、ラッキョウ、ニンニク、ラッカセイ、シイタケ、サトイモ、ジャガイモ、サツマイモ、ヤマノイモ、レンコン、イチゴ、カリフラワー/ブロッコリー、ダイコン、カブ、パセリ、ワサビ、ニンジン、ホウレンソウ、ハクサイ

野菜を広義で捉えているので、メロンもスイカもイチゴも、また、シイタケもイモ類も収まっている。このリストから「マイベスト10」が選べるかどうか試してみた。悩みに悩んで選んだが、18種類が残り、それ以上絞れない。ベスト10ではなく、「よく常食している10種」にしてみたら、何とか選べた。キャベツ、タマネギ、トマト、ピーマン、トウガラシ、ニンニク、ネギ、シイタケ、ブロッコリー、ニンジン。汎用性と出番ではタマネギが一番かもしれない。その項には次のように書いてある。

タマネギ|玉葱たまねぎ ユリ科
涙なしには語れない

📖 『食ことわざ百科』(永山久夫著)

野菜だけでなく、食材全般について書かれている。米や餅、大豆、魚、茶についての記述が豊富だ。

「野菜」の本来の意味は、「野」と「草」と「る」からなっているのをみてもわかるように、「野」の「草」を「摘む」ことである。(……)日本の「おかず」は、古くから”野のもの”の比重が、たいへんに大きかった。

わが「岡野」の姓は、丘に登って木の実やキノコを採り、野に出ては野菜を摘んだことに由来するに違いない。野菜のことわざでおもしろいのが一つあった。

ねぎは人影でもきらう

「ネギは日当たりのよい畑でないと生育しない。ネギは、少しの日かげもきらう」らしい。このことわざが正しいなら、ベランダの日陰で育てられるネギは気の毒だ。

📖 『イタリアに学ぶ医食同源』(横山淳一著)

イタリアに行き始めた頃は、麦と肉が中心で野菜控えめな偏食民という印象をイタリア人に抱いた。何度も訪れているうちに、そうではないことに気づいた。どんな料理にもよくトマトを使い、ミネストローネにはいろんな野菜をたっぷり入れる。肉料理ではハーブの出番が多く、ポテトやホウレンソウもよく付け合わせる。決してパスタとピザだけではない。もちろん、ワインを忘れてはいけない。

伝統的な郷土料理には、その風土で育ったワインがよき伴侶になる。したがって、トラットリアはもちろん、リストランテにもソムリエは原則としていない。気の利いたカメリエーレ(給仕人)がいれば必要もない。

地産地消を徹底している。ワインは、かつては水の代わりであり、今ではジュースである。食中酒としてのワインは野菜の一種として見立てることができる。

症状、所見、処方

〈はじめに〉
オフィスの通り一本向こうに内科・皮膚科・免疫のクリニックがある。七十半ばのドクターで、日本の医学部に学び大学の付属病院に勤務した後、スイスの研究機関と病院に長く従事した人だ。ぼくは某総合病院で検査と診察を定期的に受けているが、かかりつけ医がいなかった。アレルギー症状が出た2年前をきっかけにこのクリニックをかかりつけ医として利用し、総合病院の検査結果にセカンドオピニオンをもらうようにしている。

〈症状①〉
盆休みに入る前の朝、いつものようにストレッチをしていたら、右側の腹部から腰のあたりがヒリヒリ・ピリピリした。痛みと言うよりも、皮膚が引っ張られるような不快感。筋肉の深部や骨ではなく、皮膚に近い浅い所のような気がした。ストレッチをしても痛みはなく、触るとヒリヒリ・ピリピリする。ズキズキではない。じっとしていたら痛みはない。しかし、キモチ悪い。1週間様子を見たが、症状が変わらない。

〈所見と処方①〉
以上のような症状を舌足らずな表現で聞いてもらった。このクリニックは血液検査はしてくれるが、レントゲンやCTはないので、総合病院での検査の結果をそのつど渡している。先生はカルテを一部始終眺めた後に「とりあえず採血しましょう」と言い、3日後に結果を聞くことになった。症状が深刻ではないので、ひとまず神経痛(らしき痛み)を鎮める薬を飲んで様子を見ることになった。

〈所見と処方②〉
3日後。通常の血液検査の項目はすべて標準値内だった。しかし、先生の判断で追加したヘルペス抗体の項目の値が、通常2.0なのに対し、あっと驚く50.1だったのである。つまり、潜伏しているヘルペスの発症を抑えようとして、何かのきっかけで抗体が急激に増えたということだ。先に処方された鎮痛剤に代えて、「中枢神経系においてカルシウム流入を抑制し、グルタミン酸などの興奮性神経伝達物質の遊離を抑制することにより、過剰に興奮した神経を鎮め、痛みを和らげる薬」を処方してもらった。

〈症状②〉
週末を挟んで4日間朝夕の2回服用したが、先の鎮痛薬よりも目立った効果を実感できない。この1週間症状があまり変わらないと伝えた。

〈所見と処方③〉
「帯状疱疹の患者に、ある程度良くなった時点で処方する薬がある」と言って、先生は切り札を出した。

処方されたのは「ウイルスDNAの複製を阻害することにより単純疱疹、帯状疱疹、単純ヘルペスウイルスの増殖と感染症の発症を抑える薬」。朝昼晩それぞれ2錠ずつ、5日分。

〈現状〉
今朝までに6回服用した。ヒリヒリ・ピリピリが
信じられないほど見事に消え、違和感がまったくない。今朝もストレッチをしてきたが、何事もなかったかのように脇腹も腰もすっきりしている。さすが免疫専門の先生だと感心しきりだ。あと9回飲み切れば万全と思われる。しかし、正直言って、効能のメカニズムについてほとんどわかっていない。そんなこと知らなくてもいいのだろうが、「ウイルスDNAの複製を阻害することにより単純疱疹……云々」について週明けに少し詳しく聞いてみようと思っている。

厳暑の日々の二字熟語遊び

今日のテーマは「日」。日を含む二字熟語をつないでみた。ある日が次の日にリレーする。日は別の漢字とくっついて、様々な日々の様相を呈してくれる。〇△の二字を△〇にするだけで、これまで馴染んだ熟語に新しい顔と意味を見つけることがある。

日毎ひごと毎日まいにち
(例文)
「焼けつくような天気が毎日続きますねぇ。冷たいのが恋しい」
「ええ、日毎暑さがつのります。かき氷目指して甘味処によくお邪魔しております」

日毎と毎日の意味は同じである。日毎は、毎日のやや文学的な言い回しと思えばいい。「日ごと夜ごと退屈している」と「毎日毎晩退屈している」はニュアンスと印象がだいぶ違う。ところで、毎日新聞を日毎新聞としたら、記事の文体も変わるはずである。

日曜にちよう曜日ようび
(例文)
「遅まきながら、“日曜日”が上から読んでも下から読んでも“にちようび”だと先日気づいたよ」
「月火水木金土ときて、次の日をわざわざ日にしなくてもよかったのに……。“天曜日”がカッコいいと思う」

夏休みのような長期休暇中は毎日が日曜みたいなものだから、曜日の意識が薄まる。曜日は空海が唐の時代にわが国に伝えたと言われている。主として吉凶の占いが目的だった。今のような週と曜日が始まったのは太陽暦と週休制が導入された明治6年らしい。

中日なかび日中にっちゅう
(例文)
「大相撲の中日のチケットが手に入ったけど、行ってみるかい?」
「それはいいねぇ。日中の早い時間に行って序ノ口や序二段から観てみたい」

中日はドラゴンズのことではない。野球ではなく、大相撲の八日目を指す。また、興行期間の長い芝居の公演の真ん中の日も中日という。日中にも、日が高くのぼり始める午前10時頃から午後3時~4時までという慣習的な定義がある。

数日すうじつ日数にっすう
(例文)
「こんな内容だけど、受けてもらえるかな? できれば数日以内に……」
「いやあ、ちょっと無理です。そのお仕事なら、日数をいただくことになります」

数日は慣習的には34日、時に56日で、よほどのことがないかぎり、2日や8日、9日ではない。明確に何日とは言わないが、以心伝心的にはお互いが承知している。数日が短くて日数が長い感じがするから、「数日ほど日数をいただきます」は誤解を与える。


〈二字熟語遊び〉は二字の漢字「〇△」を「△〇」としても別の漢字が成立する、岡野勝志が発案した熟語遊び。大きく意味が変わらない場合もあれば、まったく異なった意味になる場合がある。その類似と差異を例文によってあぶり出して寸評しようという試み。なお、熟語なので固有名詞は除外。

イカとタコの食べ物考

『物語 食の文化 美味い話、味な知識』(北岡正三郎著)に次のくだりがある。(㊟ルビは岡野)

イカ(烏賊)は味が淡く甘味があり、脂気が少なくさっぱりしている。(……)イカはま、煮る、揚げる、焼く、漬ける、干す、いぶす、裂くなどあらゆる調理に向く。(……)イカは鮮度落ちが早いので、生食はごく最近まで水揚げ地近くに限られていたが、今は山奥でもいかそうめんが膳に上る。タコ(蛸)は欧米では悪魔の魚として食べないといわれるが、イタリア南部、ギリシア、スペインなどでは食べる。(……)

一部省略したが、イカとタコの記述する視点が異なっており、しかもイカのほうがタコよりも詳しい。勝手な解釈をするなら、タコに対するイカの優位性を感じさせる。ところで、イタリアでもスペインでもイカ料理は食べたが、タコ料理は食べていない。テレビでも見たし人からも聞いたが、ポルトガルのタコ料理がかなりうまいらしい。

本やインターネットの料理レシピを調べると、イカとタコを同時に・・・使う料理がおびただしく紹介されていて、正直驚いた。二つの具材を一緒に炊き込んだり、カルパッチョにしたり、揚げたり、アヒージョやパエリアにしたり……と何十ものレシピが出てくる。どのレシピも強引に併せている印象を受けた。

経験不足だと思うが、イカとタコが同じ器に盛られるのはチラシ寿司かにぎりの盛り合わせしか知らない。イカとタコは「対立」の関係ではないが、かと言って「協調」の関係でもないような気がする。イカとタコは対立も協調も相互補完もせず、優劣を競うこともなく、それぞれが独立性を保っている。たこ焼きのタコをイカでは代替できないし、イカソーメンが売り切れてもタコソーメンでは補えない。イカはイカであり、タコはタコであり、それぞれ固有の存在である。

イカは好物だが、タコも互角。これまで食べてきた料理を思い浮かべて列挙してみた。

【イカ料理】 関西風イカ焼き(チヂミに近い);いか飯;イカリング/フリット/イカ天;塩辛;イカと大根/里芋の煮もの;イカソーメン;活きづくり;イカ墨パスタ;カラマーリ(ガーリック風味の唐揚げ);スルメ/燻製;刺身/にぎり;カルパッチョ;イカとセロリの中華炒め、etc.
【タコ料理】 たこ焼き;ぶつ切り炒め/
ゆでダコの辛味炒め;おでん;たこ飯;カルパッチョ;唐揚げ;タコ酢;マリネ;パエリア;たこ煎餅;刺身/にぎり;サンナッチ(韓国料理のおどり食い)、etc.

どちらも魚でも貝でもなく、個性的な軟体動物なので料理に一部共通点はある。しかし、イカをタコに、タコをイカに変えると違う料理になってしまう。

盆休みの間に、イカならでは料理、タコならではの一品を食す機会があった。それぞれが食材の特徴をかなり上手に引き出した海鮮料理だと思う。

イカと野菜の葱油炒め(中華料理)
薄切り水ダコのカルパッチョ(イタリア料理)

レトロ・ロマン・モダンの広告文拝見

大阪くらしの今昔館で開催中の企画展『レトロ・ロマン・モダン、乙女のくらし』を見てきた。女性のファッション、化粧品のデザインとパッケージ、石鹸や生活雑貨、絵葉書・雑誌など、明治から昭和初期までのおびただしいコレクションが展示されている。

デザインもさることながら、かつて「引札ひきふだ」と呼ばれていた商品や店の広告チラシの文章を楽しませてもらった。知りもしない過ぎし時代を感じるのは当然だが、着眼と切り口、文案と表現のセンスの良さに感心した。

新規開店の喫茶店のチラシ

つかみのコピー、概要のコピー、本文のコピーを棲み分けして書いている。「人と話の出來る 喫茶 キューカンパ―」と店を紹介し、「新開店」であり「來易く氣安で高尚」な店だと訴求し、「喫茶と輕いお食事」ができると伝える。本文は、まるで小説か散文詩のようなタッチで綴られ、不思議な空気を醸し出している。

春です‥‥‥アスフアルトの街
路に流れる軽快な足どりの、
リヅムにあでやかな、薫香の
どよめきが踊つてゐます。春
です‥‥‥全ては芽ぐみのび立
つて享樂の階調にしたつてゐ
ます。紫の氣の立ちこめたコ
バルトの空に獨り立ちの翼を
ひろげて精一杯の呼吸をつい
た時たよりない力と希望のぞみから
を破つて巢立ちしたキユーカ
ンは皆様にお願ひいたします
キユーカンパー‥‥‥キユーカ
ンパー‥‥永しえに御引立てを

所々の旧字に味がある。二字熟語を使った「薫香のどよめき」も「享樂の諧調」も語感がいい。一瞬読み方に戸惑った「とこしえ」という、何とも大仰な言い回しが、今では逆に斬新だ。「春です‥‥‥」を二度繰り返す技を掛けられて、つい文章を読み進めてしまった。

もう一つユニークなコピーを見つけた。六個入り壹圓の石鹸。「五つの特色」と謳う。

芳香温雅
泡立良く
生地を細に
肌を荒さず
最後迄形体
崩れず。

ルビは次のように巧みに振ってある。

にほひやはらか
あわだちよく
きぢをこまかに
はだをあらさず
しまいまでかたち
くずれず

レトロとロマンとモダンの文章、思っていた以上に自由度が高く創作性が豊かである。

旧盆の仕事とランチ処探し

当社の得意先もそうだが、大企業の多くは810日㈯から18日㈰まで9連休を取っている。これに有給休暇を組み合わせれば12連続や半月ほども休みが取れる。海外へ出るなら長期休暇はありがたい。実際、スタッフが大勢いた頃は、春や秋に2年に一度のペースで半月ほど休ませてもらっていた。

遠出の予定を立てないので、夏場に長期で休むのは苦手だ。飛び石のほうがありがたい。今年も2日休んで、3日出て、3日休むという具合。出社の3日が13日~15日のドンピシャの旧盆になる。創業以来30有余年、夏は旅に出ていない。大勢の旅行客に出くわすのを避けて、旧盆の時期はなるべく仕事をするように調整してきた。

この時期、オフィス周辺は人が激減する。オフィスには電話がかからない、メールが来ない。フレックスタイムにしているので、一人の時もある。仕事の合間に読書したり文章をしたためたり、モールで買物をしたり、リラックスして瞑想したりと、マイペースな時間を謳歌する。

旧盆時の出社には一つの悩み事がある。行きつけの食事処が軒並み休みを取るのである。コンビニ弁当は買わない主義なので、営業している店を近場で探す。めったに行かない店でも一見でもやむをえない。今日もどこで食べるかと心当たりをイメージしていたら、炎天下を歩かずに済む隣のビルのラーメンが浮かんだ。

新規オープンしてから早や2年の人気店だが、入店はわずか2回。開店の11時半前に行けば、すでに7人が入店していた。定員11席の10番目。昨日か一昨日かにユーチューバーが発信して、少しバズったらしく、正午頃には店の前に10人くらい並んでいた。

ニンニクと背脂と鷹の爪がふんだんに入った濃厚スープ。さすがに最近はこの種のラーメンは控えているが、この店オリジナルの太い縮れ麵は評価できる。「無料のモヤシ増しされますか?」 何も考えずにハイとうなずく。注文後の待ち時間と食事時間合わせて35分。ラーメン1杯にしては結構時間がかかった。4コマ漫画風に紹介する。

約15分待って運ばれてきた。ようやく実食スタート。
モヤシをさばくのに5分、麺に到達。スープの全貌は見えない。
さらに5分食べ続ける。麺と具にからむ濃厚スープ。3口ほど飲む。
穴あきレンゲで具を平らげる。危険な濃厚スープはほとんど残す。