ぬけぬけと棒読み

今に始まったていたらくではない。国会や委員会の棒読み答弁、報道解説委員の棒読み説明、スライドの棒読み講義……。一昨年だったか、スライドがタイトルだけの一枚で、講演者が手元の原稿を棒読みするだけの講演に居合わせた。義理で聞かされたのだが、名の通った先生が一切聴衆の反応をうかがわず、アドリブもなく小一時間を消化した。

いくらか期待もしていたが、がっかりだった。いや、怒りに近い感情すら覚えた。よくぞ小一時間もぬけぬけと原稿を棒読みしたものである。原稿を作った時点では考えもしただろう。しかし、人前に出てからあの先生、まったく考えてなどいなかった。考えないで喋るという厚かましい態度の恥さらし。

目を見開いて聴衆や相手に語りかけず、ひたすら演台に置いた原稿に視線を落として読むなら、ライブの必要はない。それこそ自宅でリモートで読み上げれば済む。映像もいらない。講義や講演でスライドを使うのが標準仕様になった現在、なければないで喋れる講師でも、掲示資料を棒読みする傾向が強くなった。


その場で何もかもアドリブで喋るのがベストだとは言わない。しかし、よく考えてきたのなら、一言一句を原稿にして棒読みせずとも、話の順番や用語をチラ見する程度の小さなメモさえあれば、人前でも「自分のことば」で喋ることができる。少々流暢さを欠いてもいいではないか。パスカルも言う通り、「立てつづけの雄弁は、退屈させる」のだから。

棒読みでいいのなら、もはや講演者の個性などいらない。声がよくてもっとスムーズに語れる代弁者を起用すればいい。優秀な人がなぜ棒読みに甘んじるのか、まったく考えずに文字だけを追えるのか、不思議でならない。棒読みするために大臣や解説委員になったわけではあるまい。

上記でパスカルを引いたので『パンセ』の当該箇所の前後を再読してみた。第六章の哲学者について綴る断章である。

三三九  (……)私は、考えない人間を思ってみることができない。そんなものは、石か、獣であろう。

ちなみに、この八つ後の断章が、あのあまりにも有名な「人間は考える葦」である。なお、パスカルは「思考万歳!」とばかり言っているわけではない。三六五では、考えることの偉大と尊厳性と同時に、考えの愚かしさと卑しさについても指摘する。つまり、考えに潜む二律背反性を踏まえている。

ともあれ、考えた末に書いたのが手元原稿だと言うのなら、人前で読み上げるその手元原稿はすでに「死に体しにたい」であり、原稿以上の上積みはない。そうそう、その丸読みの原稿を事前に配付する場合もある。話者も聴衆も資料の文字を追うばかり。誰も顔を見ない。棒読みは厚かましいが、何よりもけしからんのは他人に対して開かれていないことだ。

入るを量りて出ずるを制す

二十数年前のこと。年配の飲食店経営者がつぶやいた。「この歳になるまで経営やマーケティングのいろんなセミナーを受講して小難しい勉強をしてきましたがね、あまり役に立たなかった。さほど儲からないけど易々と潰れないしぶとさ――経営はここに尽きると思っているんです」。そして、ぽつんとあの金言を持ち出した。「るをはかりてずるを制す」。

素人でもみんな知っていること。子どもが小遣いを貯めておもちゃを買った後に残金をチェックするのも、主婦が家計簿をつけながら大きくため息をつくのも、小さな会社を創業したビギナー経営者が収入と支出に目配りするのも、すべて「入ってくるお金と出ていくお金」への関心ゆえである。みんなわかっている、「出ずる・・・入る・・を上回らないようにしよう」と。創業してから30余年、未だ経営オンチのぼくでも、このことは――このことだけは――わきまえている。

現在の自分の収入や自社の売上はわかっている。現在から寸法を測ればある程度将来の伸び率も予測できる。しかし、お金は出ていくし、収入や売上が予測通りに順調に推移するとはかぎらない。ただ、入ってくるお金に比べると、毎月出ていく固定費を含む支出は大きく変化しない。だから「るをはかりてずるを制す」、つまり、支出は収入に釣り合うか収入の範囲内にとどめておくのが安定の基本になる。


しかし、いくら支出を制していても、予測できない危機に見舞われて収入のほうがどうにもならなくなることがある。今の新型コロナ禍はおそらく今世紀に入って最大の危機だ。このリスク状況がいつまで続くのか、資金注入でどの程度急場をしのげるのか、誰にもわからない。1兆円超の赤字を出しても潰れない企業がある一方で、わずか100万円の資金繰りがどうにもならず、社員を解雇したり廃業したりし、最悪、命を絶つ零細企業経営者がいる。これが社会の現実。

事業者への給付金は、一定条件を満たせば一律に支払われる制度である。この制度の公平性や不公平性については黙して語らないのがいい。どんな泣き言や不満を吐き捨ててもどうにもならないからである。立地の良くない場所で細々と一軒の店を営んできたオーナーと、好立地に数店舗を経営してきたオーナーが受けるダメージは違う。前者は100万円で持ち堪えられるが、後者にとっては100万円は焼け石に水である。

何もかもウィルスのせいではないし、給付金申請の手続きの煩わしさや対応遅延のせいではない。経営者はいろいろな選択肢から今に到る道を選んだのであり、自分なりの経営哲学によって戦略を立ててきたのである。テレビのインタビューに対して、複数店舗を経営する美容院経営者とラーメン店経営者が絶望的に語るシーンを見た。その二人は危機に対して自らが脆弱な体質だった点については触れなかった。有事と平時とにかかわらず、経営の根底には自己責任があることを忘れてはいけない。

テレワーク雑感

創業してから数年のうちに本を3冊著した。仕事場で本業をこなしながら、合間に原稿を書いた。締切直前にはオフィスに顔を出さずに自宅でワープロを打った。今風に言えばテレワーク。能率は落ちなかったが、誰にも気遣いがいらないから集中力に乏しくなるし、疲れたら横になるという甘さも出た。当時は郊外に住んでいたので、往復の通勤1時間半が節約できたが、節約できたその時間が作業時間にプラスされたとは思わない。

今は自宅とオフィスは徒歩で10分少々、自転車なら5分。のろまなパソコンとプリンターと程度の自宅インフラでは仕事がはかどらないので、自粛ムードの今も毎日会社に出ている。ワンフロアでたった一人という日が週に何度かある。小さな会社なりにITインフラを完備しているし、蔵書のほとんどをオフィスに収蔵しているので、出てくるほうが何かと便利がいい。

この一週間、「非通知」の電話が取った。受話器を耳にあてると、いきなりの音声ガイダンス。どんな悪だくみなのか興味があるのでしばらく聞き流してみた。給付金を振り込むので情報をインプットせよという内容で、おそらく最後には銀行口座番号とパスワード入力へと誘導するメッセージが続くのだろう。人間にこんなテレワーク営業をさせていたら人件費が高くつく。コンピュータに自動音声で営業させれば能率はアップする。思えば、「オレオレ詐欺」などはある種のテレワーク営業ではなかったか。


オフィスの道路向かいにマンションがある。一方通行の狭い道路なので、目と鼻の先という感じだ。当社は5階、マンションのその一室も5階。毎朝ぼくは8時台に出社して、ロールブラインドを上げて窓を開放する。午前9時、正面に見える一室の窓際の椅子に男性が座る。おそらくテレワーク組だと思われる。さっきベランダに出てきたが、初めて顔を見た。見た目30代前半。

今日は半袖の赤いポロシャツで(ぼくには見えない)おそらくパソコンに向かって、おそらく仕事をしていた。かれこれ一ヵ月。別に裏窓から覗いているわけではない。窓外に目を向ければ勝手に見えるのだ。長袖の白のカッターシャツの日もある。上司か得意先とのテレビ会議だろうか。在宅勤務時間もランチタイムも休憩にもルーチンを決めているに違いない。ぼくは何度も席を外したり隣の部屋へ行ったりして頭を切り替えるが、彼はずっと座っている。まじめな働きぶりが窺える。

あの彼がハードワークしていると仮定しよう。しかし、今まで出社してしていた仕事をこんなふうに毎日テレワークでできてしまうなら、もうオフィスはいらなくなる。二ヵ月か三ヵ月できるようなら半年や一年でもできてしまうだろう。オフィスと在宅の仕事に効率や質の差がないのなら、企業はインフラだけ整備して正社員を契約社員にすればいい。オフィスは縮小できる。

これを機にテレワークができる体制を取るべしという意見が目立つ。しかし、部屋に閉じこもって電話かビデオで時々やりとりして済むような仕事は、やがてAIに取って代わられる。一部職種で仕事がかなりデジタル化されたのは間違いないが、仕事から人と人の関係が消えることはない。いや、消えることがないように、自分の固有のアナログ価値を保持しなければならないはずである。

ともあれ、ほとんどの会社にとってテレワークは非常措置である。すべてとは言わないが、いずれ年初の頃の状況に戻る。数ヵ月在宅したテレワーカーたちが首尾よくオフィスや現場に戻れるか。出社拒否症候群という禍も想定しておかねばならない。

テイクアウトで考えたこと

行きつけの店に「テイクアウトできます」の貼紙、初めて見る店のドアにも同じ文言の貼紙。どこもかしこもテイクアウト。店内飲食不可でもテイクアウトならできる。

以前「テイクアウトは和製英語です」と英語通の知人が言った。別の英語通の所見は「あちらではあまり使わないけれど、何とか通じますよ」。ぼくはと言えば、カリフォルニア州に旅した折りはすべて店内飲食だったので、持ち帰り経験がなく、はたして「テイクアウト」が伝わるかどうか知らない。もし持ち帰ろうとしていたら、おそらく“to go”という一般的な表現を使っただろうと思う。

ともあれ、わが国では「ツーゴー」などとは言わずにテイクアウトが定着した。ちなみに、「こちらでお召し上がりですか、お持ち帰りですか?」という英語――”For here or to go”――を最初に知った時、妙なことを妙な言い回しで尋ねるものだと思った。本格的な料理店で入店するなりこんなことを尋ねられるはずがない。こういう尋ね方はハンバーガーショップから始まったに違いないと睨んでいる。


食べるつもりで店に行ってはみたが、気が変わって持ち帰ることにした。この時のテイクアウトは、店で出している料理と同じものを持ち帰るという意味のはず。たとえば、近くのカオマンガイの店では店で食べるのと持ち帰るものは、容器以外はほぼ同じである。ところが、コロナ禍で自粛し始めてからは、ほとんどの店では店内メニューに載っていない持ち帰り用の弁当を作ってテイクアウトと称している。あるうどん店はメニューにない「とり天丼」を店頭で持ち帰り用に販売している。テイクアウトではなく、最初から弁当と言えばいいではないか。

ピザ屋と自宅はピザの冷めない距離なので、テイクアウトしても味に大差はない。トンカツやハンバーグ定食のテイクアウトも店内メニューとさほど変わらず、持ち帰って皿に盛れば格好はつく。ただ残念なのは、店内なら付いてくる味噌汁がテイクアウトには付いてこないという点。やむをえない。

「寿司、テイクアウトできます」――そんな貼紙を出さなくても、スーパーに行けば、寿司はすべてテイクアウトではないか。オヤジが日本酒でちょっと寿司をつまみ、帰りがけに家族用に一合折か二合折をお土産にしたのが昔からの寿司屋。寿司折を手に帰宅する波平やノリスケの姿が浮かぶ。

先日寿司屋に寄った。店は空いていたが、自粛癖がついているので、二合折を持ち帰ることにした。「ご新規さん、テイクアウトで!」という声に大いなる違和感を覚えた。寿司にテイクアウトという言い方は合わない。お土産か、せめてお持ち帰りと言ってもらいたい。二千円ほどの寿司が八百五十円に格下げされた気分。

「まるで絵はがきみたい!」

観光旅行中にナイアガラの滝を眼前に見た日本人女性が「わぁ、まるで絵はがきみたい!」と感嘆の声を上げた。

実際の風景を眺めたりその風景の写真を見たりして、「まるで絵はがきのようだ」と比喩する人がいる。なぜ自然の風景を見て、わざわざ絵はがきという二次的に再生されたものに譬える必要があるのか。絵はがきみたいとは、そこに写る対象が自然そのものという印象を語っているのか。

また逆に、画集に一枚の絵を見て、それが自分の目で見たことがあれば、「実景そっくりだ」と感嘆する人もいる。その作品の画家は、実景を写実的に描いたわけだから、ある程度そっくりであることに不思議はない。なぜわざわざそこに実景のことを持ち出す必要があるのだろうか。


有島武郎の『描かれた花』と題された随筆を読んでいたら、次のようなくだりがあった。

巧妙な花の画を見せられたものは大抵自然の花の如く美しいと嘆美する。同時に、新鮮な自然の花を見せられたものは、思はず画の花の如く美しいと嘆美するではないか。

絵から入れば実景を持ち出し、実景から入れば絵を持ち出す。絵の感嘆にしても、風景の感嘆にしても、感嘆に値する適切なことばが見当たらない時に、どうやらそのような比喩を使うらしい。

実際の対象とそれを題材として描いた絵との関係に、人はそれぞれの感慨を抱き、似ているとか似ていないとか、絵のほうが実物よりも美しいとか、いや、絵は実物の美しさには及ばないなどと評する。

有島武郎は随筆の別の箇所で「人間とは誇大する動物である」と言っている。誇大には程度はあるが、芸術作品としての絵は実際の対象以上に誇張されてこそ意味を持つような気がする。似顔絵などその典型で、誇張ゆえの作品価値である。本物とまったく同じに再現する腕は望むべくもないが、本物とまったく同じであっては作品に勝ち目はない。

十数年前にヴェネツィアに旅した折りに、運河をスケッチし、帰国後に写真を見ながら着色したことがある。何枚か描いてみたが、ヴェネツィアの運河を感じさせない。思い切って原画をデジタル的にいじってみたのがこの一枚。原景をとどめない誇張であり歪曲であるが、ヴェネツィアらしさが出たのではないかと思っている。

気がつけば五月

二月、三月がずいぶん前のように思えてくる。えっ、もう五月? いかにも、気がつけば五月。気がつかなくても、カレンダーが五月に変わっている。


今日のこの陽気と空を背景にした青葉の見映えは、すでに春の終章を告げるかのよう。冷たいもので喉を潤したくなる昼下がり。この季節は同時に、今年に限っては――今年だけに限ってほしいが――コロナ」の季節になった。


まばゆい新緑に心が動く。しかし、閉塞感に苛まれて、一編の詩を紡ぐような気分にはなれない。何もかもが鈍く、何もかもが重苦しい時はただそぞろ歩きするのみ。好きなように空を切り取ってみる。対岸の樹木も、萌黄、若草、松葉、青磁、孔雀、緑青……と、「よりどり緑」。


近年、四季が三季になってきた。春の時短が著しい。春よ来いと願っても、なかなか来ず、来たと思えば足早に去る。急いで夏のリハーサルをしてくれなくてもいいのに……。

五月の別れ

風の言葉に諭されながら
別れゆく二人が五月を歩く
木々の若葉は強がりだから
風の行く流れに逆らうばかり
(井上陽水)

五月に別れる人あり。ほとんどの人は五月に別れを告げる。いや、今は、月が変わると、五月のほうから一方的に別れたいと言い出してくる。やむをえない。重苦しさが軽やかさに変わることを願って、六月を迎える準備をしよう。

まいど! 二字熟語遊び

外出自粛してテレワークを! と言われるが、4月は一日たりとも休まず出社した。宣言に逆らっているわけではない。

理由は三つある。一つ目、幸いなことに間断なく仕事を受注している。二つ目、自宅からオフィスまで徒歩なら10分、自転車だと5分。電車通勤の密と無縁。三つ目、オフィスの仕事インフラに比べて、自宅には廃棄予定のWindows7のノートパソコンとのろまなプリンターのみ。在宅では仕事がままならない。

なお、得意先の発注担当者がテレワークゆえ、仕事がスムーズに運ばない。途切れて隙間の時間が生まれる。そんな時間には本を読んだりブログを書いたりしている。

二字熟語アイコン

【実名と名実】
(例)「実名」とは名のことであるが、「名実」は名と実から出来ている。だから「名実ともに」と言うことが多い。

仮名や偽名と二項対立の関係にあるのが実名。実名が名のことだからと言って、太郎や花子だけでは困る。実際の姓と名でなければならない。なお、「名実ともに」と言う時の名を匿名にすると値打ちがなくなる。

【身分と分身】
(例)社会の約束事に基づいて必要書類を取りまとめてどうにかこうにか「身分」を証明することができた。しかし、各種書類が自分の「分身」だとはとても思えない。

人間は身分や地位が高くなると足元が滑りやすいとタキトゥスが言った。その人間が分身の術を会得したなら、分身の方の身分や地位を低めにして、共倒れにならないように保険をかけておくのがよい。

【線路と路線】
(例)廃線でないかぎり、「線路」があれば「路線」の名前がついているはず。しかし、路線の名があっても、必ずしも線路が通っているとはかぎらない。

わが街ではメトロとバスの路線の重複を是正するために、バスの路線がかなり減らされた。バス路線を減らすのは簡単だ。バスを走らせなければ路線は廃止できる。

【類比と比類】
(例)筆を誤る弘法と木から落ちる猿は「類比」の関係を成すが、弘法大師は「比類」なき固有の存在なのに対して、猿のほうは特にこの猿でなければならないというわけではない。

一方が固有名詞で、他方が普通名詞なので、正確に言うと、ぴったりの類比ではない。「弘法も筆の誤り」に対しては、「忠犬ハチ公も飼い主を忘れる」というレベルの類比にする必要がある。

【空虚と虚空こくう
(例)いずれも何もない状態なのだが、「空虚」は価値や拠り所など心に関わり、「虚空」は物質や空間に関わる。

色も形も何もない空間を想像するのは難しい。しかも、それが久遠くおんに続くとなれば何がなんだかわけがわからなくなる。では、存在する中身や価値なら想像できるのか。こう問われると、それも心もとない。


シリーズ〈二字熟語で遊ぶ〉は二字の漢字「AB」を「BA」としても別の漢字が成立する熟語遊び。大きく意味が変わらない場合もあれば、まったく異なった意味になる場合がある。その類似と差異を例文によってあぶり出して寸評しようという試み。なお、熟語なので固有名詞は除外。

本のこと、読書のこと

在宅の仕事が苦手なこともあるが、かなり恵まれた職住接近なので毎日事務所に出てくる。仕事はある。ただ、発注者にも諸事情があってスムーズに進まない。そんな日の昼下がりに本を――じっくり読むのではなく――拾い読みする。『書物から読書へ』。漫然とページを繰り、気に入った見開きに視線を落とす。ほどなく瞼が重くなり半覚醒状態に陥る。

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本は、読書家の対象になるばかりでなく、書棚に収まって読書家の後景になったり読書家を囲んだりする機能も持ち合わせている。

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読まねばならないという強迫観念から脱した時にはじめて読書の意味がわかる。見て選び、装幀やデザインを味わい、紙の手触りに快さを覚え、書棚の背表紙を眺めることもすべて読書だということ。

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放蕩三昧する勇気なく、無為徒食に居直れず、かと言って、日々刻苦精励できるわけでもなく、おおむね人は無難な本を手に取って中途半端に読んで生きていく。

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急ぎ足で読むことはない。速読ほどさもしくて味気ない読書はない。著者が一気に書き上げていない本をなぜ一気に読まねばならないのか。

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旅もままならない今日この頃、いつもと違う本との付き合い方をしてみればどうだろう。本からのメッセージが伝わってくるかもしれない。本の希望、本の励まし、本の快癒、本の精神こころ、本の所縁、本の愉快、本の幸福……。

異化や転移のこと

大岡信の『詩・ことば・人間』を読んでいたら、ぼくが時々感じるのとよく似た、ある「不思議な文字作用」について書かれているくだりがあった。

かねがね不思議に思っていること。
私だけの経験ではないと信じるが、辞書で同じ漢字がたくさん並んでいるページを眺めているとき、その文字がなぜかしだいにばらばらに分離して見えてくる。今様にいえば、その字がその字としてのアイデンティティをなくしてしまうのである。ヘンとツクリがばらばらに分離してしまい、統一体としての一個の文字とは見えなくなる。
それはあるいはゲシュタルト説風の説明をほどこしうる現象なのかもしれない(……

ぼくの経験では、漢字のヘンとツクリがばらばらになることはない。しかし、ある日、新聞のコラムの文中に「変わった」というありきたりのことばを見た時、どういうわけか、これが変に・・浮かび上がってきた。変を変に感じたのだ。実際に「変、変、変、変、変……」と手書きで連ねてみると異様な雰囲気が漂ってきた。これが異化いか〉という知覚の作用なのではないか、と思った次第である。

よく知っているものが、ある日突然奇妙に見えるのを〈異化〉といい、奇妙に見えていたものを普通に感じるのを〈異化の異化〉という。こういう現象(あるいは知覚作用)が繰り返されると、〈異化の異化の異化の異化……〉というような、不思議この上ない体験をすることになる。


音声についてもよく似たことが起こると、大岡信は指摘する。同じ語を繰り返して言い続けると、抑揚や意味の転移、さらには音節の長さの変化も生じて、本来の語とは違う別の旋律を伴ってくることがあるのだ。たとえば「愛」を繰り返して「アイアイアイアイアイ」と発声してみると、「イ」の抑揚の位置が変わって「ア」になったり、アとイの順が変わって「イアイアイア」に転移したりすることがある。ここでの〈転移〉はぼくの場合の〈異化〉に似た作用だと思われる。

「ぬ」と「め」が相互に異化し、「ね」と「わ」が相互に転移する。あることばや漢字がなぜこのようにかたどられ発音されているのかが急に気になり始める。書かれた文字も発せられた音も、繰り返し眺め耳にすればするほど――「変」や「愛」という漢字が本来の意味を失うように――原形や原音も揺らいでしまう。

試みに「アベアベアベアベアベ……」と念仏のように繰り返してみればいい。あの「アベ氏」という存在と意味が失われ、何をも表わさなくなってくる。本来意味をもつことばを無思考的に繰り返せば不感に陥るのだ。ことばのマンネリズムや陳腐化はこのようにして生じる。意味あることばではなく、意味のない惰性的な文字と音が、目障りな形と異様なノイズと化して脳を支配してしまうのである。

 

「騙し」の構造

どんな意見でもひとまず受容することにしているが、こと現象となると、信じるか懐疑するかの二者択一しかなければ、懐疑から入るのを常としている。いったん盲目的に信じてしまうと、相当怪しく感じるようになっても、信じた己の正当性を否定しにくくなるからである。逆に、対象が何重もの懐疑のフィルターを潜り抜けたなら、それに共感して納得に転じることにやぶさかではない。

スピリチュアルが入っている人には申し訳ないが、超能力や超常現象は信じる者による独断的な定義だと思っている。別の者にとっては「トリックによる創作」という定義が成り立つ。科学絶対とはゆめゆめ思わないが、すべての現象は現代科学ですでに説明がついているか、現代科学で解明できていないかのいずれかである。後者の、解明できてはいないが、現実に起こりうるものは能力であり現象であって、わざわざ「超」や「超常」を被せる必要はない。

超能力の仕業とされていることのすべてをミスターマリックやナポレオンズやマギー司郎ならやって見せるだろう。自分がこの宇宙で棲息している事実以上に不思議な現象に未だかつて出合ったことはない。

「騙し」の構造について書評会で『人はなぜ騙されるのか』(安斎 育郎著)を取り上げたことがある。もう一度拾い読みしてみた。

本書では109の話が、第Ⅰ章 不思議現象を考える、第Ⅱ章 科学する眼・科学するこころ、第Ⅲ章 人はなぜ騙されるのか、第Ⅳ章 社会と、どう付き合うか、第Ⅴ章 宗教と科学の5章に割り振られている。サブタイトルに 「非科学を科学する」 とあるように、不思議や超常の仕掛けが次から次へと科学的に暴かれていく。なお、本書の示唆をぼくは教育的啓発としてとらえるようにしている。


スレイド事件
スレイドは交霊できる職業的霊媒であった。何も書いていない一枚の石板とチョークをテーブルの下に置いて、居合わせた人の先祖と交信して霊にメッセージを自動書記させた。錚々たる物理学者もみんな信じてしまった。
ある交霊会でロンドン大学の教授が、スレイドが交霊する前にテーブルの下から石板をひったくるという荒手を使ったら、そこにはすでにメッセージが書かれていたのである。

ノーベル生理学賞のリシェー教授と幽霊
心霊現象に否定的だった教授は、ある将軍の家で幽霊を出現させるのを目撃してから、一気に幽霊説に傾いていった。しかし、人間が幽霊に扮したかもしれないという疑問をまったく検証することはなかった。人は信じたいほうを信じ、信じたくないほうを疑わないという習性を持つ。

幽霊の写真
撮影霊媒で有名だったデーン夫人は、現像段階で早業のすり替えを暴かれた。誰もが騙されてきたのは、すり替えの小道具に 「讃美歌の本」 を用いていたからである。「神を讃える聖なる書物を、まさかインチキの小道具に使うはずがない」 というキリスト教徒の常識的道徳観が、詐欺師を見破る目を曇らせたのである。「奇術とは、常識の虚をつく錯覚美化の芸術である」。

こっくりさん
降神術の一種であるこっくりさんは、英語で 「テーブルターニング(机転術)」 とか 「テーブルトーキング(談話術)」 などと呼ばれている。大学生の頃、合宿などでよく興じたものだ。
十九世紀の科学者にとっては こっくりさんの解釈の足場を 「霊界」 に据えるのか、それとも 「理性」 の側にしっかりと足を踏まえるのかは、いわば思想の根本にかかわる問題だったのである。
こっくりさんは、答えはこうなるはず、こうあってほしいという 〈予期意向〉 と筋肉運動である 〈不覚筋動〉によるものであると解明された。

文化勲章受章者と死後の世界
岡部金治郎博士は、「動物の霊魂→五官で完治できない神秘→不生不滅の法則→魂の素→肉体の活性から非活性状態→……→魂が受精卵に宿る」という見事な(?)説を唱えた。生真面目な一方で、すべての根底に「人智の及ばぬ神秘」 という荒唐無稽が置かれている。死後の世界論どころか宗教なのである。
霊魂の存在などまったく証明されていない。ここにあるのは 「私は霊魂を信じる」 という前提のみである。科学と信仰が混同された典型的な例であった。

経験絶対化の危険性
しばしば自分の感覚器官でとらえた 「事実認識」 を絶対化し、厳密な検証もなしに、その命題が 「真」 であることを信じ込む。
「この目で見た」 「この耳で聞いた」 という体験がもつ説得力は非常に大きい。しかし、 「感覚器官は錯誤に陥りやすい 」ことを忘れてはいけない。

科学のブラックボックス化
科学は進歩しても、なかなか人間の意識の変革は思うに任せず、孔子の春秋時代からあまり進歩していないのではないか 。
現代人はWhyへの執着心よりもHowへの指向性のほうが強い。科学技術の成果がブラックボックスになったがゆえに、「なぜ」 が消え失せてきた。科学の時代であればこそ非科学的思考に陥る危険があるのだ。

錯誤と対象認識過程の省略
人間は、部分から全体を推定し、 時間を追って順番に起こった事象については、本当はそれぞれの事象が独立のものでも、「一連の事象」 として関連づけて理解してしまう。
大きさ、形、色、肌ざわり、香り、味などの性質を刷り込んで、リンゴを認知する。しかし、今度再認識するときは、これらすべての性質を再生するのではなく、二つくらい一致するだけで対象を認識するのである。


本書によれば、「信じよ、さらば救われん」 も 「為せば成る」 も 「念じれば花開く」 もすべて、非科学的ということになる。因果関係の吟味、二者関係の明確化、主観的願望と客観的推論の峻別などをおろそかにして結論を導くのは危ういのである。

UFOよりも46億年経過してもマグマがたぎる地球のほうが不思議であり、幽霊よりも一般的なオバチャンのほうが怪奇的である。超常現象をわざわざ創作しなくても、現実の現象だけで十分に不思議であり驚きなのである。