書名の印象

先週末に古本屋に寄った。例によって店頭の50円~100円の格安コーナーをまず品定めする。そこで目についた2冊が向田邦子阿川弘之の本。作家に特に関心があったわけはなく、この2冊が数冊を挟んで置かれており、妙に目立ったのである。「男女」と「大小」という二項を含む本が呼応し合うように誰かが意図的に配したようにも見えた。

『書物としての都市 都市としての書物』
『木のいのち 木のこころ』
『生き方。死に方。』
『教えるヒント 学ぶヒント』
『話を聞かない男、地図が読めない女』
『泣ける話、笑える話』……

上記はこれまでに読んで書棚に置いてある本である。それぞれの書名は二項が対立したりもたれ合ったりする関係として記述されている。この種のタイトルの本は多いか少ないか? どこにでもありそうだが、実はきわめて少ない。オフィスにはざっと7千冊以上の蔵書があるが、10冊にも満たないような気がする。


向田の本は小説・エッセイ集。『男どき 女どき』は世阿弥の『風姿花伝』の「時の間にも、男時、女時とてあるべし」に遡る表現で、「おどき めどき」と読む。男時とは好運に恵まれている時で運がよくつく状況。対して女時は何をしてもうまくいかない時で運が悪い状況。まあ、こういう言い方をした時代があったというに過ぎないから、けしからんなどと怒らず、放念いただきたい。

『大ぼけ 小ぼけ』は体験的エッセイ集で、徳島の景勝地「大歩危おおぼけ小歩危こぼけ」とは特に関係はない。『男どき 女どき』も『大ぼけ 小ぼけ』も、たった二項だけを並べたタイトルなのに、取り上げているテーマの守備範囲がとてつもなく広そうな印象を抱く。ちょうど「西洋・東洋」という二項が全世界を言い表すのに似たような感じである。

ところで、最近の漫才師には共通項の芸名を冠にするのが多い。つまり、それぞれの名が見えないか、冠に従属する形を取る。最近5年のM1王者はマヂカルラブリー、ミルクボーイ、霜降り明星、とろサーモン、銀シャリだ。こういう名前を見聞きするだけでは漫才師かミュージシャンか居酒屋の店名か料理名かよくわからない。昔は二項並立の芸名が多かった。「(横山)やすし(西川)きよし」、「(夢路)いとし(喜味)こいし」、おぼんこぼんなど、すぐに漫才師だとわかった。

二項を「と」でつながないのがいい。書棚に『右脳と左脳』という本があるが、「と」で接続した瞬間、理がまさってしまう。仮に「右脳 左脳」ならば遊び心が優位になる。「右往 左往」とひとひねりもできる。二項並立型の書名には「ちょっとおもしろそう」と感じさせる雰囲気がある。だからと言って、必ずしも売れる本になるとは限らないが……。

「夏の終わりの……」

夏の終わりはこの時季ならではの旬のテーマ。夏の終わりについて――そして秋の兆しについて――何か書こうとするなら今しかない。「夏の終わりの」まで言いかけて一呼吸置いてから「ハーモニー」と続ければ、玉置浩二と井上陽水が響かせるあの歌だ。

あの歌、「夏の夜を飾るハーモニー」と「真夏の夢」の二カ所しか夏が出てこない。夏を春や秋に替えても違和感はなさそう。ただ、真夏はあっても(また、真冬もあるが)「真春」や「真秋」とは言わない。

一昨日の最高気温は22℃、昨日が30℃。ここ最近は夏の終わり感と秋の始まり感が往ったり来たりしている。夏のバトンの渡し方がまずいのか、秋のバトンの受け方がぎこちないのか。ところで、まもなく終わろうとしている今年の夏も平年並みの暑さだった。但し、ここ数年の平年並みは半世紀前とは比較にならないほどの激暑である。


今年も扇子に出番がなかった。暑かったのに使わなかったのはなぜか。焼け石に水、いや灼熱に弱風だからである。暑さをやわらげるには扇風機クラスのあおぎ方が必要。そんなに煽げば余計暑くなる。涼をとるには手っ取り早くクーラーかよく冷えた飲み物ということになる。しかし、よく冷房の効いた甘味処のかき氷の後、灼熱の外気の中に出て行かねばならない。極楽から地獄へ。

昭和の、たとえば30年代には、まだまだ涼にまつわる風物詩が生きていた。打ち水、団扇うちわ、風鈴、金魚すくい、蚊取り線香、浴衣などはそれなりに功を奏していたような気がする。今となっては、騒音に紛れる風鈴の音色もアスファルトの上の打ち水も情趣不足である。

「夏の終わり」と「秋の始まり」はついになる。『上田敏訳詩集』をめくっていたら、オイゲン・クロアサンの「秋」という作品を見つけた。

     秋

けふつくづくと眺むれば、
かなしみいろ口にあり
たれもつらくはあたらぬを、
なぜに心の悲しめる。

秋風わたる青木立あおこだち
葉なみふるひて地にしきぬ。
きみが心のわかき夢
秋の葉となり落ちにけむ。

ヴェルレーヌの「落葉」の訳詩もうら悲しいが、こちらの詩もかなり暗い。秋を紡ぐ詩は、どれもみな生きるのがつらそうで、ただただ哀愁を漂わせる。心身ともに元気にしてくれる秋の詩に出合った記憶がない。

小さな愉しみの繰り返し

一つの大きな愉しみを取るか、複数の小さな愉しみを取るか。食事や集いや旅行ごとに楽しみ方は変わる。仮に旅だとしよう。長い旅程をしっかり組んで数年に一度遠くへ旅行する愉しみがあり、他方、週末の街歩きや、思い立った日に日帰りか一泊で近郊へ出掛ける愉しみがある。

年に何度も一泊や二泊の旅をするくらいなら、数年に一度海外に出て滞在地を一、二カ所に絞って過ごしたいとずっと思っていた。願いが叶って、2004年から2011年の間には、数年に一度どころか、6度もヨーロッパに出掛けた。いずれも約半月の旅である。2011年の旅ではバルセロナのホテルに4連泊、パリに移動してアパートに11連泊した。目論んだ愉しみは「広く浅い観光」ではなく「狭く深い生活」だった。

しかし、この10年、計画した海外への旅はことごとく実現しなかった。旅行予定月に飛び石出張が23件入ると半月の旅程が組めなくなる。そんなケースが何度かあった。また、親族が病気を患ったため仕事以外で長期間留守にしづらくなった。昨年の春はチャンスだったのだが、新型コロナで渡航不可となった。この調子だと来年も難しいかもしれない。


来年を待ちわびても、たとえば腰痛が出ると海外の旅はきつい。残された人生もどんどん短くなっていく。計画や準備という種まきをしても予定通りに刈り取れる保証がない。と言うわけで、今は考え方がだいぶ変わった。ずいぶん先のたった一つの大きな愉しみよりも、〈今・ここ〉の小さな愉しみのカードをいつも手元に置いて小まめに切り出すようになった。

「愉しみ」というのは充足感を味わえることで、そういう機会や対象や場所を自ら進んで求めることだ。それならいくらでもある。近すぎて気づかないだけの話である。当面の愉しみは刹那的かもしれないし、心底求める愉しみの姑息な代案と言えなくもないが、いくつかの小さな愉しみを繰り返しているうちに、近場の街歩きでいろんなものが見えてきた。オフィス街の工事現場沿いの通りもまんざら捨てたものではない。

知らない美術館や古い建造物はいくらでもある。食事処や文具店、雑貨店などは際限がない。同じ場所へ行くにしても、通りや道の組み合わせは何十とある。小さな愉しみは自らが能動的にならなければ味わえないのだと強がってみせる。しかし、年初にパスポートをさらに10年更新したことだし、大きな愉しみのチャンスが巡ってくるのを一応心待ちにはしている。

信用と不信は隣り合わせ

以前、欧州の国営鉄道の改札と切符のことを書いたことがある(思い出切符)。ぼくたちが慣れ親しんだ「改札」の概念がないという話だ。いつでも誰でも――列車に乗る人も乗らない人も――駅のホームまで入れる。切符がなくても入れるし、その気になれば乗車もできる。列車に乗る人はホームにあるタイムレコーダーのような装置に切符を入れる。何月何日何時何分と刻印されて出てくる。あとは行き先まで乗車し、その切符を持ったまま駅を後にする。到着駅に改札らしきものがあっても、駅員は切符を回収しない(と言うか、切符売場以外の場所で駅員を見かけることがない)。切符はごく稀に車内で抜き打ち検閲されるだけだ。列車に乗る人はみな切符を所持していると見なす。これを「信用改札方式」と呼ぶ。当然、信用を裏切る者には高額の罰金が科せられる。


病気になった知人の病名が初耳ということがよくある。最近の病名は驚くほど細かく分類されている。医学の進歩のせいか、かつてなかった病名が次から次へと「発明」されるのだ。患者の多くは病気に罹っていると自覚する前に、病名を告げられる。「あなたの病名は何々です」というかかりつけの医者を一応信用はするが、心のどこかで「本当にそうだろうか?」と納得がいかない。まあ、いくばくかの不信の念も抱く。


エアコンをつけるたびに異様な音が出る。突然止むこともあるが、しばらくするとまた音がする。修理に来てもらった。エアコンをつけると、その時にかぎって音が出ない。朝につけたら音がしていたのに。エアコンをつけるところから目撃してほしいので、直前に消しておいた。そして、修理の人の見守る中、再度オンにすると静かに運転するばかり。これでは異様な音がするという証拠が示せない。「もうちょっと様子を見ましょう」と言われた。気まぐれエアコンが信用され、ぼくの証言は信用されなかったのである。


「あの人に会ったことがある」と「あの人に会ったことがない」の差が大きいことをぼくたちは知っている。縁やコネはこの差を反映する。会って握手をして一言二言交わすだけで、会っていないよりも信が強くなるような気がする。確かにそうだが、会って握手をして話したために不信が募り、会わなければよかったと思うこともある。


自分のしていることが論理哲学論考的に無意味だと断定されても、人生哲学雑感的に意味があると思えば、ひとまず自分を信用しておきたいと思う。たとえ異論を唱える相手がウィトゲンシュタインだとしても。

語句の断章(30)概念

「コンセプト」という用語を使わずに企画手法を講義するのは難しい。広告業界で普通に使っているこのことばを、はたして初めて企画を志す人たちにきちんと説明できるだろうか……ある時ふとそう思い、私塾の講座の前にいろいろ調べたことがある。

ラテン語起源のconceptコンセプトには「つかむ」という意味がある。哲学用語としてよく使われるBegriffベグリッフはドイツ語で、これも「つかむ」である。明治時代にこうした外国語に触れた時、対応するやまとことば・・・・・・が見当たらず、「概念」という和製漢語をこしらえた。でたらめに漢字を選んだわけではない。「概」にもつかむという意味があったのである。

概は「ガイ」と音読みし「おおむね」と訓読みする。稀に別の読み方がある。「とかき」がそれ。升に盛った穀類や豆類を平らにならす時に使っていた棒、あれが「斗搔とかき」だ。適当に米や小豆を升に盛り、盛り上がった分を斗搔きですり切り、升の中の内容量を「いつものようにほぼ・・同じ」にする。

概はおおむねなのだから、厳密に正確ではないし多少の例外も生じる。しかし、全体がある程度正しければ良しとする。手でジェスチャーするのは難しいが、「こんな感じのコンセプト」と言う時に、ややことば足らずながら、何とか苦心して一言にしたり一行にしたりする。概念は「対象をおおよその認識でつかむこと、そしてその想いをことばにすること」という感じなのだ。

コンセプトを概念と訳してしまうと哲学や思考の難しい方面の響きになるが、感覚を言語に置き換えるプロセスでの「だいたいこんな感じ」という、仮のつぶやきだと思えばいい。概念は抽象的と誤解されるが、決してわかりづらいものではない。個々の特殊性にこだわらず、全体を見た時にどんな共通性があるかをざくっとつかむことなのである。

スーツが売れない

スーツが売れないのは男性どもがスーツを買わなくなったからである。スーツを買わなくなったのは、スーツを着る出番が以前に比べて激減したからだ。「夏物スーツ在庫一掃セール」とか「秋物ジャケット1万円より」とか「スーツ2着まとめ買いで40%オフ」とかのメルマガのキャッチコピーも店に足を運ぶ動機付けにならない。

これまでに56着買ったことのあるアウトレットのスーツ専門店、2年前に買ったのが最後になる。ランチ処が多く入るビルの一角にあるので、たまに冷やかすが、店長は普通の表情がすでに泣き顔である。何とか売上に貢献してあげたいが、要らないものは要らない。

およそ30にわたって、毎年スーツを34着オーダーしていたほどのヘビーユーザーだった。ここ数年、出張機会が激減し、スーツを着るほうがいいと判断する場面も数えるほどしかなくなった。加えて、異常な高温多湿でクールビズはすっかり浸透し、79月だった適用期間は半年以上に及ぶ。スーツを着なくなった。ぼくだけでなく、みんなが着なくなった。


一年を通じてスーツは苦戦している。とりわけ夏場の紳士服の不調は今に始まったわけではない。新型コロナ感染が収まらないから人流を減らせと言われれば無視するわけにはいかず、在宅テレワーク族が増えた。在宅、クールビズ、ハレの場に出掛けない……高級スーツが大幅値下げになっても着ることがなければ手を出さない。

スーツは“suit”から派生して、元は「合う」という意味なのに、夏に合わない、今の時代に合わない、フォーマル色が弱くなったTPOに合わない。

見ないのにテレビを買うことはない。テレビを買えばたいてい毎日見ることになる。他方、使わないのについ買ってしまうものがある。百円で手に入るようになった雑貨がそうだし、着もしないのについ衝動買いしてしまう洋服がそうだ。着る気満々で買ったスーツなのに、所有する10数着のうち常時着るものはたいてい23着だ。

スーツを買ったもののあまり着ない……たしかにそんな時代があったが、もはや過去の話。いまスーツを買うにあたっては合理性が働く。着ないなら買わないというまっとうな判断だ。買わない、すなわち売れない、ゆえに紳士服の店は軒並み大苦戦なのだが、諸々の逆風もさることながら、男性どもがスーツを厳しく合理的に評価するようになったのである。

食卓に着く愉しみ

🍽 16世紀フランスの「食卓では歳を取らない」という諺がある。長くても2時間の晩餐中に加齢を実感することはないと思うが、生命科学的もしくは生理化学的に厳密に見れば、たとえわずか2時間の内でも歳は取っているはず。ともあれ、歳を取ろうが取るまいが、食卓に着くのは愉しい。

🍽 雨の合間の暑い日に、さてランチに何を食べるかと少々思案し、ガツンとくる肉料理が思い浮かんだ。辛い四川風牛肉煮込みか、黒酢の酢豚か、羊肉炒めか。そうか、中華料理を欲しているらしい。メニューの多い中華料理店に入る。席に着いて少々悩み、羊肉のクミン炒めと小ライスを注文する。

羊肉と言えば、昔はマトン、今はほぼラム。食卓の「ぜん」に羊が潜み、羊には「えん」が隠れている。お勘定、¥1,400ほど。

🍽 希少食材のご馳走を自分一人で食べる場面が時々ある。誰にもお裾分けせずに食べると天罰が下るかもと思わないわけではないが、そんな恐れなどは独り占めという愉楽を微塵も揺るがさない。

🍽 「冷や酒、一合」と注文したら、店員に「カウンターのお客さま、冷やの小」と言い換えられた。人物も小さく扱われたような気がした。二合が大、一合が小と呼ぶならわし。二杯目はハイボールにした。

お通し:かわ和え
生もの:レバーとムネ身とずりの刺身盛り合わせ
焼き物:ハツ、もも、つくね、さんかく、手羽先、合鴨、うずら
揚げ物:もも軟骨の唐揚げ

地鶏焼き鳥のメニュー。焼き鳥屋は昼に営業していない。今、ぼくは夜に出歩かない。ずいぶんごぶさたしているが、続けているのだろうか。再訪できることを祈るばかり。

🍽 夏向きのパスタ「トンナレッリのカーチョ・エ・ペペ」

二人前を作る。手打ちパスタ160グラム、ペコリーノチーズ50グラム、粗挽き黒胡椒30グラム。いつものようにたっぷりの湯にひとつまの塩を入れてパスタを茹でる。トンナレッリはローマ伝統の手打ちパスタ。太めでコシが強い。材料の妥協案:ペコリーノは値が張るので、パルミジャーノの粉チーズで代用可。トンナレッリが手に入らなければ太めの乾麺で。

いろんな作り方があるが、一例は次の通り。

茹で上がったパスタを皿に盛り、熱々の茹で汁を大匙2杯まわしかける。チーズを振り、ダマができないように軽くすばやく和え、胡椒をたっぷり振りかける。完成。彩りが欲しくても、ハーブを添えたり厚切りベーコンを足したりしないこと。カーチョ・エ・ペペ、すなわち「チーズと胡椒(だけ)のパスタ」は素朴を食すもの。

日常の魅力

『日常の魅力』と題した直後に、「日常」を含むタイトルのブログをこれまでに何度か書いたのを思い出した。調べてみた。

『日常、あらたなり』(201610月)、『芸術家の日常』(20171月)、『日常の周辺』(20173月)、『日常について』(20182月)

日常ということばも現実も気に入っていて、読み返してみると、いずれの文章も日常礼賛の趣が強い。数年経った今も、大げさに言えば、二度と同じ日常はないと覚悟して愛おしんでいる。もしどこかでプロフィールを書くことになって、そこに趣味の欄があれば、読書や音楽鑑賞や散歩ではなく、迷わず「日常」と記してみようと思う。

ところで、先日、日常の本質を「日常論」として書いた本があれば読んでみようと思い、書店で検索したり背表紙を眺めたりしてみた。見当たらない。少なくともぼくには見つけられなかった。と言うわけで、論としての日常を自前で少し考えてみる。


日常は「普通」と関わる。日常的なこと・・もの・・は、普通によくあること・・やよく手にしたり見たりするもの・・である。また、日常は「行為」ともかかわる。習慣的に毎日繰り返され、勝手をよく知っているおこないである。

「非日常」に比べると派手さを欠くので、日常を哲学の対象にするとねた切れを起こしそうだし、深掘りも広がりも望みづらい。では、哲学用語集に日常という術語は収録されているか。手元にある数冊の用語集にあたってみたが、日常が見出しとして立てられている本は一冊もなかった。

日常の本質を概念的に捉えるのは容易でない。日常について考察していくと、日常生活を解体して要素に分けることにならざるをえない。たとえば日常的で普通の一日を朝、昼、夜に分け、食べる、働く、遊ぶなどの行動に分類するのが精一杯だ。そして、日常的に感じることを私小説風にとことん描写するにしても、日常の本質――日常とは何か?――に迫れそうな確信は持てない。

日常が少しでもあぶり出されたり浮き彫りにされるのは、非日常と対比される時に限られる。日常という「ケ」には非日常という「ハレ」が必要なのだ。こんなことはすでにわかっている。いろいろと思い巡らしたものの、またいつもと同じところにやって来たようだ。そうか、この道はいつか来た道と思うこの感覚がまさに日常的なのではないか。

散歩に出掛ける。カフェに入る。いつものようにコーヒーを注文し、本を読んだりノートを書いたりする。毎週繰り返されるぼくの日常の典型である。しかし、これが旅先のホテルを出てからの一連の行動になるとワクワクして非日常になる。ワクワクとは心が浮くことで、「いつもの」という感じがしない状態だ。この対極にある安心感、それが日常の魅力のようである。

語句の断章(29)自家製

「自家製」と言っても、作るものの要素の何から何までもが自家製であることは稀だ。一般家庭の自家製ポテトサラダの場合、ジャガイモ、ニンジン、タマネギ、それにマヨネーズはスーパーで買ってきているはず。自家製なのは、潰したり切ったりえたりする調理過程だけである。

使い慣れた自家製だが、その意味は? 『新明解国語辞典』には「自家」という見出しがあるのみ。「その人自身の家」と説いて「――・製」という例を示すにとどまる。これでは何だかわからない。『広辞苑』はどうか。自家製とは「自分の家で作ること、またそのもの」と書いてある。そんなことくらい、漢字を見たらわかるではないか。

「自分の家」で用意するものと他所よそから調達するものの割合によって自家製と呼べる・呼べないがあるのかどうか。その境界がよくわからないし、作る対象によって自家製と呼べたり呼べなかったりするような気がする。ポークのゼリー寄せという料理がある。豚を飼っていて屠畜して肉を使っていれば純粋に自家製だ。しかし、豚のスネ肉や足を買ってきて細かく刻んで自ら調理しているなら、それもれっきとした自家製である。

ポークのゼリー寄せ

自家製は「作る」という視点ではなく、「他所で出来上がったものをそのまま使っていない」という意味でとらえるのが正しい。うちの自家製ポテトサラダは業務用に売られているものを使っていない、うちの自家製ポークのゼリー寄せはデパートで買ったものではないという主張であり、少なくとも調理過程では自分の手で工夫しているということだ。

麵、スープ、焼き豚を自分で作っているのなら、自家製と呼んでもいい。しかし、ぼくが自宅で作るパスタ料理を自家製パスタと呼ぶには違和感がある。だから「家で作ったパスタ」でいい。買ってきたベーコンではなく、自分で燻製にしたベーコンを使っているのなら、自家製の燻製ベーコンと言えばいい。どうやら、自家製と相性がいいのは料理の要素であり、出来上がった料理そのものではなさそうだ。

だから自家製サラダは不自然に響く。「自家菜園で採れた野菜を使ったサラダ」と言えばいい。スーパーで買ってきた野菜に市販のドレッシングを使ったサラダは、たとえ手作りであっても自家製ではない。梅もリカーも買ったけれど、自分で漬ければ自家製梅酒。同じく、漬物も自家製と名乗ってよい。なお、器具や機械を使っても手作りと呼ぶことがある。もし手以外に何も使っていないことを強調したいのなら、たとえば「手ごねハンバーグ」である。

店じまいの戦術と現実

靴下を買おうと、店じまいと貼り紙してある肌着のディスカウントショップに入った。「店じまい」の文字を目にしてから数年が経つ。アパレルの卸売りや雑貨問屋が多い土地柄なので、閉店セールを年がら年中やっている店が少なくない。閉店と謳いながら閉店しない店ほど目立つ。

店頭で店じまいを通知するが、ほどなく無事に・・・閉店するのはごくわずか。ほとんどの店じまい宣言店は宣言後もずっと続く。これらの店では「店じまい」は「閉店しない」の同義語だ。「閉店を告げ、在庫一掃して安く売る」という恒常的な業態戦術である。これを閉店商法と言うが、万が一本当に閉まってしまうと逆に驚いたりする。

ギャグ①
「この閉店セール、いつまで?」
「うちが潰れるまでやりますよ」
ギャグ②
「閉店セール大好評につき、閉店は延期!」
ギャグ③
「お店、いつ閉めるの?」
「その時が来たらね」
ギャグ④
「毎週土曜日は閉店セール。年中無休」


本気で店じまいしようと安売りしたところ、話題になって客が殺到した。そんな日が毎日続いて、想定外の大きな利益が出た。閉店なんかしている場合ではない。こういう店は閉店を宣言したまま商売を続ける。「やめようと思ったし、今もそう思っているけれど、顧客満足優先です」。

冒頭のディスカウントショップでは、閉店セール中、レジカウンター内で社員がだいぶ先までの仕入れの話をしているのを聞いたことがある。やる気満々だ。

大阪に閉店セールで有名な店があった。何年どころではない。よく知る人によれば十数年ずっと「もうアカン!」という看板を掲げていたらしい。そしてついに閉店商法にピリオドが打たれ、正真正銘の店じまいの日がきた。大きなニュースになった。

コロナが蔓延して止みそうにない昨今、閉店商法はもはやギャグではなくなった。閉店セールの貼り紙は戦術ではなく現実なので、下手にいじることもできない。閉店商法華やかなりし日々は、ある意味でものがよく売れた平和な時代だったのである。