忘れ物と物忘れ

「忘れ物」をしてしまうのは注意が行き届いていない時である。忘れ物は、わざとすることはなく、たいていうっかり・・・・してやってしまう。必要な物を持たずに外出したり、傘を置き忘れて帰ってきたり。忘れるのは物だけではない。アポや予定などの「忘れ事」もある。

まったくぶれないルーチンを日々こなしていると、置き忘れ、持ち忘れ、やり忘れは少なくなる。たとえば、鍵をなくしたとかどこかに置き忘れたとかは、記憶力の問題ではない。その種のミスは、ルーチンから外れた行動をする時に生じやすくなる。たとえば、いつものバッグを別のバッグに替えるなど、普段と違うことをするとミスの原因になる。

創意工夫の人ほど新しいことにチャレンジするので、ミスのリスクもそれなりに背負うことになる。他方、ミスや忘れ物の少ない人はルーチン型であり、飽きずに同じ行動を繰り返せる人である。毎日同じルーチンをしているにもかかわらず、ミスや忘れ物をするようになったら要注意である。

先日、NHK-BSで『世界ふれあい街歩き』を見ていた。街歩きして話しかけたりナレーションしたりする女性の声がキムラ緑子だとわかり、顔も瞬時に浮かんだ。番組には「寄り道コーナー」があり、男性が担当している。いつも栃木弁の声を聞き分け、顔も名前もすっと浮かぶが、その日に限って名前が出てこない。番組が終わってからしばらくして、「つぶやきシロー」だと言えた。すぐに思い出したので「ど忘れ」である。

元々知らないことは忘れもできず思い出すこともできない。以前に知っていたし覚えてもいたものごとを思い出せないのを「物忘れ」という。昨日までふつうに再生できていたことが、ふと今だけ記憶からすぐに呼び戻せない。これが「ど忘れ」だ。次の日に思い出せたら気にすることはない。

顔は思い出せるが、名前が思い出せないというケースは年齢や疲れによって頻繁に起こってくる。顔がわかれば良しとしておけばいい。人名や店名や地名などは、思い出す時もあれば忘れる時もある。しかし、顔と名前の両方を忘れて「どちら様?」と聞くようになったら、単なるど忘れではなく、記憶機能の問題かもしれない。それを認知症という。

「偶察」をめぐって

 偶察ぐうさつ? 耳慣れないことばだなあ。観察と何が違うのか?

 「人々の暮らしを観察する」と言う時、客観的に見えるかどうかはさておき、観察とは、物事の状態や変化を注意深く見ることだろう。仏教では観察を「かんざつ」と読み、智慧によって対象を正しく見極めることを意味する。もっとも何が正しくて何が正しくないかはよくわからないが……。

 

これに対して、偶察とは、読んで字のごとく、「偶然に察知すること」。近年話題になっている「セレンディピティ」の超訳。偶然の産物とか、たまたま幸運を手に入れる能力とか……。観察を客観的または常識的だとすれば、偶察には常識の縛りやルールを排除する特徴がある。

 偶然頼みの観察のように聞こえるけれど、はたして確実性の低い偶然に期待していいものだろうか。

 澤泉重一が著した『偶然からモノを見つけだす能力――「セレンディピティ」の活かし方』から一節を紹介しよう。

「これまでにやったことがないからダメだ」という規制力は、自己の内部からも、他人からも、常時働いていると言ってよいが、偶然が強く作用するときには、この規制力が弱まることがある。こんなときこそ、セレンディピティが成果を上げるときであり(……)

 これまで気づかなかったことに気づく。見えなかったものが見えてくる。いや、見えざるを見ると言うべきか。透視術を身につけたわけではないのに、なぜ?

 セレンディピティは超能力ではない。いくら頑張っても見えないものはある。他方、わずかに見えているものから見えないものを見透かすこともできる。想像や仮想というのはそういう働きにほかならない。

馬の脚が4本だと知っているので、2本しか見えてなくても馬だとわかる。これも見えざるを見る。モノAとモノBを見ていて、そこにはない、これまで見たことのないモノCを発見する。これも見えざるを見る。後者が偶察で、新しい着眼につながる可能性を秘めている。

なお、未知のことを既知に照らし合わせて理解しようとする時、既存のパラダイムに縛られることになる。未知に遭遇するたびに既知の一部を自壊させるリスクを冒さないと、セレンディピティは生まれない。

 こうして聞いていると、何だか「万に一つ」のような話に思えてくる。いつでも誰にでも起こることじゃないよな。

 実を言うと、誰もが日々目新しいアイデアを生み出している。頭の中では無尽蔵に浮かんでいる。しかし、分別をわきまえた成人は、常識や不可能というフィルターをかけて「関係なさそうなもの」や「役立ちそういないもの」を無意識のうちに捨ててしまっている。セレンディピティの恩恵に浴するためには、常識的に見捨ててしかるべきことを見捨てずに残しておいて気にとめないといけないのだよ。

音声か、文字か?


部下「部長、東京から鈴木専務が午後に来られるそうです」
部長「いつわかったんだ?」
部下「昨日の夕方です」
部長「なぜもっと早く言わないんだ⁉」
部下「部長、東京から鈴木専務が午後に来られるそうです

上記のやりとりはジョークだ。しかし、文字面を見るだけではジョークだとわからない。文字ではこのおもしろさを仕込めないのである。

「なぜもっと早く言わないんだ⁉」と注意された部下は、「早く」を話すスピードと勘違いし、最初に告げた「部長、東京から鈴木専務が午後に来られるそうです」を、今度は早口で繰り返した。文字では下線部のせりふを早口で言ったことまで表現できない。

「ほら、やっぱりね。文字で表わせることには限界があるんだ。ぼくたちは生まれた時から、ことばをまず音声として聞き、そして音声を真似て発話する。文字はもっと先になってから学習する。つまり、音声あっての文字なんだ。落語を文字で読んでもおかしくも何ともない」……こんなことを言う人もいる。

なるほど……と思わないわけではないが、音声が文字よりも優位ということにはならない。昔の回覧板も今の電子メールも、メッセージは文字で伝えられる。留守電というのもあるが、聞きづらいし聞き間違いもよくある。音声だと「今週と今秋」の違いが出せない。精度を期するなら文字なのだ。

やっぱり文字を優先すべきなのか。いやいや、そうではない。タイトルを「音声か、文字か?」という二者択一で書いたが、ことばの伝達精度を高めようとすれば、「音声も文字も」と欲張らねばならない(もし可能なら、ここに絵や写真も加えたい)。

音声と文字で伝えてもらって腑に落ちる。但し、声に出しても文字で読んでも仕掛けがすっとわかるとはかぎらないこともある。仕掛けがわかっておもしろいと感じたものの不思議な異化感覚に包まれることもある。次の「段駄羅だんだら遊び」などはその典型である。

抜き書き録〈テーマ:プチ哲学〉

言語と表現のテーマ探しの依頼があり、いろいろ自前でネタを出している。一息ついて、ヒントのヒントくらいになりそうな本を何冊か引っ張り出して再読中。


📖 意味

意味は存在するものではなく、生成するもの(……) 意味は、客観的に存在していたものとして捕まえられるのではなく、不意を突いてわたしの世界に到来する。わたしが意味を見出すまでは、意味はどこにもなかったのに、見出したあとでは、それによってわたしの過去までも変えられてしまうほどである。
(船木亨『メルロ=ポンティ入門」)

「意味」は難しい用語である。「意味の意味」はさらに難解を極める。「意味がある・・」とよく言うけれど、意味は事態や術語や行為などに元々内在していない。内在していないから、事態や術語や行為などに意味を見出す(正確に言えば、「意味を付与する」)。ゆえに、意味は生成するものなのである。

買ったまま昨日まで積まれていた数冊の本のうち、一冊の本を手に取って適当なページの数行を読んでみて、「ちょっとおもしろそうだ」と自分を促そうとしたその時その場で意味が付与される。意味が生まれるかどうかは自分次第なのだから、意味を見出さない誰かさんにとってはその本は無用なのである。

📖 言語

「机」という言葉は、この世界にある、数えきれないたくさんの机を意味している。けれども、「机」の意味を理解するのに、そんなにたくさんの「机」を見る必要はない。私たちは有限個の、それも、ごくわずかの机を見るだけで十分なのだ。
(橋爪大三郎『はじめての言語ゲーム」)

世の中には様々なサイズとデザインと素材でできた机が存在する。机の専門家はおそらく世界のすべての机を見たり触れたりはしていない。机についてすべてを枚挙するいとまはない。しかし彼らは机を深く理解し、机を語り、机を創作することができる。有限個がいくつかは具体的に言えないけれど、いくつかの机によってすべての机に共通する特性を理解する能力が人には備わっている。

赤ん坊は語彙ゼロの状態から語彙を習得し、言語を理解し操るようになる。こうした「一を聞いて十を知る」特殊能力によって人は省エネ的に言語を習得し、言語のお陰で何もかも実際に体験しなくても理解力を身につける。

📖 論理

言葉と言葉の関係をつかむこと、それが論理的ということであるから、接続詞に代表される接続表現、すなわち言葉と言葉をつなぐ言葉は、論理によってひときわだいじなものとなる。
(野矢茂樹『哲学な日々――考えさせない時代に抗して』)

単語であれ文章であれ、一語または一文だけで成り立つ場合はそこに論理はない。たとえば、「雨」「桜」には論理はない。しかし、「雨の中、桜が咲き誇っている」と言えば、状況描写がおこなわれ、また「雨が降っても桜まつりは開催される」と言えば、情報が伝達される。この一文と別の一文をどうつなぐか。そのつなぎ方によってメッセージの中身も伝わり方も変わる。たとえば、「雨が降っても桜まつりは開催されるので、購入した前売りチケットの払い戻しはない」という具合。これは「AなのでB」という、論理のある文章である。接続詞の使い方を見れば、人の考え方や論理力の程度がわかることがある。

語句の断章(52)「もんがまえ」

構える格好をした漢字がある。たとえば門や口や包がそうだ。何かに反応したり備えたりして身構えているのではなく、それぞれ「もんがまえ」、「くにがまえ」、「つつみがまえ」という部首として漢字を構成している。住居の実際の門構えの意であり、部首の名称である「もんがまえ」が象形文字としてわかりやすい。

もんがまえの漢字はJIS1・2水準で64字あり、言うまでもなく、すべての漢字が「門」のDNAを引き継いでいる。最たるものが「開ける」と「閉める」だ。門あるところ、必ず開閉が伴う。開の「开」はケンまたはカイと音読みし、両手で門をあける様子だという。では、閉じるの「才」は? 突っ張り棒の斜め使いと直感したが、特に意味はなく、何となく門に才を合わせただけらしい。

もんがまえの漢字でユニークなのが「閃」。門の中に人がいて「ひらめき」とはこれいかに。実は、ちらっと見えたかと思うと隠れて見えなくなる様子。ずっと見えているのではなく、ちらっと見えるから一瞬ピピっとひらめくような感じがする。

「閑」はカン。「しずか」や「ひま」と訓読みする。門の中に木を配置しているが、木が門の前にあって門を遮っている状況という解釈がある。この場合は、「しきり」という成り立ちになるとか。

象形文字としておもしろいのが「閂」。「かんぬき」と訓読みする。門という字は見ての通り両開きの構造になっている。左右の扉が勝手に開かないように、一本の横木を通す。閂はその様子をよく示している。

もんがまえの64の漢字をすべてチェックして、「もんもんとする」の「悶」がないことに気づく。悶はもんがまえではなく、心を部首とした「りっしんべん」だと知る。ついでに補足すると、「問」も「聞」も門越しに誰かが問い誰かが聞いている雰囲気があるが、どちらももんがまえではない。問は「くちへん」で、聞は「みみへん」である。

パスワード人生

♫ 人生いろいろ ユーザー名もいろいろ パスワードだっていろいろ 咲き乱れるの

サービスを利用するたびにユーザー名とパスワードでログインする。認証されればサービスが受けられる。とても面倒くさく思えるが、自分の家に入る際にも「鍵で解錠ログイン」し、出掛ける時は「鍵で施錠ログアウト」する。あれと同じことだ。問題は鍵に相当するパスワードがどんどん増えて忘れてしまうこと。忘れないように手帳に書き留めたりすると、パスワードの漏洩リスクが高まる。覚えるのがいいが、忘れにくい単純なパスワードを使い回すことになる。

パスワードとは合言葉。自分とサービスの提供先との間であらかじめ取り決めた文字・数字の組み合わせだ。サービスの提供先に行くために、まずスマホやPCなどの情報機器を操らねばならない。情報機器へのログイン時に入力する合言葉が、事前に登録したものと一致すればサービスを受けることができる。ぼくは大丈夫だが、四苦八苦している知り合いのシニアユーザーは少なくない。

英語の“password”も秘密の単語やフレーズだが、機密情報にアクセスするのが本来の目的である。さらに語源を遡れば、味方と敵を識別するためにあらかじめ定めた暗号に行き着く。一方の忍者が「山」と問い、他方が「川」と答えれば味方だとわかり、近づけたり門を開けてくれたりする、あれがまさに昔のパスワード認証だった。パスワードにもパスポートにも入っている“pass”は通行許可の意味。

ホテルのチェックイン時に「ご宿泊のお客様限定の割引券」をもらった。券面には「パスワード・・・・・でお食事されたお客様にお飲み物をサービス致します」と書いてある。入店時か支払時にパスワードを入力すればサービスが受けられるのか。割引券をよく見、電話や電源のそば、部屋のあちこちを探したが、パスワードらしきものは見当たらなかった。「ま、いいか」と諦めて1階の食事処へ行けば、店の名が『パスワード』だった。実話である。

パスワードは、自分で作ったものであれ自動的に生成されたものであれ、完璧に記憶したつもりが、しばらくすると忘れてしまい、紙に書いても紙を紛失してしまう。リスクを低くするためにサービスごとにパスワードを変えるから、日に日に増えていく。パスワード人生はストレスが溜まる。

ワインに関するモノローグ(後編)

🍷 ワインそのものへの関心よりも、料理とワインの相性への関心のほうが強い。ワインを飲むのは少量で決して痛飲しない。ワインの本を読んで知識を仕入れると、ワイン専門店やデパートのワイン売場に行き、試飲してソムリエの話を聞く。3種くらい試飲すると、よほど口に合わないかぎり、お礼の意味で1本買う。

🍷 『ヨーロッパワイン美食道中』という本に次のくだりがある。

「味覚的に合うということは、いったいどういうことなのだろうか。いまある料理を一口食べて噛みながら、口の中にワインを含んで混ぜてみる。よく合ったときは大変おいしく、料理もワインも一段とうまく感じ、食欲も増進してくるだろう。」

この本はワインの適温に応じた冷旨系、中間系、温旨系の分類についても言及している。ワインと料理のペアリングよりも、ワインの個性に応じた適温を整えるほうが難しい。ワインの保存に関してはこれまで無頓着で、自宅の冷暗所に置きっ放し。冷暗所と言っても夏場は30℃を越える。専門家の話を総合して、遅まきながらワインセラーが必需品だと気づき、今年の夏場に備えて検討しているところだ。

🍷 以前はワインショップからアウトレットセールの案内が届くたびに覗きに行った。訳ありワインが所狭しと並べられ、たとえば定価1万円の訳ありワインが4,000円程で売られる。訳ありのほとんどが汚れや剥がれなどのラベルの瑕疵かしであって、ワイン自体に問題はない。ある日「これは絶対お買い得!」と勧められたのがブルゴーニュのピノノワール種の格上。フランス語で「エチケット」と呼ばれるラベルには次の情報が記されている。

2011 HarmandアルマンGeoffroyジョフロワ
GevreyジュヴレChambertinシャンベルタン 1er CRUプルミエクリュ LA BOSSIEREラボシエール monopoleモノポール
(ヴィンテージ2011年
、生産者アルマンジョフロワ、ジュヴレシャンベルタン村1級畑ラボシエール専売)

ソムリエによれば定価はたしか12,000円。それを60%OFFで買い、飲み頃はもっと先と考えて7年間置いていた。ワインセラーがないから、ほとんど適温コントロールをせずに猛暑の夏を7回過ごした。著しく劣化して死んだも同然かもしれない。先週、手遅れだと承知の上で冷蔵庫の野菜室に入れ、翌日に常温に戻して抜栓した。コルクの傷みなし。香りに異変なし。ピノノワールなのに重厚で微かな甘さと酸がほどよく調和している。三夜連続グラス1杯飲んだ。二日目と三日目は味変して旨味も増したような気がする。この味は熟成が進んだものなのか、やっぱり温度の影響を受けて本来の味でなくなっているのか……状態のいいものと比較するすべはない。比較するなら同じものをもう1本買い求めるしかない。

🍷 2011年ヴィンテージが日本のサイトでは出てこない。どうやら希少になっているらしい。さらに調べたが2011年がなかなかヒットしない。しばらくしてフランス人評論家のサイトでやっと見つけた。現在の価格も記されていた。数字を見て驚いた。な、なんと59,759円! 国内サイトでは2018年ヴィンテージで15,000円くらいなので、何かの間違いかもしれない。いや、きっと間違いだろう。しかし、たとえ間違いだとしても、この金額を一度見てしまうと「ワインは変わる」。ワインとは、瓶からグラスに注いで香りと味を愉しむものだけにあらず、同時に観念であり相場でもある。

ワインに関するモノローグ(前編)

🍷 饒舌に蘊蓄を傾けるワインの愛好者たちがよく槍玉に上がる。「美味しいものを知識や情報でとらえるな」という見解ゆえの批判もある。そもそも何かを嗜んだり何かに凝ったりすると、程度の差こそあれ「オタク化」する。ラーメンやサッカーや鉄道に詳しいアマチュアは批判されないが、ワインになると冷たい目で見られる。俗物スノッブだと見られてしまうのかもしれない。

🍷 ワインの名前、ブドウの品種、香りと味、シャトーやヴィンテージなどのワイン特有の用語が「ウザい」? もしそうならば、焼肉の肉の部位も焼き方も、神戸牛だの松阪牛だの佐賀牛だのという名称も同じことではないか。焼肉なら少しはわかるが、ワインはほとんどわからない向きが、焼肉の蘊蓄なら許容できるが、ワインの蘊蓄に対して偏見を持つだけの話だと思われる。

🍷 店で出される肉料理にどんな肉が使われてどのように調理されたか、値段がいくらかはせめて知っておきたい。「この肉は?」「さあ」というやり取りだけでは肉を口に運べない。名称と食材と値段不明の料理を食べるには勇気がいるのだ。そして、料理の名称と食材と値段の情報を知りたいという延長線上で蘊蓄を傾ける習慣が少しずつ身についていく。ワインは知識があるほうが愉しみが深まり、料理が美味しくなるという実感がある。

🍷 最近嗜み始めたと聞き、ワインを見つくろって弟に12本送った。弟夫婦は毎晩2人で缶ビール78本と焼酎を飲んでいるが、それを維持したままでワインも11本ペースで空ける酒豪である。自宅に送った12本は20日ほどで飲み干し、その後は自分でもいろいろと勉強して、ボルドーのメドックだのチリのカベルネ・ソーヴィニヨンだのと言い、ぼくよりも先にワインセラーを備えるようになった。

🍷 酒は弱くもなく強くもなく、毎日飲むわけでもないが、わが家にはかなりの本数のワイン、焼酎、ウイスキー、日本酒が揃っている。料理に合わせて適量をいただく。特に、ワインは週に23日程度でグラス2杯まで。いろんな種類のワインを飲みたい口なので、買うペースに消費が追いつかず、増えるばかり。オフィスを借りているテナントビルの1階にイタリアワイン専門のショップが10年前にできてからは、毎月5本ペースで買うようになり、数年後には自宅とオフィスで合計30本ほど蓄えていた。

🍷 アルコールと料理は発酵や醸造に深く関わる化学ケミストリーだと思う。ワインも化学の賜物だ。香りも味覚も成分もどれもがそう。加えて、温度、湿度、色、グラスなどの理系的要素と関わる。何も知らないまま単なるアルコールの一種と思っていた頃に比べたら少しはわかるようになった。高校時代に苦手だった化学のお陰である。

〈後編に続く〉

乗合エレベーター

路線バスとは言うが、同じ意味の「乗合のりあいバス」はほとんど耳にしなくなった。路線バスには不特定多数の人たちが乗り合わせるのが当たり前。たまたま自分一人ということはあるが、団体貸切でないかぎり、いずれどこかのバス停で誰かが乗ってくる。そのことを承知しているから、わざわざ乗合バスと言わなくてもいい。

丁寧に言うのなら、エレベーターも「乗合エレベーター」である。たまたま独占状態で昇降することがあっても、それは貸切を意味しない。途中で乗ってくる人を拒否することはできない。バスと同様に、エレベーターではつねに誰かと乗り合わせることを承知している。

エレベーターの語源を知ったら、エレベーターが元の意味とかけ離れていることがわかる。英語の“elevator”は動詞“elevate”から派生したが、持ち上げるとか高めるという意味。「上がると昇る」ということであって、「下ると降りる」という意味はない。素直に原義に従えば、エレベーターは昇りっぱなしの装置ということだ。

現在、マンションの8階に住んでいて、引きこもり症候群とは無縁なので毎日外出する。バスや車や電車や地下鉄に乗らない日があっても、外出するかぎりエレベーターで乗り降りする。以前5階に住んでいた時は、もっと若かったし、非常階段も使うことが多かったが、今はエレベーターがないと困る。オフィスは5階。朝の出社時はほぼエレベーターを使う。

昨日の朝の出社時のことである。オフィスビルに入ったぼくを見て、7メートル向こうにあるエレベーターに乗った人が、閉じかけたドアをわざわざ開いて待ってくれていた。親切なお節介である。エレベータ―に乗る前に郵便受けをチェックしたいし、パネルでセキュリティを解除しないといけない。開くボタンを押して待たれると焦るのだ。そこで、「どうぞお構いなく。先に行ってください」と告げることになる。この一件はエレベーターが「乗合エレベーター」であることを示している。

エレベータ―は「有事的な移動手段」と見なされている。何人かが乗り合わせるボートと同じで、協調性を欠いてはいけない「乗物」である。男女がいる時、ボートに女性を先に乗せてはいけない。男性が先に揺れているボートに乗り込んで、安全を確かめてから女性が続く。降りる時は先に女性が降りる。エレベーターのマナーも同じ。降りる時はレディファーストだが、乗る時は男性が先なのである。

お値段以上の珍味佳肴

なかなか口に入らない食材や料理と旨いさかなのご馳走をどう言えばいいか。数年前まで、勉強会の後に自炊する食事会を「美食倶楽部」と呼んでいた。美食には贅沢感が強く出るので、そう呼びながらもしっくりきていなかった。耳慣れないが、四字熟語の珍味佳肴ちんみかこう」がぴったりの表現だと知り、気に入っている。

グルメや絶品を強調しなくてもいい。また、料理に高級食材を使う必要もない。おいしいご馳走は人それぞれだが、「安くておいしい」がご馳走の基本だと思っている。そもそも料理単品の力で舌鼓が打てるわけではない。季節感や旬の素材や酒とペアリングしてこそ食は愉しさを増す。今年2月にいただいた秀逸コスパの料理をまとめてみた。


🥢 牡蠣フライの「かつとじ」

牡蠣フライはマヨネーズかタルタルソースで食べるのが相場だが、親子丼のアタマ・・・のようにとじると別の料理になる。ご飯に乗せず、ご飯と別のかつとじがいい。これが主菜の750円の定食で、他に具だくさんの味噌汁・小鉢2品・ライスが付く

🥢 鮪のカマ焼き

鮪は頭部がうまい。頬肉、目玉、脳天、カマにはそれぞれ独特の食感がある。夕方に値引きシールが貼られて250円になったカマを焼いてみた。まるで牛カルビの焼肉だ。珍味と言うにはありふれた部位だが、ステーキに見立てて焼けば赤ワインに合う佳肴になる。

🤌 有頭エビの串揚げ

頭が有ると無しではエビはかなり違って見える。頭のないのは食べやすいが旨味が物足りない。頭に旨味のほとんどがあるエビは有頭で料理してこそ値打ちがある。そして頭も丸かじりする。やや大ぶりの有頭エビの串揚げ、 1350円。オプションでアスパラガスを添える。

🤌 鯛皮の素揚げ(鯛皮せんべい)

鯛皮のにぎりはポン酢を垂らしてよく食べるが、この素揚げは二度目の珍味である。左手にはハイボール、右手の親指と人差し指で鯛皮をつまむ。薄塩の味付け。ウロコ取りがあるので自分で調理するのは大変だが、店なら300円で食べられる。

🍴 牛肉スジとキノコのトマトソースパスタ

牛肉のスジをやわらかく煮込み、大きめにゴロゴロっと盛り付ける。サラダとパンとエスプレッソが付いて950円。牛ミンチのボロネーゼに比べて遜色なく、むしろ野性味と迫力で上回る。

🥢 播州百日どりの肝と心臓のコンフィ

ブロイラーの倍近くの日数をかけて育てるだけあって内臓は濃厚な味わい。オリーブオイルでほどよく低温加熱してオイル漬けしたまま保存する。濃厚で重い赤ワインが合う。これも400円くらいで出してくれる。調理が簡単なので、新鮮な肝と心臓が手に入れば自炊可能。

🥢 数の子のくずれ・・・とワカメの和え物

カステラの端っこ、黒毛和牛の切り落としに存在意義があるように、数の子のくずれにも出番がある。いや、くずれていない数の子には向いていない。無理にくずしたのではなく、取り扱い中にくずれたものがこの料理に抜擢される。たっぷり盛って450円。