乗合エレベーター

路線バスとは言うが、同じ意味の「乗合のりあいバス」はほとんど耳にしなくなった。路線バスには不特定多数の人たちが乗り合わせるのが当たり前。たまたま自分一人ということはあるが、団体貸切でないかぎり、いずれどこかのバス停で誰かが乗ってくる。そのことを承知しているから、わざわざ乗合バスと言わなくてもいい。

丁寧に言うのなら、エレベーターも「乗合エレベーター」である。たまたま独占状態で昇降することがあっても、それは貸切を意味しない。途中で乗ってくる人を拒否することはできない。バスと同様に、エレベーターではつねに誰かと乗り合わせることを承知している。

エレベーターの語源を知ったら、エレベーターが元の意味とかけ離れていることがわかる。英語の“elevator”は動詞“elevate”から派生したが、持ち上げるとか高めるという意味。「上がると昇る」ということであって、「下ると降りる」という意味はない。素直に原義に従えば、エレベーターは昇りっぱなしの装置ということだ。

現在、マンションの8階に住んでいて、引きこもり症候群とは無縁なので毎日外出する。バスや車や電車や地下鉄に乗らない日があっても、外出するかぎりエレベーターで乗り降りする。以前5階に住んでいた時は、もっと若かったし、非常階段も使うことが多かったが、今はエレベーターがないと困る。オフィスは5階。朝の出社時はほぼエレベーターを使う。

昨日の朝の出社時のことである。オフィスビルに入ったぼくを見て、7メートル向こうにあるエレベーターに乗った人が、閉じかけたドアをわざわざ開いて待ってくれていた。親切なお節介である。エレベータ―に乗る前に郵便受けをチェックしたいし、パネルでセキュリティを解除しないといけない。開くボタンを押して待たれると焦るのだ。そこで、「どうぞお構いなく。先に行ってください」と告げることになる。この一件はエレベーターが「乗合エレベーター」であることを示している。

エレベータ―は「有事的な移動手段」と見なされている。何人かが乗り合わせるボートと同じで、協調性を欠いてはいけない「乗物」である。男女がいる時、ボートに女性を先に乗せてはいけない。男性が先に揺れているボートに乗り込んで、安全を確かめてから女性が続く。降りる時は先に女性が降りる。エレベーターのマナーも同じ。降りる時はレディファーストだが、乗る時は男性が先なのである。

お値段以上の珍味佳肴

なかなか口に入らない食材や料理と旨いさかなのご馳走をどう言えばいいか。数年前まで、勉強会の後に自炊する食事会を「美食倶楽部」と呼んでいた。美食には贅沢感が強く出るので、そう呼びながらもしっくりきていなかった。耳慣れないが、四字熟語の珍味佳肴ちんみかこう」がぴったりの表現だと知り、気に入っている。

グルメや絶品を強調しなくてもいい。また、料理に高級食材を使う必要もない。おいしいご馳走は人それぞれだが、「安くておいしい」がご馳走の基本だと思っている。そもそも料理単品の力で舌鼓が打てるわけではない。季節感や旬の素材や酒とペアリングしてこそ食は愉しさを増す。今年2月にいただいた秀逸コスパの料理をまとめてみた。


🥢 牡蠣フライの「かつとじ」

牡蠣フライはマヨネーズかタルタルソースで食べるのが相場だが、親子丼のアタマ・・・のようにとじると別の料理になる。ご飯に乗せず、ご飯と別のかつとじがいい。これが主菜の750円の定食で、他に具だくさんの味噌汁・小鉢2品・ライスが付く

🥢 鮪のカマ焼き

鮪は頭部がうまい。頬肉、目玉、脳天、カマにはそれぞれ独特の食感がある。夕方に値引きシールが貼られて250円になったカマを焼いてみた。まるで牛カルビの焼肉だ。珍味と言うにはありふれた部位だが、ステーキに見立てて焼けば赤ワインに合う佳肴になる。

🤌 有頭エビの串揚げ

頭が有ると無しではエビはかなり違って見える。頭のないのは食べやすいが旨味が物足りない。頭に旨味のほとんどがあるエビは有頭で料理してこそ値打ちがある。そして頭も丸かじりする。やや大ぶりの有頭エビの串揚げ、 1350円。オプションでアスパラガスを添える。

🤌 鯛皮の素揚げ(鯛皮せんべい)

鯛皮のにぎりはポン酢を垂らしてよく食べるが、この素揚げは二度目の珍味である。左手にはハイボール、右手の親指と人差し指で鯛皮をつまむ。薄塩の味付け。ウロコ取りがあるので自分で調理するのは大変だが、店なら300円くらいで食べられる。

🍴 牛肉スジとキノコのトマトソースパスタ

牛肉のスジをやわらかく煮込み、大きめにゴロゴロっと盛り付ける。サラダとパンとエスプレッソが付いて950円。牛ミンチのボロネーゼに比べて遜色なく、むしろ野性味と迫力で上回る。

🥢 播州百日どりの肝と心臓のコンフィ

ブロイラーの倍近くの日数をかけて育てるだけあって内臓は濃厚な味わい。オリーブオイルでほどよく低温加熱してオイル漬けしたまま保存する。濃厚で重い赤ワインが合う。これも400円くらいで出してくれる。調理が簡単なので、新鮮な肝と心臓が手に入れば自炊可能。

🥢 数の子のくずれ・・・とワカメの和え物

カステラの端っこ、黒毛和牛の切り落としに存在意義があるように、数の子のくずれにも出番がある。いや、くずれていない数の子には向いていない。無理にくずしたのではなく、取り扱い中にくずれたものがこの料理に抜擢される。たっぷり盛って450円。

雑談ノート

雑談中に降って湧いたような話はたいていすぐに忘れるが、稀にしっかりと記憶に残るものがある。記憶に残るから意味のある話とはかぎらず、とりとめのないよもやま話だったりする。しかし、記憶に残ることを評価して、その種の雑話は一応ノートに書いておく。備忘のつもりはまったくないが、わざわざ書いておくから余計記憶に残る。


🖊 『孤独のグルメ』で井之頭五郎が料理を口に運ぶ。実にうまそうな顔をしてつぶやく。

「おお、こうきたか……」

一口目でしか使えない心の内のつぶやき。こうきたかが「どうきたか」は人に伝わらないが、これこそがつぶやきの理想だ。一度これを使うと、「うまい」や「おいしい」では物足りなくなる。

🖊 知り合いの名前を並べて、変な人だと思う人に✔の印を入れていくと、ほとんど全員にマークがついてしまった。変でない人は近くに――そしてたぶん――知らない世界にもいないのだと思う。「みんなちがって、みんないい」に倣えば「みんな変な人で、みんないい」。

🖊 モノでも料理でも絵でもいい。ABを並べたり近づけたりして、目に見えない両者の関係性を位置で示す。一方、見た目の色で単純に合わせることもある(近い色で合わせたり、近くはないがバランスの良さで合わせたり)。意味合わせと色合わせ(または)配置と配色。

🖊 ある県のアンテナショップを時々覗く。店内のカウンターで地酒の飲み比べができる。ビールが売りのパブではクラフトビールの飲み比べ、ワインショップやデパートではワインの試飲比べができる。ぼくと同い年だった知人は、医者の処方するまま、まるで薬の飲み比べをしているようだった。1日に78種類、全部で10数錠を服用すると聞いて驚いた。その甲斐もなく数年前に亡くなったが、病気のせいか薬のせいかはわからない。

抜き書き録〈テーマ:料理〉

週末にシニアの食事に関するコラムの第一稿を書いた。統計データを少し参照した程度で、参考図書のない書き下ろしである。書き終えた後に、本棚に目配りして食事と料理の本を取り出して拾い読み。参考図書を読んで書くのは面倒だが、書いてから読むのは気楽だ。


📖 『イスタンブールの目』(新藤悦子)

中国料理、フランス料理、そしてトルコ料理が世界3大料理ということになっている。トルコ料理を賞味したことがない日本人なら「トルコ料理? 日本料理だろ!」と異を唱えかねない。ぼくは、トルコ料理は3度くらいしか食べていないし名前を覚えているのはシシケバブだけ。よく知らないからこそ異を唱えるのは控える。さて、そのシシケバブ。

「夫がいて子どもがいて、海があって静けさがあって、暖炉でシシケバブを焼く冬の夜がある。

情景が浮かんでくる。シシケバブが男の担当する野趣あふれる料理だと知って、この一文の意味が深くなる。「♪ おいでイスタンブール」などと口ずさむことなく、東西文明の十字路トルコを想う。

📖 食悦奇譚しょくえつきたん――東西味の五千年』(塚田孝雄)

節度ある食生活の重要性を説いた江戸期の儒学者、貝原益軒。『養生訓』では肉食を慎めと説教しているのに、本人はイノシシ、豚、鶏などの肉グルメだった。医者の不養生に通じるライフスタイルだ。

「節制しながらも老いてなお、益軒の食い意地は衰えなかったようである。晩年の『忘備録』には“うまいものリスト”が細かく書き込まれている。」

うまいものを貪るのは健康的ではないという見方は今も根強いが、肉への偏見はかなり薄れてきた。益軒が今の時代に養生訓を垂れたら、内容はかなり変わっているはずである。

📖 『パスタ万歳!」(マルコ・モリナーリ編/菅野麻子訳)

ある作家の話――。マリリン・モンローの自宅にいた時、「ね、パスタでも作りましょうよ」とマリリンが言い出した。アメリカ人の作るパスタなんてまずいに違いないと作家は直感したが、食べて驚いた。彼女の作ったパスタはアルデンテの絶品だったのである。

「私の一番最初の旦那がイタリア人だったの知ってたかしら。ジョー・ディマジオよ。イタリア人の夫が世界一だとはとても言いがたいけど、少なくともおいしいパスタの作り方ぐらいは教えてくれるわね。」

ジョー・ディマジオはシチリア出身のイタリア系移民の息子で、ヤンキースに所属した一流のメジャーリーガー。それはともかく、パスタ料理はソースづくりも含めておおむね簡単なのに、茹で方と塩加減、火加減と和え方で出来映えとうまさに差が出る。レシピで料理を作るよりもプロの調理の動画を見るほうがいいことをYouTubeに学び、ぼくの作るパスタは各段においしくなった。まずはパスタを茹でる深い大鍋が必需品である。

さて、もう1冊、ヨーロッパワインをテーマにした美食の本を読んだが、専門的すぎた。ここに軽やかに抜き書きできる内容ではない。またの機会に取り上げることにする。

語句の断章(51)「けれん」

若い頃、初見の「外連」が読めなかった。ソ連の別名に見えた。調べて、これがあの「けれん」だと知る。外連は借字しゃくじなので読めなくてもしかたがないが、そもそも意味がわかっていなかった。

浪花節や義太夫由来としてある辞書が多いが、最初に調べた本では俗受けをねらう歌舞伎の演技というふうに書かれていた。先日Googleで検索していたら、たまたま英語版のWikipediaに導かれた。

Keren are stagecraft tricks used in Japanese kabuki theater, making use of trapdoors, revolving stages,  and other equipment.

「けれんは日本の歌舞伎で使う舞台の仕掛けで、落とし戸や回り舞台などの装置や道具のこと」と書いてある。日本人が日本人向けに説明するよりもわかりやすい。大向こうを唸らせる、派手なトリックや奇抜な演技もけれん。鳥類では孔雀がけれん使いの筆頭だろう。

けれんは舞台の受けねらいから離れて一般化し、今では転じて「はったり」や「ごまかし」の意味で使われることが多い。「けれん」だけをポツンと使うことはあまりなく、ふつうは「けれんみ」か「けれんみがない」が一般的な用法だ。

打ち消しの語感のせいか、「けれんみがない」と評されると、あまり褒められた気分にならない。しかし、「あなたの話し方や書かれる文章はけれんみがない」は正しい用法の一例。こう言われたら、褒められているのである。

比較してわかること

モノの大小、味覚の甘辛、価値の重要度、色の違いなどは、二つ以上のモノ、味、価値、色をそれぞれ比較して違いや度合がわかる。大きな樹木と言えるためには小さな樹木を対置させる必要があり、コーヒーの味なども飲み比べしてこそわかるもの。大雑把に甘いと言うだけではわからない。甘さにも度合があり、その度合を知るには別の甘さとの対比がいる。


🍷  自宅で一人でワインの飲み比べをしようと思うと、数本のボトルを用意して抜栓しなければならない。出費もバカにならないし、賞味や保管の問題もある。と言うわけで、たいてい1本が空になるまで23日かけて少しずつ飲み、空になってから翌日以降に別の1本を開ける。日が変わるからこれでは飲み比べにならない。と言うわけで、ワインショップのフェアやデパートの試飲コーナーを利用する。週に1本1種ペースで飲むよりも、1日数種少量を飲むほうがワインの香りや味がわかる。

🌎  GDP比較で日本がドイツに抜かれて3位から4位に転落した。あちこちからガッカリ感が伝わってくる。順位で言うなら、卓球の男子チームの世界ランキングは20242月現在、1位中国、2位ドイツ、3位日本で、こちらもドイツに負けている。ぼくはGDPで抜かれたことよりも、卓球でドイツが上だと知って驚いた。GDPのような雲をつかむような概念に一喜一憂するよりも、もっと残念がるべきことがいろいろあるはずだ。

🗝️  1年とちょっと前、ある寺で「びんずる」の像を見た。その時、この機会にと思って漢字の「賓頭盧」もしっかり覚えた。先日、ハルカス美術館で開催中の『円空』で、円空自身が彫った「びんずる」を見た。漢字はすっかり忘れていた。「あ~あ」と嘆きそうになったが、1週間前に設定したパスワードを今忘れていることに比べれば、別に大したことではない。

📈  職場も自宅も大阪市中央区。1989年に東区と南区が合併して中央区になった。当時の東区で起業したのがその2年前の1987年。その当時の東区と南区の人口を合算すると61,589人である。中央区になってから一番人口が減ったのが、阪神淡路大震災の1995年で、52,874人。都会とは思えないほどの減少ぶりだ。
2006年に職住接近を望んで自宅も中央区に移した。当時の人口は69,284人。大阪市24区の中ではかなり少ない。最新の状況はどうか。
2024年(つまり今年)の21日現在の数字を見て驚く。なんと114,483人で、24区の中では「中堅」になった。人口の推移を見てあの年この年を比較していると、いろいろと見えてくるし思い出す。ワインのビンテージ(製造年)の飲み比べに似てなくもない。

食べ物考――好奇心と奇食

ローカルな食材が世界を巡る時代になって久しい。たいていの食べたいものは手に入るようになり、居ながらにして世界の美食や珍味を堪能できる。もし国内で手に入らないなら、懐に余裕がある向きはご当地へ赴いてお目当ての好物にありつけばいい。

人間はどのようにしてある特定の食材を常食し、やがて嗜好するようになったのか……。和辻哲郎はその著『風土』で次のように書いている。

人間は獣肉と魚肉のいずれを欲するかにしたがって牧畜か漁業のいずれかを選んだというわけではない。風土的に牧畜か漁業かが決定されているゆえに、獣肉か魚肉かが欲せられるに至ったのである。同様に菜食か肉食かを決定したのもまた菜食主義者に見られるようなイデオロギーではなくて風土である。

大昔はこの通りだった。世界を見渡せば、今も一部の集落において和辻の指摘する風土の影響を強く受けて生きる種族がある。彼らは通販やふるさと納税を利用して遠方から目新しい食べ物を取り寄せることはない。地場の限られた旬の食材に依存し、風土の食性に縛られている。縛られていても、好き嫌いはしないし、狭食習性を嘆くわけでもない。


食わず嫌いとは、試しに食べもせずに、理由もなく食材や料理を嫌うこと。かつては生活風土の中では誰も食わず嫌いをしなかった。しかし、生活風土圏外で初めて見る珍しい食材を警戒し、手を出して口に入れて常食するまでには長い歳月を要した。人間は食わず嫌いを少しずつ克服して食性を広げて今に至っている。

しかし、どんなに飽食するようになっても、食べたくないものを食べない人たちはいるし、仮に何かが苦手でも、他に代替できる好物はいくらでもある。ぶつ切りにされてなおうごめくタコ、牛の脳みそ、昆虫やカエルは、わが国では食べ物の常識から外れた奇食と見なされる。他方、ある人たちが奇妙な食材として遠ざけるものを、別の人たちは違和感なく好む。

世界の4大食肉と言えば、生産量順に鶏肉、豚肉、牛肉、羊肉。若い頃から食事会の幹事によく指名されたが、羊肉を苦手とする者が一番多いため、あらかじめ大丈夫かどうかを確認するか、野暮なことは聞かずに黙って焼肉店にしていた。羊肉の食事会に誘う時は必ず人選して小人数で行くことにしている。「誘われたら行きますよ」というレベルでは不合格だ。

延辺朝鮮系やイスラム教徒系の中国人が経営する店では羊肉を使った料理が多い。写真は茹でた羊大骨ヤンダ―グーの盛り合わせ。二組に一組はこれを注文する。羊肉スープを取った後でも旨味と肉が少し残っていて、太い骨をつかんで香味タレに付けて骨回りの肉を少しずつ齧る。ストローを使って骨の中の髄を吸う。まったく奇食とは思わないし、格別にうまいわけでもないが、盛り皿のインパクトに目は好奇心で輝き、人は遊牧の民になる。

抜き書き録〈テーマ:都市〉

題名に「都市」を含む本を本棚から取り出して拾い読みしている。拾い読みするにしても、何か取っ掛かりがないとキリがないので、知っている都市の話を拾ってみた。目を通したのはとりあえず4冊。


📖 『裏側からみた都市 生活史的に』(川添 登)

中世都市の裏側は、ルネサンスが象徴する人間復興や技術革新や生産増大の恩恵を受けていたのか……。普通に考えればそうだが、庶民の暮らしは置き去りになることが多い。

「シエナ市の条例によると、台所のくずを投げ出したり、窓から容器の中身、つまり汚水を捨てたりすることを、夕暮れから夜明けまでの間は禁止していた。ということは、昼間なら自由にできたということである。」

トスカーナ州の世界遺産の都市、シエナには二度佇んだ。州都のフィレンツェ繋がりで観光客も多い。ひどかった中世の街は今、窓枠やカーテンを取り換えるにも市の認可が必要だ。徹底した規制のお陰で、今のシエナでは、表も裏もなく、観光都市の条件である景観と清潔が保たれている。

📖 『都市の使い方』(粉川哲夫)

都市のいろんな使い方があるが、大阪の下町育ちのぼくには喫茶店とアーケードのある商店街が印象的な記憶だ。ぼくの記憶とぴったりと重なるような一節が書かれている。

「大阪の梅田の街をうろついているうちに、コーヒーがのみたくなって曽根崎のある喫茶店に入った。二階の窓側の席に腰を下ろすと、アーケードに通じる街路が見おろせる。」

378年前の午前11時頃の光景らしいが、買物をする女性が意外に多いと著者は感じたと言う。平日の午前11頃に曽根崎界隈を歩けるのは限られた人たちだ。大都会になった今の梅田には、時間が止まったまま昭和の余韻に浸らせるエリアがまだ残っている。

📖 『都市計画の世界史』(日端康雄)

「フィレンツェ、ヴェネツィア、ローマ、ロンバルディアの上流階級の一族たちは、彼らの都市を飾りたて、メディチ家、ボルジヤ家およびスフォルツァ家は、古典的モティーフで飾りたてた新宮殿を自ら建設した。教会もこうした動きに一枚加わった。」

引用された都市にはルネサンスゆかりの建造物が現存している。くまなく見て回ると、156世紀の中世ルネサンス都市の繁栄には名門家系の経済力が不可欠だったことがわかる。都市計画にはお金がかかったのである。
同じ頃、わが国でも都市化が進んでいた。欧州が宗教色の強い都市だったのに対し、わが国では戦国武将の手になる、防衛力重視の城下町が発展した。まずまずの規模の現代の都市はみな、かつて複合的な機能を持つ城下町だったのである。

📖 『都市のエッセンス』(望月輝彦)

パリにも何度か行っているが、世紀末を嗅ぎ分けるだけの街歩きの経験はない。世紀末と言えばデカダンスだが、もちろんそれだけではない。

「一八八九年のパリ万国博覧会にエッフェル塔が誕生した。作者のエッフェルの造形意識の不在にもかかわらず、エッフェル塔は来たるべき二〇世紀の“技術美”を暗示するメルクマールとなった。」

19世紀末の都市では20世紀が「良き時代」になるだろうと予感させた。たしかに世紀末の爛熟らんじゅく頽廃たいはいは新世紀でも残り続けた。人々は豊かさと享楽に酔ったが、予期せぬ二度の世界大戦で都市は疲弊した。再生された現代の大都市に、行き先が定まらず物憂げにさまよっている幻影が見えることがある。

「誰それを知っている」

縁と人と関係について書こうと思う。

大学の先輩筋にあたる人だが、初対面の時に、自分の紹介よりも先に「誰それを知っている」ことを強調した。ぼくはまだ40歳になる前で、仕事のために縁を求めようといろんな人に会っていた頃だ。「誰それを知っている」と言うその先輩を頼もしく感じたのを覚えている。誰それを知っていると誰それを知らないとの差が大きいことはよく承知している。

知識や経験にもモノにも縁が生まれる。知識があるとか経験を積んでいるとか、店の名、商品の名、本のタイトルなど、「何々を知っている」という縁にも期待を寄せがちだ。ブラフと紙一重の縁もあるが……。

人との縁は求めて叶うものでもないし、欲張って結ぶものでもないことはすぐにわかった。それでも、縁は異なものであり神妙に響くし、他の類語では言い換えしづらい。「コネ」と言ってしまうと、その異にして神妙なニュアンスが消えてしまう。縁は縁と言うしかない。


縁について考えていくと、人と関係の話に行き着く。人間を「にんげん」と読めば人のこと。人間万事塞翁が馬の諺のように「じんかん」と読めば世間のこと。世間は人々が集まって作る社会。で、その社会とは? と問うと、堂々巡りになってしまう。社会という集合体は、人々と人間関係でできているからだ。

さっきコネと書いたが、コネは“connection”で、縁と同様に人間関係を意味する。誰かと誰かが繋がるのが関係。関係は多義語だが、繋がり方次第では時に怪しげにもなる。たとえば「関係がある」や「親しい関係」と言うと、何か裏があるのではないかといぶかってしまう。

今月に入って、ぼくの「誰それを知っている」がきっかけになって、関わった2件の仕事で助けてもらった。その2件の誰それさんにとっては、ぼくが以前「誰それ」だった。持ちつ持たれつ。振り返ってみれば、この1年も公私ともに縁のネットワークでやってこれたと思う。

海外旅行と為替相場

日本を発つ前に換金し過ぎたために、使い切らずに持ち帰ったユーロ紙幣が引き出しに入っている。円高ユーロ安の201111月の換金だから、円安ユーロ高の今は1.5倍の価値になっている。

先月、リーフレットやチケット類を適当に入れていたファイルにバルセロナのサグラダファミリアの入場券を見つけた。201111月にバルセロナとパリに旅した時のもの。ペア入場料は23ユーロ。円高ユーロ安のおかげでバルセロナのホテルもパリのアパートもお得感いっぱいだった。入場したこの日は20111115日、為替相場は1ユーロ105円。換算すると2,415円である。

打って変わって円安ユーロ高が続く昨今だ。202429日の今日、1ユーロは161円。サグラダファミリアのペア入場料は前より3ユーロ値上げされて26ユーロ。なんと入場料は4,186円に。もちろん、この驚きの感覚は現地に住む人にはない。日本から行って為替相場上で計算するゆえの驚きだ。



20096月、サンフランシスコとロサンゼルスに滞在していた。ロサンゼルスでは郊外の従妹の家で1週間過ごした。大谷翔平の移籍したドジャースの本拠地ドジャースタジアムのチケットを従妹が手配してくれて観戦に出掛けた。

料金がとても安いと感じた。なにしろ当時は1ドル91円と、考えられないほどの円高ドル安だったから。今日のドルははどうなっているか。1ドル149円である。ぼくの旅した頃と比較すると1ドルが58円高くなっている。

円高時のいい時にヨーロッパやアメリカに旅した人なら、円安の今は出掛けづらいだろう。幸いなことに、安い時にユーロを買っておいたので、まずまずの差益が出ている。その差益がなくならないうちに旅程を組むのも一案だと考える今日この頃。

現地では以前も今もコーヒーは1ユーロかそこらなのに、「前は110円だったのに今は160円か」などと旅人は失望する。旅に出るたびに通貨を「翻訳」しては感じる、実に不思議な為替相場のマジック。