語句の断章(23) 相互参照

クロスリファレンス(cross-reference)は〈相互参照そうごさんしょう〉と訳されて今に到る。この術語に大きな不満はないが、他に適訳の表現がありえたかもしれないと思う。ともあれ、相互参照とは、同一書類や一冊の書物内でAという用語からBという用語を引き、二つの用語を比べる機能を指す。

英語の″refer to ~"は「~に言及する、~を参照する」という意味だが、これに“cross”をつけることによってABの類似性・関係性を表現している。相互参照とは言うものの、必ずしも「タスキがけの相互」になっているものばかりではない。

ハイパーテキストもこの構造を特徴としている。だが、無限連鎖のような参照になりかねない。上記にも書いたが、本来は「閉じたテキスト内の参照」である。しかも「同一の」という点に意味がある。同一テキスト内を「同一脳内」に置き換えてみよう。そこで働く相互参照が〈ひらめき〉と言えるかもしれない。引き出す力でもある。

すでに知っているわずかな情報を手掛かりにして知らない情報に到ることを〈検索〉という。これがハイパーテキストの高頻度な使われ方である。

この逆の相互参照を重視してみたい。つまり、いま知ったばかりの新しい情報からすでに知っている情報を引き出して関連づけるのである。頭に入っている事柄を引き出す。知らないことは見つからない。ゆえに、記憶第一。次に、いま出合った情報をいろいろと言い換えて記憶の中の辞書を引くのが第二。知らないことは浮かばないが、記憶されている事柄なら浮かぶ可能性がある。

語句の断章(22) 欲張る

人は何でも欲張るが、現代人がむさぼる最たるものは情報である。手に入れるくせに手に負えない。それを承知のうえで情報を欲しがる。欲しがるが消化がままならない。まるで胃袋がギブアップしているのに焼肉食べ放題に耽溺するかのよう。

焼肉食べ放題には時間制限があるが、情報取り放題にリミットはない。それが逆に怖い。それゆえ、情報の取捨選択にはつねに細心の注意を払っておかねばならない。時間にも量にも制限を設け、取り込んだ情報にフィルターをかけてどんどん引き算して捨てることを忘れてはいけない。

しかし、情報を他者へ伝達する段になると、引き算がうまく機能せず、ややもすると足し算になってしまう。伝達情報をうまく絞り切れないのだ。与えられた時間では収まらないほどの、他者の受容と理解を優に超えるボリュームを欲張ってしまうのである。

仮に情報のインプット時に自己抑制が働いたとしても、アウトプット時には容易に情報がオーバーフローしてしまう。

料理をふるまうのに似て、少し多めであることに悲観することはない。ただ、情報提供のおもてなしやサービスの行き過ぎは慎むべきだ。誰もが日々嫌と言うほど情報を詰め込まれている昨今、情報の満願会席は必ずしも歓待にならないからである。

語句の断章(21) 会話・時間・金銭

一瞥するだけでは、会話・時間・金銭は異なる概念のように思われる。ところが、社会的規則性を求めるとき、これら三つの概念はかなりよく似てくる。どんなふうに似てくるかと言うと、いずれにおいても規則性を守らない人はルーズだと罵られて信頼を失う点である。

会話、時間、金銭は人間どうしの接点で機能する。もっともわかりやすい接点がコミュニケーションだ。他人に対して、ことばをバカ丁寧に使っても粗末に使っても接点が噛み合わない。両者がうまく接合する絶妙の調子というものがある。会話のリズムは人間関係性に欠かせない。

次に時間である。よく「自分だけの時間」という言い方をするが、それは一人でいるということにほかならない。そのとき、自宅にいてもカフェにいても時間に縛られることはないだろう。しかし、その時間から離れてある行為に向けてギアチェンジするとどうだろう、「ねばならない約束」に従わねばならなくなる。誰かや社会との約束事とは時間的規則である。時間とはある意味で社会における法なのである。

金銭にはコミュニケーションとよく似た「ギブ・アンド・テイク」があり、時間と同じように厳密な規則がある。不思議なことに、人と人の金銭授受の行為には振込・入金では見えない「通い合い」というものがある。

コミュニケーションにルーズ、時間にルーズ、金銭にルーズの三拍子が揃っている。しかも周囲からの信頼も失っている。にもかかわらず、そんな人間がある集団の輪の中心にいたり大勢の人たちの指導者として君臨したりしているのはなぜだろうか。理由は簡単である。取り巻く者たちも、三要素のいずれかを欠損しているからである。同病相哀れむように類は友を呼ぶ。

「責任者出てこい!」

おそらく関西圏出身の50歳以上でないと即座にわからないフレーズ、「責任者出てこい!」

これをギャグにしていた漫才師、人生幸朗が亡くなって37年になるという。若者が集まる飲み会で還暦前の男性が冗談まじりに「責任者出てこい!」と言ったところ、場がシーンとなったらしい。

あの芸風を漫才以外の語りで再現しようとしても、まずわかってもらえない。「何がおもしろいのか!?」と反応されたらそれまで。わかってもらおうと躍起になればなるほど場が凍る。ぼやきのネタには鮮度も欠かせない。

元祖ぼやき漫才である。人生幸朗は「まあ皆さん、聞いてください」でぼやきを始める。語りかけの口調はいたって静かだ。しかし、歌謡曲の歌詞に難癖をつけてぼやいているうちに、ボルテージが上がってくる。

伊東ゆかりが歌ってヒットした『小指の思い出』。「♪あなたが噛んだ 小指が痛い~」 小指は誰が噛んでも痛いわい! 

この後に「責任者出てこい!」となるわけだ。

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並木路子の『リンゴの唄』などが流行したのは終戦の年。同時代人はもう85歳以上のはずである。幸朗がこの歌をネタにしていたのは半世紀も前なので、ターゲットは30代、40代あたりでちょうどよかった。うちの母もよく口ずさんでいたので覚えている。

並木路子の『リンゴの唄』。「♪リンゴは何にも言わないけれど リンゴの気持ちはよくわかる」 リンゴがもの言うか! リンゴがもの言うたら、果物屋のおっさん、うるそうてかなわん!」

すべてがこんな具合。そして、漫才の終わりがけに「責任者出てこい!」と怒鳴る。相方の生恵幸子が「出てきたらどないすんのん?」と聞く。幸朗は「謝ったらしまいや」と答える。おもしろいとくだらないが相半ばした、しかし異色の夫婦漫才だった。

幸朗はぼやきに先立って「浜の真砂は尽きるとも、世にぼやきの種は尽きまじ」と唱える。まったくその通りである。先日、NHKで歌手の水森かおりが『高遠さくら路』なる演歌を歌っているのを聞いた。

♪ほどいたひもなら 結べるけれど 切れたら元には戻らない

「切れたひもが元に戻ったら、ミスターマリックや!」

当たり前のようなことが、実は滑稽でシュールだったりする。不思議が日常茶飯事になれば、当然当たり前が気になってくる。ところで、ぼやきの対象を知らなければ、ぼやきに共感したり笑ったりできない。時代を反映するという点では、ぼやきは立派な時事批評である。

時代の最前線

言うまでもないが、未来はまだ来ていない。現在に続くのが未来ということになっているが、先回りして見ることはできない。すでに体験した過去の最前線に位置している現在はわかっている。しかし、一寸先はわからない。先端技術や流行の話をしているのではない。

今生きている老若男女のすべてが時代の最前線にいる。最前線にいて、見えない未来に直面している。その先に何があるかわからないから、不安に陥り落ち着かない。わからないゆえにワクワクすると言えるけれど、崖っぷちで見えないものに向き合っているのをイメージしてみればいい。決して楽天的になれるものではない。

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だから、未来を見たい、知りたいという思いが募る。自力で見たり知ったりするには非力だから、誰かの空想や予想に頼りたくなる。誰かとは誰だ? 同時代人である。彼らもまた同じ時代の最前線にいる。空想や予想はぼくらと似たり寄ったりではないか。

誰もが過去を引き連れて現在に生きている。みんなが最前線にいて、未来を展望できる絶好の位置取りをしている。どんなふうに未来を展望できるのか? 結局、引き連れている過去と生きている現在を手掛かりにするしかないのである。

何々ファースト

「ファースト(first, 1st)」は最初や1番目を意味し、形容詞として使われることが多い。最初や1番目ならはっきりしていそうなものだが、美しいやおいしいなどの他の形容詞同様に、わかったようで実はよくわからない。

「レディーファースト(ladies first)」という表現が英国で生まれたその昔、対象になるレディーは今のレディーとはまったく違う待遇を受けていた。カナリアがサリン製造現場の捜索に使われたように、レディーは男にとって毒味役の存在だった。危なっかしいことを何でも最初に試させられたのである。

時代が移って現在、レディーファーストは(タテマエとしては)優先すべき存在としてリスペクトするという意味になり、リスクの大きそうな役割は男が受け持つようになった。だから、レディーに先に行かせたり先に食べさせたりする場面や状況をよくわきまえなくてはいけない。よくエレベーターにレディーを先に乗せる男がいるが、間違いである。エレベーターに乗る時は男が先。エレベーターはボートと同じで「危険な空間」と見なされる。降りる時は、危険地帯から安全地帯へ移動するからレディーファーストになる。

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ところで、例の「都民ファースト」はいったい何だったのだろう。まさか都民を毒味役にしようとしたスローガンであるはずはなく、当然一番に考えて優先するということに違いない。それなら、わざわざ代弁してもらうまでもない。政治は国民、都道府県民、市町村民それぞれがファーストであることは自明の理だ。

つまり、「民主」というニュアンスにほかならない。過去様々な党名が生まれては消えたが、よく目を凝らして見れば、自由民主党にも立憲民主党にも民主が入っている。国民民主党などはくどいほどの念の入れようだ。

ファーストなどはあまり信用しないほうがいいのかもしれない。ファーストに対抗してオンリーワンも一時流行ったが、一見ランキング概念を外したようで、実は優位性を意識している。本質はさほどファーストと変わらない。ちなみに、もっとも適切で意味が明快だったファーストの用法は「四番、ファースト、王」である。

次は何?

草木の新陳代謝が目立つ季節になった。すっかり枯れていた鉢植えのツタが、待ってましたとばかりにこの一ヵ月の間に芽を吹き枝を伸ばした。いいことである。人も店もこうありたいものだ。

ところがである。人や店が複数になると、新陳代謝は古きものが新しきものに淘汰される競争状況をもたらす。企業の管理職やスポーツチームの選手の例を見ればわかる。新陳代謝を図れば、誰かが消え別の誰かが加わるのだ。

飲食店も同じ。新陳代謝が激しい地域では新規開店と店じまいが入り混じる。自宅からオフィスへの通勤路にチェーンのうどん屋がある。二、三度のれんをくぐったことがある。「きつねうどん」というのぼりが目立つ。かけうどん、天ぷらうどん、ぶっかけうどん、肉うどんもあるが、きつねうどんを強くアピールしている。

その隣りは喫茶店だった。大通りに面している割には人通りが少なく、人が大勢入っているのを見かけたことはない。それでも、数年間営業していた。よく頑張ったほうだ。閉店して二ヵ月あまり、リフォームが始まった。通り道なので、次はどんな店になるのか? と目配りだけはしていた。

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表通りから見るかぎり、和風の構えになりそうな工事の進行。カジュアルな鮨屋か割烹か……いや串カツ屋という可能性もある……蕎麦屋だけはないだろうなどと、別に興味津々だったわけではないが、思い巡らしていた。先日、やっと看板が上がった。「肉うどん」の大きな文字。まさかの麺類の店だった。店名は小さく扱われ、かろうじて判読できる程度。うどん屋の隣りにうどん屋とは予想外だった。

繁華街の雑居ビルにはスナックやラウンジが十数店テナントで入るのは珍しくない。ここは他に飲食店が多くないエリアだ。そこにうどん屋が並んで二軒。きつねうどん対肉うどん、いずれどちらかに軍配が上がるのだろうが、ずいぶん思い切った挑戦をした新店に勝算があるようには思えない。経験に裏付けられた直感ではあるが……。

ここから徒歩10分弱のオフィス近辺の飲食店の新陳代謝は目まぐるしい。オフィスを構えて30年ちょっと。当時から営業している店は二、三を数えるのみ。ここ数年に限っても半数は入れ替わったはずである。店じまいした飲食店の後にオープンするのは、これまた飲食店である。リフォーム工事を見るたびに「次は何?」と心中つぶやく今日この頃。成熟の時代は新陳代謝激しい時代だと痛切に思う。

早とちりから先入観へ

「人間のあらゆる過ちは、すべて焦りから来ている。周到さを早々に放棄し、もっともらしい事柄をもっともらしく仕立ててみせる性急な焦り」

フランツ・カフカのこの指摘は、様々な場面に当てはまる。焦りから結論を急ぎ判断をおこなえば、早とちりをしてしまう。早とちりは先入観として刷り込まれる。いったん刷り込まれてしまうと、判断を見直すチャンスを失う。

ずっと「神山」だと思っていた洋服店の看板。道すがら目に入ってくるが、わざわざ立ち止まって注視しなかった。なにしろ神山としてすっかり刷り込まれていたのだから。ある日、カラスを目で追ったついでにじっと見ることになった。なんと「山」だった。神山も袖山も珍しいが、僅差で神山がぼくの認識に先入しやすかったようである。

テレビの番組でオードリーの春日が芸人相手にやっていたのを思い出す。「りがとうございまし」の最初の「あ」と最後の「た」だけ残して、適当に間を別のことばに変える。「リゲーターいまし」と言おうが「バラ折れまし」と言おうが、相手は状況から早とちりして「ありがとうございました」と聞いてしまう。

NHK大河ドラマは『いだてん』。ビールのおつまみに買ったのは「いか天」。大河ドラマを見ていそうな人に聞いてみる。「NHKの日曜日の大河ドラマ、『いか天』見てる?」「ああ、見てますよ」。相当はっきり「いか天」と発音しても大丈夫。文脈や語の前後関係から早とちりする。ことばを一音ずつしっかりと聞いてなどいない。白紙状態で他人の話を傾聴しているのではなく、自分がなじんできたやり方で認識しているのである。いわゆる〈認知のバイアス〉。なお、ダジャレはこれとは違う。ダジャレは違いに気づいてもらわないと成り立たない。

音をなまくらに聞くばかりでなく、文字もしっかりと見ていない。フェースブックを通じて知り合いになった坂井譲二さかいじょうじという人物がいる。いじられキャラではないが、どう言うわけか、ぼくとの関係ではそうなってしまった。ある日やりとりの中で「板井謙二さん、あなたは……」で始まる文章を書いた。ぼくが暴露するまで、彼は「いたいけんじ」にまったく気づかなかったのである。

今は春べも梅を見ず

正月に神社で梅の枝を見、その一ヵ月後に公園で梅の蕾をしたためた。陽気が春めいてくると、梅の花がつつましやかに咲くのを見逃して、目線は華やかな桜へと移りがち。ここ数年こんな具合だ。

元日に訪れる高津宮こうづぐうの、ぼくなりの梅三題の筆頭は「梅ノ井」。大阪の府の花と言えば梅。大阪市中央区の区の花も梅。中央区の大阪城公園にも有名な梅林がある。江戸時代から高津宮一帯は梅の名所だった。今は微かな痕跡しかないが、当時は梅川という川がこのあたりを流れており、梅の井には上町台地の伏流水が湧いていた。井戸にしたほどだからかなりの名水だったらしい。現在の梅の井は石蓋で閉ざされた空井戸である。

梅川の微かな痕跡というのは、その川に架けられた「梅乃橋」。これが二題目。二百五十年前に奉納されたもので、今も残っている。梅川は東から西へ流れる川だった。この川の下流あたりを掘り下げて川幅を広げたのが今の道頓堀という説がある。この場所から道頓堀のグリコの電飾サインまでは直線で1.3キロメートル。見事に真っ直ぐ西方向。

三題目は献梅碑。わが国に『論語』と『千字文せんじもん』をもたらした王仁博士の歌を刻んだ碑である。建立は90年前と比較的新しいが、エピソードは1600年前に遡る。昨日、梅花を神前に奉納する献梅祭が五日前に執り行われたと知った。祭は王仁博士が梅花に和歌を添えて仁徳天皇に奉ったことにちなむ。

難波津なにわづに咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花

あまりにも有名な一首がこれである。難波は今では「なんば」と呼ぶが、古代の大阪の呼び名は「なにわ」。まもなく春べ、しかし「この花」の咲くのをまだ見ていない。オフィスから大阪城の梅林まではゆっくり歩いて半時間足らず。梅は五分咲きだという。週末に時間が取れれば行ってみようと思う。紅梅混じってこその梅林だが、どちらかと言うと、白梅びいきである。白梅の校章のついた学生帽をかぶって三年間高校に通ったせいかもしれない。

ハイコンテクスト文化考

「例の件、ひとつよろしく」「了解しました」

これで会話完了。お互いにわかっている(少なくとも、わかり合えていると思っている)。このようなコミュニケーション習慣が当たり前になっている状態を〈ハイコンテクスト文化〉と呼ぶ。

コンテクストとは文脈や行間のこと。それが「ハイ」であるとは、文化的に規定され共有されている要素が多いことを意味する。つまり、他の文化圏から見れば抽象的でよくわからないのだが、ハイコンテクスト文化の人たちなら何から何まで言わずとも、断片的情報だけでおおよそのことが伝わり、またお互いの意図を察することができる。みなまで言うのは野暮、ことば少なめな「察しの美学」こそが洗練だと見なす。

この逆が〈ローコンテクスト文化〉である。共有認識できていることが少なく、含意的な文脈や行間が現れたらそのつど読まなければならない。読むためには情報が必要である。したがって、ローコンテクスト文化の構成員はお互いに情報を増やしてコミュニケーションし、物事を以心伝心ではなく、具体的に語り尽くすのである。

☆     ☆     ☆

ハイコンテクスト文化だから情報やコンテンツがいらないというわけではないが、情報やコンテンツを省略する傾向が強くなる。ハイコンテクストが極まると、言わなくてもいいことはしつこく繰り返すが、言わねばならないことにはあまり触れない。写真一枚だけを見せることはあってもキャプション(説明文)で補おうとしない。

コンテクストがハイであろうとローであろうと、コミュニケーションは何がしかの共有コンテンツを前提にしておこなわれている。共有コンテンツが多ければことばは少なくて済み、共有コンテンツが少なければ、足りない分をことばで補充しなければならない。五七五で伝わることもあれば、いくらことばを蕩尽しても伝わらないことがある。しかし、たとえばビジネスシーンでは五七五ではいかんともしがたく、微に入り細に入り饒舌気味に語り合わねばならない。

ハイコンテクスト文化でも世代間には異質性が認められる。たとえば「山と言えば何?」と問う。符牒だと察して「川」と反応する高齢者に対して、若者は「緑」や「高い」と答える。ITが加わってコミュニケーション形態が多様化した現在、同じ世代にあっても、口頭では多くを語らないが膨大なメール文を交わす者もいれば、その逆もある。ともあれ、伝わるはずと信じて言を慎んでいてはリスクは増大するばかりである。