仕事の合間に

ああ、また凝り過ぎてしまった。「過剰よりも不足、複雑よりも単純」を創意工夫の根本に置いているつもりなのに……。

仕事に直接役立つ「中心付近」から入るよりも、「周縁」をうろうろして時間を費やすほうがいい。即効は望めないが、先々でじわじわと効いてくる。これも一つの経験則。

「悲観的に過ぎず、また楽観的に過ぎず」というような節まわしで二項対比していると、やがて二項は対立したり寄り添ったりする。結局、「どっちでもいいのではないか」に落ち着く。諦念と言えば格好いいが、無責任でもある。

「今の時代に合った働き方を!」とテレワークを肯定する人たちがいるが、いったいその働き方とは何なのか? 「今の時代に合った働き方」の前提にテレワークやリモートを置いているのだから、これは同語反復にほかならない。つまり、わかっていない。

何十回もここに来ている。映画鑑賞に来るのだが、シネマの入っている建物の裏手に足を踏み入れたことはなかった。早く着いたので裏手に回ってみた。大都会では絶対にありえないはずの里山風景を、この大都会・梅田で目にした。

人生は自分が生きるのは大変だが、映画館で見れば他人事で済む。いつもそう思うが、スウェーデン映画『ホモ・サピエンスの涙』を観て、強くそう思った。

しばらく会っていない人から手紙が届いた。この時期――しかも今年のこの時期ゆえ――しみじみ感が募る。お気楽には暮らせないのだ。仕事をやめて家にいる。現役時代はちっとも自分が見えなかったが、今は自分ばかりが見えてしかたがないそうだ。
ぼくが仕事を続けているのは――今も少しは出番があるからだが――何よりも自分から目をそらせる時間が増えるからである。自分が見えすぎるとナルシズムに陥る。そして、ナルシズムに捕まると、つまらないことを考えたり悩みの種を蒔いたりすることが多くなる。

働き始めてから今に到るまで、いつまで仕事をするのか一度も考えたことがないし、仕事をしていない自分を想像したこともない。

ネットか本か体験か

仕事が順調に進み、今日のように午後3時頃に終わると隣の部屋を覗く。“Spin_off”と名を付けた書斎兼図書室兼勉強部屋だ。56千冊収蔵してあり、しかも分類して書棚に並べたのはほかならぬこのぼくだから、どこに何があるかはほとんどわかっている。気まぐれに本を手に取る。

ワインの輸入元からDMが来た。この時期の宣伝は決まってボジョレーヌーヴォーである。おすすめが15本、値段はいろいろ。「34本に絞っておけば衝動的にネットから注文するかもしれないのに……」と思う。ところで、あの発音、Beaujolais nouveau”はフランス人でも人によって違うとワイン通に聞いた。その時はネットで手っ取り早く調べた。男女何人かの発音が聞けた。本ではそうはいかないし、実際に複数のフランス人に会って確かめる機会はありそうにない。

ボジョレーヌーヴォーから連想して書名になった『ダジャレヌーヴォー――新しい駄洒落』という本があり、以前おもしろおかしく読んだ。その一冊が隣の部屋にあるはずなので、ユーモアとジョークの棚を探したが、ない。こういう時は「誰かが持ち出したに違いない」と性悪説的になりがちだが、「これおもしろいよ」と自分から言って誰かに持ち帰らせる可能性のほうが大きい。

「ユーモアセンスがないもので……」と恥ずかしがる人がいたので、「下手なダジャレでいいではないか」と励ましたことがある。誰かのダジャレに「寒ぅ~」と小馬鹿にする連中がいるが、そういう連中にかぎってたいていおもしろいことが言えない。川柳を作ったことがある。

ダジャレだと馬鹿にするならきみ作れ  粋眼


さっさと調べるにはネットが便利、不要不急なら本でいい。ただ、ネットや本がインスピレーションのきっかけになるとはかぎらない。思い出したり何かが浮かんだりするソースとしては体験や観察も有力なのである。この時期のよく晴れた日にいつも浮かぶイメージがあり、そのイメージにはいつもよく似た感覚が注釈のようにくっついてくる。

非の打ち所がない青空、公園の木漏れ日びより。樹々と枝葉の影を楽しむ、ついでに自分の影も。近くの川岸の水も気も光もよどまずに流れる。自分が慌ただしくせわしくしていると流れは見えない。自分がじっとする時間のうちに移ろいが感じられる。

いつぞや昭和が匂う場末の喫茶店に入り、昼前でもぎりぎりオーケーのモーニングサービスを注文した。コーヒーとトーストとゆで卵。サラダやハムのない、ふつうのモーニング。今時珍しいモーニングの古典だった。

モーニングサービスとは、朝にコーヒーを注文した人への「おまけ」。以前本で調べ、ついさっきもネットでチェックしてみた。最初はピーナツやゆで卵だったらしい。実際、幼い頃に父に連れられて喫茶店に入り、ピーナッツやゆで卵が出てきたのを目撃している。父によれば「タバコ2本という時もあった」らしい。ネットにも本にもタバコのモーニングサービスの記載はなかった。はたして父は「タバコ2本」と言ったのか、それともぼくの聞き間違いだったのか……。わからない。確かなことがある。喫茶店でぼくがいつも飲んでいたのがミルクセーキだったこと。

食べ物の知識と食べる経験

それまで見たことなかったが、初めて出されて食べた。子どもはこういう経験を積みながら自分の食性を養っていく。他方、すでにいろいろ食べてきて食性も固まった成人の場合、初耳で初見の料理を経験する機会は徐々に減る。稀に遭遇しても、料理の名前も使った素材も告げられずに、初めて見る一皿を前にして逡巡するだろう。口に運ぶにはかなりの度胸がいる。異国での場面なら覚悟すらいる。

食べられると聞いたことはあるが、食べたことがない。そんな料理に出くわすと、人は拒絶と受容の岐路に立つ。拒絶すれば食わず嫌いのままで終わる。それはそれで別に困ることはない。受容すれば未体験ゾーンに入れるが、吉と出るか凶と出るかは食べてみないとわからない。

たとえば古生代から棲息している脊椎動物のヌタウナギ。ある店で「当地の希少食材」と勧められ、その串焼きを賞味した。味よりも味と呼ぶにふさわしかった。別の店では「今日は珍しいのが入っていますよ」と告げられ、二つ返事でオーケーした。出てきたのはイノシシの睾丸をスライスした刺身。大トロとフォアグラを併せたような味だった。いずれの経験もしておいてよかったと思っている。


ところで、トカゲやカラスなどは「聞いたことも見たこともあるが、食べたことはない」という対象である。「食べたことがないもの」には食べ物だけでなく、食べ物以外の、煉瓦やホッチキスなども含まれる。「聞いたことも見たこともあるが、食べたことはない」対象は無数だろう。つまり、聞いて知っていることは広くて多く、見ることの対象はそれよりも減り、さらに経験する対象になるとうんと少なくなる。食に関する蘊蓄の情報量は膨大だが、経験の量などはたかが知れている。

何でも食べるからえらいのではない。何でも食べるのは食性が広いということにすぎない。一般的に、人間以外の動物は食性が狭い。つまり、普段の食性ゾーンからかけ離れたものには――興味を示すにしても――めったに口にしない。比較的食性が広いクマなどはドングリが少ない年には人里にやってきて、食べられそうなものなら手当たり次第に口にする。どちらかと言うと、好き嫌いのない人間に近い。しかし、食性が狭いサバンナの猛獣は、食べ慣れた獲物が少なくなると途端に危機に瀕する。

食べるものも食性だが、食べる方法も食性である。たとえば肉を食べる人の食性にはナイフとフォークがつきものだし、草を食べる象の食性には長い鼻がなくてはならない。小学生の頃にセキセイインコを飼っていた。家族で丸一日出掛けるので、餌入れに餌をたっぷり入れた。戻ってきたらつがい・・・で餓死していた。餌入れに餌は3分の1ほど残っていたし、鳥かごの底には餌がいっぱい落ちていた。その餌の層をベッドにしたような恰好で息絶えていた。セキセイインコのくちばしでは底に落ちた餌をついばめないのだ。

飲み放題付きのコース料理の忘年会。メインがラム肉だったが、ある女性が苦手と言い出した。別料金で彼女だけ牛肉ステーキに変更した。これに先立って、飲み放題に赤ワインが入っていなかったので、彼女はこれも別料金で注文していた。グルメの話をよくしていた人だが、食性が狭くて経験値に乏しい人の食談義は浅い。食性が狭いからと言って一方的に批判するつもりはないが、確実に言えることが一つある。「何でも食べるほうが安くつき、あれがダメこれがダメと好き嫌いが多いと高くつく」。

アドレスと場の情報

住所と立地、場所と景観、地域と歴史などについて、依頼されてコラムを書いている。一編をだいたい500600字でまとめる。ここ半月ばかり一日二編のペースだが、書くほどに〈場〉という概念が気になる。名称で示される場もそうだが、トポス的な〈ありか〉という意味についても考えさせられる。

都道府県、市区町村、丁目番地号などの名称と数字を見れば、〈ありか〉はピンポイントで判明するが、このアドレスからは場の特徴、周辺環境、さらには歴史的沿革やエピソードなどの情報はわからない。「わらび餅のうまい店がある」とか「自民党支持者が多い」などという情報は――もし知りたければ――アドレス以外の情報を調べるしかない。その気になれば、Googleだけでほぼ何でも検索でき、ほぼある程度のことがわかる。

「何を言ってる? 地名から由来がある程度わかるではないか」と言うむきもあるが、いやいや、地名からは生半可な類推しかできない。地名に「川」が含まれていても川があるとはかぎらないし、「江」が含まれていても海や湾が近くにあるとはかぎらない。「津」を含む地名は大昔が海だったというケースがほとんどで、今は海から遠く離れた高台にあって、津よりはむしろ丘と呼ぶにふさわしかったりする。


町名に「湯」を含んだまちに住んだことがあるが、湯は湧き出していなかった。銭湯はあったが、銭湯があるからと言っていちいち「湯」をつけるはずがない。そんなことをすれば、日本全国、「湯」のみならず、「酒」「米」「魚」のつく地名が溢れる。酒屋も米屋も魚屋もどこにでもあるのだから。今住む町には「泉」がつくが、あたりに泉は湧いておらず、泉の広場も見当たらない。但し、文献をひも解けば、一千年前までは泉が湧いていたなどという事実に突き当たる可能性はある。しかし、それはアドレスからわかる事実ではない。

家やマンションを買ったり借りたりする、あるいはどこかに旅してホテルやアパートに泊まる。住まいや行き先のアドレスは、だいたいではなく〈ありか〉がわかるように表記されていなければならない。しかし、実際のところ、ぼくたちの関心は、築何年とか間取りとかエクステリアの様子とかに始まり、大まかな〈場〉のステータスや評判、周辺環境やアクセスに至るまでの、アドレスにはない情報に向けられる。中心点としてのアドレスよりも周縁のほうが意味を持つ。歴史やエピソードは周縁的情報の類だ。

ところで、アドレスには、日本のように「県、市、区、町、丁目番地」と大概念から小概念へと降順的に並べる型と、アメリカのように「番地、町、市や群、州」と小概念から大概念へと昇順的に並べる型がある。前者には〈ありか〉の的を絞っていくプロセスが窺え、後者には〈ありか〉から始まってそれを定義していくプロセスが感じられる。今日のところはこれ以上深入りしないが、アイデンティティや帰属に対する考え方の違いだと思っている。

味覚の秋と料理の名前

日に45回受話器を取る。ディスプレイに表示される番号は0900800120で始まるものがほとんど。電話相手はテレワーク中の得意先担当者か、知り合いの営業マンか、身元不明の売り込みのいずれか。相手がテレワークだと仕事は予定通りに進まないし、どこの会社も訪問ができず電話セールスに頼っているようだが、成果が上がっているとは思えない。

旅行であれ食事であれ“Go to”で出掛けて、人が元気溌剌になり経済が回復しているようには見えず、おそらくリスクにピリピリしながらの旅であり食事なのではないか。味覚の秋、食欲の秋と言うけれど、今年は何をいただいても――ぼくに関する限り――小躍りするほどの感慨はなく、食べ方は地味で、楽しみも中くらいというところだ。それでも、週末にはなるべく出掛けて外食し、一人か身内だけでなじみの飲食店をささやかに応援している。


昨日の昼、ダイニングカフェで少々迷ってから鉄皿ナポリタンを注文した。具だくさんでお得感のある一品だったが、ソーシャルディスタンスに配慮した不自然な空席に落ち着かず、料理を前にしても味覚が即座に反応しない。飛沫の注意癖がついたせいでソースがはねるのを恐がりながら、頬張らずにそろりと口に運ぶ。フォークを操る動作が滑稽なほど慎重すぎるではないか。

イタリア料理店のテラス席でダイナミックにパスタを頬張った数年前の光景を思い出す。トマトソースがはねて思いっ切り白いシャツが滲んだ。不揃いの手打ち麺を使った「マッケローナ・トマトラグー・リコッタサラータ」のソース。具だくさんでは極太麺の値打ちがなくなる。これは、具ではなく、シンプルに麺に狙いを絞るパスタだ。とにかくトマトソースが均等によく絡む。食感は手打ち麺らしくもっちり。チーズにリコッタサラータを使うと南イタリア風になるから不思議である。

マッケローナ・トマトラグー・リコッタサラータは長い名前だ。よく似た材料を使えば料理の名前も必然似てくる。トッピングした食材を名前に足して差異化するのが一般的。炒飯にレタスを加えて「レタス炒飯」、あんをかけて「あんかけレタス炒飯」、エビを足して「あんかけエビ入りレタス炒飯」……どんどん長くなる。言うまでもなく、名前の長さとおいしさには因果関係はない。料理名の長さと美味が比例するなら、「じっくりコトコト煮込んだスープ」が一番うまいスープということになる。

ジビエの季節が近づいてきた。半月前に少し早めにマタギ料理の店に寄った。牛肉専門の店ならいちいち「牛肉の」などと言わなくてもいいが、猪、エゾ鹿、イノブタ、兎、鴨、熊、羊と多種類を使うから、そのつど肉の名と部位の名がつくので長い名前の料理メニューが並ぶ。赤ワインを合わせた前菜の一つが生肉料理だった。その名も「馬肉の赤身とコーネ、エゾ鹿肉、イノブタのなめろう」。

覚えることと思い出すこと

「記憶することだけではいけないのだろう。思い出さなくてはいけないのだろう」(小林秀雄『無常といふ事』)。


好きでないことを強制されても、得しそうであり有利になりそうであるなら、覚えるものだろう。学校時代には大勢がそうしてきた。記憶力には個人差はあるものの、いつまでに覚えろとかテストに出るぞと告げられたら、少々記憶力の悪い者でも何とかしようとしたものだ。しかし、目的が達成されると、やがて人は覚えたことを忘れる。利害がなくなると特にそうなってしまう。

脳には、一時的に預けるロッカーのような保管庫と、容易に揮発せずに覚えたことが刻印される保管庫がある。前者を「一次記憶域」、後者を「二次記憶域」と呼んだりする。何から何まで覚えることはできないし、ずっと覚えていても役に立たないことも多いから、忘れて記憶情報を減らすのは理に適っていると言えるだろう。

努力しても記憶できなければ諦めるしかない。たとえば、読書をして一冊丸ごと覚えることなど不可能である。忘れたら、必要に応じて読んだところを繰り返せばよい。読みもしなかったことを思い出すことはできない。思い出すためには、一度は読んでいなければならない。読むには読んだし一度は覚えたはず、しかし、思い出せない……これが悔しいのである。脳が衰えてきたのではないかと、不安に苛まれる場面である。


十数年前に、とある自治体で12日の「官民合同研修」があった。それはマーケティング研修で、地場のブランドを全国化する企画実習を5班に分かれておこなった。地酒のブランディングをテーマに選んだ男性4人のグループがあった(県と民間それぞれ2名)。机間巡視中、そのグループのブレインストーミングの様子を窺った。

ショットバーで飲む地酒はどう?……それはおもしろい……日本酒に詳しいバーテンダー……つまみにぴったりの珍味小皿が出る……客のイメージは? 男か女か、年齢は?……カウンターの端に座る中年かシニアの男性がいいのでは?……たとえばタレントや俳優なら誰?……ほら、テレビでよく出てるあの人? 声が低くて渋い……

こんなふうに話が進んで行ったのはいいが、顔が浮かんでいるはずの言い出した人が名前を思い出せない。彼はいろんな情報を並べ、ついには「首にストールをねじって巻いているあの人だよ」と言ったところで、他の3人にようやく伝わった。しかし、思い出したのは顔だけで、誰一人として「中尾彬」が出てこない。たまりかねて、ぼくが名前を教えてあげた。

半時間後にグループの進捗具合をチェックしたら、「中尾彬と地酒は当たり前っぽくてやめました。ホテルのショットバー、キムタクと地酒でまとめています」と路線変更していた。キムタクはさっと思い出せたのだろう。ともあれ、人は覚えたこと、確実に知っているはずのことを思い出せなくなる。覚えることはたやすくないが、思い出すことはそれ以上に大変だ。冒頭の小林秀雄のことばが沁みる。

「十」何々と「十」何とか

四字熟語をビシッと英語で決めるのは難しい。四字熟語になる過程でニュアンスや文脈を閉じ込めているからだ。たとえば「十人十色」は、好きなこと、思っていること、性格などが人それぞれという意味。何が違うのかまで伝えようとすると、そのつど説明するしかない。

「十人十色をどう訳すか」と聞かれたら、コンパクトな表現の“To each his own”をすすめるが、「人はみな違う」ということは言えても、「何に関して」までは伝わらない。ちなみにGoogle翻訳では“Ten people, ten colors”と拙く幼く愛想がない。これでは人種の話になってしまう。色鉛筆の十本十色なら“Ten pencils, ten colors”でいい

十人十色以外に、「十何々と十何とか」という四字熟語がいくつかある。

百発百中だと弾がもったいないと思ったのか、「十発十中」というコストパフォーマンスのいい言い回しもある。いずれも、狙いを外さない、やっただけの結果が出ること。

使用例が少ないが「十全十美」というのがある。すべての要素がすべて美しいという感じがよく出ている。つまり、完全無欠で非の打ちどころがないさま。

「十月十日」もある。言うまでもなく、カレンダーの1010日、かつての体育の日のことではない。ご存知の通り、「とつきとおか」と読んで妊娠期間を示す。


十は、数字のちょうど10のことではなく、「いろいろ」とか「たくさん」の比喩である。一番ポピュラーな十人十色で済ませがちだが、冒頭で書いたように、意味を伝えようとすれば、何が人それぞれなのかを言わねばならない。「食べ物の味は十人十色だからね」というように。それなら、四字熟語だけでもっと具体的に言っておけばいいのではないか。と言う次第で、以前「十△十▼」という形式の創作四字熟語を作ったことがある。

十舌十味じゅうぜつじゅうみ  味覚は人によって違うこと。「これうまいねぇ」「さほどでもないなあ」という具合。自分が中トロ好きだからと言ってむやみに他人にすすめてはいけない。なお、この四字熟語は産地によって牛タンの味が変わるという語釈もできる。

十鼻十香じゅうびじゅうこう  この時期になると金木犀が香る。香ると言う人あり、匂うと言う人あり。臭うと書く人あり。あれはトイレの芳香剤の匂いだ、いやいや、心を落ち着かせる「甘いかほり」と人それぞれ。オーデコロンの纏い方にも気配りが必要だ。

十物十感じゅうぶつじっかん  同じコーヒー豆でも焙煎時間が10秒違うと味が変わる。挽き方も十段階以上あって、時間に長短が生まれ抽出成分も異なってくる。コーヒーと味覚のデリケートな関係は、そのコーヒーを注ぐカップでさらに印象に変化が生まれる。

十道十心じゅうどうじゅっしん  志す道によって心のありようも決まってくる。書道、華道、茶道、武道のみならず、鍛え貫き歩まねばならない道はいろいろ、精神のありようもいろいろ。ところで、この四字熟語、もしかして「十心十道」としても成り立つような気がしている。

居場所と行き場所

「芸」が「地」になり、地になった芸に不自然さを感じなくなると、その人に名人を見る。技だの能だのと言っているあいだはまだまだ浅いのだろう。確固とした地になった芸を見る機会が少なくなった。

昔、高座で腰を左へ右へ交互に動かしたりお尻を浮かせたりして噺する桂米朝を見て、誰かが「師匠、あの動きは芸ですか?」と尋ねたところ、「いや、あれは地(痔)や」と言ったとか。

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人には居場所と行き場所の両方がいる。往ったり来たりしながら、行き場所が居場所になるのを目指してきたが、未だ道遠し。そうそう、一つになるのがよいと言う人もいれば、いやいや、別であってもいいと言う人もいる。

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パノラマも見ごたえがあるが、窓というフレームを一つ加えてやるだけで趣と文脈が変わる。窓の内側の今いる場所と窓の外の景色、いずれが主役か脇役かなどという分別がなくなる。何の変哲もない窓をフレームにして対象をトリミングするだけで、たぶん一つの芸になる。

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異国情緒は、自然に対して湧き上がる時よりも、街に佇む時のほうが強くなる。建築、公園、広場の存在が大きいせいだが、固有の情緒を一番顕著に醸し出すのは行き交う人々の姿である。どんなに見慣れても、彼らは自分の居場所にはいない人々である。

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景観は街の芸である。以前滞在したパリのマレ地区に本屋兼文芸パブがあった。面していたのがブルジョア通りで、店構えはその名に合っていたような気がする。店が街に合わせて外装をコーディネートしたわけではない。懐の深い街があの建物や他の諸々の建物を清濁併せ呑んでいた。そして常連は、行き場所を居場所にしてくつろぐのである。

旅に出て着いた所が行き場所。滞在するホテルやアパートは行き場所だが、まもなく居場所になる。その居場所から街中に出て次に別の行き場所を探す。行き場所を居場所に変えていくことと芸を地にしていくことはよく似ている。いや、同じことかもしれない。

考えたことは少し残る

考えたことは少し残る。正確に言えば、「その時々に粘り強く考えたことだけが少し残る」。

かつて知識を得るには、本を読むかものをよく知っている他人の話を聞くかした。本を読んだり他人の話を聞いたりする人とそうしない人との間には、当然手持ちの知識に大きな差ができた。差はエネルギーの差でもあった。つまり、本を読むのも他人の話を聞くのも手間がかかる。

今は、さほど手間をかけずに、誰もが情報にアクセスできる。すべて読まずに、ラベルだけに目を通せば済む場合もあるし、コンテンツも自分の好みでボリュームを調節できるようになった。ストックされた知識に差はあっても、賞味期限の短い揮発性の情報に関してはさほど大きな差はない。雑談程度やSNSでバーチャルに付き合う程度の関係に限れば、みんな似たり寄ったりなのである。

「こんなことができるようになった。すごいねぇ。これからの時代はこうなるぞ!」 知識人でもこの程度のことしか言わないし書かない。自分なりに考えているような気配を感じない。「情報多くして人は考えない」というのはどうやら本当らしい。


考えなかったこと、考え足りなかったこと、世界をいろんな視点で見なかったこと……人生の後悔は考え方や見方に関することに集中している。読んだ本や他人の話の内容はあまり覚えていないが、その時々に考えたことは――考えたことだけ・・――いくばくか残っている。読んだ本は忘れてもいい。本のタイトルさえ覚えていれば、もう一度読めばいいのだから。しかし、考えなかったことを再現するすべはない。

哲学書を読むよりも、考える日々の生活に意味がある。考えるとは特別なことではなく、身近であり愉快であること、衒学的な知を格納するのではなく、生活の知として楽しむこと……。アリストテレスの『哲学のすすめ』を読んでほとんど何も記憶に残っていないが、読後の自分の着地点だけはよく覚えている。

考えることの深浅はあまり気にしなくてもいい。仮に稚拙で浅はかであっても考えるプロセスそのものが尊い。考えることで厄介なのは、考えたことを言い表わすことだ。いろんな思いが織りなされたにもかかわらず、たとえば「悲劇」と言ってみる。その一言で済まない思考を経たはずなのに、やむなく四捨五入してしまう。

あやのあることを細やかにことばで言い尽くせない。にもかかわらず、強引に一言で言い表わそうとすると、省察してきたことがあやふやになる。しかし、ことばにしがたい思考ニュアンスの諸々は、たとえそれがジレンマであっても、ことばにするしかないではないか。一言で仕留めるなどという無謀な方法ではなく、無駄だと承知の上で粘り強くことばを尽くしていく。思考とはこういうことなのだろう。だから考えたことは少し残ってくれるのである。

色々な色合い

街歩きをすると標識や看板が目に入る。立ち止まってしばし眺めることがある。文字だけでなく、デザインや色遣いもじっくり見る。少々違和感のある店名でも色合いがよければ、良さそうな店に見える。総じて言うと、派手な色調ならつかみが力強いが忘れやすく、むしろシンプルなほうが記憶に残るような気がする。

日が短くなった。午後六時頃になると空が赤みを帯びる。夜ごと同じ赤ではないし、稀に蒼ざめたような夕暮れに巡り合わせる。歓楽街に足を向けなくなって久しいが、歓楽街の外れをたまたま歩いた折り、西の空がネオンにけがされたようにどす黒く変色していた。憐れんだ。

ラジオを聴いている時、音声にイメージを足していることに気づく。ある種の関連付けと照合作用。視覚にもよく似たことが起こる。単色の形に対してバーチャル絵具で着色しているのだ。モノクロームの色彩化。先日夜景を撮ろうとして手ぶれした一枚の写真がちょうどそんな感じだった。カラフルなものばかり見ていては想起する力が弱まる。

旅先で油彩のような雰囲気のカフェに入った。壁やテーブル、カウンターや椅子、所狭しと並べられた色とりどりのボトル。そこに注文したコーヒーとケーキが運ばれて新しい色が加わる。絵が変わった。味を褒めちぎっていたら、「これ飲んでみる?」と言って、昼間なのにデザートワインをグラスに注いでくれた。さらにこの一品の色が加わり、また絵が変わった。旅先だと敏感だが、日常ではその時々の変化する絵模様にあまり気づいていない。

バル地下の一画でりんごが売られていた。2手に取りレジへ。レジ横に水槽が置いてある。見ていると砂の中から頭が出た。さらに、ひゅるひゅるという感じで首と胴の一部が現れた。妖艶な紫の背景にコミカルな動作。「チンアナゴ」という珍妙な名前らしい。砂の色なのか照明なのか、高貴なはずの紫が可笑しさを増幅していた。

あの時見上げた空のあの雲は、ゆっくりと流れて細く薄く尻尾をなびかせていた。絵筆を静かにやわらかに運んで、手さばき鮮やかにすっと紙から離したような感触の一筋の線。青と白だけで見事な筆さばきだった。写真はないが、記憶にしっかりと刻まれている。