アコースティックなことば

音声と文字の言語を習得する前に先験的アプリオリな〈サイレント・ランゲージ〉、つまり、沈黙のことばがある。沈黙のことばの原点を母語とすれば、話しことばが第一外国語、書きことばが第二外国語という見立てができそうだ。

耳に入ることばをサイレント・ランゲージや事物と照合して意味づけし、話し始める。文字を覚えて意味を読むようになり、やがて意味を書くようになる。母語と第一外国語と第二外国語を同時に習得するのだから、言語的生活はもとより気楽にというわけにはいかない。

何を言っているのかさっぱりわからない時、たいていその話者は単語や短文しか使っていない。単語や短文から意味を汲み上げるのは容易でない。カラスの「カァー、カァー」や犬の「ワンワン」とほとんど変わらない。

文が構文になり、構文と構文が相互に結びついてようやく意味が浮かび上がる。にもかかわらず、一語か二語話しては止まり、途中「その、あの、ええっと」を挟んでから次の語が発話される。もともと会話にはこんな側面があるのは否めないが、動詞のない文や単語の羅列では聞き手の負荷が大きすぎる。

思うかぎりを尽くして、その相手にその場で言うべきこと、言いたいことを生の声で語る。生真面目なエトスを静かなロゴスで、奇を衒わず、また迎合もせず、パトスを抑制気味に……。テンションの高いトークや熱弁など意識するには及ばない。こういう語りを、ぼくは〈アコースティック・トーク〉と呼んでいる。自分一人ではいかんともしがたい。このトークは題材と相手を選ぶ。

独学を見直す

名称や形態は変遷したが、30代後半から本業以外に私塾を主宰してきた。地元大阪の縁がある、緒方洪庵が創始した適塾てきじゅくの〈輪講りんこう〉という会読と討論の方法にはとりわけ触発された。ちなみに、輪講は段階別の8クラスに分かれていて、各クラスで3か月連続首席を取らないと上のクラスに上がれない仕組みになっていた。福沢諭吉は首席を取り続け、最短の2年で最上級まで駆け上がった。さすがと言うしかない。

『福翁自伝』をはじめ『適塾の研究』(百瀬明治著)や『日本の私塾』(奈良本辰也著)などを読み、かつての私塾の姿を垣間見るに及んで、現代人は学ぶということについて幕末や明治期に比べてかなり甘いと感じるようになった。わかっていることを確認したり、わかることだけを都合よく学ぶだけの人たちがどれだけ多いことか。翻って、適塾の勉強量は圧倒的だった。それでいて、難しいことをおもしろいとする塾風のお蔭で「苦の中にこそ楽あり」という精神が漲っていた。

適塾は蘭学塾だったから、学びの狙いははっきりしていた。しかし、蘭学を蘭学で終わらせず、世事一般に生かす知力も同時に備えることができた。本物の競争をおこなうという環境の中で、総合力が身についた。

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本を読んだり人の話を聴いたりするだけの学びでは閾値を超えることはできない。何を読むか何を学ぶかよりも、何を考えるかが初めになければ話にならないのである。結局、知識は思考域に落とし込んでおかないと自分のものにならないし、行動にもつながらない。

そもそも学ぶことは難しいものだ。独学ならなおさらだ。だから、「難しい」などと嘆いてはいけない。「難しい」は禁句である。容易にわかるのは、すでにある程度わかっているからだ。Xを学んでわかるのは、そのXについての知識を持ち合わせており、新しい学びと既知を照合できるからだ。

その〈照らし合わせ〉ができない時に、わからない、難しいと感じる。そこでストップすると進化はない。昔の人が、意味もわからずに漢詩を素読したり丸暗記したりしたように、わからなくても齧っておけば、かけらの一つでも取り込める。それが次なる未知と出合う時に、照合可能なヒントになってくれる。

人の〈知圏〉というのはこんなふうに広がっていく。語彙ゼロで生まれた赤ん坊が知らぬことばを徐々に習得するのと同じ構造である。誰もが通過してきた経路なのに、大人になると能率的ではないことに苛立つ。

本物の勉強は――赤ん坊がそうであったように――「無私的」なのだと思う。自ら学び考えることをろくにせずに、勉強の彼方に立身や利益を求めるかぎり、学びは安易なハウツーに偏重するばかり。決して人間性や社会性を帯びることはない。独学を習慣化し切磋琢磨して競い合うような厳しさが決定的に不足している時代を嘆く。

恒例を変えてみた

儀式や行事をいつも決まって同じようにおこなうこと。それを恒例という。だから、変えるともはや恒例ではなくなる。「変わりゆく恒例」など本来ありえない。

今の居住地に引っ越してから14年。元日には毎年高津宮こうづぐうに詣でて神籤みくじを引いてきた。今年も同じく詣でる〈儀〉を執り行ったが、神籤は引かなかった。過去13回引いて、吉が出たのが一度、あとは凶や小凶や大凶の類ばかり。吉の出た年を除いて、過去13年はまずまずの好日の日々だった。神籤? もういいだろうという気分で引かなかったのである。つまり、枝葉末節的に恒例を変えてみた。

二日後にたまたま天満宮近くを通りかかったので、ついでなので境内を横切ることにした。元日ほどではないが、大いに賑わっている。人混みを避けて歩いていたら「おみくじ所」の前に出た。高津宮で引かなかったから今年はここにするかとふと思ってしまい、美人の巫女の列が空いていたので引いた。変えた恒例がまた変わった。 

番号札は第十五番。いつもの通り「凶」だった。よほど凶との相性がいいようだ。けれども、凶に特別な嫌悪感はない。くにがまえならメ(×のつもり)が格納されているみたいだが、幸いにしてメが入っているのはうけばこである。上部が開いているからいつでもメを取り出せばいい。

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引いた手前、凶の文字だけ見て終わらない。律儀に全文に目を通す。願事、学業、恋愛、探物、健康、旅行、商業、家庭……どれも良くないことが書いてある。とりわけ、健康は身体ではなく心の養生をせよと。精神に問題を抱えているのか。縁談は時期尚早、良縁を待てとのお達し。もうとうに手遅れだ。

吉方のみ、良いも悪いもなく、「北の方」が良いと告げる。遠方の出張では西方面多く、北にはほとんど縁がない。但し、近場なら、自宅から事務所は北の方向、月に一、二度行く梅田も北。吉方が北だからと言って、北ばかりに行くわけにはいかない。行った手前、帰ってこなければならないから、同じ数だけ南へ戻ってくることになる。

総評または概要として【ただ祈るべし】という見出し。神社仏閣に詣でても祈ることはないし、神仏の信仰心も浅いことが見抜かれたようである。祈るべしと命じられたら祈ることはやぶさかではないが、そもそも「何をどう祈るのか」を知らない無粋者である。

堂々巡りの語釈

単行本では読んでいたが、古本屋で文庫版を手に入れた。別役実の『虫づくし』。カフェで読み始めた直後、「序にかえて」の文中の次のくだりで考えさせられる。

試みに、広辞苑に拠って「虫とは何か」を調べてみると、次のようになる。
「①古来、本草学で、人類を獣類・鳥類・魚介以外の小動物の総称。昆虫など。」

この本は虚構的なエッセイである。あるいは、ある種の小説として読むこともできる。真の中に偽なるものが、偽の中に真なるものが書かれるので、この著者の文章を読む時は真剣すぎても油断しすぎてもいけない。

上記の引用の真偽のほどはわからない。念のために調べるなどという読み方をすると途端につまらなくなる本なので、書かれるまま読み続けるのがいい。著者は広辞苑から引用し、「虫は、否定形でしか説明されていない」と補足する。

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なるほど、辞書の語釈の記述にはたしかに否定形がよく現れる。定義に困ったら見出し語の本質に切り込むのではなく、「~を除くもの」「~ではないもの」「~の反対」などの記述で逃げる。これが辞書編集の常套手段であり苦肉の策である。

「しろ【白】」が「雪のような色。↔黒」という具合。気になって、「くろ【黒】」の項を見ると「墨のような色。↔白」である。白は黒に、黒は白にもたれ掛かっている。まるで二語ワンセットによる意味のあぶり出し。

「じゆう【自由】」はどうか。「他からの拘束・束縛などを受けないこと」。自由の意味を知らない学生が拘束と束縛を知っているとは思えない。編纂者もそう確信していると見えて、ご丁寧に「拘束こうそく束縛そくばく」とルビを振っている。

自由の見出し語から先へ十数ページ捲ると、「じゅつご【述語】」に出合う。「文の成分の一種。主語について、その動作・状態・性質・作用などを表す。」とある。「主語」を知らなければ、述語の意味がわかるはずもない。

あることがわかっているから、それを手掛かりにして別のことの意味が類推できる。わずかな既知から未知を導く。手掛かりがなければ、いかんともしがたい。定義にはどこか堂々巡り的なところがある。意味を明快にする必殺の一文などないのだ。このことは、言語を学ぶ過程で常に体験することだと思われる。

クロワッサンとパン屑

ショーソン・オ・ポムを食べる。なに、大それたものではない。「アップルパイ」をフランス語で書いただけ。まずまずの好物だ。

アップルパイは食べにくい。ぽろぽろと皮が剥がれるわ、くずがこぼれるわ、とにかく食べにくい。しかし、それでこそアップルパイだ。ぱりぱりの皮を剥がさずこぼさずに上品に食べている人がいたなら、その人かアップルパイのどちらかが怪しい。皿やテーブルにかけらを落とさず、指や口元を汚さないでアップルパイを食べるのはマナー違反である。

パリに三度旅し、アパルトマンを借りたことがある。レストランで料理を食べるよりも自炊が楽しく、自炊のための材料の買い出しにわくわくした。とりわけパン屋で並んでバゲットとクロワッサンを買うのが日課になった。焼き立てがいいのに決まっているが、必ずしもこだわらない。

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アップルパイも皮が剥がれて口元からこぼれるが、クロワッサンはそれ以上に剥がれてこぼれる。しかし、こぼれないようにと手で受けてはいけない。絶対にしてはいけない。

「正月食」に飽きて、アップルパイかクロワッサンを食べたくなった。S.マルクというカフェの前を通りかかったので、コーヒーとクロワッサン生地のチョコレートパンを注文した。店側はそのパンを「チョコクロ」と呼ぶ。チョコレートクロワッサンである。さすがはクロワッサン、ぽろぽろ落ちる。周囲を気にせずに食べ続ける。テーブルや床にこぼし放題。繰り返すが、手や紙ナプキンで受けてはいけない。集中力がパン屑に向くと、クロワッサンがまずくなるのだ。

くずはトレーの上に落ち、トレーからはみ出てテーブルの上にも床にも落ちた。生地のぱりぱり度にもよるが、本体の約10パーセントがこぼれる覚悟が必要。つまり、10個買っても食べるのは9個。それがクロワッサンというものなのである。

反復という習慣

風土を決定する要因は数えきれないが、風土という文字が示すように「風」と「土」が主要因になりそうだ。食は風土によって決定される。人類は好きなものを食べてきたのではなく、風土に育まれた食材を口に運んだ。環境に食性を決定されてきた。今は何でもありになったのでこのことを忘れがちだが、われわれの祖先は日々ほぼ同じものを――好きとか嫌いとかつべこべ言わずに――繰り返し糧にしてきたのである。

何度同じことを言い、同じことを書いてきたことか。そうこうしているうちに、言語は脳で記憶するだけでなく、身体、とりわけ筋肉と同化する。母語も外国語も反復によって習熟度が高くなる。只管朗読、只管筆記、侮るべからず。

来年2月に本ブログは1,500回に達する見込み。約11年半、月平均10回、1回の記事は原稿用紙に換算すると平均34枚。特別な才能も大いなる努力もいらない。ある種惰性のような執拗さとただひたすら繰り返すことだけが求められる。

繰り返し(あるいは反復)はマンネリズムと安心(あるいは油断)を生む。いちいち考えなくてもよくなる。同時に、ある事柄に精通し、熟練度が進む。功罪相半ばする。さあ、どうしたものだろう。

反復しながらも、意識的に何かを少し変えてみると、いつもの景色が少し変わる。昨日と違う緊張感と新鮮味が出てくることがある。飽き性の凝り性だからそこに期待するしかない。ここ10日間ほど、どちらかと言えば機械的な作業をずっとやってきた。最初は愚痴をこぼしながらやっていたが、完了間際にして楽しんでいることに気づいた。仕事は――たとえそれがマンネリズムに満ちることがあっても――選んだ以上は楽しむに限るのである。

表現と推敲

専門家はその道のことを知っている。ぼくらよりはよく分かっている。ところが、よく知っていて分かっていても、そのことを表現し他者に説明するとなると話は別。専門家の誰もがみな上手にできるわけではない。

分かっているがうまく言えない、あるいは、ことばにできない。これを〈暗黙知〉という。大人は子どもに自転車の乗り方のお手本を見せたり、漕ごうとしている子どもに手を差し伸べたりできるが、ことばで言い表そうとすると苦労する。できることと、それを表すことは別物だ。

しかし、説明してもらわねば素人にはわからない。手さばきでプロフェッショナル度を判断できる技芸や技能ならいいが、どんなに凄いのかが見えづらい分野のことは専門家その人に説明してもらわねば、チンプンカンプンなのである。

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分かっているけれど上手く表現できないという専門家が実に多い。ほんとうに分かっているのだろうかとつい怪しんでしまう。そういう専門家が書いた文章を推敲して欲しいという依頼が多い(ちなみに、彼らは推敲などと言わず「リライト」と言う)。書かれていることの詳細はぼくにはよく分からない。何度も読んで理解しようとする。そして、彼らよりも専門性の低い人でも分かるように書き直す。時には大胆に加筆削除をおこなう。専門家は「とても読みやすくなった」とおおむね喜ばれる。

知っていることと表すこと。同一線上にあるのは間違いないが、必ずしもその二つは同期するものではない。知っているがゆえに、意味もなく一文が長くなったり、二つの異なった事柄を一文で書こうとしたりする。そんな書き方をしているうちに、文法や語用の間違いをおかす。分かりやすさのためには、文法的であること論理的であることは外せない。

分かりやすさを追求するなら、表現の新鮮味や創造性をある程度諦めなければならない。逆に言えば、文章の妙味は脱文法的で脱論理的なところで生まれる。私事になるが、歌人の長男に「四季が死期にきこえて音が昔に見えて今日は誰にも愛されたかった」という短歌がある。「誰にも」ときたら続くのは否定形、つまり「愛されなかった・・・・」ではないか、と父であるぼくはつぶやいた。

下の句の『今日は誰にも愛されたかった』がこの12月、そのまま本のタイトルなった(谷川俊太郎・岡野大嗣・木下龍也共著、ナナロク社)。文に縛られない文。「法から芸へ」。今日も芸を押し殺して推敲作業するぼくには羨ましい。

コンセプトの現実と想像

コンセプト(concept)は好き勝手に解釈され定義されてきた。一般的には「概念」や「考え」の意味で使われる。それならわざわざコンセプトと言う必要がない。概念や考えやアイデアとは微妙に違うから出番が与えられている。「ことばで表される大まかな想い」という意味を基本として、「他とは違う固有の差異を表す表現」としてとらえてみよう。

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「コンセプトの発見」とか「コンセプトを探す」などと言われるが、コンセプトはどこかにすでに存在するものではない。モノや考えに付属しているのではなく、モノや考えをとらえる人の頭で湧き上がる。つまり、そのつど想像するものであり、想像の結果、新たに「創造」される。

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タカとワシは峻別されている。発音も違うが、漢字も「鷹」と「鷲」と書き分ける。誰もがタカとワシが別の鳥だと認識している。では、実物のタカとワシを見て、正しく見分けられるか。タカもワシも「タカ目タカ科」であり、そもそも個体識別ができないと専門家は言う。

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見分けられないのなら、一つの呼び名、一つの漢字だけで良さそうなものなのに、わざわざ二つの別の呼び名、二つの別の漢字で表そうとした。それがコンセプト。発見したのではない。想像によって、ことばによって、コンセプトを創造して種を分化させたのである。

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コンセプトは必ずしも現実を反映するわけではない。生態的にも観察的に区別がつきにくいにもかかわらず、慣習的に取り決めたコンセプトを創ったのである。やや大型のものをワシと呼ぼう、人が訓練でき狩りをさせることができるのをタカと呼ぼうという経緯があったと思われる。

足し算と引き算

煩雑ではないこと、わかりやすいこと。言うのは簡単だけど、そんな表現や形や手法をうまく編み出せそうにない。シンプルに考えよと言われても、シンプルな思考がシンプルな出来を約束するとは限らない。

あれもこれもと欲張り複雑に考え統合的に構想し、悩みに悩んでようやく満足のいくシンプリシティに近づける。その過程では足し算づくめの試行錯誤が繰り返された後に、引き算された姿が現れる。

足し算を続けていくと、オーバーフローしオーバースペックになる。そこから〈かなめ〉が抽出される。ある要素の抽出は別の要素の切り捨て、つまり引き算。引き算には取捨という決断が求められる。

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森を見る、マクロに見る、中長期的に見る、じっくり見る……こういう見方は大局的で魅力的なのだが、いろいろ見えてしまって、つい「あれもこれも」と足し算しがち。そのままでは混沌とした状態のままだから、いずれ「あれかこれか」の決断を迫られる。

枝葉を見る、ミクロに見る、近視眼的に見る、瞬発的に見る……こういう見方が引き算につながる。あれかこれかの決断には潔さが欠かせないが、シンプリシティを求める思いがテコになる。

月見うどんはシンプルな一品か否か。微妙である。かけうどんに生卵を落としたのなら足し算である。かけうどんに比べるとシンプルではない。しかし、あれもこれもトッピングしたいとイメージした後に落ち着いた月見うどんは引き算の形にほかならない。同じ場所に到達するにしても、足し算発想で終わるか引き算発想で終わるかで、過程は全く違う。

雲からできた綿菓子

その日、出張先にいた。午後の講演の開始前、自販機の缶コーヒーで一息つくことにした。同じフロアでは地場産業展が開かれている。天井まで届きそうなガラス窓の外は雲が多かったが、よく晴れていた。建物の外に出た。しばらくして、展示会場から若い母親と女の子が歩いてきた。女の子は綿菓子をなめている。母親と目が合い、「失礼ですが、その綿菓子、どこで売っているんですか?」と尋ねた。「これ、無料ですよ。アンケートに答えたら、くれたのです。」 綿菓子が欲しかったのではない。なぜこんな場所で綿菓子? と思ったから。

女の子、おいしそうになめている。「3歳半……くらいかな?」と聞けば、「先日4歳になりました」と母親。ぼくは青空に浮かぶ雲を指差して女の子に言った。「その綿菓子を作ってくれたおじさんはね、朝早く飛行機に乗ってあの雲を取りに行ったんだ。そしてね、持って帰ってお砂糖をふりかけてみんなに配っているんだよ。」

女の子は照れくさそうな表情をして、母親に顔を向けた。そして、綿菓子を口元から離して雲を見上げ、白い雲と綿菓子を何度も見比べていた。

「さあ、行くわよ。」 母親の声に促されて女の子は歩き始めた。少し歩いたところで振り返った。そして、にっこり笑ってぼくに言った。「ウソでしょ!?」 絶妙の間だったので、ぼくは吹き出した。