独断的な料理の話

イタリアの米、カルナローリが手に入ったら……
超みじん切りの玉ねぎをオリーブオイルで炒める。イカの切り身を加えて塩少々、完熟トマトでほどよくなじませる。そこにカルナローリを生米のまま投入。すかさず、あらかじめ用意していたイカ墨たっぷりの魚貝スープを米と同じ分量加える。弱火で煮ること15分。焦がさぬように火の用心。火を消して蓋をして蒸すこと5分。バスク風イカ墨めしの出来上がり。うまい。自画自賛すると、さらにうまくなる。

鶏の親と子が丼で再会する諸行無常
親子丼はシンプルで食材も少ないが、出来上がりのうまさには天と地ほどの差が出る。
ところで、親子だからと言って、親と実の子が丼の中で出合うことはない。親子丼における親子は実は他人どうしだ。ゆえに、親子丼こそを他人丼と呼ぶべきなのである。では、現在他人丼と呼ばれているあの一品をどう改名するか。一案として「別人丼」を推奨したい。


食べる茄子、見る茄子、描く茄子

夏が終わって、必然のことわりとして秋になった。茄子がうまい。色も形も扱いにくそうだが、料理人の思惑とレシピの指示に変幻自在に従う。つまり、好きな調理法で好きに食べることができる。
いつぞやテレビ番組で茄子を鰻に見立てて「茄子丼」なるものを作っていた。もどきで偽るのは茄子に失礼だ。茄子は茄子でいい。鰻が食いたければ鰻を食えばいい。
カリフォルニアのメキシカンマーケットには想像力に満ちた形の茄子が並ぶ。しばらく見惚れていた。茄子をモチーフにした日本てぬぐいのポストカードにも飽きない味があった。
いわゆる典型的な形の茄子を描いたことがある。地味にも派手にもなる。あなた好みの茄子になる。

パスタに五目パスタや八宝菜パスタはない!
そもそもご馳走感が出た時点でパスタはパスタでなくなる。パスタはソースをベースにした「かけ」が基本である。しかし、毎日「かけパスタ」ではさびしい。と言うわけで、具を加える。しかし、具は一菜か二菜まで。五目風や八宝菜風にすると主役の麺がかすむ。
ローマ名物のカーチョ・エ・ペペはベーコンのみ。胡椒とチーズで味つけする。野菜不足などという野暮は言わない。パスタの理想形だ。
ソースと調味料以外に具を貪ってはいけない。もし具を増やしたいなら、別皿にしてワインのつまみにすればいい。
パスタの心得
1.パスタは大盛り(但し、麺のみ)
2.具は一種類か二種類(麺がしっかり見えること)
3.つゆだくソースや冷製は亜流

ことばのあれこれ


書名を見て、目次だけを一瞥して本を買う。買った本のうち、全ページ読むのが3冊に1冊なら上等。残りは拾い読みか読まずの本。
本編に目を通さないことはあっても、買う時点で絶対に読んでいる箇所がある。帯文がそれ。帯文でそそのかされて衝動買いした本は数え切れないが、帯文に負けない本文の本にはめったに出合えない。帯文だけの本を書いてみたい。

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「空気を読む」には強い意識が働いているが、「気配を感じる」はセンスかもしれない。空気ばかり読んで、気配をまったく感じない鈍感に気をつけたい。ちなみに、春は予感・・なのに、なぜ秋は気配・・なのだろう。台風の進路を読み・・ながら、考えている。

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長く情報誌の編集をしてきて、ここ数年はそのテーマで研修する機会がある。事例を集めているうちに、デザインと文章の型についてよく考える。
デザインには理があり、ある程度まで定型化は可能だ。文章も理を扱うが、日本語に型を定めるのは容易ではない。コンセプトという「想い」とのつながりからして、人それぞれに型はあるのだろうが、一般的な型というものはない。
保守的かもしれないが、文章あってのデザインであることは間違いない。デザインあっての文章ではない。これが情報誌づくりの基本。

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どなたかがテープから起こした原稿を読んで書き直す仕事がある。音声は聴かずに文字になったものだけを読む。
たとえば座談会。話者らはほとんど断定しない。「……とか」や「……と言える」や「……と思う」で言い終えることが多い。文末の動詞で意味を明瞭にしてくれない。ぼかしている、いや、ぼけている。照れているのか、自信がないのか、伝える気がないのか……。参加した人たちの文字になったことば遣いを推敲しながら、最近の発言はやわなつぶやきばかりだと、ひとりつぶやいている。

オリジナルと修復


「お客さん、この年代物の斧を買ってくださいよ」

「なんだい、それは?」
「これは、かのジョージ・ワシントンが桜の木を切った斧です」
「ほう、よくも今まで残っていたもんだな。ほんとうに正真正銘なのかい?」
「そりゃ、もちろん! ただ、270年も経ってますんで、斧を2回、3回ばかり交換したそうです。だから、丈夫なことは請け合いますよ」

哲学の本質論に通じるエピソードである。アンティーク価値云々はさておき、この斧はワシントンの斧なのか、それとも別の斧なのか? もはやオリジナルの部材は残っていない。だから、ワシントンの斧と呼ぶには躊躇するむきもあるだろうが、もし話が真実なら、偽物やコピーとは一線を画しているし、ワシントンの斧というブランドが差異化されている。ブッシュやトランプの斧ではないのだ。

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伊勢神宮では遷宮せんぐうがおこなわれる。正殿や社殿が20年毎に造り替えられる。1300年にわたって数十回やり替えて今に到っている。見た目の原形は同じだが、当初の建築資材は微塵も残っていない。あれは伊勢神宮なのか? 物的にはそうではない。しかし、偽物ではない。鎮座するのは伊勢神宮というブランドではないか。

継ぎ足して使っている鰻のたれやおでんの出汁。何十年か知らないが、創業時のたれの一匙も出汁の一滴も残っていない。にもかかわらず、「代々継ぎ足して、創業時と変わらぬ味を守っています。店主敬白」。

フィレンツェのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会の壁画と言えば、あの有名な『最後の晩餐』。レオナルド・ダ・ヴィンチが描いて1498年に完成した。ところが、壁画の定番技法であるフレスコではなく、テンペラ画だったため、想定外の劣化が進んでしまった。完成後わずか十数年でひどい状態になったという。何度も小さな修復を重ねてきたが、いかんともしがたく、ついに20年以上の歳月をかけて大修復をおこなう。現在の最後の晩餐は20世紀の終わりに仕上がった。

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生まれた時のオリジナルな細胞は人体のどこにも残っていない。しかし、人はずっと昨日の自分と今日の自分は同じだと信じて生きている。では、自分を自分たらしめている不変の本質とは何かと問うてみよう。その瞬間戸惑い、自分の考えている本質がいかに漠然としたものかを思い知る。本質とは、体ではなく、名であるという主張もあながち誤りではない。

インタラクティブの不足

会話の場面が以前に比べて極端に減ったとは思えない。世間話はするし、時事的な話題の、さほど深掘りしないやりとりは交わされる。しかし、こうした会話が中身のある対話になっているかと言うと、そうではない。会話と対話を厳密に区分しづらいが、一つだけ大きな違いがある。

会話で交わすのは雑談である。雑談に厳密なコードはない。三人の場合、Aが話し、それにBCが頷いて何も言わず、次いで、またAがことばを継ぐのはよくあることだ。一区切りして振り返ったら、場を仕切って喋ったのはほとんどがAで、BCは寡黙。即座に響かず声を発していないので、この類のコミュニケーションは対話と呼べないのである。

先日の病院の待合室でのこと。ぼくが座るソファのすぐ隣りにシニア夫婦。妻が少々ややこしい手続きの話をしている横で夫は目を閉じ、目に見える反応もせずに聞いている。いや、聞いているかどうかもわからない。妻は時折り夫の顔を見、スマホの画面を見せながら手続きの説明をしているが、夫はスマホの画面を見ない。しばらくして、妻は語気強く言った、「ねぇ、聞いてる?」 

打てども響かない夫。響く気がないのか、響く能力がないのか。響く能力とは“response + ability”、一語にすると“responsibility”である。ふつう「責任」と訳される。誰かの問いかけや意見に対して響く能力を発揮するのは責任にほかならない。ぼくに丸聞こえの妻の切り出した話は雑談で片付く内容ではなく、対話でなければならなかったはず。

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本来なら直に対話すべき内容をメールで片付けている今日この頃である。メールに目を通すことと、目を通したことを相手に伝えることは違う。メール見ましたと伝えることと、メールの内容に反応して返信することはさらに違う。手紙でも同じことだが、手紙では発信と受信、受信と返信に時間差があるから、良識的にはなるべく返信を急いだものである。

ところが、メールになると、ほぼリアルタイムであるから、送った側は即時読んでもらえるものと思っている。半日が過ぎ、翌日になっても返信が来ない。少々苛立つ場合もあるだろう。実際に会っていたら、相手もこういう無反応であるわけにはいかない。

メールにせよSNSにせよ、発信には熱心だが、受信してもレスポンスを怠る傾向が顕著である。レスポンスしない、しても遅いのは双方向インタラクティブ対話の責任を果たしていない。直接会ってないからこそインタラクティブが重要ではないのか。一対一のインタラクティブが基本になって、それが人間関係や人間交流のネットワークを形成していくのである。

食べること

仕事を大いに楽しめる時がある一方で、捗らない、やり直しが多い、締切に追われるなど、仕事で消耗することもある。逃げ出したい気分になることも少なくない。しかし、長い目で見れば、仕事の特徴はほどよい喜怒哀楽であることがわかる。つらいことがあって楽しいこともあるのが仕事なのだ。もう何十年も山あり谷ありを経験して今に到っているから、よく承知しているつもり。

つらい仕事から逃避して仕事以外の慰みで相殺しようとしても、結局仕事のつらさは緩和しない……仕事のストレスは仕事の中で解消すべきなのだ……という硬派な意見がある。一理以上の理があると肯定するが、凡人が仕事のつらさを仕事の楽しさによって克服するのは容易ではない。仕事の外にくつろぐ場面や楽しみの拠り所を求めるのもやむをえない。

食事の場面がまさしくそれで、食べることが楽しみの拠り所になるのである。食べることは、仕事を内蔵した生きることと不可分の行為なのだ。しかも、わずかな例外を除いて、一日に三度、決まったようにその機会がやってくる。食事は仕事の前、途中、後にやってきて、その時間割は仕事を包み込んでいる。

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池波正太郎の『男のリズム』に「食べる」という小文があり、天婦羅や鮨の食べ方について独特の薀蓄が書かれているが、その冒頭は次のように神妙な切り口で始まる。

人間は、生まれると同時に、確実に〔死〕へ向って歩みはじめる(……)その〔死〕への道程をつつがなく歩みきるために、動物は食べねばならぬ。これほどの矛盾があるだろうか。

いずれ死ぬことはわかっている。死を前提として生きており、生きるために他の命を積極的にあやめて食べている。生きるために食べていると同時に、死を前提として食べているのである。

いかにも、食べることは生死に密に関わっている。そして、死生観について語ろうとすれば、形而上学的な屁理屈だけではなく、必然的に日に三度の現実的な食べることによって大部分かたどられるはずである。食べることに恵まれ積極的に楽しめるのは、限られた生の、刻一刻の至福にほかならない。

あれこれが嫌いなどというのは、食べることの――ひいては生きることの――冒瀆であり傲慢な態度である。食べることは人生と同じ重さであり、食べることには精神の横溢がある。仕事観も人生観もポジティブにならざるをえない。「生きるために食べるのか、食べるために生きるのか」という古典的な問いがあるが、答は明白、その両方だ。言うまでもなく、仕事は生きることに含まれているから、「人は食べるために仕事をし、仕事をするために食べる」も真である。

ありえない「みんな」

「パンテオン(Pantheon)」はギリシア語起源、由来は“pan+theos”。「すべての神々」のことで、転じて万神殿を意味する。建立当時の二千年前はまさに「神様のデパート」の様相を呈していたが、後世になるとキリスト教だけを崇めるようになった。あの神もこの神も祀りたいという気持ちはわかるが、必ずしも現実的ではなかったようである。

すべて、全部、みんな……。理念は結構なのだが、めったに長続きしない。まんべんなく公平は実現したためしがなく、万民のための策を講じているつもりでも、万民と呼ぶ対象がすでに「みんな」ではない。万人向けは誰にとっても喜ばれない場合も少なくない。

「ローマに行くのですが、パンテオンは一度見ておいたらいいですかね?」と聞かれて、「ええ、ぜひ一度。一度は見ておきたいですね。ツアーにも含まれていますし、みんな・・・見学していますよ」と答えた。よく考えて答えたのではない。口走ったというのが正しい。みんなが見学しているという確証あっての助言ではない。それどころか、「みんな見学しています」は適当な証言なのである。

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ぼく自身はパンテオンに二度足を運んだ。それでも、「みんな見学しています」と言った時のみんな・・・に自分が含まれていないことを自覚している。他の人たちというほどの意味である。みんなは曖昧語だ。決して「全員」ではない。もっと言えば、みんなを定義することは不可能。文脈に応じてそのつど変わるし、もしかすると、現実にはありえない空語なのかもしれない。

以前、大阪限定の啓発コマーシャルがあった。「ここは駐車禁止です!」という警察官に対して、主婦が反発する。「なんで私にだけ言うの!? みんな・・・停めてるやないの!」 ここでのみんなとは自分を除く他者のこと。極端に言えば、他者は一人でもかまわない。みんなはall(すべて)ではなく、someone else(他の誰か)のことだ。

結党当時は勢いのあった〈みんなの党〉。みんなという命名に無理があった。みんなは一握りの人たちのことで、党首からすれば仲間というほどの意味だった。そして、みんなは崩壊した。良識的に考えればわかることだ。国家や企業や党がみんなのことを考えているはずがないのである。

本と読書の雑感

本と読書はイコールではない。読書は本のしもべ的行為にすぎない。読書は文字を相手にするが、本は文字だけを扱っているのではなく、読む対象として存在しているだけではない。見て選び、装幀やデザインを楽しみ、紙の手触りを感じ、かつ所蔵して背表紙を眺める多様な対象なのである。
本という存在は読書行為以上のものなのだ。したがって、買いっ放しの積んどく状態や書棚に並べっ放し状態を恥じるには及ばない。

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書くには表現語彙が、読むには認識語彙が必要。表現語彙が乏しくても、認識語彙はその数倍あるから本が読めるのである。
どんなビールの味かと聞かれて「うまい」としか言えない者でも、辛口、キレ味、サラミソーセージに合う、のどに沁みるという表現を認識することができる。書けないが読めばわかる能力が読書を可能にしている。

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読書の季節と言えば、秋ということになっている。いつの頃からか、1027日から119日の2週間が読書週間とされるようになった。ちゃんと文化の日が挟まれている。本など読む気がまったく起こらなかった夏場が過ぎてほぼ一ヵ月、脳もようやくクールダウンしてリフレッシュする季節だ。
しかし、読書週間・・に触発されても読書習慣・・は易々と身に付かない。暇人か書評家を除いて、普段読書に勤しまない者は2週間で23冊読めれば御の字だろう。読書週間だからと張り切るよりも、全天候型で少しずつ読むのがいい。

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どんな本も多かれ少なかれ偽書である。『偽書百選』は、かつて存在しなかった本をでっち上げ、一冊一冊の偽書に丁寧な書評を創作した作品。読んでいるうちに、偽書であるか「真書」であるかは本質ではなくなってくる。フィクションという作品もまさにそういう類。
『ジョークに笑えない戸惑い』という本を実在の著者が実名で書いたとする。それを「テレ・カクシー著、井伊嘉元訳」という偽名で発表したとしても、何が大きな違いなのかはよくわからない。

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読まねばならないという強迫観念から脱した時にはじめて読書の意味がわかってくる。三島由紀夫の『仮面の告白』、太宰治の『人間失格』、夏目漱石の『こころ』、コナン・ドイルの『シャーロック・ホームズの冒険』を読むべし、読み返すべしと誰かに言われても、言われるがままに読めるわけがない。
気まぐれに本を手に取り、時にはゆっくり、時には飛ばしながら読む。著者が一気に書き上げていない本を一気に読まなければならない理由などない。

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誰かに薦められるまま本を素直に読んでいては、読書の妙味を失うことになる。何を読むかと迷いながら自ら選ぶ時に幸せになり、決断して買う時にさらに幸せになり、本に囲まれて背表紙を見てもっと幸せになる。やがて、幸せが極まって読み始める。ところが、読み終わったら幸福感が消えることがある。バカになっていたりすることもある。読む前の本は裏切らないが、読書は裏切ることがあるので要注意だ。

10月間近の趣

寒空さむぞらのもと、堀の水面みなもにただ影を落として沈黙する城の石垣。ぼくはと言えば、語りえぬものを饒舌に語ろうとしてまだ懲りない。

こんな文を綴ってから春夏が過ぎた。何があろうとも――温暖化だの猛暑だのと騒いでも――季節だけは着実に移ろう。月に一度、北大江公園の北側、旧高倉筋と呼ばれる細道の石畳の階段を上り下りする。この一ヵ月でずいぶん趣が変わった。空気が変わった。またぶり返すかもしれないが、ひとまず一つの分節をしたためた気がする。

階段の特徴はその二重構造にある。たいていの場合、上がったら下りねばならず、下りたら上がらねばならない。無限連鎖するように見えるエッシャーの絵にしても、上がったら下り、下りれば上がるという構造が基本になっている。まったく個人的な所見だが、エッシャーは春夏向きではない。どちらかと言えば、これからが鑑賞シーズンである。

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表通りには人が忙しそうに歩き、街角は喧騒に包まれている。だが、ほんの少し歩を進めると静寂の裏通りに入り込める……そんな街を選んで暮らしてきた。この歳になって、さすがに自然溢れる場所に飛び込んで新しい居とすることはできない。不足気味の自然は写真と動画で補う。生の身体は都市で動かす。

自然に囲まれたり自然に向き合ったりすると、従うしかすべがない。感動するにはするのだが、次第に感情が一定してきて、たとえば風景を描写しようとしてもいつも同じ形容詞しか出てこない。その点、都会は表現的な冒険をさせてくれる。あれこれといちゃもんをつけて反逆的個性を自覚できる。時には乾いた感想が、時には昂揚した表現が、また別の時には幻想や空想が、自由自在に湧き上がる。

朝、全方向をくまなく見渡すように空を仰いでみた。白雲の小さなかけらもなかった。つまり、晴れて澄みわたるような青天。10月間近。カフェテラスでのホットコーヒーが味わい深い季節になった。これからの一ヵ月が旬である。

ことばを紡ぐということ

「思いを明らかにするためにことばを用いる」という見方がある。この見方に与するには二つの疑問に答えなければならない。一つは、はたしてことばに先立って思いがあるのかという点。もう一つは、ことばが思いを明らかにできるほど精度が高いのかという点である。

ことばに先立って思いがあるのなら、思いは非言語的なはずである。非言語的な感覚をどのようにことばに変換しているのだろうか。ことばに頼らない意味とはいったどんなものなのだろうか。「悲しい」ということばとまったく無縁な心境が湧き上がり、なぜその心境を悲しいと言うのか、到底理解できない。

仮にことばがその悲しい思いを明らかにできるとしよう。その時のことばはどんな表現や姿かたちを取るのか。やっぱり「悲しい」なのか。度合を示すなら「とても悲しい」とか「ちょっと悲しい」なのか。そうではない。悲しいということばを知っているからこそ、そのことばに近い心理が感知されると言うべきだろう。

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悲しいや楽しい、腹立たしいなどの感覚が先にあって、それらを表わすために一つ一つことばを当てはめていったはずがないのである。むしろ、思いや感覚(さらには意味)はことばによって作り上げられている。単語としてはさほど精度の高くないことばを紡いでいるうちに、表現に工夫が生まれ言い回しが巧みになってくる。ことばの成熟が心の機微を枝分かれさせている。下手なことばをやりくりして編んでいるうちに思いが熟してくる。

すでに明快になった思いを表現しているのではない。ことばにふさわしい感覚がことばに対置されるのである。感覚を紡いでいるのではない。紡いでいるのはことばだ。風や花という文字や音を紡ぐ過程で、風や花にまつわる経験やイメージがあぶり出されてくるのである。

つまり、ことばを紡ぐから思いが呼応し、心象風景がくっきりと浮かび上がる。感覚や心象風景の数だけことばがあるのではない。分化したことばの数だけの感覚や心象風景しか姿かたちにならないのである。感覚や心象風景が大雑把で荒削りにならないで済んでいるのは、ひとえにことばをりながら紡いでいるからにほかならない。

まずうま讃歌

まずうま・・・・とは複雑な概念である。ほどよいうまさのことではない。まずくてうまい、あるいは、まずいがゆえにうまい、なのである。うまいものが氾濫している現在、過ぎたるはなお及ばざるがごとしにしたがえば、度を越してはうまさも裏目に出る。

一口入れて「うまい!」と感嘆するものの、もう少しまずければもっと「らしく」なるのにと思うことがある。そんな料理や食品があるのだ。

カフェ専門店でのランチにナポリタンを注文する。チーズがたっぷりかかっていて洗練された味。しかし、もはや想定内のナポリタンではない。昔懐かしい喫茶店の、少々ゆるっとした麺を使った、味に起伏のないあのレベルでいいのにとつぶやくのはアマノジャクな願望か。

京都七条の場末のパン屋で売っている酒饅頭のようなパンは見た目以上にまずい。1パックに56個入っている。一個50円ほどのやけくそのような値段設定。食べているあいだは「う~ん、よくもこんなに上手にまずく作ったものだ」なのに、食べ終わると「まずいがクセ・・になる、もう一個」となる。クセになるのは食後感に快さがあるからにほかならない。

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粉ものにはクセが欠かせない。穀物倉庫の匂いがするリングイネなどは最たるものだ。ミラノで食べたピザの粉っぽいまずさは呆れ返るほどだった。しかし、クセやまずさと折り合い、うまさに昇華させるには大人の舌が必要。食する者がクセやまずさをイマジネーションで補填してやらねばならない。ホウトウや団子汁もまずうまである。

うま過ぎるものに対して「もうちょっとまずくてもいい」というのは、美食の怪しさへの懐疑であり、一つの抵抗でもある。美食に飽きた人間が日常的な普通の〈実食〉に回帰する時、まずうまの良さを実感する。

ところで、へたうま・・・・というのもある。技術が未熟で下手なのだが、味があるという意味。以前よく似顔絵を描いていたが、絵は我流、ただ思うに任せてペンを動かすだけだった。へたうまと評されて気分は複雑だったが、うまへた・・・・と言われるよりはよほど褒め言葉であることがようやくわかってきた。まずうまに目覚めたお陰である。