表現品性とユーモア

以前紹介したが、『増補版 誤植読本』(高橋輝次編著)という本がある。錚々たる書き手による誤植のエピソードをまとめたもの。竹内寛子の「誤字」という一文が印象に残っている。誤植は作者の非ではなく、製版や印刷過程で生じるミスプリント。対して、誤字は原稿時点での作者の間違い。竹内は言う、「間違い方にも人は出る。よきにつけ、あしきにつけ、人と離れようのないのが文字遣いであり、言葉遣いである」と。

ことばのミスを完全に避けることはできない。絶対にしてはいけないと気を引き締めていてもミスの罠はあちこちに仕掛けられている。しかし、「間違い方にも人は出る」と指摘されると心中穏やかではない。悪気はなく、舌が軽く滑っただけなのに、失言に人柄や品性が出てしまう。下品が失言すると下品になり、上品は失言しても何とか品を保つ。

ネット上で注目された56年前の投稿を思い出す。文中に散りばめられた強烈なことば遣いの数々。「保育園落ちた 日本死ね」「一億総活躍社会じゃねーのかよ」「何が少子化だよクソ」「子供産むやつなんかいねーよ」「そんなムシのいい話あるかよボケ」……。

違和感のある表現が、このようにほざくしかなかった事情の前に立ちはだかる。事情がどうであれ、「死ね」「じゃねーのかよ」「クソ」「ボケ」などのことばを多用する者をぼくは原則信用しないことにしている。こうした表現をギャグとして使うお笑い芸人もいるが、芸もたかが知れている。上品がつねにいいとは言わないが、下品はつねによくない。ほどよい品性を下地にしてこその批評であり喜劇なのである。


周囲に目配りも気配りもせず、車内の優先座席で座って知らん顔している高校生にいきなり罵言を吐き怒号を浴びせた高齢の男性がいた。正義感に火が付いての言動だったが、下品に過ぎた。高校生のマナー違反の現象が小さく見えてしまい、高齢者の正義感を誰も支持しなかった。「じいちゃんの言う通りだ」と共感した乗客はほとんどいなかった。

「保育園落ちた」にも「座席ポリス」にも共感者はいる。自分勝手にテンションを上げていると感じるから、ぼくにはどちらも後味が悪く、苦笑いすらできない。読んだり居合わせたりするこっちの顔が引きつるばかりである。英語スピーチ術の定番の教え、It’s not what you say, but how you say it.”は「何を言うかではなく、どのように言うかである」という意味だ。表現の質は意見の妥当性よりも重要である。

うまそうな肉を焼いたのに、乗せた皿が悪かった。主張に引き込もうとしたのに、そんな言い方はないだろうといさめられる。とは言え、表現品性を高めるのも容易ではない。しかし、ミスにしても批評にしてもほんの少しユーモアの色味を足せば、何とかなるのではないか。

神がいないばかりではない。もっとひどいことに、週末にブリキ職人に来てもらうこともできない。

「神がいないこと」を下品に言うと大変なことになるが、ブリキ職人を登場させるだけで愉快な批評になる。これはウッディ・アレンのことば。怒鳴っていないし、いきり立っていない。

創作小劇場『そば湯』

 

 〈そば切り 文目あやめ〉がかなりいいそばを打つらしいと聞いていた。近くに行く用事があれば寄ってみようと思っていた。ようやく機会に恵まれた。
 オフィス街の外れだが、住宅地の町内で時々見かける質素な店構えだ。気根が丈夫そうな鉢植えのガジュマルが置いてある。背広姿が二人出てきた。入れ替わりに暖簾をくぐる。
 そば屋は主人も店員も、たいてい藍、白、抹茶、茶、黒のいずれかの作務衣を着る。迎えてくれた初老の男は白だった。店主だと直感した。厨房は息子に任せて客応対に専念していると推理した。

 「は~い、いらっしゃいまし~。奥の方へどうぞ、奥の方へどうぞ」
 口調も空気も今は亡き
桂枝雀に似ている。茶が出た。一口啜る。そば茶だった。客に「そばアレルギーはございませんか」などと野暮は聞かない。そばアレルギーが来ることはない。だから黙ってそば茶を出す。
 「今日は何を召し上がりますか? 何がよろしいですか?」
 一見いちげんのそば屋でメニューは見ない。行きつけの店に行ってもたいてい注文は決まっている。冷ならざる、温なら天婦羅そばだ。
 「ざるそばをください。後で替えそばを」
 ちなみに、ざるそば730円。替えそば400円。

 ほどなく二八のざるが運ばれてきた。ゆるいところがまったくない麺。嚙み心地ものど越しも申し分ない。麺に合ったつゆにワサビ。一枚終わってしばらくして替えそばがきた。そば徳利の汁を器に足して薬味も加える。あっという間に平らげた。
 「こちらそば湯です」
 絶妙のタイミングだった。使い込んだ朱塗りの湯桶ゆとうが置かれる。
 「だいぶ膨らんだので、すみません、今日はパスで」
 腹あたりをさすりながら、そう言った。

 その時である。離れたテーブルに座っていた常連風の初老の男性が突然喋り出した。
 「ビタミンB1B2、葉酸、タンパク質……亜鉛、カリウム、食物繊維……ロイシン、イソロイシン、リシン、バリン、メチオニン、フェニルアラニン、スレオニン、トリプトファン、ヒスチジン等々のアミノ酸……便秘解消、食欲増進、高血圧と脚気に効能発揮……熱々の白濁そば湯、当店自慢はとろみの強いこってり系。さあ、汁に注いで召し上がれ」

 調子のよい口上に、目を丸くしてたぶんポカンと口も開いただろう。お見事だった。店主を見れば、何もかも承知した上で笑いをこらえている。そば湯をすすらない客へのいつもの啓発か。
 あっさりと促されてそば湯を飲み干す。そば湯をパスしかけた自分を恥じはしなかったが、
そば湯目当てに足繫くそば屋に通った頃を懐かしく思い出す。そうだ、そば湯をそばの「ついで」にしてはいけない。
 「ありがとうございました。またのお越しを、またのお越しを」

 次の日も、一週間後も暖簾をくぐった。

日々のいくつもの事実

📅 ちゃんぽんを売りにしている中華料理店のホール担当は、小柄なおばさんで年齢はおそらく60代後半、いつもいるがたぶんバイト、声は大きくややかすれている。

グラスを持ち上げて水を飲み、グラスを戻して数秒後に「おぎしましょうか?」と寄ってくる。頷くと飲んだ分をすみやかに注ぐ。グラス内の水量がずっとおばさんにチェックされている。ちゃんぽんを食べ終わるまでにこのルーチンが数回続く。飲み干した後に爪楊枝を手にしたりすると忍者のように駆けつけてきてグラスを満タンにする。だから最後に水を飲んだらすぐに立つ。店内約20席。今は密を避けているので最多で10席だから、おばさんにとっては楽勝。

📅 ポケットに手を入れたら丸い金属に触れた。五百円硬貨だった。ポケットの中に見つける想定外の五百円硬貨には、普段小銭入れに入っている想定内の五百円硬貨にはないサプライズ価値が付加されている。ちなみに百円硬貨を見つけてもこんな文章を書こうとは思わない。

📅 「人々を動機づけるクリエーティブな方法を生み出そう」と平気な顔をして自称クリエーターが言った。「新鮮な感覚を与える独創性」はあるかもしれないが、それをクリエーティブという、すでに新鮮さを失ったことばで呼んだ瞬間、クリエーティブな方法など絶対にないと確信する。

📅 「やましいことなどない!」と語気を強める者がやましくなかったためしはない。そして、声の大きさに比例してやましさの度合が増すのも事実である。

📅 街頭でインタビューされる一般通行人が「いっぱい」と「一番」をよく口にする。世代に偏りはない。「コロナが終息したらみんなに会いたいという思いでいっぱいです」、「今は早くコロナが終わって欲しいという気持が一番です」という具合。いっぱいと一番を抜いてもほとんど意味は変わらない。つまり、「いっぱい」と「一番」に特別な強調効果があるようには思えないのだ。おそらくインタビューを受ける人たちは、「~という思いです」「~という気持です」ではぶっきらぼう感を覚えるのだろう。そして、一言足す。その蛇足に「思いがいっぱい」と「気持が一番」が選ばれている。

プロ野球選手もヒーローインタビューで「あの場面では打ちたいという気持が一番でした」と言う。一番があるのだから二番もあるはずだが、今のところ「では、二番は?」と聞いたインタビューアーはいないようだ。

ノートを綴らない日々

一週間ぶりにここ・・に戻ってきた。「ここ」とは、ブログの「クイックドラフト」という下書き専用の画面である。ルーティンとして、手書きでノートに綴って文章を推敲してからPCに向かうようにしているが、ここしばらくノートすら開けていない。コラムを書くという仕事が入ってきたからだが、ノートを綴らなかったのは仕事のせいばかりではない。

どんなに仕事を急かされている時でも、書ける時は書く。どんなに時間を持て余していても、書けない時は書かない。今は後者である。人的交流上の、情報交換上の、そして印象観察上の刺激が圧倒的に少なくなっているのが原因だろう。書けないなら書こうとしなければいいのだが、長年のノート習慣に背いているような気がして、心地よくない。

「書けない」か「書かない」か、どっちでもいいが、半月もノートに書き込みをしないのは感じることが少ないからである。いや、小さな気づきがないわけではないが、そこから先へ進むには探究心とマメさが必要だ。さもなければ、細くて軽い水性ペンですらずっしりと重そうに感じて、手に取ろうとしない。今日も机の横に置いてある背丈2メートルほどのアマゾンオリーブの幹に1センチほどの新芽を見つけたが、それをテーマにして綴ってみようという気は今のところ起こらない。


「出掛ける前にスプレーしておくと衣服に虫がつかずに帰ってこれます」という、消臭剤の説明書きを見つけたことがある。虫除けスプレーではなく、消臭剤! 以前なら、嬉々としてそのことについて書いてみようと思ったものである。そんな話をうまく展開しながら書けたとしても駄文の可能性が高いのだが、どんなネタからでも企画したり書いたりするのが本業の本能だと自覚していた。

しかし、「何々だから何々すべきだ、何々できて当たり前だ」というのも変な強迫観念である。それは「せっかくどこどこに来たのだから、やっぱりアレ・・を食べなきゃ!」という気分に似ている。たしかに、そういう時もあるけれど、別にそうでなくてもいいではないかと割り切ることもできる。讃岐に来たら「うどん」という定説に反したこと、一度や二度にあらず。ナポリでもピザを食べなかった。

今ふと讃岐うどんのあの地のある日を思い出した。混み合っているうどん店を諦めて、場末感の強い喫茶店でランチをしたことがある。外はやや強めの雨が止まず、どこでもいいから近くの店でいいという妥協策だった。床にじかに置かれた扇風機、開け放たれたテラスの扉、おびただしいアロエの鉢……。何を食べたかはっきりしないが、あの時の店の光景は鮮明によみがえる。

何かに気づき、その何かから考えを巡らすことはできなくても、記憶が動くなら、そして駄文でよければ、こんなふうにまずまず書くことができるようだ。

漢字の認識と運用

「漢字を書く」と言っても、PCのワープロソフトを使っている時は漢字を書いてはいない。キーボードでたとえば”koushou”とローマ字入力して、画面に現れる「交渉」をはじめとする、「こうしょう」と同音のおびただしい候補リストから自分が使いたい漢字を選んでいるにすぎない。

鉛筆やペンで紙に漢字を書く時に、「さあ、あなたの欲しい漢字はどれ?」と誰も聞いてくれないし、選択肢も与えてくれない。自分の〈脳内辞書〉で候補を検索しなければならない。そして必要な漢字を実際に正確に手書きしなければならない。翻って、ワープロソフトを使う時は漢字は書いていない。認識したり選択したりしているだけである。

「林檎」と書けなくてもいいのだ。“ringo”とキーを打ち込めば、「りんご」や「リンゴ」に混じって林檎が出てくる。漢字はそれだけなので、その文字をクリックすれば文中でそのまま使える。「きかい」の同音仲間には機械、機会、奇怪、貴会などが出てくるが、知っていて認識さえすればどれも正確に書けなくてもよいのである。


ぼくの企画研修の中に「コンセプトの創造」という一章がある。講義の冒頭で「たか・・わし・・が書けますか?」と尋ねる。受講生のほとんどは20代~40代半ば。両方書ける人は1割にも満たない。鷹と鷲を書けなくても特に困ることはない。タカ、ワシと書けば済む。ちなみに、コンセプトは人が創るものという説明のために、「鷹も鷲もタカ目タカ科であり、生態的差異と言うよりもコンセプトの差異によって区別されている」という話をする。

鷹と鷲が書けない大人は大勢いるが、“taka”と入力すれば「高」と「鷹」しか出てこないから、鷹を選べる。”wasi”と打てば「和紙」と「鷲」くらいしか出てこないから、これも選ぶのは簡単である。認識はできるが、運用できるかどうかはわからない。しかし、運用ができれば――つまり、書ければ――読むことはできるはずだ。

ほとんどの文書作成がワープロでおこなわれる現在、漢字が読めたり書けたりするのは「検定的意義」か「雑学的価値」しか持たない。まあ、難読字を知っていれば周囲に少しは自慢もできるだろう。言語学では以前から「認識語彙:運用語彙=31」と言われてきたが、差はもっと広がっていそうだ。これから「手書き」はどうなっていくのだろうか?

雑読という〈小窓〉

仕事上でもプライベートでも人と会う機会が減った。会わないので喋ることもない。会って話すからこそ世間とのつながりが意識できる。人に会いもせず話もしなければ自分の社会的存在が希薄になる。テレビはその希薄さを補ってくれそうもない。そこで本を読む。気まぐれの読書時間に〈他〉とのつながりがかろうじて生まれる。雑読ざつどくが社会を垣間見る小窓になっているような気がする。

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同じような内容の本をなぞり読みしてもしかたがない。そんな読書を続けているとマンネリに陥り、むしろ閉塞感が募る。一人だと何をするにしても新しい発想は生まれにくい。発想そのものは変えづらいから、対象を変えてみるのが手っ取り早い。気分と発想の転換には雑学が有用で、雑学の基本はやはり雑読だろうと思う。

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卑しく雑学を身につけようなどと思わないが、雑読の成果はほとんどの場合「ことば」の形を取る。そうか、いろいろ本を読んでいろいろ知るということは言語感性に役立つのか……と思うことがある。浪花節に、客受けをねらってわざわざ笑いを取る、「けれん」ということばがある。「けれんみがない」という表現は知っている。もっと言えば、その用法しか知らない。先日読んだ本には「あの人の芸は基本がけれんだ」というくだりがあった。そうか、けれんはのままで使えるのだとえらく感心した。

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勉強は永続する価値だと信じて疑わない経営者仲間がいる。そんな終わりなき学びに緊張感を抱き続けることはぼくにはできない。学びには常に一区切りをつけるべきであり、その区切りのつけ方に個性が出ると思う。経営者が経営に打ち込む以上に経営の方法を熱心に学んでいるのは、画家が絵筆を使って絵を描かずに絵の描き方ばかり学んでいるのと同じく滑稽な姿ではないか。

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生きねばならないし、支えなければならない人たちもいる。そんな理由から、つい経済中心の仕事と生活に比重が傾いてきたが、経済感覚が人生で支配的にならないように仕事の本は極力読まないようにしてきた。今も仕事と直接関わりのない雑読を心掛けている。問題解決を容易にしてくれそうな、ハウツーとして役に立ちそうな読書を、もう一人の自分が「情けない、見苦しい、美しくない」と批判している。そもそも読書は、効能を急がずに、遠回りを覚悟する行為なのである。

書名の印象

先週末に古本屋に寄った。例によって店頭の50円~100円の格安コーナーをまず品定めする。そこで目についた2冊が向田邦子阿川弘之の本。作家に特に関心があったわけはなく、この2冊が数冊を挟んで置かれており、妙に目立ったのである。「男女」と「大小」という二項を含む本が呼応し合うように誰かが意図的に配したようにも見えた。

『書物としての都市 都市としての書物』
『木のいのち 木のこころ』
『生き方。死に方。』
『教えるヒント 学ぶヒント』
『話を聞かない男、地図が読めない女』
『泣ける話、笑える話』……

上記はこれまでに読んで書棚に置いてある本である。それぞれの書名は二項が対立したりもたれ合ったりする関係として記述されている。この種のタイトルの本は多いか少ないか? どこにでもありそうだが、実はきわめて少ない。オフィスにはざっと7千冊以上の蔵書があるが、10冊にも満たないような気がする。


向田の本は小説・エッセイ集。『男どき 女どき』は世阿弥の『風姿花伝』の「時の間にも、男時、女時とてあるべし」に遡る表現で、「おどき めどき」と読む。男時とは好運に恵まれている時で運がよくつく状況。対して女時は何をしてもうまくいかない時で運が悪い状況。まあ、こういう言い方をした時代があったというに過ぎないから、けしからんなどと怒らず、放念いただきたい。

『大ぼけ 小ぼけ』は体験的エッセイ集で、徳島の景勝地「大歩危おおぼけ小歩危こぼけ」とは特に関係はない。『男どき 女どき』も『大ぼけ 小ぼけ』も、たった二項だけを並べたタイトルなのに、取り上げているテーマの守備範囲がとてつもなく広そうな印象を抱く。ちょうど「西洋・東洋」という二項が全世界を言い表すのに似たような感じである。

ところで、最近の漫才師には共通項の芸名を冠にするのが多い。つまり、それぞれの名が見えないか、冠に従属する形を取る。最近5年のM1王者はマヂカルラブリー、ミルクボーイ、霜降り明星、とろサーモン、銀シャリだ。こういう名前を見聞きするだけでは漫才師かミュージシャンか居酒屋の店名か料理名かよくわからない。昔は二項並立の芸名が多かった。「(横山)やすし(西川)きよし」、「(夢路)いとし(喜味)こいし」、おぼんこぼんなど、すぐに漫才師だとわかった。

二項を「と」でつながないのがいい。書棚に『右脳と左脳』という本があるが、「と」で接続した瞬間、理がまさってしまう。仮に「右脳 左脳」ならば遊び心が優位になる。「右往 左往」とひとひねりもできる。二項並立型の書名には「ちょっとおもしろそう」と感じさせる雰囲気がある。だからと言って、必ずしも売れる本になるとは限らないが……。

「夏の終わりの……」

夏の終わりはこの時季ならではの旬のテーマ。夏の終わりについて――そして秋の兆しについて――何か書こうとするなら今しかない。「夏の終わりの」まで言いかけて一呼吸置いてから「ハーモニー」と続ければ、玉置浩二と井上陽水が響かせるあの歌だ。

あの歌、「夏の夜を飾るハーモニー」と「真夏の夢」の二カ所しか夏が出てこない。夏を春や秋に替えても違和感はなさそう。ただ、真夏はあっても(また、真冬もあるが)「真春」や「真秋」とは言わない。

一昨日の最高気温は22℃、昨日が30℃。ここ最近は夏の終わり感と秋の始まり感が往ったり来たりしている。夏のバトンの渡し方がまずいのか、秋のバトンの受け方がぎこちないのか。ところで、まもなく終わろうとしている今年の夏も平年並みの暑さだった。但し、ここ数年の平年並みは半世紀前とは比較にならないほどの激暑である。


今年も扇子に出番がなかった。暑かったのに使わなかったのはなぜか。焼け石に水、いや灼熱に弱風だからである。暑さをやわらげるには扇風機クラスのあおぎ方が必要。そんなに煽げば余計暑くなる。涼をとるには手っ取り早くクーラーかよく冷えた飲み物ということになる。しかし、よく冷房の効いた甘味処のかき氷の後、灼熱の外気の中に出て行かねばならない。極楽から地獄へ。

昭和の、たとえば30年代には、まだまだ涼にまつわる風物詩が生きていた。打ち水、団扇うちわ、風鈴、金魚すくい、蚊取り線香、浴衣などはそれなりに功を奏していたような気がする。今となっては、騒音に紛れる風鈴の音色もアスファルトの上の打ち水も情趣不足である。

「夏の終わり」と「秋の始まり」はついになる。『上田敏訳詩集』をめくっていたら、オイゲン・クロアサンの「秋」という作品を見つけた。

     秋

けふつくづくと眺むれば、
かなしみいろ口にあり
たれもつらくはあたらぬを、
なぜに心の悲しめる。

秋風わたる青木立あおこだち
葉なみふるひて地にしきぬ。
きみが心のわかき夢
秋の葉となり落ちにけむ。

ヴェルレーヌの「落葉」の訳詩もうら悲しいが、こちらの詩もかなり暗い。秋を紡ぐ詩は、どれもみな生きるのがつらそうで、ただただ哀愁を漂わせる。心身ともに元気にしてくれる秋の詩に出合った記憶がない。

小さな愉しみの繰り返し

一つの大きな愉しみを取るか、複数の小さな愉しみを取るか。食事や集いや旅行ごとに楽しみ方は変わる。仮に旅だとしよう。長い旅程をしっかり組んで数年に一度遠くへ旅行する愉しみがあり、他方、週末の街歩きや、思い立った日に日帰りか一泊で近郊へ出掛ける愉しみがある。

年に何度も一泊や二泊の旅をするくらいなら、数年に一度海外に出て滞在地を一、二カ所に絞って過ごしたいとずっと思っていた。願いが叶って、2004年から2011年の間には、数年に一度どころか、6度もヨーロッパに出掛けた。いずれも約半月の旅である。2011年の旅ではバルセロナのホテルに4連泊、パリに移動してアパートに11連泊した。目論んだ愉しみは「広く浅い観光」ではなく「狭く深い生活」だった。

しかし、この10年、計画した海外への旅はことごとく実現しなかった。旅行予定月に飛び石出張が23件入ると半月の旅程が組めなくなる。そんなケースが何度かあった。また、親族が病気を患ったため仕事以外で長期間留守にしづらくなった。昨年の春はチャンスだったのだが、新型コロナで渡航不可となった。この調子だと来年も難しいかもしれない。


来年を待ちわびても、たとえば腰痛が出ると海外の旅はきつい。残された人生もどんどん短くなっていく。計画や準備という種まきをしても予定通りに刈り取れる保証がない。と言うわけで、今は考え方がだいぶ変わった。ずいぶん先のたった一つの大きな愉しみよりも、〈今・ここ〉の小さな愉しみのカードをいつも手元に置いて小まめに切り出すようになった。

「愉しみ」というのは充足感を味わえることで、そういう機会や対象や場所を自ら進んで求めることだ。それならいくらでもある。近すぎて気づかないだけの話である。当面の愉しみは刹那的かもしれないし、心底求める愉しみの姑息な代案と言えなくもないが、いくつかの小さな愉しみを繰り返しているうちに、近場の街歩きでいろんなものが見えてきた。オフィス街の工事現場沿いの通りもまんざら捨てたものではない。

知らない美術館や古い建造物はいくらでもある。食事処や文具店、雑貨店などは際限がない。同じ場所へ行くにしても、通りや道の組み合わせは何十とある。小さな愉しみは自らが能動的にならなければ味わえないのだと強がってみせる。しかし、年初にパスポートをさらに10年更新したことだし、大きな愉しみのチャンスが巡ってくるのを一応心待ちにはしている。

信用と不信は隣り合わせ

以前、欧州の国営鉄道の改札と切符のことを書いたことがある(思い出切符)。ぼくたちが慣れ親しんだ「改札」の概念がないという話だ。いつでも誰でも――列車に乗る人も乗らない人も――駅のホームまで入れる。切符がなくても入れるし、その気になれば乗車もできる。列車に乗る人はホームにあるタイムレコーダーのような装置に切符を入れる。何月何日何時何分と刻印されて出てくる。あとは行き先まで乗車し、その切符を持ったまま駅を後にする。到着駅に改札らしきものがあっても、駅員は切符を回収しない(と言うか、切符売場以外の場所で駅員を見かけることがない)。切符はごく稀に車内で抜き打ち検閲されるだけだ。列車に乗る人はみな切符を所持していると見なす。これを「信用改札方式」と呼ぶ。当然、信用を裏切る者には高額の罰金が科せられる。


病気になった知人の病名が初耳ということがよくある。最近の病名は驚くほど細かく分類されている。医学の進歩のせいか、かつてなかった病名が次から次へと「発明」されるのだ。患者の多くは病気に罹っていると自覚する前に、病名を告げられる。「あなたの病名は何々です」というかかりつけの医者を一応信用はするが、心のどこかで「本当にそうだろうか?」と納得がいかない。まあ、いくばくかの不信の念も抱く。


エアコンをつけるたびに異様な音が出る。突然止むこともあるが、しばらくするとまた音がする。修理に来てもらった。エアコンをつけると、その時にかぎって音が出ない。朝につけたら音がしていたのに。エアコンをつけるところから目撃してほしいので、直前に消しておいた。そして、修理の人の見守る中、再度オンにすると静かに運転するばかり。これでは異様な音がするという証拠が示せない。「もうちょっと様子を見ましょう」と言われた。気まぐれエアコンが信用され、ぼくの証言は信用されなかったのである。


「あの人に会ったことがある」と「あの人に会ったことがない」の差が大きいことをぼくたちは知っている。縁やコネはこの差を反映する。会って握手をして一言二言交わすだけで、会っていないよりも信が強くなるような気がする。確かにそうだが、会って握手をして話したために不信が募り、会わなければよかったと思うこともある。


自分のしていることが論理哲学論考的に無意味だと断定されても、人生哲学雑感的に意味があると思えば、ひとまず自分を信用しておきたいと思う。たとえ異論を唱える相手がウィトゲンシュタインだとしても。