饒舌と手抜きトーク

論理思考は手間がかかる。とことん凝ると、物事をわかりやすくするはずの論理思考が論理主義・・・・へと変貌し、狂信的な様相を呈する。学生時代に熱心に論理学を勉強した結果、自明の事柄を偏執的なまでに証明せねばならないことに辟易した。そして、論理とはくどくて冗長であるという印象だけが強く残った。

アルフレッド・ノース・ホワイトヘッドとバートランド・ラッセルの共著『プリンキピア・マテマティカ全3巻』はくどさの最たるものだと専門家に聞いたことがある。手に取ったことがなければ今後もまったく読む気もないが、1+1=2」の証明に至るまでに約700ページを費やしているそうだ。そして、最終巻の最後にようやく実数の存在が証明されるらしい。確かめる気がまったくないので、「そうだ」と「らしい」で許してもらうしかない。


論理的な語りは雄弁の条件の一つだが、饒舌という第一の特徴を見逃してはいけない。ほどほどにしようとしても、饒舌とはすでに抑制がきかなくなっている状態なので、「ほどほどの饒舌」というのがない。では、寡黙な省エネ話者のほうがましかと言えば、いやいや、饒舌以上に厄介な存在なのだ。ことばの過剰は適当に引き算すれば済む。しかし、ことばが不足なら足し算せねばならない。足すのは体力と気力を要する。

省エネ話者による手抜きトークへのわが述懐
そもそも他人の思惑などわからないと思っているし、語られなかったことを推理しようとするほど暇ではない。そんな面倒くさいことはせずに、相手が話したことを真に受けるようにしている。適当に喋ったかタテマエだったかは知ったことではない。語られたことのみを材料にして自分の思いや考えを継いでいく。後日、相手が思い違いだ、錯覚だと言いかねないし、無粋な奴だと思われるかもしれないが、やむをえない。かつて隠れた心理を読もう、ホンネとタテマエを見極めようと苦心したこともあるが、読みも判断もよく間違った。間違いは自分だけの責任じゃないのに……。と言う次第で、話しことばはたいてい額面通りに受け取るようにしている。

さて、語りについてだが、言うべきことや思うところを寄り道せずにストレートにことばにすればいい。しかし、必死に伝えようと意識しすぎると論理に力が入り、やっぱり回りくどくなる。ここで落胆してはいけない。常にとは言わないが、迷ったらことば足らずよりも饒舌を選ぶべきだ。饒舌が過ぎて終わるような人間関係は元々脆弱なのである。寡黙だったらとうの昔に終わっていたはずだ。

包み隠す味の妙

秘密にせず、何もかも見せて明らかにすることを「包み隠さず」と言い、おおむね良いことだとされる。逆が「包み隠す」。他人に知られないように秘密にするのはよろしくない。しかし、素直に読めば、包み隠すとは「包んだ結果、隠れてしまう」とも読めるから、内緒にするという魂胆があるとも言えない。包めば隠れるもので、その類の料理も少なくない。

何かを包めば覆うことになり、隠すつもりはなくても人目には触れない。風呂敷に包んで結んだ手土産は、ほどかないかぎり見えない。同様に、ギョーザの皮で包むとあんは見えない。どんな具材がこねられたのかはわからない。焼きたてをタレにつけて口に放り込んではじめてわかる。いや、何となくわかるだけで、材料をすべて言い当てるのは意外に難しい。

ギョーザもシューマイも中身が見えない。巻き寿司や春巻きもそのままなら中身は見えないが、たいてい断面が見えるように皿に盛られる。巻くというテーマと包むというテーマは似ているようで、実は大いに違っているのだ。巻いたものが見えても不自然ではないが、包んだものが見えてしまっては意味がない。包むというテーマでは、最初から中身が見えなくなることが前提になっている。


誰かが包んだものを口に運ぶ時は中身が見えないし、当然中身を知らない。しかし、包む料理には自分で包むものがあり、その場合は何が入っているかわかって食べることになる。北京ダックはそういう一品だ。北京ダックは高級料理であり、どこの中国料理店でもメニューになっているわけではない。だから、そぎ切りした北京ダックの皮の代わりに、甘味噌で炒めて細切りにした牛肉を包んで食べる。かなりリーズナブルな値段になる。

包むのは甘味噌で炒めた細切りの牛肉、きゅうり、白ネギ。
北京ダックで使う烤鴨餅(カオヤーピン)に具材を乗せる。
カオヤーピンで包む。包んだからには中身ははっきりと見えない。

何を包んだかわかっている。しかし、中身を見ずに口に運ぶ。餅皮と牛肉ときゅうりと白ネギの重なり合いがどんな味に化けるのか、ワクワクする瞬間である。包む料理の醍醐味はここに尽きる。

哲学に〈内包〉という術語がある。「牛肉の細切り甘味噌炒め」で言えば、烤鴨餅で包まれる具という共通概念のことだ。内包には対義語がある。それを〈外延〉という。具という上位概念で済まさずに、いちいち牛肉の細切り、きゅうり、白ネギと具体的に示すこと。包む料理とは、外延的に包んだものを内包的に口に運ぶという哲学的料理にほかならない。

アナロジーの効用

以前、本ブログで『言論について(9)類比・ユーモア・パトス』と題してアナロジー(類比・類推)を取り上げた。その中で紹介した〈発展途上国:経済支援=がん患者:モルヒネ〉というアナロジーの例の説明がてら話を始めたい。

ABの関係がCDの関係」に似ていたり類比したりできる時、〈A:B=C:D〉という式で表わすことができる。アナロジーの関係ではこの式が成り立つ。上記の〈発展途上国:経済支援=がん患者:モルヒネ〉は、「発展途上国への経済支援はがん患者にモルヒネを使うようなものだ」と読み下せる。類比した両者をつなぐのは「当面の苦しみ(痛み)には効くが、抜本的解決にはならない」。「何々とかけて何々とときます。そのこころは……」の「こころ」に相当する。なぞかけもアナロジーの一つだ。

つまり、あることをそのことだけで説明してもわかりにくいなら、別の情報をそこに重ねて理解を促そうとする試み。主題〈AB〉に対比させる〈〉は主題よりもわかりやすく身近であることが望ましい。とは言え、難易や親近感は人それぞれだから、アナロジーによる認知過程は誰にとっても同じというわけにはいかない。


模倣したものと模倣されたものもアナロジーの関係を結ぶ。有名なのは「液晶とイカの神経構造」。昔の液晶は軽く触れて押すとイカの表面のように赤くなったり青くなったりしたものだ。実際にイカの内臓を使ったタイプの液晶もあると家電メーカーの研究員に聞いた。液晶はイカの神経構造からインスピレーションを得た、先端技術のアナロジーの例である。

魚釣りの撒き餌とデパ地下の試食もアナロジー。マーケティングのアナロジーだ。撒き餌上手なら魚が釣れる。試食皿を絶妙のタイミングで差し出して一言添えるスーパーの担当者がいる。あのおばさんが売る粗挽きウインナーはほぼ買わされてしまう。他にも、成功する会議と成功する演劇がアナロジーになる。成功要因を探っていくと共通項がとても多いことに気づく。

A:B=C:D〉のような二項類比だけでなく、文章全体をアナロジーの型として見立てることもできる。

「文法」に先立って「言語」が存在し、「言語」は「社会において他者の用いることばを経験することによって習得され、社会の一員としての共通観念によって運用される」。「文法」「言語」の習得と運用の高度化に資する役割を担う。

上記の文法と言語の関係式の型を借りて、法律と生活行動の関係式に書き換えてみよう。

「法律」に先立って「生活行動」が存在し、「生活行動は「社会における他者の習慣を経験することによって見習い、社会の一員としての賢慮良識によって実践される」。「法律」「生活行動」の規律の遵守に資する役割を担う。

アナロジーはすぐれた思考練習になると同時に、わかりやすい表現とは何か、粋な言い回しとは何かについてのヒントを授けてくれる。

小さな気づきや考えごと

かなり古めかしい喫茶店。コーヒーではなく、珈琲と書くのがふさわしい。出てくるまでの間延びした時間は手持ちぶさたの時間。それも珈琲代金の一部。

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森よりも「樹々」がいい。都会でも調達できるから。

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ふれあい、人にやさしい、思いやり、安心・安全などと言っておけば無難。無難であるとは、誰に対しても余計な気遣いや気配りをしなくても済むということだ。

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♪きゅーしん、きゅうしん。♪ひや、ひや、ひやの、ひやーきおーがん。♪大正漢方胃腸薬。♪タケダ、タケダ、タケダ。身近にあるにはにテーマソングがわっている。まさに「常備薬」。

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経験的に言うと、アルコールを飲めない人ほど高くつく。

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よく勉強会をしていた頃、勉強会後に懇親会がくっついていた。いつも同じ場所にしておけば楽なのだが、それでは芸がない。と言うわけで、懇親会の会場をよく下見した。「下見」とは、別名「味見」。

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世間の最近の傾向。暇が増えたのではなく、リスクが高まったのである。

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「うちの親の家とは理想的な『スープがぬるくならない距離』なんですよ」
「それを言うなら『スープがさめない距離』でしょう?」
「あ、うちのは冷製スープですから」

現実と願望のはざまで

あれもこれもしてみたい、しかしやり遂げるにはいくつものハードルがある、ハードルは現在進行形の現実にある、ハードルのすべてを越えるのは容易ではない……。

では、願望を諦めるのか。目の前の現実は願望もかなわないほど頑強だというわけか。現実と願望が凌ぎ合う、そして往々にして現実受容という折り合いをつける、それで、何かが変わることは稀だ。そうと知りながら、やっぱり現実はじめにありきなのか。

一億総評論家時代、現状の様子を窺うばかり。プロは少しは分析するが、素人は見てるだけ。見てるだけで直感的に語り始める。問題の解決は先送りされる。分析と観察は解決への入口ではあるが、扉を開けなければ解決には到らない。


分析の主な対象に原因と結果がある。数多くの原因から数多くの結果が生まれるので、そう簡単に因果関係を突き止めることはできない。ある部族が酋長の指示に従って雨乞いの踊りをすると百発百中で雨が降るという話があった。踊れば必ず雨が降るのである。なぜなら雨が降るまで踊り続けるからだ。このように、原因と結果の関係では、結果に合うように好みの原因をこじつけることができる。

精細に分析しても原因と結果を正確に捉えることはできない。つまり、現実の中に未来のヒントがあるにしても、問題解決のための処方箋が見つかるとはかぎらないのだ。問題を解決するエネルギー源として願望が欠かせない。こうあってほしい、できたらいいという熱量が創意工夫を突き動かし、構想を育む。

しばし現実を棚上げして構想に向かう環境が整っても、試練が待ち構える。構想の芽を摘むのに物理的な力はいらない。現実に直面している諸条件のフィルターを次から次へとかければ事足りる。もっと言えば、構想が潰れるまでとことんケチをつければいいのだ。時間を費やせば費やすほど、新しいアイデアは却下される。そして、誰もが満足していない現状が長らえていくのである。

「素地」のその前

「素」という漢字が単独でいきなり出てきたら、何と読めばいいのか戸惑う。「す」か「そ」かと推し量るしかない。しかし、「素」はおおむね熟語として使われるので、必然読み方が決まる。「素のまま」なら「すのまま」だ。そうそう、「もと」とも読む。味の素を筆頭に、炒飯の素、わかめご飯の素、冷や汁の素などがある。

関西ではかけうどんを「うどん」と言う。うどんに具を加えないという特徴を現している。素うどんは料理の名。茹でたうどんに出汁をかけるだけで何も足さない。とは言え、薄いかまぼことネギくらいはあしらってある。素を「そう」と読ませるのは全国区の素麺。うどんも素麺も素朴な食べ物であって、高級感を引き算するのが常。

素に近いのが「」。顔や肌と言うだけでは化粧しているかしていないかわからないが、素顔や素肌と言えば何も足していない。加齢しているから、生まれつきのままとは言いづらいが、うどんでたとえるなら「打ちたての生地のまま」というところか。ともあれ、素と地が一つになって「素地」が生まれた。壁は素地が肝心、学問や芸事は素地次第、商売は素地がすべて……などと並べてみると、基礎や基本や原初などの意味が浮かび上がる。


運よく素地に辿り着いたとして、そこで満足せずに、その素地の前にはどんな素地があったのかと考えるむきもあるだろう。「始まり」があるのなら、始まりの前があったはずだ。しかし、そんなことは誰にもわからない。わからないから定義によって意味を限定して妥協する。『ギリシア文明の素地』を学者が著したら、その学者が遡ったところまでが素地なのだ。その素地の素地が何かまで詮索してもキリがない。

「水が原初である」などという説は世界中にある。「万物の根源は水」と説いたのは、ソクラテス以前の哲学者タレス(紀元前625年~547年頃)。根源が水というのは説であって確証ではないが、考えても答えが出ないテーマを探究するという哲学がここに生まれた。素地の素地のそのまた素地を知りたければ研究すればいいが、「宇宙が素地の起源だ」という結論だとがっかりする。そこまで辿るなら自分でもできる。。

ある小説家――たとえばリルケやカフカ――の影響を強く受けたとしても、そこには自分の個性や考えの型や経験が入り混じる。そういう自分色を首尾よく脱色することができれば、おそらくリルケやカフカの素地が現われてくるのだろう。しかし、どんなに頑張っても人間の素地は判別しづらい。うどんの生地を突き止めるようなわけにはいかない。素地はわからない。わからない素地のその前に遡ることに意味があるとは思えない。

「日」と「者」の夏

歯医者では受付で「非接触おでこ検温」される。先週のこと。「今日はちょっと高いですね」「何℃ですか?」「37.2℃です」「急ぎ足で来ましたからね」と言って手指をアルコールで消毒。この体温で治療が拒否されることはない。

中お見舞い」「残お見舞い」の葉書はありがたいが、水色の紙面に金魚や風鈴があしらわれていても、体感温度が1℃上がる。挨拶代わりの「今日もいですねぇ」の先制攻撃には2℃上昇うだるようなさ」と言うアナウンサーの声だと一気に3℃!  

ゆっくり歩くときついので、速足で一目散に歩く。アスファルトを避けて地下に潜る。何も見たくない、何も感じたくない。必然、視野角が狭くなり感受性も鈍る。中国の古い格言に「暑さの厳しい所から偉人は出ない」というのがある。ひどい偏見だと思う一方で、暑い➔頭を使わない➔賢くならない……と短絡的に連想して危うく同意するところだった。アフリカ諸国と昵懇じっこんの仲を保ち続けたい今の中国なら、決して口にすることはないだろう。


暑という漢字は「日」と「者」でできている。日は太陽を表わす。者は人のことではなく、「煮る」の煮の元になった字である。太陽が強く照りつけて、まるで煮えるような熱を帯びている状態そのものだ。こう書いているうちに、再び体感温度が上がってきた。

『歳時記百話』(高橋睦郎著)の夏のページをめくっていたら、まさかの「暑」の見出しがあった。次の文は夏という漢字に言及して書かれた箇所。

『日本国語大辞典』は八語言説を列記するが、最初にアツ(暑)の転、アツ(温)の義、アツ(熱)の義を挙げ、二にアナアツ(噫暑あなあつ)の義、三にネツ(熱)と通ずるか、という。語源としての当否はともかく、夏は暑いという実感が説の根拠だろう。関連の季語には暑さ、大暑たいしょ極暑ごくしょ溽暑じゅくしょ炎暑えんしょなどがある。

このくだりを読んで、漢字の凄みが伝わってきた。訓読みすると、噫は「おくび」であり、溽は「むしあつ(い)」だそうだ。読んでいるうちに窒息しそうなほど息苦しくなってきた。マスクのせいばかりではなさそうだ。

「こまめ」がわかりにくい

わかっているつもりなのに、実はあまりわかっていないのが「こまめ」。やわらかい語感と見た目に反して、癖の強い晦渋語の一つである。

こまめ(【小まめ】)とは、まずもって骨惜しみをしないことだ。まじめであり、何かに向かってかいがいしく行動している様子が見えてくる。しかし、「もっとこまめに何々していれば……」などと反省するにしても、その「こまめ」と「もっとこまめ」の違いがはっきりしない。

「熱中症予防にこまめな水分補給を」と言われてから、四六時中ちびちびと飲んだ人がいた。結果、こまめにトイレに行かざるをえなくなった。こまめの頻度と量は具体的に示しづらい。体調や暑さなど、人によって状況によって当然変わる。「30分ごとに」と言う専門家は飲む量を示していなかった。「1015分おきに一口か二口」という助言もあるが、炎天下で15分歩く時に上品な一口では足りないのではないか。


こまめから、面倒くさがらずに細々こまごまと注意したり気配りしたりする様子がイメージできるが、こまめの程度、つまり頻度や量については個人の判断に委ねられる。だから、かねてから水分補給の修飾語として適切なのかどうか気になっていた。

喉の渇きを覚えてから水を飲んでも手遅れ。それでは予防にならないらしい。しかし、喉が渇く前というのはある程度喉が潤っている状態である。「もっと水を!」と求めていない状態で口に水分を運ぶのは簡単ではない。それができるためには、生理的欲求まかせではなく、意識的に水分補給を習慣づけする、何らかの訓練がいる。

こまめとは「労をいとわない、かいがいしく行動すること」とある辞書に載っていた。そうすると、「こまめに」と「こまめな」に続く行為が必然絞られてくる。こまめに辞書を引けても、こまめに笑うことはできそうもない。こまめな水分補給は推奨されるが、こまめなアルコール摂取はよろしくない。

「なまものですので、なるべく早めにお召し上がりください」とは書いてあるが、「なるべくこまめにお召し上がりください」という注意書きは見たことがない。仮に書いてあったとしてもどう食べればいいのかわからない。だから、「なるべくこまめに水分補給をしてください」もやっぱりよくわからない。こまめの代案を考えてみようと思うが、今日のところは思い浮かばない。

編まれたものを読む

文学の類はだいたい文庫で読んできた。小学生の頃から三十半ばまではよく読んだ。それ以降は文学、とりわけ小説はあまり読んでいない。文学全集を買った時期もあったし、一部残っているが、数百ページにわたって二段で組まれた長編小説を読む持久力は今はない。

先日、書店でリーフレットを手にした。2020年岩波文庫フェアの『名著・名作再発見! 小さな一冊を楽しもう』がそれ。紹介されているのは60冊。数えてみたら、完読したのは約20冊、他になまくら読みが数冊。いわゆる推薦図書の類は威張れるほど読んでいないことがわかった。

仕事の合間に読むには編集ものがいい。エッセイや評論なら小論集、小説なら短編集、思想書ならこまめに章分けされているものに限る。この種の本の最後には「本書は……寄稿文を厳選し……テーマ別に再編集して刊行した」というような一文が添えられている。そう書かれている通り、目次を見れば、よく分類して編まれており、一編に割かれているのはたかだか10ページである。


今年の1月に『小林秀雄全作品』の寄贈を受けた。全28巻と別巻4冊。他に単行本や小林秀雄について書かれた本があり、しめて60冊くらいある。

それにもかかわらず、先週、『批評家失格』という文庫本を買った。小林秀雄の22歳から30歳までの初期評論集。ここに収録されたすべての評論やエッセイは全集で読めるが、どこかの一巻にまとめられているわけではない。著者亡き後に編集されたこの文庫本は「方々ほうぼうから」小さな作品を集めて編んである。まとめ読みするには便利な一冊だ。念のために書くが、小林秀雄の作品集だが、小林秀雄が編んだのではない。編んだのは池田雅延という、小林秀雄を担当していた元新潮社の編集者である。

編者は小林秀雄の批評の基本が「ほめること」にあったという。ほめれば、自分を知って自分の生き方が模索できるという。「ところが、ほめるのではなくけなすときは、手垢に塗れたカードを切って相手を脅すか見栄を張るか、いずれにしても昨日までと変らぬ自分が力むだけである」(解説より)。小林秀雄はドストエフスキーをほめ、モーツァルトをほめ、ゴッホをほめ、本居宣長をほめた、そして自分自身と出会い続けたというのである。

ともあれ、全集などそう易々と読めないし、仮に読むとしても、編まれた一冊の文庫本のようには読めない。この種の「ガイドブック」がないと、全集とは格闘するような付き合いしかできないのだろう。

街と「まち」という響き

差異を辞書的に探るつもりはなく、また詳しく知っているわけでもないが、街と都市を無意識のうちに使い分けている。都市の論理と書いても街の論理とは書かないし、街の佇まいとは言ってみるが、都市の佇まいとはたぶん言ったことはない。

先日、シニアの暮らしと生き方、趣味や交流などについて、ホームページに掲載するコラムを依頼され、8編書いた。そのうちの一編で「街」と表記したところ、「まち」にしたいと言われた。その文章では代替しても問題はないので了承した。行政では「まちづくり」と書く。それに、街や町でイメージが拘束されるよりは「まち」のほうが含みもある。

街と都市は互換性があるものの、都市がより造形的かつ機能的寄りで、街がより庶民的で日常的寄りという印象がある。これはあくまでも、対義語となりそうな自然や田舎や村を一切考慮せずに考える、ぼくの個人的なイメージにほかならない。

ちなみに、都市をマクロ、街をミクロととらえるなら、今住む場所から歩いて行ければ、仮にそこが一般的に大都市や大都会と呼ばれているエリアであっても、自分にとっては街に仕分けられる。大阪都心で暮らすぼくにとっては、御堂筋のオフィス街も心斎橋のショッピング街も、楽々の徒歩圏内なので、がいまちになる。

日暮れ時の御堂筋の大丸前。
心斎橋、かつての橋の名残り。

人が消えて無機的な光景になると、街は街でなくなる。街が街であるためには足し算が必要だ。実景から動く人々を引き算して俯瞰すると、街は模型になってしまう。盆の時期の数日間、人気ひとけのない模型になるのが例年、しかし今年はそこそこ人がいて模型にならずに済んでいる。ただ、大勢の観光客でごった返していた界隈の昨夏の賑わいにはまったく及ばない。

回りに造形物が一つもない自然の中で夕陽を見送り朝陽を迎えたことがある。自然から受けるこの印象に街が手も足も出ないわけではないと思った。建造物のシルエットが邪魔をして、眺める夕空の面積が小さくなる。それは愛すべき光景でもある。そして、実際に街に住むのと同じくらいかそれ以上に「まち」という響きが気に入っている。