足下を見つめてみた

この時世、協働パートナー以外の人たちとここ一カ月ほとんど会っていない。目を向けるのは見えざる情報世界ばかりで、現実の生活周辺への視界は決して良好ではない。かろうじて足下だけが見える。そこから思いつくまま思い出すまま断章を綴る。


🖋 「今日の忍耐、明日の希望」「今日の焦り、明日の絶望」。今日とは今日のことだが、明日はずっと先までの未来の比喩。

🖋 巨大な建物は、意識せずとも、正面からそこに近づけば必然見える。しかし、巨大な建物を背にした格好で、たとえばメトロから地上に出ると、どれだけ大きくても見落としてしまう。背を向ければ、対象が巨大であろうと微小であろうと同じ。
まあ、建物に気づかないことくらい大した問題ではない。大切だが見えづらいものを見損じるほうが恐いのだ。

🖋 周りを過剰に気にして、何に対しても様子を窺っていると「左顧右眄さこうべん」に陥って決心がつかない。何を見て何を見ずに済ませるかは、自分の立ち位置、社会や他者へのまなざしが決める。

🖋 Give and takeギブアンドテイクであってはならない。ギブは主体的であってもいいが、テイクはそうではない。取るのではなく、授かるのである。ゆえにGive and givenギブアンドギブンでなければならない。価値を提供したら、その価値に見合ったほどよい対価を授かるのである。取りに行ってはいけないし、取れると思ってもいけない。

🖋 数年前に『欲望の資本主義』をテーマにしたドキュメンタリー番組を見た。「現代は成長を得るために安定を売り払ってしまった」という一言が印象に残る。これに倣えば、「現代は今日の欲望を得るために明日の活力を前借りする」とも言えるだろう。

🖋 その番組中に語られた比喩的エピソードをふと思い出した。アレンジしてみると、次のような話だった。
金曜日の夜に酒を飲む。もう一軒行こう、カラオケに行こうとテンションを上げてエネルギーを消費する。しかし、このエネルギーは飲めや歌えやの勢いで生まれたわけではない。土曜日に使うべきエネルギーを金曜日の夜に前借りしたのである。

🖋 足下あしもとを見つめてみたら、生活の大半は不要不急であることがわかる。経済は、不要不急の大いなる欲望によって成長してきたにすぎない。

とまらない二字熟語遊び

数年前に『二字熟語で遊ぶ』を書いた。いくらでも思いつくので、その後に『続・二字熟語で遊ぶ』『二字熟語遊び、再び』を続けた。

今月に入って久しぶりに再開した。『久々の二字熟語遊び』『もっと二字熟語遊び』『今日も二字熟語遊び』と書いて、二字熟語で遊ぶのはさほど難しくないが、タイトルのほうが悩ましいことに気づいた。かっぱえびせんを食べながら書いた前回が『やめられない二字熟語遊び』。自然な流れとして、今回は『とまらない二字熟語遊び』になった。次のタイトルをどうするかは4月に入ってから考えることにする。

二字熟語アイコン


【川柳と柳川】
(例)その日は「川柳」の会でどう足掻いてもいい句ができなかった。小腹も減ったので熱燗で「柳川」を食って帰った。

柳川を食ったと言っても、人を食ったのではない。泥鰌どぜうの柳川鍋を食ったのである。柳川の食材は泥鰌に限らない。ゴボウと煮て卵とじにすれば、穴子でもシラスでも柳川風になる。鰻の頭なら半助だ。

【万一と一万】
(例)財布の中に数千円はあるのだけど、「万一」足りなかったら恥なので、悪いけど「一万」ほど貸してくれないか?

万一というのは、文字通り「万に一つ」であり、ほぼありえない時に使う。ほぼありえない場合に備えて貸してほしいとは……。しかも、万一の備えが一万なら、それこそ恥だ。「万一のいざという時のために100万ほど用意しておこう」なら釣り合いが取れる。

【過大と大過】
(例)「大過」なく定年まで勤めることができました。胸を張るような功績がないにもかかわらず、「過大」な評価をいただいたことに感謝申し上げます。

最近の若者は「過分なお言葉」などという表現を使って謙遜するのだろうか。過大評価されると申し訳なく思い、過小評価されては不満を漏らすのが人の常。過大と過小の差はかなり隔たっているが、両者の分け目は微妙である。

【出演と演出】
(例)あのドラマに「出演」していたキャストに一流はほとんどいなかったが、すぐれた「演出」のお陰で一流の作品に仕上がった。

一流か二流かはともかく、出演者がいなければドラマは成立しない。しかし、ドキュメンタリーにとって人間は不要不急である。構成・語り・音楽などの演出だけでいい番組ができる。

【間食と食間】
(例)その昔、うちの婆さんは3時のおやつを「間食」しながら薬を飲んでいたよ。そういう薬の飲み方が「食間」だと思っていたらしい。

ランチと夕食の間に間食してしまうと、食間の薬を飲むタイミングを逸してしまう。そもそも食間というのは曖昧に過ぎる。食前も食後もある意味で食間なのだから。食間を食事と食事のちょうど真ん中などと馬鹿正直に考えると、夕食と朝食の食間は深夜1時になりかねない。そうではない。食後23時間かそこらで胃が空っぽになるから、夕食後の食間の薬は10時頃に飲めばいいのである。

シリーズ〈二字熟語で遊ぶ〉は、二字の漢字「AB」を「BA」としても別の漢字が成立する熟語遊び。大きく意味が変わらない場合もあれば、まったく異なった意味になる場合がある。その差異を例文によってあぶり出して寸評しようという試み。なお、熟語なので固有名詞は除外。

やめられない二字熟語遊び

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【大盛と盛大】
(例)自分へのご褒美にカツカレーを200円アップの「大盛」にして「盛大」なランチを楽しんだ。

大盛カツカレーごときでランチは盛大にならない。
「盛大な打ち上げをします」と誘われて宴会に行ったが、品数が少なく、大皿に盛りに盛った料理ばかりでがっかりしたことがある。大盛は量的な表現であり、盛大には質的な要素が求められる。

【写実と実写】
(例)対象をあたかも実物のように描くのが「写実」。他方、対象そのものをありのままに記録したり再現したりすれば「実写」になる。

人物を写実的に描いていた19世紀前半、写真という実写の技術が生まれた。実写できるなら写実に出番はない。と言うわけで、人物画は写実主義から印象主義に移ったという背景がある。なお、写実が滅んだわけではない。今も〈スーパーリアリズム〉が頑張っている。

【行水と水行すいぎょう
(例)たらいに半分程のささやかな湯や水の「行水」は夏の風物詩。他方、大量の凍るような水で身を清めんとして我慢するのが真冬の「水行」。

家風呂のなかった時代、毎晩銭湯に行くわけにもいかず、行水で済ますことがあった。今や自宅には風呂がある。面倒な時はシャワーを浴びる。真冬でも水シャワーにして水行の真似をするようになって十数年、風邪を引かなくなった。因果関係は不明である。

【移転と転移】
(例)腫瘍細胞が
原発のXの場所と違うY「転移」していることがわかり、近所の乙病院から遠方の甲病院に「移転」することになった。

Yに転移してもXの病変が消えたわけではない。しかし、市役所に転出願いを出して移転したら、現住所が変わる。新旧の両方の住所を二重登録できないのである。

【中心と心中】
(例)近松門左衛門の『曾根崎心中』で「心中」を遂げたお初と徳兵衛は、言うまでもなく、作品の「中心」人物であった。

舞台は元禄時代、現在の大阪の中心地、梅田。露天神社の森での情死である。お初の名を取って、今ではお初神社と呼ばれる。当時の大坂・・の中心は船場。露店神社の森は街はずれだった。

シリーズ〈二字熟語で遊ぶ〉は、二字の漢字「AB」を「BA」としても別の漢字が成立する熟語遊び。大きく意味が変わらない場合もあれば、まったく異なった意味になる場合がある。その差異を例文によってあぶり出して寸評しようという試み。なお、熟語なので固有名詞は除外。

コーヒーと理性

街の風情も芸術も日常生活もコーヒー無くしては画竜点睛を欠く。望むスローライフはなかなか実現できないが、やりくりしてコーヒーを嗜む時間を見つけると、生活も仕事も少しはゆったりモードになる。

自宅での朝の一杯とオフィスに着いてから淹れる一杯が欠かせなくなった。オフィスには常時56種類の豆を揃えている。自宅でコロンビアスプレモを飲んだら、オフィスではキリマンジャロやマンダリンという具合に、気まぐれに種類を変える。たまにブレンドにして飲む。試行錯誤して組み合わせるが、あいにくその組み合わせを脳も舌も覚えてくれない。だから、いつも行き当たりばったり。


人を法によって善人にはできない。不正な法が力を持たないのは二〇世紀も当時も同じである。理性を奪われれば人は獣のように野蛮になり、人間性を失う。だが、コーヒーは理性を失わせる飲み物ではなく、むしろ理性を研ぎ澄ます。「コーヒーは人間社会のために生まれ、人々のつながりをより強固にする。心が霞や霧で曇らなければ、発する言葉は真摯になり、それゆえ、たやすく忘れがたいものとなる」。ガランのコーヒーに関するこの表現は的確である。(ウィリアム・H・ユーカーズ著“ALL ABOUT COFFEE” コーヒーのすべて』)

上記文中の「当時」とは17世紀のこと。コーヒーはよく飲まれるようになってからも、迫害と禁令の歴史を辿り、それゆえに密売と密飲が繰り返された。宗教権力からの弾圧もひどかった。コーヒー・ルンバの歌詞では「 昔アラブの偉いお坊さんが」強くモカマタリをすすめているにもかかわらず。

魔性の飲料という、一部偏見者による見方は後を絶たなかった。あの歌詞にあるように、コーヒーは「♪ しびれるような香りいっぱいのこはく色した飲み物」であり、「♪ やがて心うきうき とっても不思議このムード」にさせるのだから、たしかに要注意感が強い。情熱のアロマを漂わせる素敵な飲み物であるからこそ、危うさを秘めたのも無理はない。

上記の本によると、1718世紀のトルコでは妻にコーヒーを与えることが義務づけられていたそうである。「うちの亭主は私にコーヒーを飲ませてくれない」という妻のクレームは、合法的な離婚の理由になった。夫は結婚の際に、「妻には決してコーヒーのない生活を送らせません」との誓いを立てなければならなかった。それは、貞節を誓うよりも重要だったらしい。

20世紀になってもコーヒーを好ましく思わない人たちがいた。身近なところでは、「コーヒーは胃壁を害するやすりだ」という高校教師がいた。コーヒーは毒性が強いと信じていたサラリーマン時代の同僚は、喫茶店には付き合ってくれたが、注文するのは決まってホットミルクだった。コーヒーを注文しない連中とカフェに入っても波長が合わないから、会話が弾まない。

コーヒーへの偏見にもコーヒー嫌いにも寛容であろうと思う。ぼくはと言えば、しびれもせず、心うきうきにもならず、また不思議なムードに包まれもせず、気分を理性的に宥めてくれる琥珀色の飲み物として味わうばかりだ。

今日も二字熟語で遊ぶ

シリーズ〈二字熟語で遊ぶ〉は、二字の漢字「AB」を「BA」としても別の漢字が成立する熟語遊び。大きく意味が変わらない場合もあれば、まったく異なった意味になる場合がある。その差異を例文によってあぶり出して寸評しようという試み。なお、熟語なので固有名詞は除外。

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石庭せきてい庭石にわいし
(例)「庭石」と呼ばれても、必ずしも庭に置かれているわけではない。他方、「石庭」に石は欠かせない。石の配置なくしてはていを成さない。

枯山水の石庭は庭なのに、そこに庭木はなく、石と岩と砂で造園されている。石庭からは禅を連想する。庭石と言えば、父がどこかの川岸から持ち帰った一塊を思い出す。置き場に困って、実家の玄関前に今もある。

【栄光と光栄】
(例)幸いにして、決勝戦で勝利の「栄光」に輝けたことをとても「光栄」に存じます。

栄光も光栄もほとんど同じ意味じゃないかと指摘する人がいる。そうではない。他の表現との相性があるのだ。栄光の誉れとは言うが、光栄の誉れとは言わない。光栄の極みか光栄の至りである。栄光の架け橋はあるが、光栄の架け橋はない。「栄光に存じます」はなく、「存じます」と言うなら光栄だ。栄光には他者が関わるが、光栄は自分がそう思っているだけである。

【部局と局部】
(例)以前、ある「部局」のお偉いさんが、女子寮の前で「局部」を露出して逮捕された事件があったね。あれ、どこの省庁だったっけ?

局部とは全体の中の一部を示す、何の変哲もないことばだが、部局長クラスを登場させた瞬間、それはもう特別な“陰の部分”を意味するようになる。陰の部分とは、そう、あの部分である。

色男いろおとこ男色だんしょく
(例)ルネサンス時代の画家たち。ラファエロ・サンティは「色男」で、よくモテた。一方、レオナルド・ダ・ヴィンチも美男子だったが、「男色」の人であった。

今ならイケメンと呼ぶ男性を、昭和の年配者らは色男と言っていた。色男必ずしも男色ではないが、ギリシア時代は男色が当たり前で、特に少年愛に溺れた男どもが多かった。ソ、ソ、ソクラテスもプラトンもそうだったらしい。少年への精神愛は“プラトニック”。これはプラトン由来である。

【蜂蜜と蜜蜂】
(例)「蜂蜜」は英語で”honeyハニー“。逆さ読みしてニーハとしても「蜜蜂」に変化しない。蜜蜂は”beeビー“だから。

日本語(と言うか、漢字)は、こうして二字熟語の遊びができるように、同じ漢字を使って「作られるもの」と「作る側」を表現できる。【牛乳と乳牛】もしかり。

もっと二字熟語遊び

シリーズ〈二字熟語で遊ぶ〉は、二字の漢字「AB」を「BA」としても別の漢字が成立する熟語遊び。大きく意味が変わらない場合もあれば、まったく異なった意味になる場合がある。その差異を例文によってあぶり出して寸評しようという試み。なお、熟語なので固有名詞は除外。

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【内室と室内】
(例)他人様ひとさまの「内室」についてとやかく言う立場ではないが、ずっと「室内」で過ごされているとしたらお気の毒だ。

内室と言うと、大きな屋敷内のずっとずっと奥の方の部屋を想像してしまう。かつての奥方はあまり外へ出ずに引きこもっていたのだろうか。室内というのは妙な空間で、ずっといるとストレスがたまるが、ほどよい時間ならとても居心地がよい。

【品名と名品】
(例)日本刀と言ってしまうと単なる「品名」になるが、正宗と呼んだ瞬間、「名品」の誉れ高いブランドに変わる。

「ピカソの絵画」ではなく、「ピカソの『ゲルニカ』」と言えば、モノがアートに昇華する。普通名詞の品名では、それが何であるかを特定できない。固有名詞の名品だからこそ他とは違うアイデンティティがはっきりする。

【席次と次席】
(例)学校時代の「席次」はずっと首席だったが、社会に出てからは職場でも儀式でも「次席」にすら就いたことがないんだよ。

このようなキャリアを辿った知人がいた。小学校入学から東京大学法学部を首席卒業し大手銀行で課長に昇進するまで、誰の後塵も拝したことのない超エリートだった。しかし、四十過ぎを境にして坂を転がり始めた。
ぼくらの世代の高校時代、学年席次の上位50人が貼り出されたものである。500人中の50番だから優秀なのだが、50番だといじられることもあった。

【数字と字数】
(例)パスワード設定にあたっては、アルファベットと「数字」で8桁以上の「字数」にしてください。

銀行のATMの暗証番号は今も数字4桁で、脆弱ながらも覚えやすくて便利だ。アルファベットと数字を組み合わせて、ID15字、パスワードが12字で入るアプリを使っているが、いつも手帳に挟んだメモをカンニングしている。

【太極と極太ごくぶと
(例)「太極」拳の教室の申込用紙の横に置いてあったサインペンは「極太」で、とても書きにくかった。

太極とは、その字の通り「太い極」で、あらゆるものの存在の根元のこと。握りもペン先も極太の筆記具はコントロールしがたく、画数の多い漢字だと線が重なって文字が判読しづらくなる。

久々の二字熟語遊び

シリーズ〈二字熟語で遊ぶ〉は、二字の漢字「AB」を「BA」としても別の漢字が成立する熟語遊び。大きく意味が変わらない場合もあれば、まったく異なった意味になる場合がある。その差異を例文によってあぶり出して寸評しようという試み。

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『二字熟語で遊ぶ』『続・二字熟語を遊ぶ』『二字熟語を遊ぶ、再び』と題して掲載したが、在庫が増えてきたので、久々に復活しようと思う。

【野分と分野】
(例)その昔、台風は「野分」(のわき/のわけ)と呼ばれていた。現在の気象予報の「分野」では台風と言っている。

野分は強風が野の草を吹き分ける様子を見事に描写している。ところで、台風を野分1号、野分2号などと告げたら、のんびりしてしまって、まったく危機感を感じなくなるだろう。

【日当と当日】
(例)出張に伴う費用は「日当」で計算しますが、そのつど「当日」払いはしません(経理担当)。

サラリーマン時代、出張が一週間にわたっても費用を立て替えるのが常で、精算は後日になることが多かった。申請漏れすると自腹を切ることになる。日当は前もって仮払してもらうにかぎる。

【名人と人名】
(例)世界「人名」辞典をひも解いても、必ずしもわが国の「名人」の名が見出し語で出てくるとはかぎらない。

世界を対象にした人名辞典にわが国の将棋や囲碁の名人も宮大工の名人棟梁も見当たらないが、水タバコ長時間喫煙記録保持者のトルコ人は収録されるかもしれない。それが名人に値する功績かどうかはともかく。

【球速と速球】
(例)「速球」を投げ込んだつもりだったが、軽々とレフトスタンドに運ばれてしまった。思ったほど「球速」が出ていなかったようだ。

速球にもいろいろな球速がある。剛速球の投手は150km以上出すだろうが、120kmの速球でのらりくらりという技巧派もいる。急がば回れなどと言うが、一般的には速いほうが遅いよりも褒められる。

【高座と座高】
(例)おれを見て観客が「座高」が高いと言ったけれど、「高座」に座れば誰だって座高が高く見えるのだ。

高座で噺家が一席披露している位置は、想像以上に高いのである。前列に陣取ると、まるで1階から2階を見上げるような感じになる。大袈裟ではない、実際に寄席へ足を運んでみればわかる。

ヒューマンスキル再考

2020年の年賀状を転載します。


二〇〇八年六月から綴ってきた当社のブログ《オカノノート》は、まもなく一、五〇〇回。歳月を経て風化した駄文も少なくない一方で、「名言インスピレーション」と題したカテゴリーに、いつの時代も心に留めておきたい引用文を再発見できました。
テクニックとしては役立ちそうもないですが、ヒューマンスキル再考の一助になればと考え、ここに再掲することにしました。


「ぼくはずっと思っているんだ。きのうになればよくなるだろうって」
よく言ってくれた、チャーリー・ブラウン。その通り!
何の根拠もないのに、明日が今日よりもよくなると信じている人がいる。「今日はダメだった、でも明日があるさ」とつぶやいてリセットした気になれるとは、ノーテンキにも程がある。
チャーリーは覚めた目で昨日、今日、明日を見ている。今日の次にもう一度昨日が来たら、少しはましにやり直せるはず。但し、後悔と反省を織り込んだ上手な学びができればの話。


問題がうまく解決できない。問題がそもそも何であるのかを簡潔に言い表せないのが原因の一つである。課題と言い換えてもいいが、課題の表現が拙いと解決すべきことが明快にあぶり出されない。発明家としてよく知られたチャールズ・ケタリングのことばに耳を傾けたい。
「問題をそつなく表現できれば、問題は半ば解決されたも同然」


専門スキルやノウハウは生活習慣と無関係ではない。仕事と生活はほぼ写像関係にあって、この二つは決して切り離せない。それゆえ、プロフェッショナルとしての能力は、生活スタイル、癖、繰り返しによって培養される。
「習慣は第二の天性なり」(ギリシアのことば)
「成果をあげることは一つの習慣である。習慣的な能力の集積である。習慣的な能力は修得に努めることが必要である」 (ピーター・ドラッカー)
いずれも「習い性と成る」ことを教えている。身についた習慣は無意識のうちに身体に浸み込む。まるで生まれつきの性質のような暗黙知の才能になる。


「人間のあらゆる過ちは、すべて焦りから来ている。周到さを早々に放棄し、もっともらしい事柄をもっともらしく仕立ててみせる性急な焦り」
フランツ・カフカのこの指摘は、様々な場面に当てはまる。焦りから結論を急いで判断すると早とちりする。早とちりは先入観として刷り込まれる。いったん刷り込まれてしまうと判断を見直すチャンスを失うのである。


近世イタリアの哲学者ジャンバッティスタ・ヴィーコは言う。
才能インゲニウムは言語によって形成されるのであって、言語が才能によって形成されるわけではない」
言語が才能に先立つと考えるのが自然である。何がしかの思考と人それぞれの才能、その他ありとあらゆる資質は言語を源泉とする。才能がなくても何とかなる場面はあるだろうが、言語を放棄しては人間関係も生きることも立ち行かなくなる。


あの柿の木が庵らしくする実のたわわ   (壱)
この柿の木が庵らしくするあるじとして  (弐)
最初壱の句が作られ、その後に弐の句に書き換えられた。この変化に心境の一端が読み取れそうな気がする。壱の句では種田山頭火はまだあるじだったのだろう。しかし、脇役のはずの柿の木が弐の句では主役になる。あるじの座は柿の木に取って代わられた。「あの柿の木」が「この柿の木」に変わっているのも見逃せない。主客は転倒する、望むと望まざるとにかかわらず、やがて変わる。


「始めなんてものはない。到着した所からやりたまえ。最初君の心を惹いた所に立ち止まりたまえ。そして勉強したまえ! 少しずつ統一がとれて来るであろう。方法は興味の増すにつれて生まれて来るであろう。最初見た時は、諸君の眼は諸々の要素を解剖しようとして分離させてしまうが、それらの要素はやがて統合し、全体を構成するであろう」(ロダン)
経験の程度に応じて、分析から統合、部分要素から全体へとシフトするのは、ほぼすべての学習において真である。企画という仕事は一言で表現しようと試みてもしっくりこない。あれこれ考えた挙句、〈ことばとアイデアで画を企む過程〉に落ち着く。成否には言及しない定義だが、これで仕事の過程は実感できる。


ジュエリー工房のベテラン彫金師が言った。
「こんなものが欲しいのだけれど、作ってもらえますか? こう言われる時が一番幸せな時だ。自分にしかできない仕事を頼まれているのだからね」
固有名詞で指名される職人にはめったにお目にかかれないし、「あなたでなければいけない」と言われる存在に誰もがなれるわけではない。しかし、かけがえのない存在を目指すのはすべての仕事人にとって最大のテーマである。もちろん、そうだとしても、不特定多数に指名されようと欲を出しては幸せが逃げていく。


できるとかできないとかの結果にこだわることをやめた瞬間、「やれば」が意味を持ち始める。
「星に手を差し伸べても、一つだって首尾よく手に入れることなどできそうもない。だが、一握りの泥にまみれることもないだろう」
レオ・バーネットのこの至言を励みとしたい。


2020年 年賀状

両手ふさがり

ある日のこと。

雨が降っていた。出掛けねばならない。傘がいる。井上陽水には傘がなかったが、幸い傘はあった。右手に傘、左手に鞄というち。両手がふさがる。

前を知り合いの後期高齢者の女性が歩いている。右手に傘、左手に少し大きめのキャスター付きバッグ。濡れた車道で足を滑らせそうで、冷や冷やする。追いついて話しかける。「どちらまで?」「センターです」。センターが何か知らないが、関心はそこにはない。「両手がふさがっているので、転ばないようにお気をつけて」とお節介した。人は、転びそうになっても、傘を握りしめたまま、バッグも手放そうとしないものだから。

☆     ☆     ☆

両手ふさがりという、ある種の「無武装」を強いられるのは、決して雨のせいではない。傘と鞄を持たねばならない己の必要性ゆえの出で立ちである。

傘と鞄で両手がふさがったまま某所に出掛けて帰ってくるだけならいいが、切符を買う、ICカードを使う、財布を出し入れする、濡れた手をハンカチで拭いてスマホを取り出す……などの動作が伴う。雨の日に傘の置き忘れが多いと聞くが、あれはビニール傘よりも重要なものを守ろうとするあまりの結果だと睨んでいる。

人は「雨の日の傘と鞄」という出で立ちに似た生き方を標準とする。両手がふさがって、片手の余裕のない生き方。もう一つ荷物が増え、もう一つ外的変化を考慮すべき状況になると、それこそ「手に負えなく」なる。

今のところ、両手ふさがりが「八方ふさがり」になると断言する確証はないが、持たねばならないもの、しなければならないものを常日頃見直しておくのがよさそうだ。

色彩、すなわち色の彩

ここ数年、「情報誌の編集技術」というテーマで研修をおこなう機会がある。文章の書き方、デザイン、紙面づくりなど、必要最小限の知っておくべき技法を網羅して講義する。講義だけでは十分理解できない話なので、プロジェクターを使って事例を見せる。

パワーポイントであらかじめ作成した色合いが、研修会場に設置されているプロジェクターで忠実に再現されないことがある。それで致命的なまでに困ることはないが、稀に部屋の明るさによって文字が見えづらくなることがある。今までで一番困ったのは、繊細に再現しないと意味を成さないカラーコーディネーションの見本を使った時だ。

再現性が悪く、キーワードとして掲げた「シック」「抑制」「味わい深さ」「円熟味」などがさほど感じられない色味になってしまった。思わず、自分のノートパソコンを持ち上げて画面を見せたが、後ろの席の受講生からはパソコンの画面は見えづらい。この一枚は消化不良のスライドになった。

☆     ☆     ☆

パソコンの色合いを精細に再現できるプロジェクターの開発に取り組む技術者の話題を、先日のテレビで見た。デジタル技術なのだが、工芸職人の手業てわざそのものである。恐ろしく手間暇がかかる色合わせの作業だった。徹底的に凝ろうと思えば、そんなプロジェクターを自ら携えて会場入りするしかない。

デジカメでもスマホのカメラでも実物と写真には誤差がある。誤差は思いのほかいい方向に出ることがあるが、赤が奇抜に出たり青の深みが足りなかったりというのは毎度である。色の素人だが、色の再現がいかに難しいかは想像できる。

「思うに、色彩の模倣こそ最も困難な問題である。なぜならそれは、賢い者をも欺いて、見せかけと本物とを間違えさせるからである」(エル・グレコ)

光学のスペシャリストだけの悩みではない。色彩の専門家である画家にとっても終生つきまとうテーマである。と言うわけで、今後も粛々とパワーポイントを作成していくことには変わらないが、色のあやまで深入りしない程度に講義内容を収めておくのが無難なようである。