様々な記憶と想像

以前、老舗のおはぎをひいきにしていた。そのことはよく覚えているのだが、どんな味だったのか、なかなか思い出せない。
数十年ぶりに口にする機会があった。おはぎはノスタルジックで美味しすぎて、勢い余って空白の時間もいっしょに頬張ってしまった。

秋が終わる前に早めに名残を惜しんでおこうと思っているうちに、冬支度が始まった。ついこの間出合ったばかりなのに、早々と別れの段取りをしてしまう。クールな秋。

人は大胆だなあ。自然の風景や都会の景色を思いのままトリミングして自分好みのフレームに収めてしまうのだから。

林間学校と臨海学校。行き先も漢字も違うのに、音だけを拾うと兄弟のように思えた子どもの頃。「リンカ・・・ン」と「リンカ・・・イ」。

イタリアのとある街の大聖堂。薄暗い中で溢れるような涙を流している信者を何人も目撃した。その体験は知らない歴史との接点になり、ぼくの考え方を少し変えた。

あの日、特に急いでいたわけではないのに、大通りで流しのタクシーに反射的に手を上げるようにエレベーターのボタンを押した(苦笑)。

時計は壊れる。壊れたら修理できる。修理できなければ棄てる。
時間は壊れないし、修理できないし、棄てることもできない。時間は生かすか無為にやり過ごすかのどちらか。

空と雲に紛れる月がある。色も形も同化して気づきにくい。月だってひっそりと目立ちたくない時があるのだろう。カメレオンな月のかくれんぼ。見つけたらきみの勝ち、見つからなかったら月の勝ち。負けのない楽しい遊び。

当たり外れ――ご飯編

「ご飯」は丁寧語で、二つの意味がある。一つは「めし・食事」の意。別に和食とはかぎらない。「ご飯を食べてから帰る」と言っても、食べるのはステーキかもしれないしラーメンと餃子かもしれない。もう一つは「米の飯」そのものを意味する。

家庭料理にはうまいもまずいもある。長年食べ親しんできたから、たとえ少々まずくても、家庭の味ゆえに受け入れる。家では「まずうま・・・・」が成り立っている。コストはかかっているが、そのつどお代を払うわけではない。「ちょっと塩気が強い」とか「味が薄い」とか「煮えすぎた」とかの軽いコメントが出て、その場はそれでおしまい。

お代をもらって食事を出すのが食事処。それを生業としているのだから一応プロである。半世紀などという長いスパンで捉えなくても、この10年前だけで判断すると店で出される食事はおおむねレベルアップしてきた。合格と不合格の微妙なライン上のものもあるが、それとて値段相応である。注文する客も価格に応じた味でいいと割り切っている。

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問題はプロの店で出される「米の飯」である。ランチにしては少々値の張る1,500円の酢豚定食。酢豚は合格だが、ご飯とおかずの相性が悪い。米の質と炊き方、ご飯のよそい方がお粗末なのである。ご飯へのこだわりがなく、ただ大盛サービス、お替わり自由で片づけてしまっている。一品料理はうまいのに、ご飯でがっかりさせられるこんな店は案外多い。

数年前、親しくしている老舗米問屋の若い社長から「食事処向けに米の性質、米の選び方やおいしいご飯の炊き方など、啓発スライドを作りたい」という相談があった。こっちは米の素人だが、スライド構成とコンテンツのアイデアを貸してほしいという要望である。何度か打ち合わせとメールでやりとりしながら完成させた。続編も作った。この編集の過程で実に多くのことを知った。米と水との微妙な関係、深くて複雑なご飯の食味の話、等々。米のソムリエでもある彼は言った、「正直言って、家庭の炊飯器でできてしまうことを料理のプロたちが怠っている」と。

かつ丼、オムライス、パエリア、和定食……うるさく言うと、それぞれに合う米があり、仕上がりとしてのご飯がある。何度も試行錯誤してこそ、この料理にはこのご飯と胸を張れるようになる。焼肉を堪能した後、最後の二、三切れをご飯で仕上げる。べたついたご飯が食事を台無しにしてしまう。どんなに焼肉がうまかったとしても、店の格付けは落とさざるをえない。

当たり外れ――コーヒー編

喫茶店でもカフェでもいい。コーヒーを飲みに入る。入れば少なくとも半時間、時には1時間ほど長居する。手持ちぶさたにならないよう、本とノートは必ず小さなバッグに入れてある。店の看板や店内の雰囲気・インテリア、応対する店員の立ち居振る舞いは客の気分に影響するが、コーヒーそのものの香りと味がやっぱり絶対条件。

初秋の、まだ暑さが残る午後、たまに入るカフェDCに久しぶりに入った。この店では決まってエスプレッソだが、喉が異様に乾いていたので初めてアイスコーヒーを注文した。エスプレッソのうまさには及ばなかった。これならホットのブレンドにしておけばよかったと少々後悔。

とは言え、感じのいいマスターだし、少し長居できる雰囲気もあり、文章を思いつくまま綴るには落ち着く場所だ。しかも、250円なら文句は言うまい。一応合格。


その翌週、老舗の昭和感たっぷりの喫茶B屋へ。数年ぶりになるので、この店の味はうろ覚えである。店の定番の420円のブレンドを注文する。香りも立たず、一口啜れば味が薄く、お粗末だった。以前はこんな味ではなかったはず……。懐かしさが漂う希少な喫茶店ではあるが、偶然通りがかったとしても、もう二度と入らない。

ここはマスターが一人でやっている店。注文したブレンドをカウンター越しに出し終えたら、端っこの空いているカウンター席に座ってスポーツ新聞を読み始めた。競馬欄に食いついている。

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オフィスに近いカフェLの売りは自家焙煎のエスプレッソ。ある日は焙煎7日、別の日には焙煎15日とかの表示があり、同じ豆だが焙煎の違うエスプレッソを飲み比べできる。本場イタリアと互角の上等の味である。以前は週に二度通っていたこともある。いつぞやアイスエスプレッソを注文した。新顔のバリスタがぼくに尋ねる。「アメリカーノですか? 水で薄めますが、よろしいですか?」 こんなことを聞かれたことはない。質問を無視して「エスプレッソのアイス」と念を押した。

出てきた注文の一品は、エスプレッソ用の焙煎の香りはするものの、想像以上の薄味だった。メニューにアイスエスプレッソがなく、アイスの注文が入ると水で薄めるのがこの店の流儀なのに違いない。水増ししたらエスプレッソの強さと濃さは半減する。

アイスエスプレッソはあらかじめグラスに氷を一杯入れておき、そこに熱々のエスプレッソのダブルを注ぐのが正解。オフィスのマシンを使って作る時はそのように淹れる。そうしないと、ホットで飲むうまさがアイスで生きてこない。ぼくの淹れるアイスエスプレッソのほうが格段に上である。

コーヒーの当たり外れに喫茶店の当たり外れ。よくあることだが、ホットでもアイスでも同じ確率で外れに遭遇する。当たり外れは自己責任であるから、文句は言えないし言わない。ただ二度と行かないという選択肢があるのみ。

立地という個人的な都合

自宅からオフィスまでは徒歩で10分ちょっと。自転車なら5分もかからない。気分に応じて歩いたり自転車に乗ったりしている。自宅の蔵書をほぼオフィスの図書室に移しているので、休日に本を読もうと思えばオフィスに行く。通勤時間往復3時間という知人からすれば至極便利なのだが、さらに近い場所に引っ越そうと考えている。

立地。単独でそのまま使われることはめったにない。たいてい「立地」とか「立地がいい・・」という具合に使われる。絶対的な立地条件などない。立地には個人的な都合が反映される。よく通う目的地に近い所に住んでいれば便利で、そこから遠い人には不便。遠近感も人それぞれ。立地の良し悪しに万人共通の条件はありえない。

四十代前後の働き盛り稼ぎ盛りの頃に「東京にもう一つオフィスを持てば」と助言されたことがある。「あなたの仕事は東京のほうが多いから」という理由。月のうち何日か東京にいれば何かと便利で仕事も増えるかもしれないが、その便利と活動機会を享受できる東京は大阪からは遠い。助言者であるその東京都民は東京の立地が大阪よりも優れているという前提に立っていた。

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この話を奈良県民の知人に言ったら、「いや、新幹線や空港のないうちに比べればずっと便利」と大阪を羨んだ。奈良に住んでいたこともあるのでわかるが、羨むほどの差があるとは思えない。五十歩百歩である。

大阪の中心街で住み働いているが、自宅を出て伊丹空港から飛んで東京都心まで4時間かかる。新幹線を使ってもほとんど同じ。この4時間をどう見るかで立地の好悪が決まる。4時間というのは労働時間的には半日である。東京以外にも数時間以上かかる各地へ出張してきたが、ほぼ前泊だった。仕事とは言え、前泊しなければならない点で出張先は好立地ではない(自分にとって)。

大阪の玄関口の梅田まで自宅から3駅。所要時間わずか10分。「便利ですねぇ」と言われるが、映画を見る以外にあまり用はないので、そうは思わない。車に乗らないから、メトロの3路線の駅が徒歩5分以内にあるのは都合がいい。大規模書店が歩いて10分以内の場所に2店舗あるが、これは面倒くさい。10かかるのは5分に比べて立地が良くない。贅沢だと思われるかもしれないが、個人の都合だけが立地の決定要因なのである。したがって、話は大きく飛ぶが、「世界のどこが一番立地が良いか?」という問いにほとんど意味はない。


情報の加減の難しさ

「本日、アルバイトが体調不良で急きょ休んでいるため、人手不足につきお昼の営業は休みとさせていただきます」

店の扉に貼り紙。強い違和感を覚える。「本日の昼は臨時休業」というだけで済むはず。それでは愛想がないと感じるなら、休業の理由ではなく、「せっかくお越しくださったお客様にお詫び申し上げます」と添えればいい。

この種の貼り紙を出す店は、たいていの場合、常連客に向けて書いている。常連がアルバイトと一言二言交わすことがあり、また、店主が忙しく切り盛りしているのを見て「今日も忙しいね」と声を掛けたりしているのだろう。

「本日臨時休業」で足りるのに、休業の理由を書きたがる。これまでに「店主腰痛につき」「冷房が故障したので」「スタッフがインフルエンザに罹ったため」……などの貼り紙を目にしてきた。理由まで述べるのは、ある意味で誠意の表れとも言えるが、常連客への甘えと言えなくもない。

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オフィスにベンジャミンの一鉢がある。日光や水やりや肥料に無頓着のまま十数年になるが、手のひらサイズだったのが1メートル以上の大きさになっている。ちょっと本気を出して育ててみよう、剪定や挿木もしてみようと思いネットで検索したところ、「ベンジャミンを育てる時に必要な準備は?」というサイトを見つけた。

鉢、皿、土、肥料、鉢底ネット、スコップなどを差し置いて、準備するものリストの一番最初に何が出てきたか? なんとベンジャミンの苗である。見事な念の入れようだ。「ベンジャミンの苗なくしてベンジャミンを育てることはできない」というのは暗黙の了解ではなかったのか?

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他方、どんなに説明されても、まったく知識がなく、また未体験ならわかりようがない場合がある。花札などがそれ。これもネットの無料ゲームの説明。

こいこいルールの花札です。50文でエンディングです。花見・月見はありません。月札とは同種札四枚を集めた役です。(オリジナルルールなので一般的には無い役です)

幸いにして、花札をよく知っているので容易に理解できる。と言うか、説明されるに及ばない。この説明では入門者には何のことだかさっぱりわからないだろう。と察してかどうかは知らないが、その下に「花札(こいこい)の遊び方」が解説されている。

手札の中から一枚捨ててください。同じ絵柄の札に札を合わせると自分の取り札となります。絵柄が合わない札は、場に残ります。
取札が増えて役が出来たら勝ちです。「こいこい」をして勝負を続行することができます。

ある程度わかっているから意味が汲み取れる。「わかりやすい説明をせよ」などと指導する専門家がいるが、そんな説明が可能だと豪語するなら、実際にやってみればよろしい。説明不足でも説明十分でも、伝わらないものは伝わらない。説明側の一人相撲ではないのだから。「人を見て法を説け」に反発する気はまったくないが、人を見ても説明できないものはできないのである。

説明される側、鑑賞する側にも理解の前提条件が求められる。この話は次回。

ことばの断片―愉快とリズム

いろんなことを実によく考えるものだ。あの手この手。他人の創作にある時は呆れ、またある時は感心する。仕事柄ことばの言い回しに工夫をしなければならないので、自分でも創作する。愉快とリズムをなるべく意識するようにしている。

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繁華街の入口に看板が出ている。「即日体入高収入」。人材募集らしきこと、少々怪しげな職種であることを感知する。体入とは体験入店。試しにその日にバイトを始めればその日から稼げるというメッセージである。

今度の台風は強いぞ、大きいぞ。被害甚大に気を付けよ。進路予想を見ればわが街も直撃エリアに該当している。ところが、いつ通過したのかもわからないほど、あっけないことがある。決死の覚悟をしていたのに、通常の雨の日とほとんど変わらない。被害地には申し訳ないが、ぼくは「がっかり台風」と呼んでいる。

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「モダンは追う。流行は追わない」(フォルクスワーゲン)
「安いワインは飲む。安っぽいワインは飲まない」(自作パロディ)
人は自己を誇示したり正当化したり言い訳したりするためにキャッチコピーを作る。

町内の釣鐘が時を告げる。ゴーン、ゴーン。その鐘の音を耳にするたび思い出す。
ゴーンゴーンとすり寄って保身した者たちはいまどこで何してる /  岡野勝志

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四字熟語で攻める。
放蕩三昧・・・・の勇気なく、無為徒食・・・・にも居直れず。日々の刻苦精励・・・・も及ばず。おおむね中途半端・・・・に生き長らえていく」

カタカナの漢字変換。
分厚いハンバーグのことを「味覚認肥厚物体みかくにんひこうぶったい」という。前日に仕込んだのを焼いてしかと存在を確認し、しかる後に消滅させることに成功した。

突然の訪問客が減った

見ず知らずのセールスマンが相変わらずアポ無しでオフィスにやってくる。「新入社員です」とか「この地域の担当になりました」などと言って侵入を図ろうとする。名刺をゲットできる可能性すらほとんどないというのに……。これに対して、めっきり減ったのが、知り合いのふいの訪問である。オフィスには年に一人か二人。自宅への突然訪問はまったくない。

たまたまいればいいが、オフィスにはいないことが多いので、知り合いは「お邪魔したい」と携帯やメールで日時を伝えてからやって来る。思い起こせば、昭和30年代後半はまだまだ固定電話が普及していなかった。事前に連絡するすべはなかったから、訪問客は突然やって来るしかなかったのである。電報という手段はあったが、電報よりも人の方が先に着いてしまう。

☆     ☆     ☆

わが家に黒電話がついたのは昭和40年代前半。高校生の頃だ。それ以前は呼出だった。町内の一区画20世帯ほどのうち、電話のある家は2軒のみ。近い方の、3軒向こうのW宅が取り次いでくれていた。中学生の頃は「W方呼出」と電話番号を書いて担任に連絡先を提出していた。W宅に呼出を依頼していたのはわが家も含めて10軒はあったから、電話がかかるたびにおばさんがそれぞれの家まで告げに行かねばならなかった。負担は決して少なくなかったはずである。当時はほとんどが専業主婦だったから、取り次ぎのために呼出に行けばたいてい家にいた。

隔世の感がある一人一機のスマホ時代。「○○駅に着いたらメールで知らせて」と言えば済む。約束の場所も時間もかなりアバウトなやりとりだ。昔は、黒電話がついた頃になっても、いったん自宅を出たら相手への連絡手段は公衆電話のみ。相手が在宅していたらいいが、相手もすでに出ていたら連絡は不可能。と言うわけで、事前に綿密な打ち合わせをしておかねばならなかった。

「大阪駅中央改札口を入って6番線の階段下の売店前に午前1040分厳守、1045分の快速に乗るから。万が一遅れたら、三ノ宮駅前の喫茶□□に行っているのでそこに電話を入れること」という具合。喫茶店には公衆電話があって、そこに外から電話をかけることができたのである。ともあれ、電話の不自由な時代のほうが描写力も表現力も優れていたのは否めない。何よりも伝えることにマメだった。

危うい一般化

笑みを湛えて、おやつとおにぎりをもぐもぐ食べる。そして、かつてソフトボールにも併行して打ち込んでいた女子ゴルファーなら全英女子オープンで優勝できる……。早速自分の娘にもそうさせようという親が出てくる。きわめて滑稽な一般法則の一丁上がり。

英語で“hasty generalization”と言う。こなれた日本語になりにくく、〈早まった一般化〉と訳されるが、論理用語としてぎこちない。思慮不足の一般化、軽はずみな一般化、慌て者の一般化、性急な一般化と訳しても間違いではない。

小さな個別事例をほんの少し――極端な場合はわずか一つ――だけ挙げて、そこから大きな結論を導く誤謬のこと。導かれた結論が妥当なことも稀にあるが、ほとんどまぐれ当たり。「雲が出てきた。雨が降るだろう」という類推が仮に当たりだとしても、調子に乗ってはいけない。一例を以て一般化するのは危うい。

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「みたらし団子が売られている」というたった一例から「和菓子店である」と導くのも慌てすぎ。今ではコンビニや百円ショップでもみたらし団子が売られている。では、みたらし団子、最中、羊羹、饅頭、大福餅と列挙したら和菓子店と言い得るか。そうかもしれないが、デパートの和菓子コーナーの可能性も否定できない。ならばとばかりに、桜餅、三色団子を加え、ついでに老舗の暖簾、店頭での今川焼の実演まで列挙してみる。何が何でも和菓子店にしてしまいたいのか。

しかし、こんなふうにデータをとことん積み重ねたら、事実に語らせることと同じ。早まって虚偽の結論を導いてはいけないが、ここまで慎重に構えて事例を増やして結論したら、現場調査みたいなもので、机上での推論の技がまったく活用されないことになる。情報不足にも問題はあるが、かと言って、情報過剰でものを考えるのはつまらない。

全英女子オープン優勝の条件の選び方にそもそも問題がある。プレイ中のもぐもぐよりも練習の度合や技術のほうが重要だ。商品ばかり並べたてるのではなく、和菓子屋の最たる特徴を他に探すべきである。かつて松下幸之助の成功要件として「貧乏な家に生まれ、病弱で、学歴がなかった」を挙げた人がいた。才覚や人付き合いを差し置いたのは、逆境から這い上がる人生の劇画的美化を求めたからだろう。成功美談は早まった一般化の産物と相場が決まっている。

T O M A T O

南米アンデスに由来するトマトがヨーロッパに伝えられたのは16世紀。意外にも歴史が浅い。しかも、当初は観賞されるだけの植物に過ぎなかった。広く食用として受け入れられたのは、さらに下って18世紀のこと。日本でトマトの栽培が始まったのが19世紀なので、さほど時間差はない。トマトは洋の東西で比較的新しい食材なのである。

栄養価もあり重宝されている。ところが、テレビで取り上げられたりすると、翌日から敏な消費者が大量に買い出しに出掛ける。普段から料理に使っているのだから、煽られるには及ばないのに……。熱しやすく冷めやすい国民がトマトをサプリメントのように扱う。こういう偏りはいただけない。

食べる側の〈正しい食事〉のありようは、「いろんな食材を、なるべく旬に応じてバランスよく食べる」ことに尽きると思う。普段から少しずつ料理に用いたり食べたりしていたらいいわけで、大量買い付けは滑稽である。トマトは加工しやすく、加工しても栄養価に問題がないので、缶詰ならいつでも手に入る。

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酒は穏やかに嗜む程度だが、ここ20年ほどワインを飲むようになった。日本料理店が近場から消えたこと、付き合いなどでも洋食傾向が強まってきたことと無関係ではなさそうだ。いいワインも安価に手に入るようになり、肉料理のパートナーとして出番が増えた。

トマトが肉食と特に相性がよいことをフィレンツェで知った。とりわけ、トリッパ(ハチノス)やランプレドット(アカセン)などの内臓が合う。内臓をトマトソース、塩・コショウ、ニンニクでコトコト煮込めばかなりやわらかくなる。現地では、そのまま食べるか、パニーニにはさむ。年に数回自分でも調理するが、トマトソース煮込みの内臓料理は赤ワインを手招きする。

トマトがヨーロッパに伝わってから一般化するまでに、様々なレシピの試行錯誤があったに違いない。ラテン系の人たちは、やがてトマトが肉ともっともよく合い、こうして作られた料理が赤ワインに合うことを体験していった。サラダで食べるトマトもいいが、火にかけて肉と絡ませてこそのトマトである。

あちらではトマト以外に目ぼしい野菜をふんだんに使うわけではない。パスタで使う具材も決して多くない。トマトがあれば、食材が少なくてもバランスを取ることができる。トマトソースに溶け込んだ香味野菜と肉片。それとパンだけでうまい料理が仕上がる。トマトがうまみを演出しているのである。『おししさの科学』という本によれば、トマトが昆布や鰹節のような役割を果たしているらしい。この夏、調味料も兼ねた優秀な食材に大変お世話になった。

体感についての雑感

こっちはさほど暑さを感じていないのに、挨拶かわりの「暑いですね」が耳に入ると体感温度が上がる。余計なことを言わないでほしい。温度計が示す数字とは異なる体感温度がことばやイメージによって上下する。

星を見る目から涼しくなってくる

センスのいいシュールリアリズムな句。小四男児の作品であることに驚く(『小学生の俳句歳時記』)。

窓際の温度計を見て大きくため息をつく。肌はどう反応するのか。窓を開けてみた。尋常ならぬ熱風が瞬時に入ってきた。急いで窓を閉める。家族連れがつらそうにアスファルトの舗道を歩いている。他人事ではない。まもなく出掛けなければならないのだ。

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灼熱の外気から逃れて地下街に潜れば一瞬ほっとするが、ほとんど通行人がいない。人気ひとけがないと通路は長く見える。まるで無限通路のよう。潜った手前、地上に出なければならない。不幸なことにエスカレーターもエレベーターもない。心理的な無限階段が立ちはだかるが、回避するすべはない。

変幻自在に形を変えて流れて行く雲。空の青も刻々と移ろう。空と雲が提供してくれる題材はおびただしい。しかし、夏場のメンタリティは鈍感である。一篇の詩を編むのが億劫。それどころが、ことばにする軽やかさが欠けている。小四男児の感性がうらやましい。

身体を少し反らせて空を見る。低い雲あり、高い雲あり。陽射し強く、熱を帯びた風が暑さを増幅する。リアルな視覚を封じ込めて、緑の涼を精一杯イメージしてみる。ふとことばが紡がれたような気がしたが、雲のように散り、風のように止んで消えた。忘れられたことば? いや、気づきも覚えもしていないことを忘れることはできない。