抜き書き録〈2022/06号〉

空き時間に再読した「古典もの」の抜き書きを集めてみた。まずは福沢諭吉。有名なあの一文、「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり」が象徴する啓蒙主義的言説に少々飽きてはいるが、やっぱり随所でいいことを書いている。

人の見識品行はただ聞見の博きのみにて高尚なるべきに非ず。万巻の書を読み天下の人に交わりなお一己いっこの定見なき者あり。(『学問のすゝめ』)
(見聞を広めるだけで人は立派にならない、読書に勤しんでも著名人と付き合っても自分の意見が持てない者がいる)

昔からのやり方に固守する儒者や洋学者にもこの類が多いと言う。読書はしないよりもする方がいいし、抜き書きもしないよりはする方がいいと思うが、効能の過信には気をつけたい。

「学問」つながりで、17世紀イタリアの哲学者、ジャンバッティスタ・ヴィ―コからの青少年教育に関する抜き書き。

記憶力は、想像力とたとえ同じでなくとも、確実にほとんど同じであり、他に何ら知性の能力の点で秀でていない少年においては熱心に教育される必要がある。(『学問の方法』)

近年、わが国の教育は記憶させることに偏重している、思考力にもっと力を入れるべきだと批判されてきた。ぼくもその主張に与した一人である。しかし、最近では、何が好きで何に適性があるかもわからない少年期は記憶力優先でいいような気がしている。青年になってどの方向に進むにしても、記憶力――ひいてはヴィ―コ言うところの想像力――が役に立たないはずがないからである。

吉田兼好に対しては立ち位置の取り方が難しい。ある段の話には四の五の言わずに共感するが、別の段には不快感を覚えることもある。あるいは、二律背反的な解釈の余地がある段も少なくない。たとえば次の一節。

筆を取れば物書かれ、楽器をとれば音を立てむと思ふ。盃をとれば酒を思ひ、さいをとれば打たむことを思ふ。心は必ず事に触れてきたる。仮にも不善のたはむれをなすべからず。事理もとより二つならず。外相げさうもしそむかざれば内證ないしやう必ず熟す。(『徒然草』第一五七段)
(筆を手にすると書きたい、楽器を手にすると奏でてみたいと思う。さかずきを手にして酒を思い、サイコロに触れると博打をしたくなる。物に触れるから心が動く。だからよろしくない遊びに手を出してはいけない。現れることとあるべきことは別のことではない。外に出てくることが道理に合っているなら、悟りはきっと熟してくる)

こんなふうに言われると、つい「なるほど」と感心させられる。しかし、思いついたことを記そうとしてペンを取り、一曲奏でようと思ってギターを弾くという、動機から行為へという流れもよくあるはず。ところで、酒とギャンブルを書や音楽と同列には語れない。酒飲みは何かにかこつけて飲むだろうし、金を持てば飲み、金がなければ金を借りてでも飲む。ギャンブル好きも同じ。どんな対象でも賭けの対象にする。そして、金を持てば賭け、金がなくなれば金を借りて賭ける。ギャンブル好きはサイコロがなくても馬が走らなくても困らない。とにかく賭博するのである。

抜き書き録〈2022/05号〉

つい半月ほど前に春を実感したばかりである。これから存分に春を楽しめるというのに、心配性は春が瞬く間に過ぎるのではないかと冷や冷やしている。

春を惜しむといえば、去りゆく春に手を挙げて別れを惜しむ趣だが、なにも晩春に限った感情というわけではあるまい。終わりよりも酣(たけなわ)においてこそ愛惜の思いの強いのが、春という季節のありようではないか。
(高橋睦郎『歳時記百話 季を生きる』)

惜春ということばがあるように、惜しむのはゆく春。人はあまり夏や秋や冬が去るのを惜しまないのだ。

わたしはあるときフト気がついた。
この世の仕組みはすべてズルでできあがっていると。
大悟というのだろうか。
(東海林さだお『人間は哀れである』)

この世の仕組みがすべて善行や善意で出来上がっていると言われるよりは、「この世はすべてズル」という主張のほうがよほど説得力がある。善はなかなか主役に躍り出ないが、ズルは堂々と、抜け抜けと、この世をわがものとして生きている。ほぼ一日に一度は何がしかのズルを目撃する。

文章を書くということは、一人の人間の能力全部を出し尽くすということである。テーマが与えられると、どこから光を当てるか、どういう立場に立って書くかを、まず決めなければならない。ばらばらの部分があるだけでは、全体につながらない。全体を貫く軸をみつけ出さないかぎり、部分は部分にとどまる。
(尾川正二『文章のかたちとこころ』)

文章を書くことの特徴が網羅され見事にまとめられている。但し、実社会では、テーマは与えられるばかりでなく、自ら見つけなければならない。職業的にものを書く人のみならず、仕事人は誰もがテーマを持っているし、テーマを主観的かつ客観的に理解するために筆記具を手にすることが多くなるはず。

みなさんも小さな子供が「なぜ」「なぜ」と繰り返し質問し、聞かれた大人が最後には「だからそういうものなの!」と会話を打ち切る場面を見たことがあるだろう。子供は物事が複雑であること、何かを説明しようとすると次々と新たな疑問が湧いてくることを、なんとなくわかっている。「説明深度の錯覚」は、大人が物事は複雑であることを忘れ、質問するのをやめてしまったことに起因するのかもしれない。探求をやめる決断をしたことに無自覚であるために、物事の仕組みを実際より深く理解していると錯覚するのだ。
(スティーブン・スローマン/フィリップ・ファーンバック『知ってるつもり 無知の科学』)

“0”から“10”まで刻んだ理解の目盛りを仮定する。「知らない」は目盛りの“0”だが、「知っている」が“1”から“10”の目盛りのどこになるかは特定しづらい。「知っている」は人によって意味が変わる多義語なのである。「きみ、知っている?」「はい、そのつもりです」というやりとりで意思疎通できることは稀なのだ。自分の「知っている」のほとんどが「知っているつもり」である。無知を暴かれたくないのなら、あらかじめ「よく知らない」と言っておくのが無難である。しかし、「よく知らない」と控えめな人ほどものをよく知っていたりするから、話はややこしい。

四百字のアフォリズム

帯に「この一冊 余白はあなたのために! 現代日本のすぐれた知性がそれぞれ400字の中に圧縮されています」と書いてある。書名は『街頭の断想』(共同通信社発行、1983年)。表紙にはAPHORISM(アフォリズム)の文字がデザインされている。

錚々たる56人×400文字である。「アフォリズム=80年代へ・街頭の断想パンセ」というタイトルのもとに19809月から19834月まで綴られた。まず12名分が地下鉄千代田線「明治神宮前駅」のプラットフォームに掲示された。次いで、残りの著者分が新宿センタービル地下1階「水の広場」の4本の柱に順次掲示されていった。ちょっと考えにくい公開方法だ。

巻頭で本書への思いを書いた中村雄二郎は、56人の400文字の文章が〈アフォリズム〉だと言う。しかし、普段訳される「警句」や「箴言」というもったいぶった表現から受ける印象ではなく、「簡潔な圧縮された形で表現された人生・社会・文化などに関する見解」という広くて深い意味を感じさせる定義である(と、中村雄二郎はアフォリズムを捉えている)。

ここで引く一例選びに悩んだ末、作曲家、武満徹の400字アフォリズムを選ぶことにした。難解だが、じっくり文章を追ううちに刺すように響いてきたからである。「電話」と題された一文。

 窓を開ける。陽光ひかりが溢れる。変哲もない一日が始まる。この区切りもない棒状の文脈に、不意に電話のベルが不規則な律動リズムを付け加える。黒いビニール・コードで被覆されたラインの覚束なげな接触を通して齎らされるものは、確かな死の告知である。
 陽光ひかりで満たされた部屋に、真空の亀裂が太陽の黒点のように存在しはじめる。
 だが、生に韻律をあたえるのは、実はこのような、不意の電話であるのだ。
 静寂が支配する部屋に、感覚では把え難い超越的な意識の海が、光の飛沫となって充溢するのを感じる。
 この世界に、この部屋に、死によって明瞭に縁どられた生の形容かたちである私は、電話の声に耳を傾ける。


ツイッターの140文字以内では「線状の思い」を書くのは難しいと考えて、ブログで平均1,000文字を費やしていろいろと書いてきた。しかし、線はある程度表現できても、断線あり脱線ありで、未だにベストの文字数を割り出しあぐねている。本書は刺激になった。メッセージと表現の凝縮、ひいては意図された自在なアフォリズムの語りかけが、懐かしい「四百字詰原稿用紙」の響きを新たにしてくれた。おそらく400字は子どもの頃から刷り込まれてきた基本形なのだ。

抜き書き録〈2022/04号〉

木にもあらず草にもあらぬ竹のよのはしにわが身はなりぬべらなり
(『古今和歌集 』詠み人知らず)

「木でもないし、草でもない竹。わが身は、その節と節の間の中身のない端切れのようになってしまった」という意。空洞にもいいところがあるから、そこまで嘆かなくてもいいのに。それにしても、素材としての竹の力強さと柔軟さが生み出す造形美は他に類を見ない。その竹を木や草と呼ぶことにはたしかに抵抗がある。林に残ったままでも、切り出されて細工を施されても、竹は竹だ。

舌はキエフまでも連れて行く。
(『世界の故事名言ことわざ』)

ロシア正教の総本山だったキエフはよく知られていた。そこを目指す者は、道を知らずとも、出合う人に訊ねながら行けば無事に着けたのである。「舌」はことばや会話の比喩。某侵略軍がキエフに行けなかったのは不幸中の幸い。

徐々に空間を埋めていく快感は誰しも少なからず体験していることだろう。コレクションなども、すべて集め尽くさないと気が済まなくなる。一種の隙間恐怖症だ。
(松田行正『眼の冒険――デザインの道具箱』)

ジグゾーパズル熱もコンプリート願望も隙間恐怖症である。そう言えば、本棚が一段空いていたりするとぼくは落ち着かなくなり、古本を買ってきては並べる。オフィスの観葉植物も、置き場所を埋めていくうちに50鉢になった。そうか、病気だったのか。

唯一の証拠は、自分の骨身に沁み込んだ直感的な無言の異議申し立て、つまりは、今の生活状況の耐えがたいものであり、前はそうではなかったに違いないという本能的な感覚より他にない。
(ジョージ・オーウェル『一九八四年』)

「フェイクだ、信用できない」と他人がほざこうとも、自分自身が――自分の肉体が――何もかも知っているのだ。ぼく自身とぼく自身の差異の感覚が、ぼくが信じてやまない証拠である。

「汝がうちに汝の心あり、また汝がまわりにかくも多くの星と花と鳥あるとき、何のゆえの書物ぞや」というアシジの聖者の言葉が時として美しく思われる(……)
桑原武夫「書物について」; 日本の名随筆『古書』より)

アシジを訪れたことがある。20013月のこと。この地で13世紀にカトリック教会を開いた修道士、聖フランチェスコへのオマージュだった。本や読書の前に、自分を見よ、自分を取り巻く自然に気づこう……このイタリアの守護聖人がそう告げている。漫然と本を読んでいる場合ではないと思うことが、時々ある。

読む前に読む

「飲む前に飲む」というコマーシャルがあった。先に飲むのが二日酔い防止ドリンク、次に飲むのがアルコール。「お酒好きの皆さん、アルコールを飲む前に二日酔い防止ドリンクを飲みましょう」と促すメッセージである。

「飲む前に飲む」が言えるのなら「読む前に読む」も言えそうだ。いきなり本を読まずに、本を開けずに題名と著者名と帯の情報から内容に読みを入れる。「書かれている文字や掲載されている図や写真を理解すること(①)」が読むこと。つまり、読書である。「手掛かりになる情報から意味を察知したり内容を推測したりすること(②)」。これも読むことである。読む前に読むとは、①に先立って②をやっておくことにほかならない。


効率とスピードアップを意識した読書法には速読、併読、拾い読みなどがある。しかし、もっとも効率がいいのは、ページを繰らずに読む「不読法」だ。古本をよく買うようになって、この不読法を時々実践している。たいていの古本屋の店頭や入口付近には均一コーナーが設けられ、そこには100円~300円程度で値付けされた古本が並べられている(時には乱雑に積まれている)。丹念に漁ってみると掘出し物が見つかることがある。

低価格なので、題名と著者名を見て「よさそうだ」と直感すれば、立ち読みせずに買う。そんなふうにして十数分で5冊ほど、多い日だと10冊ほど手に入れる。仮にハズレでも値段が値段だからガッカリ感は小さい。単行本を8冊買ったのが先週。一昨日、下記の3冊をいつでも手が届くところに置いた。そして、読む前に読んでみた。

『ビフテキと茶碗蒸し 体験的日米文化比較論』 

〈読む前の読み〉この本にはいろいろな「米国的なものと日本的なもの」を対比した小文が収められているに違いない。「ビフテキと茶碗蒸し」はその代表例であり、対比のインパクトが強いゆえに題名に選ばれた。なぜそう言えるのか。ビフテキと茶碗蒸しについての比較文化を200ページ以上論うことなどできないからだ。せいぜい5ページしか書けない。飲食比較なら他に「アップルパイと味噌汁」が考えられる。おふくろの味という共通点がある。装いなら「ジーンズと袴」についても書かれているかもしれない。体験的とあるので「カウボーイとサムライ」の記述はたぶんない。

『スイスの使用説明書』 

〈読む前の読み〉スイス好きのための、スイスの文化、歴史、風土、慣習などを、おそらく観光案内的に記した本である。永世中立の一章も、たぶんある。「使用説明」に深い意味はないと思う。『もっと知りたいスイスのこと』や『スイス通になるための手ほどき』でもよかった。編集会議で誰かが「ちょっと風変わりな題名にしよう」と提案したに違いない。その誰かはたぶん前日にスイス製のアーミーナイフかフォンデュ用の鍋を買い、その使用説明書を読んだのだろう。

『じつは、わたくしこういうものです』 

〈読む前の読み〉もうかなり長い時間考えているが、何が書かれているのかほとんど見当がつかない。「わたくし」というのが何かの見立てかとも思ったが、そこから先が読めない。クラフトエヴィング商會の本は『おかしな本棚』『ないもの、あります』『すぐそこの遠い場所』など読んでいるが、すべて独自性の強い不思議で愉快な本ばかりである。したがって、本書もそういう色合いのものだと想像がつく。この「わたくし」は著者のことではないだろう。著者の知名度が必ずしも高いわけではないから、自分のことについて一冊の本で告白しても、読者は「よっ、待ってました」と小躍りして買うとは思えない。「様々なわたくし」が登場するオムニバスストーリーというのが精一杯の読みであるが、まったく自信がない。

仕事の合間の読み物

ここ一、二年、仕事がよく途切れる。コロナのせいで得意先がテレワークにシフトし、当初の段取り通りに仕事が進みにくくなった。予定していた作業ができず、チェックを待つ日が長くなり、手持ちぶさたの時間が増えた。しかたがないから、普段できない整理をしたり、ブログを書いたり本を読んだりする。

小説は、たとえ短編でも、仕事の合間の読書には向かない。間断なく読んでストーリーを追えてこその小説だ。途切れ途切れでは読んだ気がしない。もっとも、小説は30代半ばを最後にあまり読まなくなったので、自宅にいてもめったに手に取らない。1960年代から80年代までは、近代と現代の小説は、日本と欧米を中心に、中南米まで守備範囲を広げてよく読んだ。あらすじはほとんど覚えていない。

よく読んでいるのは随筆のほうである。一つの断片が数ページ程度なので拾い読みにちょうどよい。古典小説とはあまり相性がよくないが、『枕草子』『方丈記』『徒然草』の三大古典随筆は一応読んだ。あらすじなどというものはない。しかし、断片的に一節を記憶していたりする。


西洋にはパスカルの『パンセ』のような思想・哲学のエッセイもあるが、おおむね平易な文体で書かれるのが随筆だ。題材は風物の観察や身近な体験や見聞であり、著者が感じるまま、時に筆任せにしたためる。何か学んでやろうなどと意気込まなくてもよく、忘れて元々の気分で気楽に流し読みできる。

意到筆随いとうひつずい」という四字熟語がある。「意到いいたって筆随ふでしたがう」と読み下す。あまり知られていないし、普通の辞書には収録されていない。詩文を作る時にあまり小難しく考えずに筆を運ぶという意味だ。著者は腕組みして時間をかけていない。心のおもむくままにすらすらと書いている。だから読み手もそんな波長に合わせて読めばいい。

以前、池波正太郎の『男の作法』と『男のリズム』をたまたま読み、その後、プロ並みの腕前の絵を添えた随筆がいろいろあるのを知った。池波の本はBOOK-OFF100円コーナーによく出るので、見つけるたびに買い求めた。仕事の合間の読み物としては理想の本で、気づけば十数冊読んでいる。「随筆が気に入ったから小説も読もう」とは思わない。池波の小説は一冊も読んでいない。『雲霧仁左衛門』は知っている。NHKで観ているから。

今日は机の上に『東海林さだおアンソロジー  人間は哀れである』を置いている。時間が空く予定だったが、今しがた仕事が動き出した。

何か愉快なことないですか?

ここのところ、寒い日が続いています。暖房して部屋が暖まってくると眠くなります。急ぎの仕事があれば睡魔と闘います。なければ、目を見開こうと頑張らず、静かに目を閉じます。数日前に「何か愉快なことないですか?」と挨拶代わりのメールをもらいました。「愉快な本を読むか、自分が愉快と思うことを書いてみたら?」と返信しました。

ユーモアや笑いの本は数百冊所蔵しています。仕分けが面倒なので、デスクの後ろの棚にも他のジャンルの本と一緒にいろいろと置いてあります。古本屋で見つけてきた本ばかり。よく愛読したのが『偽書百選』。著者名も書名もすべて創作で、百冊を書評風に紹介している本です。『永遠のジャック&ベティ』は読んだ人もいるでしょう。この種のジャンルでは名作とされています。

パロディ本の『もし文豪たちがカップ焼きそばの作り方を書いたら』は数年前に出て評判になりました。わずか4刷で10万部に達し、発行年のうちに15万を越えたそうです。その後どれだけ売れたかは知りません。原作の文体や内容を模倣してカップ焼きそばの題材に置き換えて書いたわけです。ざっと読みました。原作を知らないと愉快のツボがわからないので退屈です。よく売れたものだと感心します。書名がいかに重要かという証でしょう。


自分が愉快と感じることだけが愉快の拠り所です。お笑い芸人の「いつもここから」の山田一成の『やまだ眼』も、「銀シャリ」の鰻和弘の『どう使うねん』もページごとにおもしろさに波がありますが、本人たちは愉快だと思って書いています。読者の愉快観と異なることもあれば共鳴することもあるのは当然です。数ページに一度共鳴すれば十分だとぼくは思っています。

愉快と思うから読み、できれば愉快を自ら書いてみる。愉快がるのが動機であって、読む人たちがどう感じるかは二の次です。自分で愉快と思うことをノートに書いて、講演のつかみやオチに使ったり、ごく稀に本ブログに転記したりしています。暇な時には形式だけ真似た川柳まがい、狂歌まがい、都々逸まがいの駄作をメモしています。

ところで、今日はいつもと違って「です/ます」で書いてみましたが、まじめに書いていてもどこか「可笑しさ」が滲み出てくるものです。政治家の「新型コロナについて対策を講じてまいる所存でございます」が、ジョークのようでギャグっぽく聞こえるのと同じです。なんでもかんでも「です/ます」としておけば無難と考えるのは浅はかです。書いてみれば楽ですが、怪しくてインチキ臭い感じもします。と言うわけで、今日の文体は最初で最後としたいと思います。

様々な言い様

たいていのモノやコトには複数の言い表し方がある。意味が「ほぼイコール」のものや分化したファミリーを含めて、これらを「類語」とか「同義語」と呼ぶ。角川の『類語新辞典』で【未来】を引くと、「これから先に来る時」という共通概念が最初に書いてあり、続いて「先、行く手、末、今後、前途、将来」など、40もの類語が挙がっている。

類語は基本の意味を共有することば仲間と言える。類語探しによく似ているのがキャッチコピーやネーミングだ。ことばの工夫をしたりあれこれと言い換えてみたりして、これぞという表現をひねり出す。言いようによって雰囲気やニュアンスが変わる。

オフィスの図書室/勉強部屋は、悩みに悩んだ挙句、20185月にspin_offスピンオフと命名。いろいろ考えていた方向のものとはまったく違う名称になった。突発的に「いろんな試みが派生する場」というコンセプトが浮かび、派生の意味を込めて名付けたのである。

当初は図書室だから本や読書にちなんだ名前を考えていた。「本日は晴天なり」をもじって「本日は本の日なり」を思いつき、英語にしてみたら“It’s a book day today.”と語感もいいし、これはおもしろいとほくそ笑んだ。しかし、イベント名ならまだしも、部屋の名前をいちいち「イッツァブックデーツゥデイ」と呼ぶのは面倒である。「本日ほんじつカフェ」というのも浮かんだがボツ。

本というたった一文字の漢字からインスピレーションを得ようと実にいろいろ考えた。まさに「様々な言い様」を試行錯誤したのである。まず、本が授けてくれる恩恵を「本の○○」の形にしてみた。

本の希望  本の激励  本の快癒かいゆ  本の幸福  本の精神  本の所縁ゆかり
本の宝箱  本の夢中  ……

続いて、視点を変えて本という字を二つ使って「本の本○」という言い様にしてみた。

本の本気  本の本懐  本の本命  本の本末  本の本棚  本の本箱
本の本意  本の本位  本の本題  本の本分  本の本音  本の本体
本の本望  本の本質  本の本当  本の本能  本の本番  本の本論
本の本家  本の本線  ……

この発想はなかなかいいではないかと自画自賛したが、いくらでも思いつくのは平凡の証ではないか。それに、どれも部屋の名称向きではないと結論した。しかし、メモを捨てずに置いてあったのはなぜか。未練が残って、いつか「勉強会の今日のテーマ」として使おうと思ったからだ。

図書室を公開イベントの場として使わなくなって間もなく2年。活用してもらってこその空間である。当たり前の穏やかな日々が来る年に戻ることを願いながら、読書会、書評会、朗読会、また時事トークや笑芸を来春あたりから開催したいと考えている。

本読みのモノローグ

たいして本を読んでこなかった人が、一冊の読書入門書を機に読書の魅力に惹かれた。本への意欲が高まり、その後も読書術の本を何冊も読破した。だが、辿り着いた先は読書の方法と推薦図書の長いリストだった。待ち望んでいたのは読みたい本を好きな時に楽しむことだったのに……。

強迫観念に苛まれて、本との付き合いに器用さを欠く。決して他人事ではない。読書は自分流であっていいという立ち位置から軽くつぶやいてみたい。題して、『本読みのモノローグ』

📖

読書の荷の重さを感じたら、どこかに出掛けて他人の話を聴く状況を想像すればいい。その面倒に比べれば、読書は実に気楽で安上がりな方法ではないか。読書はある種の疑似体験だが、実社会にはめったにない希少な知の僥倖に巡り合うことがある。

📖

あれもこれもと読みたい本は日に日に膨れ上がる。「慌てて読むことはない、速く読んでも何も残らない」と諦観しておこう。気まぐれに本を手に取り、ゆっくり読むのがいい。著者が時間をかけて書いた本ならなおさらだ。読書は冊数を競うものではない。

📖

本と読書はイコールではないのに、イコールだと錯覚しがちである。

📖

読書に「パーセンテージ発想」は厳禁。たとえば「百冊買ったのに、まだ一割しか読んでいない」と嘆いたりすること。残りの九十冊が現時点で未読状態ということにすぎないのに、森羅万象を無限大の分母として知を量ろうとしてしまう愚。分母に気を取られると読書は難行苦行と化す。

📖

どんな本を読むべきか、いかに読むべきかについて他人の尺度を気にすることはない。本と読書には自由気ままが許されている。かつて禁じられた時代もあったが、今では本と読書に関してはめったなことでは文句を言われないし強制されることもない。

📖

人物が気に食わないからと言って退席すれば一大事。しかし、本の場合は気に入らなければ閉じれば済む。読むのをやめるという行為も読書体験の内にある。本には読むという選択と読まないという選択が用意されている。

📖

放蕩三昧の勇気なく、ふてぶてしく無為徒食もできないくせに、日々刻苦精励に努めない。こういう生き方同様に、おおむね人は中途半端に本を読む。それも一つの読み方ではあるが……。

📖

蔵書は読むことを前提に本棚に収まっているが、出番がない時は読書人の後景として控えている。

📖

惰性でも読めてしまう本と高度な深読みを迫る本がある。前者の本が役に立つことはめったになく、また、後者の本で身についた思考が必ずしも功を奏すとは限らない。本に恵まれず読書も不調なら、読書の「プチ断食」に挑戦してみよう。これで読書の方法が整い、今までと違う本の世界に覚醒することがある。

📖

本で学んだことはいつか役に立つだろう――知はそんなアバウトに生まれない。知は勝手に熟成しないのだ。知に別の知を合わせ、つねにメンテナンスよろしく攪拌してやらねばならない。読書は攪拌作用である。攪拌とは混沌であって、秩序ではない。読書とはカオス的体験にほかならない。

📖

本がある。文章を学んでいるのではない。本を読むとは、書かれたものと自分を照合したり重ね合わせたりすることだ。だから誰が読んでも同じ本などない。読み手の知識・経験が本と葛藤し妥協し融和し、時に決裂する。

📖

誰にとっても「読むべき本」が世間にあるのだろうか。稀に仕事で読まねばならない本はあるが、原則は好きな本を楽しく読むことに尽きる。世の中には万巻の書があるから、好奇心を広く開いておけば稀に「大当たり」が出る。狭くて小さな読書世界に閉じこもっていると当たりは出ない。

📖

「理想の読書」という、あるのかないのかわからぬ観念から脱した時に初めて、人は読書の意味を理解するようになる。見て選ぶ、装幀やデザインを味わう、紙の手触りの感覚に喜び、書棚の背表紙を眺める……これらもすべて読書的行為なのである。

📖

十歳から半世紀にわたって週に一冊読み続けたら還暦で二千五百冊に到達する。堂々たる読書家と言えるだろう。ところが、日本人の平均読書冊数は年に十五、六冊。このペースだと生涯千冊に満たない。たった千冊しか読まないのに、「そんな本」に時間を割いている場合ではない。


旅も外出もままならない今、ウィズブックス――本との縁――による希望、快癒、愉快、幸福の修復を祈りましょう。
二〇一八年六月に図書室〈スピンオフ〉を開設。試運転を終え、二〇二〇年四月から本格的に本と読書のイベントに取り組む予定でした。疫病流行により計画の中断を余儀なくされましたが、読書会や勉強会で再びお会いできるのを切に願っています。

2021年の年賀状用に書き下ろした原稿を転載しました〉

古本とセレンディピティ

「日本の名随筆」という古いシリーズがある。花、画、道などのテーマについて、錚々たる書き手が綴った文を編集したものだ。全部揃えると120巻になるので、古本屋に出ていたら気に入ったテーマのものだけ買って読んできた。『古書』は別巻20冊のうちの一冊。

古書の売買や収集には、新刊書ではありえないようなエピソードがつきまとう。本書の随筆の一編、松永伍一の『巴里の掘出し物』では苦労して稀覯きこう本を手に入れる話がいろいろ書かれている。セーヌ河畔に出る古本屋台では、なんとレンブラントの銅版画が一枚1,500円ほどで売られていた。著者は意気揚々として18枚を掘り出した。

古書店を営んでいる皆がみな目利きとはかぎらない。レンブラントがどんな画家で作品にどのくらいの値がつくかなど知らず、本や書画を1,000円で手に入れたら1,500円で売って500円儲ければ良しと考える古物商もいる。老舗の、特に日本の古書店では、勘違いでもしないかぎりこんなことはほとんどありえない。チェーン店のBOOK・OFFではたまに初版本の掘出し物が出ていることがある。


同書の『古本綺譚』では月下氷人になった一冊の古本が紹介されている。九州の女性が『君たちはどう生きるか』という本を読み、愛読者ハガキに記入した。ところが、そのハガキを投函するのを忘れて、本の間に挟んだまま後日近所の古本屋に売り払った。その本が回りまわって東京の古本屋で売られ、それをある男性が買った。愛読者ハガキには住所氏名が書いてある。男性が手紙を書き女性が返事を出す。文通が一年続き、二人は結婚した。

この話から20年前の映画『セレンディピティ(serendipity)』を思い出した。「想像外の偶然や発見」のことをセレンディピティと言うが、この映画の題名でそのことばを初めて知った。少々ネタバレになるが、ざっと次のような話である。

クリスマス前のデパートで男女が偶然出会う。お互い惹かれるのだが、それぞれに恋人がいる。もし二人の出会いが運命ならいつかまた会えると考え、女のほうは持っていた古本に、男のほうは5ドル札にそれぞれの連絡先を書く。古本を手放し、5ドル札は買物に使う。数年後、二人はお互いを探し始め、何度もすれ違いを繰り返しながら、ついに男が女の連絡先を書いた古本に出合う。しばらくして、女も男が連絡先を書いた5ドル紙幣に出合う。

アメリカらしい「とんでもストーリー」だ。広い全米で五万と流通する5ドル紙幣の中からたった一枚の札に巡り合うのは不可能だ。セレンディピティの小道具としてはかなり無理がある。しかし、古本なら、それが稀覯本であったり骨董価値が高かったりすると、流通範囲が限られてくるので、自分が売った本を買い戻せるチャンスはゼロではない。

狙いをつけて買った古本がつまらなくて途中で投げ出し、百円均一コーナーからついでに買った古本に夢中になるということはよくある。本命でないところに望外の価値を偶然見つけることもセレンディピティ。もっと言えば、気まぐれに店に立ち寄り、直感だけで手に取って買って読む古本のことごとくがセレンディピティの成せる読書の縁に思えてくる。