「こと」のこと

和辻哲郎の著作は、二十代の頃に『古寺巡礼』と『風土――人間的考察』を読み、啓発されるところ大であった。その二冊に比べると、この『日本語と哲学の問題』は少々面倒くさい。一、二章だけ読みたい箇所があったので買ったが、本棚に放り込んだままだった。

お茶目な表紙にだまされてはいけない。だいたい和辻哲郎という人の本は――おおむね論理的に書かれていると思うが――一筋縄で読み下せない。「簡単に言えることをわざわざこねくり回しているようだし、そうでないとしても、テーマそのものがチンプンカンプン。苦手中の苦手」と言う知人がいる。実は、そういう人が多数派だ。

前々から、「こと」と「こと」が同じではないと知っていた。そういうことがこの本に詳しく書いてあるので手に取った。「事」とは出来事や事件を意味している。「変わったこと・・が起こった」とか「何かこと・・があれば」と言えば、「事」のことである。

他方、「事」ではない「こと」がある。「こと」は動詞――たとえば「書く」――にくっついて「書くこと」という動作を示す。なぜ「書くこと」があるかと言うと「書くもの・・」があるからで、つまり、「こと」は「もの」に属する……まあ、こんなふうに和辻哲郎は考えるのである。


先日、依頼されて4,000字の文章を書いた。初稿を読み返していたら、「もの」「こと」「ある」「~ということ」がやたら出てくる。これは苦しんで書いた証拠だと潔く認め、大胆に推敲することにした。かなり減らせて読みやすくなった。

「もの」「こと」「ある」「~ということ」がこの和辻の本で独特の視点で考察されている。分析的にそれぞれの意味を解き明かしている。それはそれでご苦労さまと言っておくが、ぼくとしてはそのような意味を含めたり理由をわきまえたりして書いているわけではない。今回取り上げた「こと」が文中に増えてしまうのは、ただただ作文が下手だからである。

ある紙媒体の終わり

講談社の読書人の雑誌『本』が長い歴史にピリオドを打った。裏表紙に定価110円とあるが、大型書店に行けばパンフレットのコーナーに平積みしてあって、無料で持ち帰ることができた。

毎号十数編のエッセイや連載コラムや書評が収められ、書店帰りに喫茶店でよく読んだ。PR誌だから講談社の新刊を紹介している。本の宣伝は過剰で嫌味になることはめったになく、この種の小冊子は情報源として重宝している。12月号をいつものように、ろくに表紙も見ずにめくった。歌人の斉藤斎藤さいとうさいとうの現代短歌が三首。その一首目。

本はもう終わります、ってさわやかに何をいまさら小林さんは

歌の中の「本」を、いわゆる世間一般の本だと思い、電子書籍に対する紙の本の敗北宣言と読んだ。ちなみに、小林さんとは講談社の人と書いてある。

ああこっちの「本」ですか。本の終わりを少しわたしのせいだと思う

この二首目で察した。表紙のマストヘッドを確認したら「最終号」とあった。


よく手に取る本のPR誌には、他に岩波の『図書』や新潮社の『波』がある。いずれにも興味深いテーマのよい文章があって、別途有料で買った本のほうが見劣りすることがある。ともあれ、このような一つの紙媒体の休刊がすべての紙の本の終焉を予感させるわけではない。しかし、少なくともPRという手法に関するかぎり、多様に展開できるネットメディアの機動力に敵わなくなったと言わざるをえない。「書物保守派」のぼくとしては残念であり切ない。

同誌の最後のページには編集者がこう書いている。

読書人の雑誌『本』は、本号(202012月号)をもって休刊します。
(・・・)
『本』という枠組みはなくなりますが、出版社として今後も新たな手段とその可能性を探りながら、本の魅力、本を読む楽しみをお伝えしてまいります。
45年の長きにわたるご愛読、ありがとうございました。

発刊当初から、断続的ではあるが、たいへんお世話になった。歌人は次のように三首目を歌っている。

晩年の尾崎紀世彦めずらしく譜面通りに「また逢う日まで」

出版業界の常として、「休刊」というのは「再開の可能性のある休み」ではなく、発行の停止を意味する。したがって、『本』とまた逢う日はない。

注の注の注(reprise)

『注の注の注』と題して一文を書いたことがある。あれから10年が過ぎ、よく似たことがデジャブのように繰り返された。今から書く文章は前の文章とは異なるが、同じテーマなのでrepriseルプリーズ(反復)と「注」のつもりで補った。注の注の注とは、付箋紙に付けた付箋紙に付けた付箋紙……のようなイメージ。

先日再読した本は、一冊のうち本文が3分の1、残りの3分の2が注釈・解説・あとがきという割合だった。全ページが縦書きの二段組みで、上段に本文、下段に脚注という割り付け。脚注を読まずに本文だけ読むとさっぱりわからないので、本文を23行読むたびに脚注を読むという具合。本文をスムーズに読ませようと意図したはずの脚注が、逆に本文の読みを中断させるという構造的問題を抱える書である。

類は友を呼ぶように、注は注を呼ぶ。注のための注が呼び寄せられ、そのまた注も続いてやってくる。いつまでたっても本題に入り込めないもどかしさ。本文という本線から脱線しても、おもしろさや期待感が薄まらないならいいが、そうはならない。説明という迂回は集中力を断線してしまう。


ありそうもない話だが、ふと妙なことを考えた。もしかするとこの本は、最初に注釈が書かれたのではないか……注釈が仕上がってから、それぞれの注釈にふさわしい本文が書き足されたのではないか……と。いや、最初にとりあえず文章を書いてみて、書き終わった後に本文と注釈に仕分けしたのではないか……とも考えた。

ていねいに注を付ける著者には親切でお節介な人が多いのだろう。また、読者便宜ではなく、自分にとって理解しづらい箇所を自分のために補っている人がいるかもしれない。これは翻訳者に多い。哲学書などは先人の知を暗黙の前提にしているため、不案内な読者への補足説明は不可欠になる。とは言え、できるできないにかかわらず、本文で何とか完結させる努力の一端を示してほしいものだ。

注の注の注があるのなら、「まえがきのまえがきのまえがき」も「あとがきのあとがきのあとがき」もありうる。同語を繰り返すのが面倒なら、トリの最後を大トリと呼ぶように、大まえがきや大あとがきと呼べばいい。最後を締めくくる注を大注おおちゅうと名づけよう。大注に辿り着く前におそらく本文読みは挫折しているに違いない。

編まれたものを読む

文学の類はだいたい文庫で読んできた。小学生の頃から三十半ばまではよく読んだ。それ以降は文学、とりわけ小説はあまり読んでいない。文学全集を買った時期もあったし、一部残っているが、数百ページにわたって二段で組まれた長編小説を読む持久力は今はない。

先日、書店でリーフレットを手にした。2020年岩波文庫フェアの『名著・名作再発見! 小さな一冊を楽しもう』がそれ。紹介されているのは60冊。数えてみたら、完読したのは約20冊、他になまくら読みが数冊。いわゆる推薦図書の類は威張れるほど読んでいないことがわかった。

仕事の合間に読むには編集ものがいい。エッセイや評論なら小論集、小説なら短編集、思想書ならこまめに章分けされているものに限る。この種の本の最後には「本書は……寄稿文を厳選し……テーマ別に再編集して刊行した」というような一文が添えられている。そう書かれている通り、目次を見れば、よく分類して編まれており、一編に割かれているのはたかだか10ページである。


今年の1月に『小林秀雄全作品』の寄贈を受けた。全28巻と別巻4冊。他に単行本や小林秀雄について書かれた本があり、しめて60冊くらいある。

それにもかかわらず、先週、『批評家失格』という文庫本を買った。小林秀雄の22歳から30歳までの初期評論集。ここに収録されたすべての評論やエッセイは全集で読めるが、どこかの一巻にまとめられているわけではない。著者亡き後に編集されたこの文庫本は「方々ほうぼうから」小さな作品を集めて編んである。まとめ読みするには便利な一冊だ。念のために書くが、小林秀雄の作品集だが、小林秀雄が編んだのではない。編んだのは池田雅延という、小林秀雄を担当していた元新潮社の編集者である。

編者は小林秀雄の批評の基本が「ほめること」にあったという。ほめれば、自分を知って自分の生き方が模索できるという。「ところが、ほめるのではなくけなすときは、手垢に塗れたカードを切って相手を脅すか見栄を張るか、いずれにしても昨日までと変らぬ自分が力むだけである」(解説より)。小林秀雄はドストエフスキーをほめ、モーツァルトをほめ、ゴッホをほめ、本居宣長をほめた、そして自分自身と出会い続けたというのである。

ともあれ、全集などそう易々と読めないし、仮に読むとしても、編まれた一冊の文庫本のようには読めない。この種の「ガイドブック」がないと、全集とは格闘するような付き合いしかできないのだろう。

小雨/細雨/霧雨の日の雨読

雨が降った先週の金曜日。仕事が一段落して少し時間ができたので、午後は図書室で背表紙を眺め、気楽に「のほほん・・」と読めそうもない本を手に取っては、小雨こさめっぽく糸雨しうっぽく霧雨きりさめっぽく雨読した。


数年前に古書店で偶然出合った『ソフィストとは誰か?』 詭弁術の売人などと散々悪口を言われてきたソフィストだが、ああ言われればこう言い返すスタイルは必ずしも彼らの専売特許ではない。ソフィストらと論争したソクラテスもよく似たスタイルで弁じたのは明らかだ。

「ドーナツ(=哲学)を食べると「ドーナツの穴(=詭弁)」も口に入る。哲学には詭弁がついてくるのである。もっとも、ソフィストに言わせれば、詭弁こそがドーナツで、哲学が穴なのかもしれない。

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ドキュメンタリー映画を観た後に珍しく買ったパンフレット。薄っぺらいので本棚に寝かせてある。映画の題名は『世界一美しい本を作る男――シュタイデルとの旅』(原題“How to Make a Book with Steidl”)。このドイツの小さな出版社には、三つのポリシーがある。

①依頼主と直接会って打ち合わせをする。
②全工程の製作・印刷と品質管理を自社でおこなう。
③商品ではなく、作品づくりのつもりで仕事に臨む。

テレワークをしていたら、こんなことはできない。テレワークに流れようとしている仕事のやり方でいいのかどうか、他人の話に流されずに検証しておかねばならない。今、すぐに。

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図書室には詩集もかなり置いてある。詩集は拾い読みに最適だ。詩は文字であるとともに音でもある。思いや心象の声を精細に聞く。その声の聞き分けがうまくいかないと、詩はリズムを持たず、ただの文字列に終わる。

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「(人は)自分のことにせよ他人事にせよ、わかったためしがあったのか。」
「記憶するだけではいけないのだろう。思い出さなくてはいけないのだろう。」

昭和17年に書かれた小林秀雄の『無常といふ事』の文章。太平洋戦争を挟み、いくつもの歴史の変節点を経て80年近く立った今も、人のわかりよう、思い出しようはさほど変わっていない。人は時の過ぎゆくこと、万物が移ろうことをすぐに忘れてしまう。つまり、無常ということがわからない。常なるものを見失えば、無常がわかるはずもない……こういう趣旨である。

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本で一番目立つのは表紙ではなく、実は背表紙である。表紙で書名を確認する前に、たいてい背表紙で書名がわかる。書店の棚がそうであるように、ジャンル別に本を分類するとよく似たタイトルが並ぶ。自分で蔵書を好きなように並べると、異なったジャンルの背表紙が隣り合わせになって、一風変わった眺めになる。本文は少しも記憶に残っていないのに、背表紙――つまり、本のタイトル――には見覚えがあって、じっと見ているうちに記憶を呼び覚ましてくれることがある。背表紙を眺めるのも読書術の一つだ。

読書の気まま

「気ままな読書」ではなく、「読書の気まま」。はじめにしかるべき読書の姿があって、それに逆らうように気ままに読み継ぐのではない。読書そのものが本来気ままと相性がいいと考えるのである。


「そろそろ読書の集まりを再開したいですね」というメールがあった。願望か、催促か、それとも単純な問い合わせか……どういう意図だったのだろうか。読書会、会読会、書評輪講会などと名前を変えて小さな勉強会を主宰してきた。休会宣言をしたつもりはないが、気がつけば、最後の会からまもなく3年になる。「また、考えておきます」と返信した。そう答えてから数日、まだ何も考えていない。

本や読書についての私論はいくらあってもいいが、一般論はなくても困らない。本や読書は気ままが許される、珍しくも貴重な知的趣味だ。たとえば「電子書籍についてどう思うか」と聞かれ、その是非の理由を述べるには及ばない。ぼくにとって、電子書籍による読書は、ただ「非である」と言い放つだけで事足りるし、そのことを必死になって説明する必要を覚えない。「電子書籍は本を代替することはできない、少なくとも読書の気ままを失っている」と言えば済む。

どんな本を読むべきか、いかに読むべきかなどについても、他人の尺度を気にしなくてもいいのが、本の――読書の――よいところなのだ。気ままが許される。いや、誰かに許されるのではなく、自分が自分のやり方を認める。違法で捕まる心配はない。この国の今の時代、言論についてはとやかく言われるが、手に取る本と読書の方法についてはめったなことでは文句を言われないのである。


あるテーマに絞り込んだり体系的に関連付けたりして読書するには、おそらく雑多な本を買い過ぎた。生涯一万冊以上手に入れて、おそらくその半数くらいは読んだはずだが、趣旨やあらすじなどは忘却の彼方。しかし、断片的な表現やエピソードについては強く印象に残っている。なぜかと言えば、おもしろいと思ったら抜き書きしておくから。

カウボーイの古い笑い話を思い出すわ。草原を馬で駆けていると、天から声が聞こえてアビリーンへ行けと言う。アビリーンに着くとまた声がして、酒場に入れ、そしてルーレットのところへ行って持ち金すべてを数字の5に賭けろと言う。カウボーイは天の声にそそのかされてその通りにするのだけれど、ルーレットで出た数字は18。するとまた声がしてこう囁くの、「残念、我々の負けだ」って。(ウンベルト・エーコ『ヌメロ・ゼロ』)

こんな断片の一節が妙に響き、そうか、天の声という、一見絶対的なエビデンスも誤るのだ、知識や情報は、神の思し召しのように権威づけられていても信頼性に限度があるし、陳腐化する……。本から気ままに学ぶことがあるとすれば、それは決して記憶すべき筋書きや啓発的な知識ではなく、その場で瞬発的に一考することだと思われる。それが気ままを担保する。

最近笑っていない

毎日何がしかの仕事があるが、相手の事情により今日はまったく仕事が動かない。新年度になって初めてのことだ。仕事以外にすることがいろいろある。この「いろいろ」がまずい。することが一つか二つなら悩むことはない。

100de名著』というNHKの番組がある。一冊の名著を4講にわたって各回25分で解説する。取り上げられる名著そのものを読まなくても、テキストをじっくり読んで講座を見れば「読んだふり」はできる。講座が始まって以来、毎月テキストを買って拾い読みしているが、視聴したのは二、三度のみ。

来月の名著はカントの『純粋理性批判』である。気温と湿度が上がり、集中力が続きづらい梅雨の季節向きの本ではない。本棚に新訳――と言っても78年前発行の――文庫本がある。全7巻である。小難しく訳された同書に若い頃に挑戦したが、途中で挫折した。悔しいので、解説書の類を参照してこの稀代の哲学書を「読んだことにして」今に到っている。超難解な重い本が100分でわかるなら儲けものではないか。


文字以外に適宜図解が入るのが『100de名著』のいいところだ。哲学の名著を文字だけで追いかけて理解するには、時間と頭脳もさることながら、スタミナがいる。省エネの図解があるだけで少しはわかった気になる。経典や経論などの文字のみで深奥な密教の教えは伝えきれない……絵画や彫刻などの「ビジュアル」の助けが必要だ……というようなことを空海が言ったらしい。絵図や仏像、書の類のオーラのお陰で理性も少しは研ぎ澄まされるような気がする。

とは言うものの、自粛や在宅疲れで小難しい本を忍耐強く読める人は多くないだろう。わが身を振り返っても、ここ23ヵ月、他人と仕事をしていないし、雑談もほとんどないから、笑う場面がない。YouTubeで大笑いなどしてしまうと、その後に仕事に戻るのが大変である。軽い本で軽く笑う程度なら軽い息抜きになるし、軽やかに仕事に戻れる。

本棚の『純粋理性批判』を押し戻す。右手の本棚に顔を向ければ、ずいぶん前に古本屋で買った、宇野信夫の『昔も今も笑いのタネ本』が目に入る。さほど笑わせてもらった記憶はない。適当にページをめくる。「あわて女房」という小話。記憶にない。

あわて者の女房が、伊勢屋のお内儀さんに出合って、
「旦那さまは、おかわりなく――」と言いかけて、三月みつき前、旦那の死んだことに気がついて、
「やっぱり、お亡くなりになったまんまでござんすか」

わかりやすくて微笑みやすい。こういうのがいい。純粋に理性の批判になっている。

「まるで絵はがきみたい!」

観光旅行中にナイアガラの滝を眼前に見た日本人女性が「わぁ、まるで絵はがきみたい!」と感嘆の声を上げた。

実際の風景を眺めたりその風景の写真を見たりして、「まるで絵はがきのようだ」と比喩する人がいる。なぜ自然の風景を見て、わざわざ絵はがきという二次的に再生されたものに譬える必要があるのか。絵はがきみたいとは、そこに写る対象が自然そのものという印象を語っているのか。

また逆に、画集に一枚の絵を見て、それが自分の目で見たことがあれば、「実景そっくりだ」と感嘆する人もいる。その作品の画家は、実景を写実的に描いたわけだから、ある程度そっくりであることに不思議はない。なぜわざわざそこに実景のことを持ち出す必要があるのだろうか。


有島武郎の『描かれた花』と題された随筆を読んでいたら、次のようなくだりがあった。

巧妙な花の画を見せられたものは大抵自然の花の如く美しいと嘆美する。同時に、新鮮な自然の花を見せられたものは、思はず画の花の如く美しいと嘆美するではないか。

絵から入れば実景を持ち出し、実景から入れば絵を持ち出す。絵の感嘆にしても、風景の感嘆にしても、感嘆に値する適切なことばが見当たらない時に、どうやらそのような比喩を使うらしい。

実際の対象とそれを題材として描いた絵との関係に、人はそれぞれの感慨を抱き、似ているとか似ていないとか、絵のほうが実物よりも美しいとか、いや、絵は実物の美しさには及ばないなどと評する。

有島武郎は随筆の別の箇所で「人間とは誇大する動物である」と言っている。誇大には程度はあるが、芸術作品としての絵は実際の対象以上に誇張されてこそ意味を持つような気がする。似顔絵などその典型で、誇張ゆえの作品価値である。本物とまったく同じに再現する腕は望むべくもないが、本物とまったく同じであっては作品に勝ち目はない。

十数年前にヴェネツィアに旅した折りに、運河をスケッチし、帰国後に写真を見ながら着色したことがある。何枚か描いてみたが、ヴェネツィアの運河を感じさせない。思い切って原画をデジタル的にいじってみたのがこの一枚。原景をとどめない誇張であり歪曲であるが、ヴェネツィアらしさが出たのではないかと思っている。

本のこと、読書のこと

在宅の仕事が苦手なこともあるが、かなり恵まれた職住接近なので毎日事務所に出てくる。仕事はある。ただ、発注者にも諸事情があってスムーズに進まない。そんな日の昼下がりに本を――じっくり読むのではなく――拾い読みする。『書物から読書へ』。漫然とページを繰り、気に入った見開きに視線を落とす。ほどなく瞼が重くなり半覚醒状態に陥る。

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本は、読書家の対象になるばかりでなく、書棚に収まって読書家の後景になったり読書家を囲んだりする機能も持ち合わせている。

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読まねばならないという強迫観念から脱した時にはじめて読書の意味がわかる。見て選び、装幀やデザインを味わい、紙の手触りに快さを覚え、書棚の背表紙を眺めることもすべて読書だということ。

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放蕩三昧する勇気なく、無為徒食に居直れず、かと言って、日々刻苦精励できるわけでもなく、おおむね人は無難な本を手に取って中途半端に読んで生きていく。

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急ぎ足で読むことはない。速読ほどさもしくて味気ない読書はない。著者が一気に書き上げていない本をなぜ一気に読まねばならないのか。

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旅もままならない今日この頃、いつもと違う本との付き合い方をしてみればどうだろう。本からのメッセージが伝わってくるかもしれない。本の希望、本の励まし、本の快癒、本の精神こころ、本の所縁、本の愉快、本の幸福……。

異化や転移のこと

大岡信の『詩・ことば・人間』を読んでいたら、ぼくが時々感じるのとよく似た、ある「不思議な文字作用」について書かれているくだりがあった。

かねがね不思議に思っていること。
私だけの経験ではないと信じるが、辞書で同じ漢字がたくさん並んでいるページを眺めているとき、その文字がなぜかしだいにばらばらに分離して見えてくる。今様にいえば、その字がその字としてのアイデンティティをなくしてしまうのである。ヘンとツクリがばらばらに分離してしまい、統一体としての一個の文字とは見えなくなる。
それはあるいはゲシュタルト説風の説明をほどこしうる現象なのかもしれない(……

ぼくの経験では、漢字のヘンとツクリがばらばらになることはない。しかし、ある日、新聞のコラムの文中に「変わった」というありきたりのことばを見た時、どういうわけか、これが変に・・浮かび上がってきた。変を変に感じたのだ。実際に「変、変、変、変、変……」と手書きで連ねてみると異様な雰囲気が漂ってきた。これが異化いか〉という知覚の作用なのではないか、と思った次第である。

よく知っているものが、ある日突然奇妙に見えるのを〈異化〉といい、奇妙に見えていたものを普通に感じるのを〈異化の異化〉という。こういう現象(あるいは知覚作用)が繰り返されると、〈異化の異化の異化の異化……〉というような、不思議この上ない体験をすることになる。


音声についてもよく似たことが起こると、大岡信は指摘する。同じ語を繰り返して言い続けると、抑揚や意味の転移、さらには音節の長さの変化も生じて、本来の語とは違う別の旋律を伴ってくることがあるのだ。たとえば「愛」を繰り返して「アイアイアイアイアイ」と発声してみると、「イ」の抑揚の位置が変わって「ア」になったり、アとイの順が変わって「イアイアイア」に転移したりすることがある。ここでの〈転移〉はぼくの場合の〈異化〉に似た作用だと思われる。

「ぬ」と「め」が相互に異化し、「ね」と「わ」が相互に転移する。あることばや漢字がなぜこのようにかたどられ発音されているのかが急に気になり始める。書かれた文字も発せられた音も、繰り返し眺め耳にすればするほど――「変」や「愛」という漢字が本来の意味を失うように――原形や原音も揺らいでしまう。

試みに「アベアベアベアベアベ……」と念仏のように繰り返してみればいい。あの「アベ氏」という存在と意味が失われ、何をも表わさなくなってくる。本来意味をもつことばを無思考的に繰り返せば不感に陥るのだ。ことばのマンネリズムや陳腐化はこのようにして生じる。意味あることばではなく、意味のない惰性的な文字と音が、目障りな形と異様なノイズと化して脳を支配してしまうのである。