小雨/細雨/霧雨の日の雨読

雨が降った先週の金曜日。仕事が一段落して少し時間ができたので、午後は図書室で背表紙を眺め、気楽に「のほほん・・」と読めそうもない本を手に取っては、小雨こさめっぽく糸雨しうっぽく霧雨きりさめっぽく雨読した。


数年前に古書店で偶然出合った『ソフィストとは誰か?』 詭弁術の売人などと散々悪口を言われてきたソフィストだが、ああ言われればこう言い返すスタイルは必ずしも彼らの専売特許ではない。ソフィストらと論争したソクラテスもよく似たスタイルで弁じたのは明らかだ。

「ドーナツ(=哲学)を食べると「ドーナツの穴(=詭弁)」も口に入る。哲学には詭弁がついてくるのである。もっとも、ソフィストに言わせれば、詭弁こそがドーナツで、哲学が穴なのかもしれない。

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ドキュメンタリー映画を観た後に珍しく買ったパンフレット。薄っぺらいので本棚に寝かせてある。映画の題名は『世界一美しい本を作る男――シュタイデルとの旅』(原題“How to Make a Book with Steidl”)。このドイツの小さな出版社には、三つのポリシーがある。

①依頼主と直接会って打ち合わせをする。
②全工程の製作・印刷と品質管理を自社でおこなう。
③商品ではなく、作品づくりのつもりで仕事に臨む。

テレワークをしていたら、こんなことはできない。テレワークに流れようとしている仕事のやり方でいいのかどうか、他人の話に流されずに検証しておかねばならない。今、すぐに。

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図書室には詩集もかなり置いてある。詩集は拾い読みに最適だ。詩は文字であるとともに音でもある。思いや心象の声を精細に聞く。その声の聞き分けがうまくいかないと、詩はリズムを持たず、ただの文字列に終わる。

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「(人は)自分のことにせよ他人事にせよ、わかったためしがあったのか。」
「記憶するだけではいけないのだろう。思い出さなくてはいけないのだろう。」

昭和17年に書かれた小林秀雄の『無常といふ事』の文章。太平洋戦争を挟み、いくつもの歴史の変節点を経て80年近く立った今も、人のわかりよう、思い出しようはさほど変わっていない。人は時の過ぎゆくこと、万物が移ろうことをすぐに忘れてしまう。つまり、無常ということがわからない。常なるものを見失えば、無常がわかるはずもない……こういう趣旨である。

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本で一番目立つのは表紙ではなく、実は背表紙である。表紙で書名を確認する前に、たいてい背表紙で書名がわかる。書店の棚がそうであるように、ジャンル別に本を分類するとよく似たタイトルが並ぶ。自分で蔵書を好きなように並べると、異なったジャンルの背表紙が隣り合わせになって、一風変わった眺めになる。本文は少しも記憶に残っていないのに、背表紙――つまり、本のタイトル――には見覚えがあって、じっと見ているうちに記憶を呼び覚ましてくれることがある。背表紙を眺めるのも読書術の一つだ。

読書の気まま

「気ままな読書」ではなく、「読書の気まま」。はじめにしかるべき読書の姿があって、それに逆らうように気ままに読み継ぐのではない。読書そのものが本来気ままと相性がいいと考えるのである。


「そろそろ読書の集まりを再開したいですね」というメールがあった。願望か、催促か、それとも単純な問い合わせか……どういう意図だったのだろうか。読書会、会読会、書評輪講会などと名前を変えて小さな勉強会を主宰してきた。休会宣言をしたつもりはないが、気がつけば、最後の会からまもなく3年になる。「また、考えておきます」と返信した。そう答えてから数日、まだ何も考えていない。

本や読書についての私論はいくらあってもいいが、一般論はなくても困らない。本や読書は気ままが許される、珍しくも貴重な知的趣味だ。たとえば「電子書籍についてどう思うか」と聞かれ、その是非の理由を述べるには及ばない。ぼくにとって、電子書籍による読書は、ただ「非である」と言い放つだけで事足りるし、そのことを必死になって説明する必要を覚えない。「電子書籍は本を代替することはできない、少なくとも読書の気ままを失っている」と言えば済む。

どんな本を読むべきか、いかに読むべきかなどについても、他人の尺度を気にしなくてもいいのが、本の――読書の――よいところなのだ。気ままが許される。いや、誰かに許されるのではなく、自分が自分のやり方を認める。違法で捕まる心配はない。この国の今の時代、言論についてはとやかく言われるが、手に取る本と読書の方法についてはめったなことでは文句を言われないのである。


あるテーマに絞り込んだり体系的に関連付けたりして読書するには、おそらく雑多な本を買い過ぎた。生涯一万冊以上手に入れて、おそらくその半数くらいは読んだはずだが、趣旨やあらすじなどは忘却の彼方。しかし、断片的な表現やエピソードについては強く印象に残っている。なぜかと言えば、おもしろいと思ったら抜き書きしておくから。

カウボーイの古い笑い話を思い出すわ。草原を馬で駆けていると、天から声が聞こえてアビリーンへ行けと言う。アビリーンに着くとまた声がして、酒場に入れ、そしてルーレットのところへ行って持ち金すべてを数字の5に賭けろと言う。カウボーイは天の声にそそのかされてその通りにするのだけれど、ルーレットで出た数字は18。するとまた声がしてこう囁くの、「残念、我々の負けだ」って。(ウンベルト・エーコ『ヌメロ・ゼロ』)

こんな断片の一節が妙に響き、そうか、天の声という、一見絶対的なエビデンスも誤るのだ、知識や情報は、神の思し召しのように権威づけられていても信頼性に限度があるし、陳腐化する……。本から気ままに学ぶことがあるとすれば、それは決して記憶すべき筋書きや啓発的な知識ではなく、その場で瞬発的に一考することだと思われる。それが気ままを担保する。

最近笑っていない

毎日何がしかの仕事があるが、相手の事情により今日はまったく仕事が動かない。新年度になって初めてのことだ。仕事以外にすることがいろいろある。この「いろいろ」がまずい。することが一つか二つなら悩むことはない。

100de名著』というNHKの番組がある。一冊の名著を4講にわたって各回25分で解説する。取り上げられる名著そのものを読まなくても、テキストをじっくり読んで講座を見れば「読んだふり」はできる。講座が始まって以来、毎月テキストを買って拾い読みしているが、視聴したのは二、三度のみ。

来月の名著はカントの『純粋理性批判』である。気温と湿度が上がり、集中力が続きづらい梅雨の季節向きの本ではない。本棚に新訳――と言っても78年前発行の――文庫本がある。全7巻である。小難しく訳された同書に若い頃に挑戦したが、途中で挫折した。悔しいので、解説書の類を参照してこの稀代の哲学書を「読んだことにして」今に到っている。超難解な重い本が100分でわかるなら儲けものではないか。


文字以外に適宜図解が入るのが『100de名著』のいいところだ。哲学の名著を文字だけで追いかけて理解するには、時間と頭脳もさることながら、スタミナがいる。省エネの図解があるだけで少しはわかった気になる。経典や経論などの文字のみで深奥な密教の教えは伝えきれない……絵画や彫刻などの「ビジュアル」の助けが必要だ……というようなことを空海が言ったらしい。絵図や仏像、書の類のオーラのお陰で理性も少しは研ぎ澄まされるような気がする。

とは言うものの、自粛や在宅疲れで小難しい本を忍耐強く読める人は多くないだろう。わが身を振り返っても、ここ23ヵ月、他人と仕事をしていないし、雑談もほとんどないから、笑う場面がない。YouTubeで大笑いなどしてしまうと、その後に仕事に戻るのが大変である。軽い本で軽く笑う程度なら軽い息抜きになるし、軽やかに仕事に戻れる。

本棚の『純粋理性批判』を押し戻す。右手の本棚に顔を向ければ、ずいぶん前に古本屋で買った、宇野信夫の『昔も今も笑いのタネ本』が目に入る。さほど笑わせてもらった記憶はない。適当にページをめくる。「あわて女房」という小話。記憶にない。

あわて者の女房が、伊勢屋のお内儀さんに出合って、
「旦那さまは、おかわりなく――」と言いかけて、三月みつき前、旦那の死んだことに気がついて、
「やっぱり、お亡くなりになったまんまでござんすか」

わかりやすくて微笑みやすい。こういうのがいい。純粋に理性の批判になっている。

「まるで絵はがきみたい!」

観光旅行中にナイアガラの滝を眼前に見た日本人女性が「わぁ、まるで絵はがきみたい!」と感嘆の声を上げた。

実際の風景を眺めたりその風景の写真を見たりして、「まるで絵はがきのようだ」と比喩する人がいる。なぜ自然の風景を見て、わざわざ絵はがきという二次的に再生されたものに譬える必要があるのか。絵はがきみたいとは、そこに写る対象が自然そのものという印象を語っているのか。

また逆に、画集に一枚の絵を見て、それが自分の目で見たことがあれば、「実景そっくりだ」と感嘆する人もいる。その作品の画家は、実景を写実的に描いたわけだから、ある程度そっくりであることに不思議はない。なぜわざわざそこに実景のことを持ち出す必要があるのだろうか。


有島武郎の『描かれた花』と題された随筆を読んでいたら、次のようなくだりがあった。

巧妙な花の画を見せられたものは大抵自然の花の如く美しいと嘆美する。同時に、新鮮な自然の花を見せられたものは、思はず画の花の如く美しいと嘆美するではないか。

絵から入れば実景を持ち出し、実景から入れば絵を持ち出す。絵の感嘆にしても、風景の感嘆にしても、感嘆に値する適切なことばが見当たらない時に、どうやらそのような比喩を使うらしい。

実際の対象とそれを題材として描いた絵との関係に、人はそれぞれの感慨を抱き、似ているとか似ていないとか、絵のほうが実物よりも美しいとか、いや、絵は実物の美しさには及ばないなどと評する。

有島武郎は随筆の別の箇所で「人間とは誇大する動物である」と言っている。誇大には程度はあるが、芸術作品としての絵は実際の対象以上に誇張されてこそ意味を持つような気がする。似顔絵などその典型で、誇張ゆえの作品価値である。本物とまったく同じに再現する腕は望むべくもないが、本物とまったく同じであっては作品に勝ち目はない。

十数年前にヴェネツィアに旅した折りに、運河をスケッチし、帰国後に写真を見ながら着色したことがある。何枚か描いてみたが、ヴェネツィアの運河を感じさせない。思い切って原画をデジタル的にいじってみたのがこの一枚。原景をとどめない誇張であり歪曲であるが、ヴェネツィアらしさが出たのではないかと思っている。

本のこと、読書のこと

在宅の仕事が苦手なこともあるが、かなり恵まれた職住接近なので毎日事務所に出てくる。仕事はある。ただ、発注者にも諸事情があってスムーズに進まない。そんな日の昼下がりに本を――じっくり読むのではなく――拾い読みする。『書物から読書へ』。漫然とページを繰り、気に入った見開きに視線を落とす。ほどなく瞼が重くなり半覚醒状態に陥る。

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本は、読書家の対象になるばかりでなく、書棚に収まって読書家の後景になったり読書家を囲んだりする機能も持ち合わせている。

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読まねばならないという強迫観念から脱した時にはじめて読書の意味がわかる。見て選び、装幀やデザインを味わい、紙の手触りに快さを覚え、書棚の背表紙を眺めることもすべて読書だということ。

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放蕩三昧する勇気なく、無為徒食に居直れず、かと言って、日々刻苦精励できるわけでもなく、おおむね人は無難な本を手に取って中途半端に読んで生きていく。

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急ぎ足で読むことはない。速読ほどさもしくて味気ない読書はない。著者が一気に書き上げていない本をなぜ一気に読まねばならないのか。

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旅もままならない今日この頃、いつもと違う本との付き合い方をしてみればどうだろう。本からのメッセージが伝わってくるかもしれない。本の希望、本の励まし、本の快癒、本の精神こころ、本の所縁、本の愉快、本の幸福……。

異化や転移のこと

大岡信の『詩・ことば・人間』を読んでいたら、ぼくが時々感じるのとよく似た、ある「不思議な文字作用」について書かれているくだりがあった。

かねがね不思議に思っていること。
私だけの経験ではないと信じるが、辞書で同じ漢字がたくさん並んでいるページを眺めているとき、その文字がなぜかしだいにばらばらに分離して見えてくる。今様にいえば、その字がその字としてのアイデンティティをなくしてしまうのである。ヘンとツクリがばらばらに分離してしまい、統一体としての一個の文字とは見えなくなる。
それはあるいはゲシュタルト説風の説明をほどこしうる現象なのかもしれない(……

ぼくの経験では、漢字のヘンとツクリがばらばらになることはない。しかし、ある日、新聞のコラムの文中に「変わった」というありきたりのことばを見た時、どういうわけか、これが変に・・浮かび上がってきた。変を変に感じたのだ。実際に「変、変、変、変、変……」と手書きで連ねてみると異様な雰囲気が漂ってきた。これが異化いか〉という知覚の作用なのではないか、と思った次第である。

よく知っているものが、ある日突然奇妙に見えるのを〈異化〉といい、奇妙に見えていたものを普通に感じるのを〈異化の異化〉という。こういう現象(あるいは知覚作用)が繰り返されると、〈異化の異化の異化の異化……〉というような、不思議この上ない体験をすることになる。


音声についてもよく似たことが起こると、大岡信は指摘する。同じ語を繰り返して言い続けると、抑揚や意味の転移、さらには音節の長さの変化も生じて、本来の語とは違う別の旋律を伴ってくることがあるのだ。たとえば「愛」を繰り返して「アイアイアイアイアイ」と発声してみると、「イ」の抑揚の位置が変わって「ア」になったり、アとイの順が変わって「イアイアイア」に転移したりすることがある。ここでの〈転移〉はぼくの場合の〈異化〉に似た作用だと思われる。

「ぬ」と「め」が相互に異化し、「ね」と「わ」が相互に転移する。あることばや漢字がなぜこのようにかたどられ発音されているのかが急に気になり始める。書かれた文字も発せられた音も、繰り返し眺め耳にすればするほど――「変」や「愛」という漢字が本来の意味を失うように――原形や原音も揺らいでしまう。

試みに「アベアベアベアベアベ……」と念仏のように繰り返してみればいい。あの「アベ氏」という存在と意味が失われ、何をも表わさなくなってくる。本来意味をもつことばを無思考的に繰り返せば不感に陥るのだ。ことばのマンネリズムや陳腐化はこのようにして生じる。意味あることばではなく、意味のない惰性的な文字と音が、目障りな形と異様なノイズと化して脳を支配してしまうのである。

 

「騙し」の構造

どんな意見でもひとまず受容することにしているが、こと現象となると、信じるか懐疑するかの二者択一しかなければ、懐疑から入るのを常としている。いったん盲目的に信じてしまうと、相当怪しく感じるようになっても、信じた己の正当性を否定しにくくなるからである。逆に、対象が何重もの懐疑のフィルターを潜り抜けたなら、それに共感して納得に転じることにやぶさかではない。

スピリチュアルが入っている人には申し訳ないが、超能力や超常現象は信じる者による独断的な定義だと思っている。別の者にとっては「トリックによる創作」という定義が成り立つ。科学絶対とはゆめゆめ思わないが、すべての現象は現代科学ですでに説明がついているか、現代科学で解明できていないかのいずれかである。後者の、解明できてはいないが、現実に起こりうるものは能力であり現象であって、わざわざ「超」や「超常」を被せる必要はない。

超能力の仕業とされていることのすべてをミスターマリックやナポレオンズやマギー司郎ならやって見せるだろう。自分がこの宇宙で棲息している事実以上に不思議な現象に未だかつて出合ったことはない。

「騙し」の構造について書評会で『人はなぜ騙されるのか』(安斎 育郎著)を取り上げたことがある。もう一度拾い読みしてみた。

本書では109の話が、第Ⅰ章 不思議現象を考える、第Ⅱ章 科学する眼・科学するこころ、第Ⅲ章 人はなぜ騙されるのか、第Ⅳ章 社会と、どう付き合うか、第Ⅴ章 宗教と科学の5章に割り振られている。サブタイトルに 「非科学を科学する」 とあるように、不思議や超常の仕掛けが次から次へと科学的に暴かれていく。なお、本書の示唆をぼくは教育的啓発としてとらえるようにしている。


スレイド事件
スレイドは交霊できる職業的霊媒であった。何も書いていない一枚の石板とチョークをテーブルの下に置いて、居合わせた人の先祖と交信して霊にメッセージを自動書記させた。錚々たる物理学者もみんな信じてしまった。
ある交霊会でロンドン大学の教授が、スレイドが交霊する前にテーブルの下から石板をひったくるという荒手を使ったら、そこにはすでにメッセージが書かれていたのである。

ノーベル生理学賞のリシェー教授と幽霊
心霊現象に否定的だった教授は、ある将軍の家で幽霊を出現させるのを目撃してから、一気に幽霊説に傾いていった。しかし、人間が幽霊に扮したかもしれないという疑問をまったく検証することはなかった。人は信じたいほうを信じ、信じたくないほうを疑わないという習性を持つ。

幽霊の写真
撮影霊媒で有名だったデーン夫人は、現像段階で早業のすり替えを暴かれた。誰もが騙されてきたのは、すり替えの小道具に 「讃美歌の本」 を用いていたからである。「神を讃える聖なる書物を、まさかインチキの小道具に使うはずがない」 というキリスト教徒の常識的道徳観が、詐欺師を見破る目を曇らせたのである。「奇術とは、常識の虚をつく錯覚美化の芸術である」。

こっくりさん
降神術の一種であるこっくりさんは、英語で 「テーブルターニング(机転術)」 とか 「テーブルトーキング(談話術)」 などと呼ばれている。大学生の頃、合宿などでよく興じたものだ。
十九世紀の科学者にとっては こっくりさんの解釈の足場を 「霊界」 に据えるのか、それとも 「理性」 の側にしっかりと足を踏まえるのかは、いわば思想の根本にかかわる問題だったのである。
こっくりさんは、答えはこうなるはず、こうあってほしいという 〈予期意向〉 と筋肉運動である 〈不覚筋動〉によるものであると解明された。

文化勲章受章者と死後の世界
岡部金治郎博士は、「動物の霊魂→五官で完治できない神秘→不生不滅の法則→魂の素→肉体の活性から非活性状態→……→魂が受精卵に宿る」という見事な(?)説を唱えた。生真面目な一方で、すべての根底に「人智の及ばぬ神秘」 という荒唐無稽が置かれている。死後の世界論どころか宗教なのである。
霊魂の存在などまったく証明されていない。ここにあるのは 「私は霊魂を信じる」 という前提のみである。科学と信仰が混同された典型的な例であった。

経験絶対化の危険性
しばしば自分の感覚器官でとらえた 「事実認識」 を絶対化し、厳密な検証もなしに、その命題が 「真」 であることを信じ込む。
「この目で見た」 「この耳で聞いた」 という体験がもつ説得力は非常に大きい。しかし、 「感覚器官は錯誤に陥りやすい 」ことを忘れてはいけない。

科学のブラックボックス化
科学は進歩しても、なかなか人間の意識の変革は思うに任せず、孔子の春秋時代からあまり進歩していないのではないか 。
現代人はWhyへの執着心よりもHowへの指向性のほうが強い。科学技術の成果がブラックボックスになったがゆえに、「なぜ」 が消え失せてきた。科学の時代であればこそ非科学的思考に陥る危険があるのだ。

錯誤と対象認識過程の省略
人間は、部分から全体を推定し、 時間を追って順番に起こった事象については、本当はそれぞれの事象が独立のものでも、「一連の事象」 として関連づけて理解してしまう。
大きさ、形、色、肌ざわり、香り、味などの性質を刷り込んで、リンゴを認知する。しかし、今度再認識するときは、これらすべての性質を再生するのではなく、二つくらい一致するだけで対象を認識するのである。


本書によれば、「信じよ、さらば救われん」 も 「為せば成る」 も 「念じれば花開く」 もすべて、非科学的ということになる。因果関係の吟味、二者関係の明確化、主観的願望と客観的推論の峻別などをおろそかにして結論を導くのは危ういのである。

UFOよりも46億年経過してもマグマがたぎる地球のほうが不思議であり、幽霊よりも一般的なオバチャンのほうが怪奇的である。超常現象をわざわざ創作しなくても、現実の現象だけで十分に不思議であり驚きなのである。

本日は本の日なり(後編)

10年近く前の会読会で『読書のすすめ』(岩波文庫編集部編)を書評した。著名人らの読書にまつわるエッセイをまとめた本。前編に続いて、後編の9人の読書観を紹介する。


📖 若き日にバラを摘め(瀬戸内寂聴)

「生きている人生の愉しみは、食べることと、セックスすることと、読書することに尽きるのではないでしょうか。」

ものをズバリ言う人だ。得度前の瀬戸内寂聴(旧名、晴美)をよく知っているので、うなずける。もっとも、いくら愉しいからと言って、三つの行為を同時におこなうことは容易ではなさそう。

📖 夏の読書(坪内祐三)

読書には教養主義的な――あるいは情報主義的な――読書と面白主義的読書があり、これら二つを合わせてなお越えていく読書があると著者は言う。

「どこかに連れ攫われてしまう読書。日常の中を流れている物理的な時空間とは異なる、もう一つの時空間を知るための読書。自分の内側に潜在的にしまいこまれている別の自分と出会うための読書。」

📖 隠れ読みの悦楽から(中野孝次)

人はそれぞれの置かれている立場によって、読んでいる一文に独自の感覚的反応を示す。著者は次の文章によって、どれだけ勇気づけられ、自分自身を取り戻せたかと述懐する。

「音楽であれ、恋愛であれ、人間の探求であれ、彼はつねに彼自身感じることを、自分の眼で正確に知るという点に帰ってくる。他人は考慮されない。他人は審判者ではない。」
(アラン『スタンダール』)

📖 読書による理解(中村元)

「読書から得られる楽しみも大きいが、読書によって得られた知識が自分の知識体系の中のいずれかの場所に位置を得たことを知る喜びは、非常に大きなもの。」

一つの単語が自分の語彙体系に入ってきて、体系そのものの磁場を変えることがある。一冊の本ならなおさらだ。人生観まで大きく転回させられた経験はないが、新しい知識が知識体系の中で核になったことは何度かある。

📖 〈面白い〉と〈わかる〉(中村雄二郎)

「〈わかる〉ことを中心にして書物を読むことには大きな落とし穴がある。」

すなわち、わかろうと思い、わかるだろうと目論んでいるから、〈わからない〉や〈わかりにくい〉に遭遇すると書物とのコミュニケーション断絶を感じてしまうのだ。わからない場面でめげずに読み続けるためには、愉快が絶対条件になる。

「ある種の辛抱づよさも読書には必要である。その辛抱づよさを支えるものは、ある本の内容を〈面白い〉と思うことによる関心の高さでなければならないはずである。」

📖 我儘な読書(松平千秋)

「好きな本、読みたい本を読む。」

強いられる読書よりも欲求のおもむくままの読書。好きで読めば身につく。好きでなければ身につきにくい。敢えて「読むぞ!」などと宣言しなくても、自然流に読める本がいいに決まっている。

📖 宝石探し(北村薫)

「本を読むというのは、そこにあるものをこちらに運ぶような、機械的な作業ではない。場合によっては作者の意図をも越えて、我々の内に何かを作り上げて行くことなのだと思います。」

「そこにあるものをこちらに運ぶような、機械的な作業」のような読み方は、学生時代の教科書によって身についてしまったのだろう。社会に出てその悪しき読み方から脱却するのに何年、いや何十年かかったことか。

📖 わが読書(中村真一郎)

「頭脳を、三年たったら無用のゴミの山に化するような本の読み方は愚の骨頂である。」

仕事に関係する読書ばかりしていた知人は、還暦になってはじめて空しさに気づいた。そして、腹立たしさを抑えることができず、それまでに読んできたビジネス本をすべて処分した。その後の20年間は主に古典に没頭したという。

📖 本の読み方(養老孟司)

「『くだらない本』というのは、わかりきったことを確認する意味しか持たない本のことであろう。」

講演の後に、「とても共感しました。私の思っていたことと同じです」と言ってくる人がいるが、「確認しただけだから、時間の無駄でしたね」と冗談ぽく返すことがある。うなずくばかりの本では楽しみ半減である。


ぼくの場合、読書してきたものが知らず知らずのうちにおおむね仕事のヒントなったように思う。つまり、関心が向いて深読みしたテーマが、幸いなことに仕事になったのである。仕事のために無理に知識を得ようとした読書はごくわずかである。今も、愉快な本を中心に、著者と対話するように読む。どうせ何冊読んでも記憶に残る知識などごくわずかなのだから、プロセスを重視する。

同じ趣味でも、読書とゴルフには決定的な違いがある。ゴルフの場合、運動や健康や付き合いなどの目的を掲げたとしても、取るべき行動は18ホールを仲間と競い最少打数を目指すことに変わりはない。打法や戦略は人それぞれだが、指向している内容は同じである。

では、読書の場合はどうか。これも目的や方法はいろいろあるが、18ホールや最少打数などの道標があるわけではない。ジャンルも読み方も千変万化する。要するに、読書はゴルフなどの趣味に近いのではなく、食べ物と同様に嗜好性の強い趣味なのである。偏食があるように偏読というものもある。ゴルフのアマチュアはプロの技術をお手本にすることが多いだろうが、読書ではプロの読書家の嗜好する珍味がアマチュアの口に合うとはかぎらない。

〈完〉

本日は本の日なり(前編)

二年前、オフィスの図書室兼勉強部屋を“Spin_off”と命名したが、実は別案があった。「本にちカフェ」というのがそれ。「本の日」と「本日ほんじつ」を重ねたもので、“It’s a book day today.”という英語のキャッチフレーズを作り、ドアの表示のデザインまで考えた。「本日は晴天なり」を捩って「本日は本の日なり」と訳せるかもしれない。

まとまった時間が作れたので、本を拾い読みしたり、主宰していた会読会のためにしたためた書評を読んだりしている。「本日は本の日なり」にふさわしそうな『読書のすすめ』(岩波文庫編集部編)の書評に新たに手を加えてみた。この本では37人の著名人がそれぞれ独自の読書論を寄稿している。そのうち18人を選び、今回と次回で9人ずつ紹介したいと思う。

ところで、最上の読書は、好きな本を好きな時に好きな姿勢で好きなページ数だけ愉しむのがいいということに尽きる。この歳になって、「いかに本を読むか」で悩むことはない。けれども、「読書家らはどんなふうに読んだのか」には少々興味があるので、時々覗いてみる。誰もが生活環境やキャリアによっていろいろな読み方をしていることがわかるが、少なからぬ共通項があることにも気づく。


📖 『ガリア戦記』からの出発(阿部謹也)

著者は現在をどのように生きるかと真剣に問い、生きるために不可欠なテーマを見つけようとするが、容易に見つからない。

「長い間考えたあげく、ついに何も考えず、何も読まずに生きてゆけるかどうかを考えてみた」。

そしてそれが不可能だとわかった。出合った一冊の本はカエサルの『ガリア戦記』だった。ぼくに「それを読まなければ生きてゆけない本」という選び方ができるだろうか。ちなみに、カエサルの『ガリア戦記』は本棚にあるが、なまくら読みしかしていない。

📖 読むことと想像すること(池内了)

「私にとって読書とは、それまでに未知であった世界を、想像しあるいは空想し、時には一体となって考えあるいは反発し、やがて既知の世界として私の中に沈めてゆく行為である。従って、たとえ実際に経験しない事柄でも、読むことと想像することによって限りなく近づき、私の中の世界の一事象とすることができると考えている。」

未知の世界のことを読むには辛抱がいる。知っていることを手掛かりにして知らないことに想像を馳せるわけだから。わからないという度々の状態に陥るのが嫌なら、読書を続けることはできないだろう。

📖 古典の習慣(大江健三郎)

「本を読むこと、とくに古典を読むことには、無意識的なものもふくめて全人格が参加している。それはひとりの人間の生きる上での習慣ともいえるものだ。」

全人格などと大それたことを言える自信はないが、読書が国語力だけで何とかなるなどとは思わない。歯を磨くことにしても、歯ブラシと歯磨剤だけで済むものではないのと同じことである。

📖 読書家・読書人になれない者の読書論(大岡信)

「本を読むという行為は、いついかなる場合においても、作者対読者の一対一の関係に還元されてしまう。」

「私たちは本を読む場合、必ずしも一冊全部を初めから終りまで読み通すとは限らない。ある場合には、ある本の一、二ページしか読まないこともある。そしてその一、二ページが、決定的に重要なことさえ多いのである。」

作者と読者の一対一の関係なのに、一冊を読み通さなくてもよく、一部齧るだけでもいいと言われれば安心する。ここが読書のいいところだ。もっとも、小説は別にして、たいていの本のテーマはもとより1ページか2ページで書けることが多いから、運よく開けたページが「さわり」であることなきにしもあらず。

📖 研究と読書(大野晋)

「読書とは眼鏡をかけて物を見るようなものである。多読家とは要するに次々と眼鏡をかけかえて行く人。眼は疲れて実は何もよく見えなくなるだろう。」

読まないよりは読むほうがいい。しかし、読まずに済ませる選択肢もある。いろいろと本を読んでも開眼するとはかぎらない。読書に親しむのはいいが、適度な距離を保つことも重要である。

📖 翻訳古典文学始末(加藤周一)

「私は日本語の美しさを、専ら本を読むことで覚えた。読みながらの、意味よりも言葉の響き。」

何が書かれているかばかりに気を取られると、語感や表現の豊かさを見逃すことがある。意自ずから通じなくても、何度も読み返してリズムの良さを楽しみたくなる古典がある。

📖 「読書をなさい」(京極純一)

「勉強のために本を読むことは、ふつう、読書とはいわない。」

「本を読むことは、想像力と感受性の世界のなかで、人間の可能性の広がり、善の能力から悪の能力までの幅の広さを経験することである。人間が自分を捨てて他者を愛すること、また、人間が愛する者と別れてひとり死ぬこと、こうしたことを経験する、これが読書である。」

何かを学んでやろうと思うと、必然ハウツーばかりを読むことになる。ぼくはハウツー本を読むことを読書などとは思わない。著者が言うように、読書は一つの経験的行為である。

📖 読書と友だち(坂本義和)

著者は終戦直後にカントの『純粋理性批判』を読み、「考えることを考える」ことの重要さを思い知ったという。

「国中が思考の短絡におちいっている時に、カントはその逆を私に示したのである。そこには、石造りの壮大なゴシック建築のような、驚くほど強固な思考力があった。」

📖 塩一トンの読書(須賀敦子)

このエッセイのタイトルは著者の姑(イタリア人)の「ひとりの人を理解するまでには、すくなくとも、一トンの塩をいっしょに舐めなければだめなのよ」にちなんでいる。ゆえに、

「本、とくに古典とのつきあいは、人間どうしの関係に似ている。」

〈続く〉

寄贈本と思い出と

最近、故人の遺志により蔵書の一部、およそ200を寄贈していただいた。

初めての出会いは故人Y氏が47歳でぼくが35だった。当時ぼくは広報・販促の小さな会社のサラリーマン。Y氏は香川県に本社を置く大手企業の子会社の次長として親会社の広報を担われていた。ある企業を介しての縁だった。委託されたミッションは海外向けのアニュアルレポートの英文コピーライティングと編集である。

気性は穏やかとは思えず、時折り苛立って少々ぶっきらぼうなことば遣いをする人だった。初対面ではぼくが信頼できるかどうか品定めしている様子だった。実力の程を試すような質問が本題の会話の随所に投げ掛けられた。若かったので体をかわすようなことはせず、自然流に答えようと努めた。それが結果的に人間関係で吉と出た。任務は精度を落とさぬように慎重に執り行い、満足していただけた。

ぼくは翌年退職して起業した。「前の勤務先であの仕事を引き継げる人材はいない。今年もお願いしたい」と連絡があった。仕事の当てもなく起業したので、ありがたい話だった。以来、その案件以外に諸々の仕事を出していただき、お付き合いは十年以上になった。クライアントの都合や社会状況に応じて仕事の縁はやがて途切れるが、途切れてから――Y氏が現役を退かれてから――それまでの仕事関係をリセットして、新しい交際が始まった。


たまたま香川で別件の仕事が発生し、毎年赴くようになった。連絡しては前泊日の昼や夜に会うようになった。最初出会った頃にぼくを値踏みするような口調やまなざしはすでに消え、早口ではあるが穏やかに物語る人に変わっていた。年に一回、会って何を話していたのかと言うと、本と読書のことばかり。談義は3時間、4時間と続いた。「岡野さん、シェークスピアはおもしろいねぇ……」と切り出すと、もう止まらない。シェークスピア講座に通っている話、DVD全巻で観劇した印象、ある作品の名場面の精細な描写……

シェークスピアが終われば小林秀雄、その次はドストエフスキーという調子。もちろん、Y氏が話し手でぼくが聞き手という役割分担だけではない。ぼくも最近読了した本の書評をする。「よくいろんなものを読んでいるなあ。おぬしの知見には感心する」などと褒めてくださる。「いやいや、読んだふりですよ。Yさんほどには熱心な読書人ではありません」と応じる。謙遜ではなく、本心からそう思っていた。なにしろ手に入れた本は一冊残らず完読されていたのだから。ぼくのなまくら読みとは次元が違う。

定年を機に、ビジネス本やハウツー本をすべて処分し、小説や詩、思想や哲学にのめり込んで貪るように読んでおられた。ぼくの読書観がきっかけの一つになったとおっしゃったが過分のお褒めである。201712月、酸素吸入装置を引っ張ってホテルまで来られ、干物専門の居酒屋でほとんど箸をつけず、ちびちびワインを含みながら、本や近況の話を交わした。翌201812月の出張時は病状悪化で会うことはままならず。出張から帰った一週間後に訃報が届いた。

亡くなる3週間前に、力を振り絞ってしたためたような筆致の手紙をいただいた。

「書籍の寄贈の件、後日、ジャンルにとらわれずセレクトして、僅かですが贈りたいと思っております……ご厚情に感謝するとともに、今回の欠席、お詫びいたします……今後もご交際のほどよろしくお願いします」。

結局、その「今後」はなかった。

昨年12月、奥さまから連絡をいただいた。蔵書の寄贈のことが気になっていたが、一年間ぼんやりして何も手つかずだった、云々。まもなく一回忌というタイミングで自宅を訪問し、お言葉に甘えて読書談義に出てきた作者の本を選ばせていただいた。書棚五段分。オフィスの図書室で所蔵している。