寄贈本と思い出と

最近、故人の遺志により蔵書の一部、およそ200を寄贈していただいた。

初めての出会いは故人Y氏が47歳でぼくが35だった。当時ぼくは広報・販促の小さな会社のサラリーマン。Y氏は香川県に本社を置く大手企業の子会社の次長として親会社の広報を担われていた。ある企業を介しての縁だった。委託されたミッションは海外向けのアニュアルレポートの英文コピーライティングとエディトリアルデザインである。

気性は穏やかとは思えず、時折り苛立って少々ぶっきらぼうなことば遣いをする人だった。初対面ではぼくが信頼できるかどうか品定めしている様子だった。実力の程を試すような質問が本題の会話の随所に投げ掛けられた。若かったので体をかわすようなことはせず、自然流に答えようと努めた。任務は精度を落とさぬように慎重に執り行い、満足していただけた。

ぼくは翌年退職して起業した。「前の勤務先であの仕事を引き継げる人材はいない。今年もお願いしたい」と連絡があった。仕事の当てもなく起業したので、ありがたい話だった。以来、その案件以外に諸々の仕事を出していただき、お付き合いは十年以上になった。クライアントの都合や社会状況に応じて仕事の縁はやがて途切れるが、途切れてから――Y氏が現役を退かれてから――それまでの仕事関係をリセットして、新しい交際が始まった。

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たまたま香川で別件の仕事が発生し、毎年赴くようになった。連絡しては前泊日の昼や夜に会うようになった。最初出会った頃にぼくを値踏みするような口調やまなざしはすでに消え、早口ではあるが穏やかに物語る人に変わっていた。年に一回、会って何を話していたのかと言うと、本と読書のことばかり。談義は3時間、4時間と続いた。「岡野さん、シェークスピアはおもしろいねぇ……」と切り出すと、もう止まらない。シェークスピア講座に通っている話、DVD全巻で観劇した印象、ある作品の名場面の精細な描写……

シェークスピアが終われば小林秀雄、その次はドストエフスキーという調子。もちろん、Y氏が話し手でぼくが聞き手というわけではない。ぼくも最近読了した本の書評をする。「よくいろんなものを読んでいるなあ。おぬしの知見には感心する」などと褒めてくださる。「いやいや、読んだふりですよ。Yさんほどには熱心な読書人ではありません」と応じる。謙遜ではなく、本心からそう思っていた。なにしろ手に入れた本は一冊残らず完読されていたのだから。ぼくのなまくら読みとは次元が違う。

定年を機に、ビジネス本やハウツー本をすべて処分し、小説や詩、思想や哲学をのめり込むように、貪るように読んでおられた。ぼくの読書観がきっかけの一つになったとおっしゃったが過分のお褒めである。201712月、酸素吸入装置を引っ張ってホテルまで来られ、干物専門の居酒屋でほとんど箸をつけず、ちびちびワインを含みながら、本や近況の話を交わした。翌201812月の出張時は病状悪化で会うことはままならず。出張から帰った一週間後に訃報が届いた。

亡くなる3週間前に、力を振り絞ってしたためたような筆致の手紙をいただいた。「書籍の寄贈の件、後日、ジャンルにとらわれずセレクトして、僅かですが贈りたいと思っております……ご厚情に感謝するとともに、今回の欠席、お詫びいたします……今後もご交際のほどよろしくお願いします」。結局、その「今後」はなかった。

昨年12月、奥さまから連絡をいただいた。蔵書の寄贈のことが気になっていたが、一年間ぼんやりして何も手つかずだった、云々。まもなく一回忌というタイミングで自宅を訪問し、お言葉に甘えて読書談義に出てきた作者の本を選ばせていただいた。書棚五段分。オフィスの図書室で所蔵している。

ごっこをした頃

最近、バーチャル世界だけでなく、リアル世界でも〈ごっこ遊び〉が目立ち、しかも大仕掛けになっている。五輪もIRもある種のごっこ遊びだ。また、小さなごっこのつもりで始めた個人が、知らず知らずのうちに巨大な電子システムの中に巻き込まれていたりする。リアルかバーチャルなのか、よくわからない。

本来ごっこはリアルを真似たたわいもないバーチャルな遊びだった。ごっこには複数のプレイヤーが参加し、少なくとも二人を必要とする。稀に一人でごっこ遊びする子がいるが、その場合でも仮想の誰かをイメージするので、実際は二人で遊んでいることになる。

誰かに成り切ってロールプレイするのがごっこ。ヒーローと悪人、医者と患者、売り手と買い手などと役割が分担される。それは人間関係ゲームでもある。カイヨワの言を借りれば〈ミミクリー〉の範疇に入る。いわゆる模倣や真似事。ごっこは本物を模倣するフィクションで、しかも現在進行形の脚本と即興的な演出を特徴とする。

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小学生だった昭和30年代、テレビのある家は町内に一軒か二軒しかなかった。引きこもっても特に遊べる材料が家にない。必然、子どもは屋外に出る。当時、近所に団地が建ち、敷地には給水塔があった。視界を遮る構造物のお陰で〈戦争ごっこ〉のゲーム性が高まった。三角ベースボールに飽きた頃だ。小遣いで買ったブリキ製の銃と火薬を持って出掛ける。銃は一発撃つごとに火薬を充填するタイプのものだ。

一枚ずつ切り離して使う平玉火薬。一発撃つごとに充填する。

火薬と言っても、危険なものではない。紙に火薬を盛りつけた花火の一種。火を使わない分、花火より安全である。これを銃に充填して引き金トリガーを引く。撃鉄ハンマーが火薬の上に落ちてパーンという乾いた破裂音がする。音だけで玉は飛び出さない。

破裂音がするだけのこんな銃でどんなふうに遊んでいたのか。集まった子どもたちが敵と味方に分かれる。建物や給水塔や植え込みに隠れて、敵を見つけたら飛び出してパーンと撃つ。どっちが先に撃てるかが勝負。玉が当たるわけではないから、銃口が正確に相手に向けられて「バーチャル命中」したかどうかは阿吽の呼吸で決める。当てられたと思ったら「あ~」と叫んで倒れる。当たったか当たってないかでもめることもあったが、子どもなりに取り決めたルールに従っていた。

連射用の銃には巻玉火薬を使う。何十連発も撃てる。

みんながこういう遊びをしているのを知って仲間に入った。銃は父が買ってきてくれたのだが、その銃、みんなが使っている平玉火薬用ではなく、巻玉火薬用のものだった。つまり、ぼくだけがそのつど充填せずに連射するというアドバンテージを得たのだ。「ずるい」と皮肉られたが、敵味方に分かれる時にぼくを仲間にできれば作戦は半ば成功だった。連射の優位性を十分に生かしたわけだが、一発ずつ充填してこその遊びだったと思う。敵が火薬を入れ替えるタイミングを見計らって撃つことに妙味があったのだから。

突然の訪問客が減った

見ず知らずのセールスマンが相変わらずアポ無しでオフィスにやってくる。「新入社員です」とか「この地域の担当になりました」などと言って侵入を図ろうとする。名刺をゲットできる可能性すらほとんどないというのに……。これに対して、めっきり減ったのが、知り合いのふいの訪問である。オフィスには年に一人か二人。自宅への突然訪問はまったくない。

たまたまいればいいが、オフィスにはいないことが多いので、知り合いは「お邪魔したい」と携帯やメールで日時を伝えてからやって来る。思い起こせば、昭和30年代後半はまだまだ固定電話が普及していなかった。事前に連絡するすべはなかったから、訪問客は突然やって来るしかなかったのである。電報という手段はあったが、電報よりも人の方が先に着いてしまう。

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わが家に黒電話がついたのは昭和40年代前半。高校生の頃だ。それ以前は呼出だった。町内の一区画20世帯ほどのうち、電話のある家は2軒のみ。近い方の、3軒向こうのW宅が取り次いでくれていた。中学生の頃は「W方呼出」と電話番号を書いて担任に連絡先を提出していた。W宅に呼出を依頼していたのはわが家も含めて10軒はあったから、電話がかかるたびにおばさんがそれぞれの家まで告げに行かねばならなかった。負担は決して少なくなかったはずである。当時はほとんどが専業主婦だったから、取り次ぎのために呼出に行けばたいてい家にいた。

隔世の感がある一人一機のスマホ時代。「○○駅に着いたらメールで知らせて」と言えば済む。約束の場所も時間もかなりアバウトなやりとりだ。昔は、黒電話がついた頃になっても、いったん自宅を出たら相手への連絡手段は公衆電話のみ。相手が在宅していたらいいが、相手もすでに出ていたら連絡は不可能。と言うわけで、事前に綿密な打ち合わせをしておかねばならなかった。

「大阪駅中央改札口を入って6番線の階段下の売店前に午前1040分厳守、1045分の快速に乗るから。万が一遅れたら、三ノ宮駅前の喫茶□□に行っているのでそこに電話を入れること」という具合。喫茶店には公衆電話があって、そこに外から電話をかけることができたのである。ともあれ、電話の不自由な時代のほうが描写力も表現力も優れていたのは否めない。何よりも伝えることにマメだった。

1977年~1980年

一年前にほとんどの蔵書をオフィスに移した。自宅にはまだ500冊くらい古い本があるが、大半は処分する予定。一昨日、書道や美術関係の希少本をセレクトしてオフィスに運び込んだ。希少本ではないが、納戸の奥から懐かしい本やノートが見つかる。二十代中頃に読んだ本や雑文を綴ったノート。

1977年~1980年は本を買いあさりよく読んだ時期にあたる。どの程度読んだかと言うと、ほぼ一日一冊のペース。通勤に往復約2時間半かかっていたし、この頃の一年ほど無職だったこともあり、時間がたっぷりあった。197710月の読書記録には次のような書名が並んでいる。

江戸幕府、堕落論、好色五人女、ことばへの旅Ⅰ、勝負、信長と秀吉、毎日の言葉、氷川清話、山月記、李陵・弟子・名人伝、アメリカひじき・火垂るの墓、日本の伝説、新西洋事情、メディアの周辺、人間へのはるかな旅、ピンチランナー調書、考える技術・書く技術、暮らしの思想、続・暮らしの思想、日本の禅語録、海舟全集全6巻……

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もっとも懐かしかったのが、今東光の『極道辻説法』と『続 極道辻説法』である。前者が1977年の第四版、後者が同年の第二版。ちなみに、今東光が没したのが同年の9月。どんな縁で手にしたのかわからないが、結構おもしろがって読んだのを覚えている。

巻頭に今東光の人物評が載っている。「八面六臂」と題した柴田錬三郎の手書きの小文がそれ。この一文と目次にざっと目を通せば、40年以上経っているにもかかわらず、かなり鮮やかに記憶が甦る。愉快なコンテンツや文章はよく覚えているものだ。

『極道辻説法』とその続編は、週刊プレイボーイに連載されていた人生相談コーナーの文章をまとめて出版した本である。放送なら禁止になりそうな用語がぎりぎり活字になっている。読者のアホらしくて卑猥な悩みごとを、和尚がこれまた毒舌的かつ過激に回答するという趣向。くだらないと言えばくだらないが、希少と言えば希少でもある。オフィスの書棚の片隅にキープすることにした。

「責任者出てこい!」

おそらく関西圏出身の50歳以上でないと即座にわからないフレーズ、「責任者出てこい!」

これをギャグにしていた漫才師、人生幸朗が亡くなって37年になるという。若者が集まる飲み会で還暦前の男性が冗談まじりに「責任者出てこい!」と言ったところ、場がシーンとなったらしい。

あの芸風を漫才以外の語りで再現しようとしても、まずわかってもらえない。「何がおもしろいのか!?」と反応されたらそれまで。わかってもらおうと躍起になればなるほど場が凍る。ぼやきのネタには鮮度も欠かせない。

元祖ぼやき漫才である。人生幸朗は「まあ皆さん、聞いてください」でぼやきを始める。語りかけの口調はいたって静かだ。しかし、歌謡曲の歌詞に難癖をつけてぼやいているうちに、ボルテージが上がってくる。

伊東ゆかりが歌ってヒットした『小指の思い出』。「♪あなたが噛んだ 小指が痛い~」 小指は誰が噛んでも痛いわい! 

この後に「責任者出てこい!」となるわけだ。


並木路子の『リンゴの唄』などが流行したのは終戦の年。同時代人はもう85歳以上のはずである。幸朗がこの歌をネタにしていたのは半世紀も前なので、ターゲットは30代、40代あたりでちょうどよかった。うちの母もよく口ずさんでいたので覚えている。

並木路子の『リンゴの唄』。「♪リンゴは何にも言わないけれど リンゴの気持ちはよくわかる」 リンゴがもの言うか! リンゴがもの言うたら、果物屋のおっさん、うるそうてかなわん!」

すべてがこんな具合。そして、漫才の終わりがけに「責任者出てこい!」と怒鳴る。相方の生恵幸子が「出てきたらどないすんのん?」と聞く。幸朗は「謝ったらしまいや」と答える。おもしろいとくだらないが相半ばした、しかし異色の夫婦漫才だった。

幸朗はぼやきに先立って「浜の真砂は尽きるとも、世にぼやきの種は尽きまじ」と唱える。まったくその通りである。先日、NHKで歌手の水森かおりが『高遠さくら路』なる演歌を歌っているのを聞いた。

♪ほどいたひもなら 結べるけれど 切れたら元には戻らない

「切れたひもが元に戻ったら、ミスターマリックや!」

当たり前のようなことが、実は滑稽でシュールだったりする。不思議が日常茶飯事になれば、当然当たり前が気になってくる。ところで、ぼやきの対象を知らなければ、ぼやきに共感したり笑ったりできない。時代を反映するという点では、ぼやきは立派な時事批評である。

時を越えて話がつながる

自宅で資料を整理していたら古いノートがいくつか紛れていた。適当にページを繰り、一冊だけオフィスに持ってきた。今朝のことである。それがたまたま2002年のノート。元日に次の一文を綴っていた。

を進めよう。
たとえ苦しくても後退することはできない。逆戻りの「歩」などありえないのだ。
大きな進歩を遂げて身を持て余したかのような人類。本来「進歩」とは文字通り「歩を進める」ことだったはず。ゆっくりと一歩一歩前へ進む……これが進歩である。後ずさりしてはいけない。進むのである。とにかく前へ。

年初に書いた一文の値踏みをしただけで、転記したことに特に意味はない。その数ページ後に年賀状のことを話題にしている。今年の年賀状の当選番号をチェックした直後だった。

今年一番の年賀状は、何と言っても、友人のS.H.の世相批判である。彼の年賀状は毎年世相にいちゃもんをつける。たまにぼくと会ってもそんな談義ばかり。今年のテーマは「もらってうれしい年賀状、もらってもうれしくない年賀状」だった。これを年賀状で書く。もらってうれしくない年賀状を投函した者にとってはたまらない。

昼にポストに郵便が入っていた。「寒中お見舞い申し上げます」。今年はこの葉書がことのほか多い。「昨年十一月主人が六十七歳で永眠……新年のご挨拶を失礼……」。主人とはS.H.だった。ぼくのオフィスと彼のオフィスは100メートルほどの至近。近いのでいつでも会えるとお互い思っていたが、案外会えなかった。そんなものである。数年前突然倒れ、リハビリを経てオフィスで仕事を再開していたが、それもままならず、自宅にこもっていると聞いた。直近に会ってからはもう三年近く経っている。

生前の付き合いのエピソードをまじえて、奥さま宛にお悔やみを一筆して今しがた投函してきた。気を取り直して一歩進むしかない。これも何かの因縁だろうから、明日もこの2002年のノートを少し捲ってみようと思う。

2018年の年賀状


変わらぬ事業テーマは「コンセプトとコミュニケーション」。見えざるものを言葉にし、形にするのを使命としている。

発想の源やきっかけはいつの時代になっても書物だと考える。
検索すれば誰もが情報にアクセスできるウェブと違い、書物は透徹の選択眼を求める。差異化とは少数派に属すこと。ゆえに、紙の書籍を読まねばならない。

出版界が厳しい状況に置かれて久しい。ベストセラーとされる十万部超えは年に三百冊程度、発行点数全体の〇・三八パーセントにすぎない。読書人口を一億人とすれば、ベストセラーとは千人のうちわずか一人が読む本。ある意味で希少本なのである。

ほとんどの本は売れない、読まれない。企画されたものの世に出ない原稿も数え切れず。〈架空図書館〉にはおびただしい蔵書が眠る。売れない、世に出ない本には題名や主題の問題があり、著者の動機も独りよがりで、読者層の想定間違いも多い。


『あるもの、ないです』
クラフト・エヴィング商會が著した『ないもの、あります』(ちくま文庫)という渋い本がある。「思う壺」や「転ばぬ先の杖」や「一本槍」など、実在しないものが並ぶ。ないものなのにまるであるような錯覚に陥りそうになる。この本にヒントを得て『あるもの、ないです』を構想した人がいる。しかし、あるものがないのは単に商品の在庫切れのことだと気付いた。今のところ原稿はまだ一枚も書かれていないらしい。

そぞろ働きのすゝめ』
スローライフやスローフードがあるのだから、スローワークがあってもいい。スローウォークの「そぞろ歩き」に倣えば、スローワークはさしずめ「そぞろ働き」だ。ありえないテーマではない。ところが、大半の富裕層や気楽なフリーターはすでにそのように働いているし、少なからぬサラリーマンも日々そぞろ働きを実践している。本書はサボリを奨励することになりはしないかと懸念され、出版が見送られている。

『あなたは犬ではない』
漱石の『吾輩は猫である』の主題と二項対立関係になる小説。著者は漱石の名作が”I Am a Cat”と訳され、原題の吾輩のニュアンスが出ていないことに失望した。将来英語の出版を視野に入れ、自作を訳しやすい表現にすべきだと考え、『あなたは犬ではない』というベタな題名にした。たしかに”You Are Not a Dog”と自動翻訳は完璧である。

『続・花火』
出版界にもパクリや便乗商法がある。本書はミリオンセラーの『火花』にあやかり、しかも「続」をかぶせた。ベストセラーのにわか読者が勝手に続編だと勘違いしそうだ。夏の風物詩をテーマに小説を書くには一工夫必要だが、日本各地の花火大会の写真集なら編めなくもない。万が一売れたら、『続・花火』の後に『花火』が出ることになる。

『私は一着しか服を持たない』
パリの暮らしの知恵から生まれた『フランス人は10着しか服を持たない』という本が話題になったが、10着は多いほうだから「10着しか」という表現はおかしいとケチがついた。そこで、本書は思い切りよく「一着」とした。着た切り雀の話ではない。新しい洗濯表示がわかりにくいため、一着にすれば混乱はないという提言である。結局、服の話ではなく、洗濯の話になってしまった。

『ダジャレ四字熟語集』
生命保険会社が毎年創作四字熟語を募集している。パロディやダジャレは元の熟語を知っているからこそ笑える。所詮、たわいもない言葉遊びであるが、漢字だけに、発音の一致だけでなく見た目も重要。以心伝心は「異心電信」、経済社会が「軽財斜壊」という具合。だが、一作だけ応募するのとは違って、そう簡単に本一冊分創作できるはずもなく、現在「サ行」で苦闘中。

『やっぱり「やっぱり」ではない』
あまり知られていないが、『偽書百選』なる本が文藝春秋から出ている。著者は垣芝折多(おそらく仮名)。所収されている偽書に『もはや「もはや」ではない』がある。この題名がテンプレートとして優れているという。『今度こそ「今度こそ」ではない』、『きっと「きっと」ではない』、『つまり「つまり」ではない』など、まったく苦労せずに題名ができてしまう。

『架空人名大辞典』
『世界文学にみる架空地名大事典』(講談社)からヒントを得た本である。架空だと思って人名をせっせと収録したのだが、ほとんどが実名として存在していることを初稿段階で指摘され、企画が頓挫している。

『モノガタリスギテ』
飽和の時代をテーマにした「モノが足り過ぎて」という物語。全文カタカナ表記が奇抜だが、「カタカナ・漢字照合表」を別冊付録にして読みづらさを緩和した。しかし、それなら最初から漢字仮名混じりでよかったのではないか。出版取次が嫌う本である。

AIに負けない生き方』
人間の仕事が人工知能に脅かされている。勝てないまでも、負けないためのハウツーを網羅したのが本書。第1章「アルゴリズムvsアドリブ」、第2章「ディープラーニングvs軽めの学習」など、人間らしい対抗策を説く。決め手はあとがきだ。「本書通りに実践しても負ける時があります。しかし諦めてはいけません。いざとなればAI搭載機器の電源を切ればいいのです」。

ふと夏目漱石

夏目漱石の函入りの復刻版は書棚の一番下に立ててある。視線を床の方に落としたついでにふと目に入った。久々である。自分で買ったのだから当然覚えている。『道草』『明暗』『心』の三冊セット。

おなじみの三部作は、前期が『三四郎』『それから』『門』、後期が『彼岸過迄』『行人』『こころ』である(復刻版では「心」、その後「こゝろ」と表記され、今は「こころ」のようである)。代表作の『吾輩は猫である』は三部作には入らない。

少年時代に漱石はかなり読んだか読まされたかしたが、半世紀も経つと書名と物語が連動しない。書名は知っている、物語も覚えている、しかし完全一致させるのは容易でない。幼い頃に早熟気味に読んだものは忘れ、直近に読んだものは覚えている。読書とはそういうものだ。

さらに言えば、昔手に取った本のうち、読了したものはあまり覚えておらず、むしろ挫折した本の嫌な記憶だけが残っている。モーパッサンの『女の一生』はうろ覚えだが、スタンダールの『赤と黒』を読んでいて、これから先読むのはやめようと決意した瞬間と話の箇所は覚えている。


さて、漱石である。このブログを始めてから10年と4か月。1,337回書いてきた。検索窓で「夏目漱石」をチェックしたところ一件しかヒットしない。つまり、ぼくが夏目漱石と書いたのは一度きりなのだ。小説のことを書いたのではない。英語教師として二つの類義語の違いを少々ユーモラスに語った場面だ。次のように書いた。

理論上の可能性と現実に起こりうる蓋然性の違い(……)。授業中にpossible”probable”の違いを説明した夏目漱石のエピソードがある。「吾輩がここで逆立ちをすることは可能(possible)である。しかし、そんなことをするはずもない(not probable)」。

では、ブログ以外に思い出す漱石がらみのエピソードにどんなものがあるか。脳内検索してみた。そうそう、知人友人宛に出した引越ハガキの文面がおもしろかった。「手伝うなら昼から、メシだけ食うなら夜から」というような内容で、独特のユーモアなのだが、受け取ったら昼に行かざるをえない仕掛けがしてある。

もう一つ。私塾の『愉快コンセプト』の講座だったと思うが、漱石パロディを紹介したことがある。テキストが残っていた。漱石の『草枕』の冒頭とそのパロディを並べて笑ってもらったのを覚えている。

山路を登りながら、こう考えた。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生まれて、画ができる。
(夏目漱石 『草枕』)

耳をほじくりながら、こう考えた。
理を説けばかどが立つ。情にほだされれば流される。意地になられてはおしまいだ。とかくに女は扱いにくい。
扱いにくさが困じはてると、気安い女へ移りたくなる。どの女も扱いにくいとわかった時、あきらめが生じ、子ができる。
(郡司外史 『膝枕』)

ぼくの記憶の内にある漱石は、小説家ではなくユーモリストのようであり、またユーモリストに格好の材料を提供した人である。

昭和の見聞

昭和の六十有余年を風呂敷一包みにくるんで、「はい、昭和とは何々でございます」と片付けられる一言は思いつかない。カオスとエネルギーに満ち満ちた百面相の昭和だ、結局、「昭和とは……昭和でございます」と言うことになるだろう。

昭和30年代の中頃までは、戦後と呼ぶにふさわしい風情や風俗がまだ残っていた。そこには戦前も投影されていた。昭和20年代の生まれだが、戦後まもなくの頃の記憶があるはずもなく、昭和の記憶と言えば、30年以降に限られる。しかし、目撃も体験もしていないが、いろいろと耳にしてきたからバーチャル体験だけは積んでいる。

大正時代についても同じ。聞いたり読んだりしただけなのに、イメージだけが勝手に培われている。そして、昭和30年代は、後に続く40年代との隔たりが大きく、むしろ戦前や大正時代の延長のような気がするのである。


山積みされた古書均一コーナーに武井武雄の画文集『戦後気侭画帳きままがちょう』を見つけた。「昭和二十年より二十四年まで」と副題にあり、その数年間の典型的な風情や風俗の絵が何百も描かれ、それぞれに文が添えられている。聞き覚えのある話は多々、30年代に入っても続いたはずの見覚えのある光景も少なくない。珈琲の話、煙草の話、駅や電車の話……。とりわけ風呂屋の話がおもしろく、懐かしく思い出した。

風呂屋の盗難は謂わば日常茶飯事になっているが この女性 下着まで持っていかれて 裸で道中もならず うちへも帰れない。番台のおかみ 止むなく男物の浴衣を貸して帰す。さて これを一見した亭主 甚だおだやかでない。すったもんだの内ゲバの揚句 翌日二人で風呂屋へ行ったら 万事解決、これにて一件落着したとさ めでたしめでたし

一糸纏わず背中をこっちに向けて恥じらう女性の絵。足元には空っぽの籠。そう、昔は鍵のかかるロッカーなどなく、脱いだものを籠に入れた。風呂から上がったら下着が盗まれていたという話は、母や近所のおばさんたちからよく聞かされた。覗きは今と同じく男の仕業だったが、下着泥棒は男ではなかった。女が自分用に盗んだのである。

ハンコ売りのおじさん

忘れた頃にやって来るおじさんがいた。大阪の北摂から来ている、と言っていた。来るのは年に一、二度。おじさんは「ハンコ屋です」と言って入って来るのだが、実はハンコ屋ではなくハンコ売りである。おじさんがハンコを彫っているのではない。パンフレットを見せて注文を取るだけである。

いったん会社を創業したらツゲや水牛や象牙の社印や銀行印を作り直すことはまずない。ぼくの会社の印鑑も31年前の創業時のまま。個人にしても、成人はほとんど実印をすでに所有している。認印を除けば、よほどのことがないかぎり実印は一生ものだ。

おじさんはハンコの話にさほど熱心ではなく、むしろ自分が描く絵を見せたがった。誰の目にも素人絵だとわかる代物。色紙に描いた水墨画や達磨図を鞄に入れていて、十数枚取り出して見せる。色紙の裏には2000-とか1500-とかの数字が鉛筆で書かれていて、おじさんは素人なのに売る気満々なのである。


何度も会話を交わしているので、おじさんはぼくが趣味で絵を描くことも消しゴム篆刻をしていることも当然知っている。作品を見せてくれと言うから、オフィスに置いていたのをいくつか見せた。見せればえらく感動するのだが、他人の作品に関心があるはずもない。話をすぐに自作に戻す。

ある日、まったくぼくの趣味に合わない色紙をあげると言い出した。いや、もらうわけにはいかないと返せば、では預けておくと言い換える。要するに、ハンコが売れないご時世に自分の作品を売り込みたいのである。人情に辛い人間ではないから、やむなく色紙を受け取り、裏の数字を見ずに「お小遣い程度で申し訳ないが……」と言って千円を差し出した。おじさん、千円札を躊躇せずに受け取った。

おじさんが最後に来てから十数年になるだろうか。当時七十代半ばだったはずだから、ご存命なら九十前後ということになる。おじさんが残した達磨図はとうの昔に手元から消えている。どう処分したかは覚えていない。マウスを使って十数秒で一筆書きしたのが上の作品だが、こっちのほうがいい味が出ている。