一円で二つ買えた頃

テーブルで注文を取る喫茶店はテーブルにコーヒーを運んでくれる。昔の喫茶店はすべてこうだった。このスタイルの喫茶店のコーヒーは1400円~600円が相場のようである。半世紀前は100円~150円だった。隔世の感があるが、コーヒーの物価はあまり上がっていないとも言える。

大阪で「ぽんせんべい」と呼ばれる駄菓子(直径約11㎝)。

昭和30年代に入って間もない頃、まだ1円札が流通していた。1円札が1円玉に変わった「瞬間」をとてもよく覚えている。まだ小学校に上がる前だ。十円玉を一つもらって「ぽんせんべい」を買いに行った時のこと。

売っているのは近所の遊び仲間の家。自宅でぽんせいべいの製造卸をしていた。せんべいを焼く小さな装置があって、ばあちゃんと友達の母親が交代で内職として焼いていたのである。裏木戸につながっている小さな一室で、工場の雰囲気とは程遠かった。近所の子らはその裏木戸から入ってぽんせんべいを売ってもらう。105円。五十銭は流通していなかったが、概念としてはあったということだ。

105円なので、十円硬貨を出すとお釣りが5円。お釣りはふつう五円玉だが、稀に一円札5枚のこともあった。おばちゃんがぼくの手のひらに乗せたお釣りは、キラリと銀色に光る小さな5枚。その頃流通し始めた一円硬貨で、見るのも触るのもその時が初めて。家に帰って見せびらかしたのを覚えている。


1枚が50銭だが、五十銭硬貨が流通していないので、1枚だけ買うわけにはいかない。いや、奇数枚のぽんせんべいを買うことができなかった。ぼくの場合はいつも5円で10枚だった。わくわくしながら駄菓子を買う時に握りしめていた硬貨は、たいてい五円玉だったような気がする。

現在、スーパーに行けば「満月ぽん」という商標などで、小さなぽんせんべいが売られている。先日、あの頃と同じ大きさの懐かしいぽんせんべいを見つけた。醤油が香ばしい。自分が今もぽんせんべい好きだということがわかった。ところで、105円だったせんべいは10330円と、値段は66倍になっている。その上昇率はコーヒーの比ではない。幸いにして、自分の小遣いは物価上昇以上に順調に上がったので、今もぽんせんべいが買えるし、それよりも上等なせんべいも賞味することができる。ありがたい。

昭和家電の思い出

自宅に電気スタンドが二つある。どちらも省エネ対応製品ではない。二つのうち古いほうは、1987年会社創業時のお祝いに電化製品販売店の知人から贈られたもの。首と言うか胴体と言うか、くねくねと上下左右に曲げられるタイプ。当時としては新しかったのだろうか。

何年か前に「大阪くらしの今昔館」で昭和家電を一堂に集めた展示会を観た。家電メーカーの海外販促の仕事を手伝っていた関係で、松下電器(現パナソニック)とシャープの展示館は見学している。昭和家電はおもしろい。実際に使っていたので肌感覚がよみがえる。父親が新しい家電製品に飛びつくタイプだったので、たいていの製品でわが家は町内で一番乗りしていた。

その「今昔館」で買った図録『昭和レトロ家電』を眺める。数ある家電のうち、昭和30年代の白黒テレビ、洗濯機、トースターなどが特に懐かしい。電気冷蔵庫が発売されて重宝したが、その直前までは氷式冷蔵箱を使っていた。毎日氷屋が運んでくる氷を入れて冷やす。電気製品ではないから図録には載っていないが、今にして思えばあの冷蔵箱はレトロ中のレトロだった。


昭和31年、弟が生まれた直後に母親が商店街のガラポンで特賞の玉を出してみせた。景品は洗濯機だった。親族の誰かがリヤカーを借りてきて自宅に運んだ。手動の脱水ローラーがついた初期のものである。「わたしは引きが強い。あの子は運を持ってきた」と母親は自慢していた。

小学校4年の時だったと思うが、海外旅行できるほどの大きなトランクのような重量級の大物がやってきた。母の弟は当時松下電器に勤めていて、画期的な商品の一号機が出たと父親に伝えた。父親がパスするはずがない。何台売られたのか知らないが、かなりの希少品だったことは間違いない。

それは、オープンリール方式のテープレコーダーだった。わが家にやって来てしばらく、ただ声を吹き込んで、それを再生して喜んでいるだけだった。町内の人たちや友達がよくやって来て声を吹き込んでは、自分の声が変な声に聞こえたのでケラケラと笑っていた。ただそれだけ。

みんなが飽きかけた頃から父親が当時習っていた民謡の練習に使い始めた。その後は何年も埃をかぶったが、大学生になったぼくが英語の勉強に使うようになった。テレビの英語番組を録音したのだが、テレビとテープレコーダーを直接つなぐ機能がないので、テレビのスピーカーの前にマイクを置いて、声も音も出さずに録音していた。後で再生すると、英会話シーンの合間に「ご飯、できたよ~」という母親の声が入っていたりした。

昭和家電は微笑ましいノスタルジーだ。

寄贈本と思い出と

最近、故人の遺志により蔵書の一部、およそ200を寄贈していただいた。

初めての出会いは故人Y氏が47歳でぼくが35だった。当時ぼくは広報・販促の小さな会社のサラリーマン。Y氏は香川県に本社を置く大手企業の子会社の次長として親会社の広報を担われていた。ある企業を介しての縁だった。委託されたミッションは海外向けのアニュアルレポートの英文コピーライティングと編集である。

気性は穏やかとは思えず、時折り苛立って少々ぶっきらぼうなことば遣いをする人だった。初対面ではぼくが信頼できるかどうか品定めしている様子だった。実力の程を試すような質問が本題の会話の随所に投げ掛けられた。若かったので体をかわすようなことはせず、自然流に答えようと努めた。それが結果的に人間関係で吉と出た。任務は精度を落とさぬように慎重に執り行い、満足していただけた。

ぼくは翌年退職して起業した。「前の勤務先であの仕事を引き継げる人材はいない。今年もお願いしたい」と連絡があった。仕事の当てもなく起業したので、ありがたい話だった。以来、その案件以外に諸々の仕事を出していただき、お付き合いは十年以上になった。クライアントの都合や社会状況に応じて仕事の縁はやがて途切れるが、途切れてから――Y氏が現役を退かれてから――それまでの仕事関係をリセットして、新しい交際が始まった。


たまたま香川で別件の仕事が発生し、毎年赴くようになった。連絡しては前泊日の昼や夜に会うようになった。最初出会った頃にぼくを値踏みするような口調やまなざしはすでに消え、早口ではあるが穏やかに物語る人に変わっていた。年に一回、会って何を話していたのかと言うと、本と読書のことばかり。談義は3時間、4時間と続いた。「岡野さん、シェークスピアはおもしろいねぇ……」と切り出すと、もう止まらない。シェークスピア講座に通っている話、DVD全巻で観劇した印象、ある作品の名場面の精細な描写……

シェークスピアが終われば小林秀雄、その次はドストエフスキーという調子。もちろん、Y氏が話し手でぼくが聞き手という役割分担だけではない。ぼくも最近読了した本の書評をする。「よくいろんなものを読んでいるなあ。おぬしの知見には感心する」などと褒めてくださる。「いやいや、読んだふりですよ。Yさんほどには熱心な読書人ではありません」と応じる。謙遜ではなく、本心からそう思っていた。なにしろ手に入れた本は一冊残らず完読されていたのだから。ぼくのなまくら読みとは次元が違う。

定年を機に、ビジネス本やハウツー本をすべて処分し、小説や詩、思想や哲学にのめり込んで貪るように読んでおられた。ぼくの読書観がきっかけの一つになったとおっしゃったが過分のお褒めである。201712月、酸素吸入装置を引っ張ってホテルまで来られ、干物専門の居酒屋でほとんど箸をつけず、ちびちびワインを含みながら、本や近況の話を交わした。翌201812月の出張時は病状悪化で会うことはままならず。出張から帰った一週間後に訃報が届いた。

亡くなる3週間前に、力を振り絞ってしたためたような筆致の手紙をいただいた。

「書籍の寄贈の件、後日、ジャンルにとらわれずセレクトして、僅かですが贈りたいと思っております……ご厚情に感謝するとともに、今回の欠席、お詫びいたします……今後もご交際のほどよろしくお願いします」。

結局、その「今後」はなかった。

昨年12月、奥さまから連絡をいただいた。蔵書の寄贈のことが気になっていたが、一年間ぼんやりして何も手つかずだった、云々。まもなく一回忌というタイミングで自宅を訪問し、お言葉に甘えて読書談義に出てきた作者の本を選ばせていただいた。書棚五段分。オフィスの図書室で所蔵している。

ごっこをした頃

最近、バーチャル世界だけでなく、リアル世界でも〈ごっこ遊び〉が目立ち、しかも大仕掛けになっている。五輪もIRもある種のごっこ遊びだ。また、小さなごっこのつもりで始めた個人が、知らず知らずのうちに巨大な電子システムの中に巻き込まれていたりする。リアルかバーチャルなのか、よくわからない。

本来ごっこはリアルを真似たたわいもないバーチャルな遊びだった。ごっこには複数のプレイヤーが参加し、少なくとも二人を必要とする。稀に一人でごっこ遊びする子がいるが、その場合でも仮想の誰かをイメージするので、実際は二人で遊んでいることになる。

誰かに成り切ってロールプレイするのがごっこ。ヒーローと悪人、医者と患者、売り手と買い手などと役割が分担される。それは人間関係ゲームでもある。カイヨワの言を借りれば〈ミミクリー〉の範疇に入る。いわゆる模倣や真似事。ごっこは本物を模倣するフィクションで、しかも現在進行形の脚本と即興的な演出を特徴とする。

🔫

小学生だった昭和30年代、テレビのある家は町内に一軒か二軒しかなかった。引きこもっても特に遊べる材料が家にない。必然、子どもは屋外に出る。当時、近所に団地が建ち、敷地には給水塔があった。視界を遮る構造物のお陰で〈戦争ごっこ〉のゲーム性が高まった。三角ベースボールに飽きた頃だ。小遣いで買ったブリキ製の銃と火薬を持って出掛ける。銃は一発撃つごとに火薬を充填するタイプのものだ。

一枚ずつ切り離して使う平玉火薬。一発撃つごとに充填する。

火薬と言っても、危険なものではない。紙に火薬を盛りつけた花火の一種。火を使わない分、花火より安全である。これを銃に充填して引き金トリガーを引く。撃鉄ハンマーが火薬の上に落ちてパーンという乾いた破裂音がする。音だけで玉は飛び出さない。

破裂音がするだけのこんな銃でどんなふうに遊んでいたのか。集まった子どもたちが敵と味方に分かれる。建物や給水塔や植え込みに隠れて、敵を見つけたら飛び出してパーンと撃つ。どっちが先に撃てるかが勝負。玉が当たるわけではないから、銃口が正確に相手に向けられて「バーチャル命中」したかどうかは阿吽の呼吸で決める。当てられたと思ったら「あ~」と叫んで倒れる。当たったか当たってないかでもめることもあったが、子どもなりに取り決めたルールに従っていた。

連射用の銃には巻玉火薬を使う。何十連発も撃てる。

みんながこういう遊びをしているのを知って仲間に入った。銃は父が買ってきてくれたのだが、その銃、みんなが使っている平玉火薬用ではなく、巻玉火薬用のものだった。つまり、ぼくだけがそのつど充填せずに連射するというアドバンテージを得たのだ。「ずるい」と皮肉られたが、敵味方に分かれる時にぼくを仲間にできれば作戦は半ば成功だった。連射の優位性を十分に生かしたわけだが、一発ずつ充填してこその遊びだったと思う。敵が火薬を入れ替えるタイミングを見計らって撃つことに妙味があったのだから。

突然の訪問客が減った

見ず知らずのセールスマンが相変わらずアポ無しでオフィスにやってくる。「新入社員です」とか「この地域の担当になりました」などと言って侵入を図ろうとする。名刺をゲットできる可能性すらほとんどないというのに……。これに対して、めっきり減ったのが、知り合いのふいの訪問である。オフィスには年に一人か二人。自宅への突然訪問はまったくない。

たまたまいればいいが、オフィスにはいないことが多いので、知り合いは「お邪魔したい」と携帯やメールで日時を伝えてからやって来る。思い起こせば、昭和30年代後半はまだまだ固定電話が普及していなかった。事前に連絡するすべはなかったから、訪問客は突然やって来るしかなかったのである。電報という手段はあったが、電報よりも人の方が先に着いてしまう。


わが家に黒電話がついたのは昭和40年代前半。高校生の頃だ。それ以前は呼出だった。町内の一区画20世帯ほどのうち、電話のある家は2軒のみ。近い方の、3軒向こうのW宅が取り次いでくれていた。中学生の頃は「W方呼出」と電話番号を書いて担任に連絡先を提出していた。W宅に呼出を依頼していたのはわが家も含めて10軒はあったから、電話がかかるたびにおばさんがそれぞれの家まで告げに行かねばならなかった。負担は決して少なくなかったはずである。当時はほとんどが専業主婦だったから、取り次ぎのために呼出に行けばたいてい家にいた。

隔世の感がある一人一機のスマホ時代。「○○駅に着いたらメールで知らせて」と言えば済む。約束の場所も時間もかなりアバウトなやりとりだ。昔は、黒電話がついた頃になっても、いったん自宅を出たら相手への連絡手段は公衆電話のみ。相手が在宅していたらいいが、相手もすでに出ていたら連絡は不可能。と言うわけで、事前に綿密な打ち合わせをしておかねばならなかった。

「大阪駅中央改札口を入って6番線の階段下の売店前に午前1040分厳守、1045分の快速に乗るから。万が一遅れたら、三ノ宮駅前の喫茶□□に行っているのでそこに電話を入れること」という具合。喫茶店には公衆電話があって、そこに外から電話をかけることができたのである。ともあれ、電話の不自由な時代のほうが描写力も表現力も優れていたのは否めない。何よりも伝えることにマメだった。

切手の話

1963年の鳥シリーズから記念切手を買うようになった。当時、切手蒐集はブームだったように思う。中学生の頃である。この頃から発行枚数が大幅に増えたので、これ以降の記念切手にほとんど投機的価値はない。値上がりに淡い期待がなかったわけではないが、一枚10円のものが将来値上がりしてもたかが知れていると、子ども心にもわかっていた。

投機的なコレクションではないのに、その頃から大学生になるまで記念切手をもれなく買っていた。さしたる意味はなく、小遣いの範囲でずっと続けていたので、惰性的な蒐集だったと言うほかない。いったん蒐集は切れたが、十数年前に「80円の普通切手を買うくらいなら、記念切手のほうがよほどましだ」と考えて、シート単位で買い始めた。シリーズものだったので、郵便局が発行のつどオフィスに届けてくれた。

手元に各種額面の何十、何百枚もの記念切手シートがある。「日本の世界遺産」「20世紀デザイン切手」などのシリーズもの。封書や小荷物の郵送用にシートをばらして使ったこともあるが、大半が未使用のままシートホルダーに収まっている。最近は切手に出番が少なくなったものの、社用もあるし、私用でもたまに使う。原価割れでもいいから売りさばいてもいいのだが、買ったものは使えるだけ使ってみようと思う今日この頃。


来たる10月から郵便料金が変わる。定形郵便が82円から84円に、通常はがきが62円から63円に値上がりする。消費税アップ相当分である。オフィスでは値上がりして額面が変わるたびに新しい切手を買っていた。そうか、私用ではさばけないが、手元に大量にある80円の記念切手を社用で使えばいいと、遅まきながら気づいた。ところが、80円切手に一枚足して84円にはできない。4円の普通切手が売られていないのである。

不足分の4円を作るには次のオプションがある。
1円の前島密4枚。
2円のエゾユキウサギ2枚。
2円のエゾユキウサギ1枚と1円の前島密2枚。
3円のシマリス1枚と1円の前島密1枚。

80円から82円に変わった時から、便利なはずの2円を避けていた。エゾユキウサギの絵が気持悪いのだ。あんな図柄を使うくらいなら、白地に「2円」と大きく書いてもらうほうがよほど使いやすい。と言うわけで、エゾユキウサギとの組み合わせはなし。残るは前島密4枚か、シマリスと前島密各1枚か。

想像してみよう。平等院の鳳凰堂中堂の絵柄の80円切手の横に4枚の前島密である。異様であり、切手ばかりが目立つ封書になる。陸上女子800メートルの人見絹枝の横にシマリスと前島密が並ぶ。そのこころはと聞かれても口を閉ざすしかない。どんなに宛名をきれいに書いても、貼った切手の組み合わせのセンスが問われる。

いつまで続くのか、切手84円時代。普通切手は来週から発売され、記念切手が次から次へと発行される予定。日本郵便には、過去に発行した80円と82円の記念切手の面倒を見てもらわねばならない。手持ち切手に1枚だけ足せば済むように、エゾユキウサギに代わるセンスのいい2円切手と垢抜けした4円切手の発行を切望する。

1977年~1980年

一年前にほとんどの蔵書をオフィスに移した。自宅にはまだ500冊くらい古い本があるが、大半は処分する予定。一昨日、書道や美術関係の希少本をセレクトしてオフィスに運び込んだ。希少本ではないが、納戸の奥から懐かしい本やノートが見つかる。二十代中頃に読んだ本や雑文を綴ったノート。

1977年~1980年は本を買いあさりよく読んだ時期にあたる。どの程度読んだかと言うと、ほぼ一日一冊のペース。通勤に往復約2時間半かかっていたし、この頃の一年ほど無職だったこともあり、時間がたっぷりあった。197710月の読書記録には次のような書名が並んでいる。

江戸幕府、堕落論、好色五人女、ことばへの旅Ⅰ、勝負、信長と秀吉、毎日の言葉、氷川清話、山月記、李陵・弟子・名人伝、アメリカひじき・火垂るの墓、日本の伝説、新西洋事情、メディアの周辺、人間へのはるかな旅、ピンチランナー調書、考える技術・書く技術、暮らしの思想、続・暮らしの思想、日本の禅語録、海舟全集全6巻……


もっとも懐かしかったのが、今東光の『極道辻説法』と『続 極道辻説法』である。前者が1977年の第四版、後者が同年の第二版。ちなみに、今東光が没したのが同年の9月。どんな縁で手にしたのかわからないが、結構おもしろがって読んだのを覚えている。

巻頭に今東光の人物評が載っている。「八面六臂」と題した柴田錬三郎の手書きの小文がそれ。この一文と目次にざっと目を通せば、40年以上経っているにもかかわらず、かなり鮮やかに記憶が甦る。愉快なコンテンツや文章はよく覚えているものだ。

『極道辻説法』とその続編は、週刊プレイボーイに連載されていた人生相談コーナーの文章をまとめて出版した本である。放送なら禁止になりそうな用語がぎりぎり活字になっている。読者のアホらしくて卑猥な悩みごとを、和尚がこれまた毒舌的かつ過激に回答するという趣向。くだらないと言えばくだらないが、希少と言えば希少でもある。オフィスの書棚の片隅にキープすることにした。

「責任者出てこい!」

おそらく関西圏出身の50歳以上でないと即座にわからないフレーズ、「責任者出てこい!」

これをギャグにしていた漫才師、人生幸朗が亡くなって37年になるという。若者が集まる飲み会で還暦前の男性が冗談まじりに「責任者出てこい!」と言ったところ、場がシーンとなったらしい。

あの芸風を漫才以外の語りで再現しようとしても、まずわかってもらえない。「何がおもしろいのか!?」と反応されたらそれまで。わかってもらおうと躍起になればなるほど場が凍る。ぼやきのネタには鮮度も欠かせない。

元祖ぼやき漫才である。人生幸朗は「まあ皆さん、聞いてください」でぼやきを始める。語りかけの口調はいたって静かだ。しかし、歌謡曲の歌詞に難癖をつけてぼやいているうちに、ボルテージが上がってくる。

伊東ゆかりが歌ってヒットした『小指の思い出』。「♪あなたが噛んだ 小指が痛い~」 小指は誰が噛んでも痛いわい! 

この後に「責任者出てこい!」となるわけだ。


並木路子の『リンゴの唄』などが流行したのは終戦の年。同時代人はもう85歳以上のはずである。幸朗がこの歌をネタにしていたのは半世紀も前なので、ターゲットは30代、40代あたりでちょうどよかった。うちの母もよく口ずさんでいたので覚えている。

並木路子の『リンゴの唄』。「♪リンゴは何にも言わないけれど リンゴの気持ちはよくわかる」 リンゴがもの言うか! リンゴがもの言うたら、果物屋のおっさん、うるそうてかなわん!」

すべてがこんな具合。そして、漫才の終わりがけに「責任者出てこい!」と怒鳴る。相方の生恵幸子が「出てきたらどないすんのん?」と聞く。幸朗は「謝ったらしまいや」と答える。おもしろいとくだらないが相半ばした、しかし異色の夫婦漫才だった。

幸朗はぼやきに先立って「浜の真砂は尽きるとも、世にぼやきの種は尽きまじ」と唱える。まったくその通りである。先日、NHKで歌手の水森かおりが『高遠さくら路』なる演歌を歌っているのを聞いた。

♪ほどいたひもなら 結べるけれど 切れたら元には戻らない

「切れたひもが元に戻ったら、ミスターマリックや!」

当たり前のようなことが、実は滑稽でシュールだったりする。不思議が日常茶飯事になれば、当然当たり前が気になってくる。ところで、ぼやきの対象を知らなければ、ぼやきに共感したり笑ったりできない。時代を反映するという点では、ぼやきは立派な時事批評である。

時を越えて話がつながる

自宅で資料を整理していたら古いノートがいくつか紛れていた。適当にページを繰り、一冊だけオフィスに持ってきた。今朝のことである。それがたまたま2002年のノート。元日に次の一文を綴っていた。

を進めよう。
たとえ苦しくても後退することはできない。逆戻りの「歩」などありえないのだ。
大きな進歩を遂げて身を持て余したかのような人類。本来「進歩」とは文字通り「歩を進める」ことだったはず。ゆっくりと一歩一歩前へ進む……これが進歩である。後ずさりしてはいけない。進むのである。とにかく前へ。

年初に書いた一文の値踏みをしただけで、転記したことに特に意味はない。その数ページ後に年賀状のことを話題にしている。今年の年賀状の当選番号をチェックした直後だった。

今年一番の年賀状は、何と言っても、友人のS.H.の世相批判である。彼の年賀状は毎年世相にいちゃもんをつける。たまにぼくと会ってもそんな談義ばかり。今年のテーマは「もらってうれしい年賀状、もらってもうれしくない年賀状」だった。これを年賀状で書く。もらってうれしくない年賀状を投函した者にとってはたまらない。

昼にポストに郵便が入っていた。「寒中お見舞い申し上げます」。今年はこの葉書がことのほか多い。「昨年十一月主人が六十七歳で永眠……新年のご挨拶を失礼……」。主人とはS.H.だった。ぼくのオフィスと彼のオフィスは100メートルほどの至近。近いのでいつでも会えるとお互い思っていたが、案外会えなかった。そんなものである。数年前突然倒れ、リハビリを経てオフィスで仕事を再開していたが、それもままならず、自宅にこもっていると聞いた。直近に会ってからはもう三年近く経っている。

生前の付き合いのエピソードをまじえて、奥さま宛にお悔やみを一筆して今しがた投函してきた。気を取り直して一歩進むしかない。これも何かの因縁だろうから、明日もこの2002年のノートを少し捲ってみようと思う。

2018年の年賀状


変わらぬ事業テーマは「コンセプトとコミュニケーション」。見えざるものを言葉にし、形にするのを使命としている。

発想の源やきっかけはいつの時代になっても書物だと考える。
検索すれば誰もが情報にアクセスできるウェブと違い、書物は透徹の選択眼を求める。差異化とは少数派に属すこと。ゆえに、紙の書籍を読まねばならない。

出版界が厳しい状況に置かれて久しい。ベストセラーとされる十万部超えは年に三百冊程度、発行点数全体の〇・三八パーセントにすぎない。読書人口を一億人とすれば、ベストセラーとは千人のうちわずか一人が読む本。ある意味で希少本なのである。

ほとんどの本は売れない、読まれない。企画されたものの世に出ない原稿も数え切れず。〈架空図書館〉にはおびただしい蔵書が眠る。売れない、世に出ない本には題名や主題の問題があり、著者の動機も独りよがりで、読者層の想定間違いも多い。


『あるもの、ないです』
クラフト・エヴィング商會が著した『ないもの、あります』(ちくま文庫)という渋い本がある。「思う壺」や「転ばぬ先の杖」や「一本槍」など、実在しないものが並ぶ。ないものなのにまるであるような錯覚に陥りそうになる。この本にヒントを得て『あるもの、ないです』を構想した人がいる。しかし、あるものがないのは単に商品の在庫切れのことだと気付いた。今のところ原稿はまだ一枚も書かれていないらしい。

そぞろ働きのすゝめ』
スローライフやスローフードがあるのだから、スローワークがあってもいい。スローウォークの「そぞろ歩き」に倣えば、スローワークはさしずめ「そぞろ働き」だ。ありえないテーマではない。ところが、大半の富裕層や気楽なフリーターはすでにそのように働いているし、少なからぬサラリーマンも日々そぞろ働きを実践している。本書はサボリを奨励することになりはしないかと懸念され、出版が見送られている。

『あなたは犬ではない』
漱石の『吾輩は猫である』の主題と二項対立関係になる小説。著者は漱石の名作が”I Am a Cat”と訳され、原題の吾輩のニュアンスが出ていないことに失望した。将来英語の出版を視野に入れ、自作を訳しやすい表現にすべきだと考え、『あなたは犬ではない』というベタな題名にした。たしかに”You Are Not a Dog”と自動翻訳は完璧である。

『続・花火』
出版界にもパクリや便乗商法がある。本書はミリオンセラーの『火花』にあやかり、しかも「続」をかぶせた。ベストセラーのにわか読者が勝手に続編だと勘違いしそうだ。夏の風物詩をテーマに小説を書くには一工夫必要だが、日本各地の花火大会の写真集なら編めなくもない。万が一売れたら、『続・花火』の後に『花火』が出ることになる。

『私は一着しか服を持たない』
パリの暮らしの知恵から生まれた『フランス人は10着しか服を持たない』という本が話題になったが、10着は多いほうだから「10着しか」という表現はおかしいとケチがついた。そこで、本書は思い切りよく「一着」とした。着た切り雀の話ではない。新しい洗濯表示がわかりにくいため、一着にすれば混乱はないという提言である。結局、服の話ではなく、洗濯の話になってしまった。

『ダジャレ四字熟語集』
生命保険会社が毎年創作四字熟語を募集している。パロディやダジャレは元の熟語を知っているからこそ笑える。所詮、たわいもない言葉遊びであるが、漢字だけに、発音の一致だけでなく見た目も重要。以心伝心は「異心電信」、経済社会が「軽財斜壊」という具合。だが、一作だけ応募するのとは違って、そう簡単に本一冊分創作できるはずもなく、現在「サ行」で苦闘中。

『やっぱり「やっぱり」ではない』
あまり知られていないが、『偽書百選』なる本が文藝春秋から出ている。著者は垣芝折多(おそらく仮名)。所収されている偽書に『もはや「もはや」ではない』がある。この題名がテンプレートとして優れているという。『今度こそ「今度こそ」ではない』、『きっと「きっと」ではない』、『つまり「つまり」ではない』など、まったく苦労せずに題名ができてしまう。

『架空人名大辞典』
『世界文学にみる架空地名大事典』(講談社)からヒントを得た本である。架空だと思って人名をせっせと収録したのだが、ほとんどが実名として存在していることを初稿段階で指摘され、企画が頓挫している。

『モノガタリスギテ』
飽和の時代をテーマにした「モノが足り過ぎて」という物語。全文カタカナ表記が奇抜だが、「カタカナ・漢字照合表」を別冊付録にして読みづらさを緩和した。しかし、それなら最初から漢字仮名混じりでよかったのではないか。出版取次が嫌う本である。

AIに負けない生き方』
人間の仕事が人工知能に脅かされている。勝てないまでも、負けないためのハウツーを網羅したのが本書。第1章「アルゴリズムvsアドリブ」、第2章「ディープラーニングvs軽めの学習」など、人間らしい対抗策を説く。決め手はあとがきだ。「本書通りに実践しても負ける時があります。しかし諦めてはいけません。いざとなればAI搭載機器の電源を切ればいいのです」。