「またご謙遜を……」

まったく個人的な感想を書く。

大上段からの物言いはなるべく避けるほうがいい。しかし、控えめにものを言われるよりはよほどましだと思っている。過剰にへりくだられると対応に困る。その「へりくだり分」を引き算しなければならないからだ。はっきり言ってもらうほうが足し算だけで済むのでありがたい。

婉曲はおしとやかである。棘がなく、穏やかである。露骨は下品だが、抑制には品がある。しかし、相手の遠回しな表現の真意を探らねばならないのは面倒この上ない。会話の核心よりも、余計なことに神経を遣わねばならない。


「私などまだまだ若輩でして……云々」と誰かが言う。若輩などとは十中八九思っていない。そのことが見え見えなのだから、へりくだり効果がない。仮に「若輩者でして」などと謙遜されても、「またご謙遜を」などと返すことはもうしないことに決めた。「そうですか」とことば通り受け止めてスルーする。真に受けられて困るなら、若輩などと言わなければいい。

場にふさわしくないのに、やみくもにへりくだられたり丁寧語を連発されたりすると集中力が途切れる。そこまで低姿勢を取られるとやりとりが不自然になる。ホンネで意味明快に喋ろうとするこちらとの波長が合わなくなる。会話がスムーズに流れなくなるのは、ほとんどの場合、バカ丁寧ゆえだ。丁寧や謙遜は万能のマナーではない。それどころか、肝心の話を空洞化させかねないのである。

オタクと固有名詞

「趣味などに病的に凝って、ひとり楽しんでいる若者」。『新明解』ではオタクをこのように定義している。「病的に凝って」とはずいぶん思い切ったものだ。それに、必ずしも「ひとり楽しむ」わけでもないだろうし、「若者」だけに限定もしづらい。ちなみに、ぼくの知るオタクには、趣味が深掘りされるのとは対照的に、それ以外の物事の知識の薄さが目立つ。

なお、同じ辞書によると、固有名詞は「そのものを、比較的狭い社会(領域・範囲)に在る他の同類と区別する必要が有る場合に、そのものにつける名前」とある。つまり、居酒屋で二人の熟年が飲んでいるが、一方を他方から区別する時に、ハイボールを飲んでいるのは松田洋介ではなく吉岡辰夫であると姓名を告げる。その時のシルシが固有名詞というわけだ。その対義語は普通名詞。

こんな書名の固有名詞満載の事典がある。

オタクと固有名詞にどんな関係があるのか。オタクはおおむね普通名詞で趣味について語り合うことはない。彼らの会話では固有名詞が縦横無尽に飛び交う。人名であれ地名であれ書名であれ、実名がポンポン出てくる。長いカタカナの名称でも滑舌よろしく言ってのける。ぼくに言わせれば、オタクとは「固有名詞を頻繁かつ精細に語れる人々」なのである。自分が嵌まっている趣味に関わる名詞を「あれ、それ、これ」などと言わないし、「あのう……」などと口ごもりもしない。


関東に出張した際のこと。朝食のビュッフェ会場で席についた。隣りのテーブルには二十代後半らしき男性二人が座っていた。ぼくが座ってからずっと、そしておそらく座るだいぶ前から、彼らはサッカー談義にのめり込んでいた。話の中身は欧州サッカー。しかし、クロアチア以北・以東の東欧のサッカーという、すこぶるニッチな話なのである。談義と書いたが、話しているのは一方で、相方はうなずいて時々口をはさむ程度だ。

機関銃トークの男性は何十人もの選手の名前をフルネームで語り、合間に移籍金の金額やチームの名前を口にする。代表チームではなく、クラブチームの名である。選手の名前を語る口調はまるで古舘伊知郎、その高速再生ぶりに驚嘆した。これぞオタクの真骨頂。何とかビッチ、何とかスキー、何とかロフ……。滞ることなく固有名詞が連射される会話は、興味があってわかる相手にはたまらないだろう。相方の男の反応を見ていれば、この彼も評論こそしなかったが、かなりのレベルの聞き手に違いない。

欧州の地名や歴史上の人物や料理の名称をぼくが固有名詞で語ったり書いたりすれば、親しいM氏は驚かれる。「ぼくはカタカナが苦手でとても覚えられない」とおっしゃる。ブラジルサッカーに詳しいそのМ氏と会食した時にたまたまサッカー談義になったことがある。日本代表の話にはほとんど反応しなかったМ氏が、ブラジルサッカーになると、固有名詞が出るわ出るわ。あのビュッフェの男性にひけをとらなかった。オタクの固有名詞の記憶再生力は侮れない。

使えるリテラシーへの道

「ちゃんとできそうかね?」
「ええ、大丈夫です」
「オーケー、頼んだよ」

上司と部下のこの短いやりとりの内にリテラシーとコミュニケーションに対する甘さが凝縮している。

読み書きと言えば済むのだろうが、ここは敢えてリテラシーだ。読む・書く・聴く・話すという言語の技能は周知の通り。しかし、狭義のリテラシーは主として読み書きに絞られる。本や資料に書かれた内容を読み解き、重要なポイントを抽出し、書く行為によって活用するスキルである。広義では、言語と知識・情報の運用能力全般を含む。古くは、読み書きに算盤が付随した。今では、その役割をコンピュータやその他のIT機器が担っている。

聴き話すについてはどう考えればよいか。これら日常おこなっている言語スキルの実践によって音声面の瞬発力は発揮される。残念なことに音声は消えるから、思考力とコミュニケーション効果には多くを望めない。日常会話レベルの聴く・話す行為はその場限りで終わり、リテラシーの高みに到らない可能性がある。


会話を主題の明確な対話へとシフトすれば、リテラシーはある程度強化できる。しかし、論理や表現技術を内蔵させるには読み書きが欠かせないのである。現在の自分のリテラシー能力の振幅を一回りも二回りも広げようとするなら、じっくりと読書とノートに取り組まねばならない。これは職業的文筆業に限った話ではない。

習い事の初段から四段への昇段のきつさは、4級から1級への昇級の比ではない。能力が成熟するにつれてレベルアップが難しくなるのは必然。歳相応の思考力とコミュニケーションを一体化させるには、さらに難解な本を背伸びしながら精読し、精度の高い文章を書いてみる必要がある。大事なことは、負荷のかかる読み書きを習慣化すること。負荷をかけないかぎりステージは上がらない。

読むことと書くことの関係について最後に触れておきたい。どんなに読みこなせるようになっても、思うように書けるようにはなれないものだ。しかし、思うように書けるようになれば、確実に読解力も高まってくる。「書くは読むなり」だ。思考力、論理力、説明力、表現力の核は書くことに尽きる。書くことを主として読むことを従とするのがリテラシーの王道なのである。

冬陽獨言

冬陽獨言ふゆびどくげん」。こんな四字熟語はないが、今日の昼下がりにはぴったりだ。南から射す光が窓越しに熱に変わる。今にも陽炎がゆらゆらと立ち上がりそうな気配。暖房を切る。脳裏をよぎっては消える内言語ないげんごを搦め取って獨言にしてみた。

あの日の古めかしい喫茶店。珈琲が出てくるのがやや遅く、時間は間延びしていた。自分で淹れた今日の珈琲はすぐに出来上がった。やや早過ぎた。時間の加減は珈琲の香りと味覚に作用する。

時間の流れに身を委ねてぼんやりするくらいではアンニュイには浸れない。けだるいとか退屈だと言うのはたやすいが、極上の倦怠感に包まれるには相応の努力が必要なのだ。

今日の最高気温は一月下旬並みらしいが、ガラス越しに冬陽を受けていると、まだ晩秋が粘っているような錯覚に陥る。いや、錯覚などと言うのはおかしい。晩秋だの初冬だのと人が勝手に分節して表現しているだけの話ではないか。

空澄みわたり
季節は深まる。
色づいた葉は
微風になびき、
枯れ尽きては
やがて落ちる。
落ちたところが
遊歩道プロムナードになる。
冬空は誰かの
移ろう心のよう。
窓外の冷気は
冬陽に溶ける。

(岡野勝志作)

ストレスの取り扱い

トレスが溜まった……疲れた……そうぼやいては栄養ドリンクやマッサージのお世話になる……周囲にそんな知り合いが何人かいるが、ストレスがどんなものかよくわかっていないから、ほとんど効果がない。ストレスにあらがうかストレスをバネにするかはさておき、他力でストレスを軽減しようとしているかぎり、自力で抵抗する力も順応する力も身につかない。

グリーンセンターで売り捌かれていたペペロミア。処分品で80円。不憫に思い買って帰り、すりガラス越しの西向きの出窓で育てていたら、5倍ほどの大きさまで生長し、枝分かれして葉もずいぶんつけるようになっていた。

床に落下して、左半分が欠損したペペロミア。

先日、なまくらに左手の手のひらに鉢を移した瞬間、滑り落ちて部屋の床に落下させてしまった。運悪く、鉢が逆さまになって落ちたので、ペペロミアは34割がた茎が折れ葉がちぎれた。土の半分は床に飛び散った。丁寧に拾い上げ、土を足して養生し、力を失った茎には支柱をあてがった。

元気な時の半分程度のボリュームになってしまったが、一番明るい場所に置いて水をやり、再生を願って約一週間。するとどうだろう、光の射す方向に茎と葉を向け始め、気を漲らせようとする兆しが感じられた。ストレスがバネになる様子を目の当たりにした思いである。


ストレスを解消・発散するものだととらえると、抗うという姿勢になり、それだけで余計に負担を感じてしまうことがある。現代人のほとんどがストレスを感じる時代だ。仕事のストレス、人間関係のストレス、家計のストレスが3大ストレスだと言われる。たいていストレスと闘おうとする。しかし、闘って消えたためしはない。

ペペロミアを見て、ストレスと闘ってはいけない、ストレスに順応するか、いっそのことストレスを力に変えるのがいいと確信した。日常、ストレスゆえにできていることが多々ある。たとえば明日までにやらねばならないというプレッシャーはストレスだが、それが仕事の後押しをしてくれる。根性の話などではない。人間の生物的な反応がそうさせるのだ。

今朝のニュースでノーベル賞授賞式後の晩餐会の様子が伝えられていた。ほとんどの出席者はセレブだろう。その人たちに割り当てられたテーブル上で許される動きの幅はなんと60センチ。隣席の人の腕や肘と接するような状態で、大柄の人もみんな脇を絞ってナイフとフォークを操っている。あの場の緊張に加えて、かなりのストレスを感じているはず。しかし、それが前菜、主菜、デザート、ワインの味を引き立てている可能性がある。

パリのシャルティエという老舗の大衆食堂でそれに近い経験をしたことがある。並の値段の並の前菜とステーキをすこぶるおいしく食べたのが印象に残っている。ストレスは逆縁を順縁に変える力を授けてくれる。決して抗ったり闘ったり、弱音を吐いたりしてはいけないのである。

2018年の年賀状


変わらぬ事業テーマは「コンセプトとコミュニケーション」。見えざるものを言葉にし、形にするのを使命としている。

発想の源やきっかけはいつの時代になっても書物だと考える。
検索すれば誰もが情報にアクセスできるウェブと違い、書物は透徹の選択眼を求める。差異化とは少数派に属すこと。ゆえに、紙の書籍を読まねばならない。

出版界が厳しい状況に置かれて久しい。ベストセラーとされる十万部超えは年に三百冊程度、発行点数全体の〇・三八パーセントにすぎない。読書人口を一億人とすれば、ベストセラーとは千人のうちわずか一人が読む本。ある意味で希少本なのである。

ほとんどの本は売れない、読まれない。企画されたものの世に出ない原稿も数え切れず。〈架空図書館〉にはおびただしい蔵書が眠る。売れない、世に出ない本には題名や主題の問題があり、著者の動機も独りよがりで、読者層の想定間違いも多い。


『あるもの、ないです』
クラフト・エヴィング商會が著した『ないもの、あります』(ちくま文庫)という渋い本がある。「思う壺」や「転ばぬ先の杖」や「一本槍」など、実在しないものが並ぶ。ないものなのにまるであるような錯覚に陥りそうになる。この本にヒントを得て『あるもの、ないです』を構想した人がいる。しかし、あるものがないのは単に商品の在庫切れのことだと気付いた。今のところ原稿はまだ一枚も書かれていないらしい。

そぞろ働きのすゝめ』
スローライフやスローフードがあるのだから、スローワークがあってもいい。スローウォークの「そぞろ歩き」に倣えば、スローワークはさしずめ「そぞろ働き」だ。ありえないテーマではない。ところが、大半の富裕層や気楽なフリーターはすでにそのように働いているし、少なからぬサラリーマンも日々そぞろ働きを実践している。本書はサボリを奨励することになりはしないかと懸念され、出版が見送られている。

『あなたは犬ではない』
漱石の『吾輩は猫である』の主題と二項対立関係になる小説。著者は漱石の名作が”I Am a Cat”と訳され、原題の吾輩のニュアンスが出ていないことに失望した。将来英語の出版を視野に入れ、自作を訳しやすい表現にすべきだと考え、『あなたは犬ではない』というベタな題名にした。たしかに”You Are Not a Dog”と自動翻訳は完璧である。

『続・花火』
出版界にもパクリや便乗商法がある。本書はミリオンセラーの『火花』にあやかり、しかも「続」をかぶせた。ベストセラーのにわか読者が勝手に続編だと勘違いしそうだ。夏の風物詩をテーマに小説を書くには一工夫必要だが、日本各地の花火大会の写真集なら編めなくもない。万が一売れたら、『続・花火』の後に『花火』が出ることになる。

『私は一着しか服を持たない』
パリの暮らしの知恵から生まれた『フランス人は10着しか服を持たない』という本が話題になったが、10着は多いほうだから「10着しか」という表現はおかしいとケチがついた。そこで、本書は思い切りよく「一着」とした。着た切り雀の話ではない。新しい洗濯表示がわかりにくいため、一着にすれば混乱はないという提言である。結局、服の話ではなく、洗濯の話になってしまった。

『ダジャレ四字熟語集』
生命保険会社が毎年創作四字熟語を募集している。パロディやダジャレは元の熟語を知っているからこそ笑える。所詮、たわいもない言葉遊びであるが、漢字だけに、発音の一致だけでなく見た目も重要。以心伝心は「異心電信」、経済社会が「軽財斜壊」という具合。だが、一作だけ応募するのとは違って、そう簡単に本一冊分創作できるはずもなく、現在「サ行」で苦闘中。

『やっぱり「やっぱり」ではない』
あまり知られていないが、『偽書百選』なる本が文藝春秋から出ている。著者は垣芝折多(おそらく仮名)。所収されている偽書に『もはや「もはや」ではない』がある。この題名がテンプレートとして優れているという。『今度こそ「今度こそ」ではない』、『きっと「きっと」ではない』、『つまり「つまり」ではない』など、まったく苦労せずに題名ができてしまう。

『架空人名大辞典』
『世界文学にみる架空地名大事典』(講談社)からヒントを得た本である。架空だと思って人名をせっせと収録したのだが、ほとんどが実名として存在していることを初稿段階で指摘され、企画が頓挫している。

『モノガタリスギテ』
飽和の時代をテーマにした「モノが足り過ぎて」という物語。全文カタカナ表記が奇抜だが、「カタカナ・漢字照合表」を別冊付録にして読みづらさを緩和した。しかし、それなら最初から漢字仮名混じりでよかったのではないか。出版取次が嫌う本である。

AIに負けない生き方』
人間の仕事が人工知能に脅かされている。勝てないまでも、負けないためのハウツーを網羅したのが本書。第1章「アルゴリズムvsアドリブ」、第2章「ディープラーニングvs軽めの学習」など、人間らしい対抗策を説く。決め手はあとがきだ。「本書通りに実践しても負ける時があります。しかし諦めてはいけません。いざとなればAI搭載機器の電源を切ればいいのです」。

男の作法「知性」

池波正太郎『男の作法』の書評、最後は知性と生き方のことをアラカルト風に。

本とメモ  企画術や仕事術の話をした後に、受講生から読書の方法についてよく聞かれる。義務教育で教えられていないから、いい歳になって他人に聞く。「好きなものを好きなだけ読んで自分流の読書をすればいい」と伝える。そっけない返事だが、それ以上でもそれ以下でもない。読むべき本を推薦するなどもってのほかである。

「本を読むのは千差万別ですよ。あらゆるものを読んでますよ。(……)本をたくさん読んでいくうちにね、おのずから読みかたというものが会得できるんですよ。」

この通りであり、これしかない。ぼくの経験から言うと、十代・二十代のある時期に二、三年間手当り次第に数百冊を読めばだいたいわかってくる。やがて趣味や仕事が明確に絞られるようになると、何をどう読むべきかがおのずから見えてくる。読書の質を云々する前に、かなりの冊数を読破せねばならない。中年には手遅れで申し訳ない処方箋だが……。

メモについてはさほど熱心ではなく怠け者だと池波は言うが、やったほうがいいと勧める。メモやノートの類いは単なる備忘録ではなく、文字を連ねることによる知の劣化防止だ。覚えようとしなくても、自ら書いた文章を読み返せば記憶が再生される。最近ぼくは覚えることよりも、覚えたことを思い出すことに意義を見出すようになった。「愛読書は?」と聞かれたら、躊躇せずに「ぼくの書いたノートやブログ」と答える。

小道具  若い頃から万年筆に憧れていた。大した稼ぎもないのに、なけなしの金をはたいて買っていた。一本あれば十分なのに、店頭で見るたびに垂涎すいぜんの思いに駆られたものだ。それほど万年筆には愛着があるので常時使うようにしている。だから、次の考えに異論はない。

「万年筆だけは、いくら高級なものを持っていてもいい。(……)そりゃあ万年筆というのは、(……)男の武器だからねえ。(……)高い時計をしてるより、高い万年筆を持っているほうが、そりゃキリッとしますよ。」

時計と万年筆なら万年筆に決まっている。池波の言う「高級」は五万や十万やそれ以上の値段のことだから、誰にでも当てはまるものではない。数千円から十万円超の万年筆を各種持っているが、高級であることと書き味、握り具合、見た目は比例しない。インクや紙や、もっと言えば、字の巧拙も関係する。使わずに見せびらかすだけの高級な万年筆が武器になるはずもない。長年使い込み、しかもよく手入れをしている万年筆が値打ちを漂わせるのである。革の手帳にも同じことが言えると思う。

生き様  

「他人の休日に働き、他人が働いているときに休む……というのが、ぼくの流儀なんだ。」

ぼくがサラリーマンを辞めた理由の一つがこれだった。仕事の中に、ほんの少しでもいいからマイペースと自分流が欲しかった。生き様というのは個人が決めるもの。混雑や群れを避けて一人のプライムタイムを持つのは固有の生き様にとって必然である。

「他人に時間の上において迷惑をかけることは非常に恥ずべきことなんだ。(……)自分は何をやったっていい。だけど他人との接触においては一人の社会人としてふるまわなければならないわけだ。」

その通りである。約束は守るべし。半時間待たされるということは半時間失うことに等しい。不可抗力で約束を破らざるをえなくなったり遅刻したりしても言い訳をせず、詫びて謝るのが作法である。

「現代の若い人たちを見ていて感じることは、(……)プロセスによって自分を鍛えていこうとか、プロセスによって自分がいろんなもんを得ようということがない。」

またまた同意する。結果主義の時代、人はつまらなくなってしまった。プロセスが鍛錬の場でありゴールそのものであるケースは稀ではない。旅などはまさしくそれだろう。旅先よりも旅路そのものに意義がある。

「どんな仕事だって(……)努力だけじゃ駄目なんだ(……)一種のスポーツのように楽しむ。」

一所懸命は愉快だからできるわけであって、愉快のない仕事は長続きしない。仕事にコミットすること自体が楽しくなくてはいけない。ぼくの仕事はワークシェアとあまり縁がなく、たいていのことは自分に始まり自分で完結する。孤独であり厳しいが、自助自力でする仕事の楽しみは格別である。

さて、池波作法のあるものはアンチテーゼ、別のものはアマノジャクのように響くかもしれない。この本が書かれてから四十年以上経った今、無粋にして男気のない男どもがいっそう増えたからにほかならない。

男の作法―「身だしなみ」

池波正太郎『男の作法』。以前書いた書評から、前回の食に続いて、今日は身だしなみ。

「身だしなみとか、おしゃれというのは、男の場合、(……)自分のためにやるんだね。根本的には、自分の気分を引き締めるためですよ。(……)自分自身のために服装をととのえるということが大きな眼目なんだな。」

若い頃に教えられたのはズボンの折り目。学生時代からアイロンがけは自分でしていた。母親に頼んだことは一度もない。実際、ズボンのしわは今も気になる。最近のスーツのズボンはパーマネント加工されていてしわがつきにくく、あまり熱心に手入れしなくなった。

クールビズが定着して以来、男どもは5月から10月頃までネクタイをしなくなった。男ができるおしゃれは一番目につくネクタイくらいなのに、夏場のおしゃれ機会が失われた。それどころか、年中ノーネクタイで通す業界人やサラリーマンも少なくない。それが個人や企業の主義なら徹底すればいいのに、冠婚葬祭になるとネクタイを着用する。中途半端な主義だ。冠婚葬祭の作法とコードが気になるなら、得意先の作法とコードにも従うべきだが、仕事になると自分のコードで押し通す。世の中にはノーネクタイをだらしないと考える硬派な経営者もいるのだから、気遣う必要がある。

「自分の締めるネクタイを他人まかせにしてるような男じゃだめですよ。」

ぼくは古くなったネクタイを頃合いを見て処分するが、スーツの色に合いそうなものは解体してポケットチーフにしている。それでも常時数十本吊るしてある。ほぼすべて自分で選び買ったものだ。一本3,000~5,000円がほとんど。それ以上払っても質はさほど変わらないことを経験的に学んだ。高級ネクタイの値段の70パーセントはブランド代なのだから。

一本2、3万もするようなネクタイを飲み屋でもらったことはあるが、一度も着用したことがない。誰かにあげた。ネクタイはスーツに合わせて買うもので、ネクタイ単体だけで色がいい、柄がいいなどと言えるものではない。第一、好みというものは他人にはなかなかわからない。

「色の感覚というのを磨いていかなければならない。絵心とまでいかないまでもね。(……)自分に合う基調の色というのを一つ決めなきゃいけない。」

付け加えると、二色でカラーコーディネートしていれば、センスはさておき、一応落ち着いて見える。池波は「ネクタイ、ベルト、靴」の色系統を合わせろとうるさい。この縦三点の色の系統が合ってさえいれば、スーツは薄いベージュや紺やチャコールグレーでもいいと言う。もっとも男の靴とベルトは茶か黒と相場が決まっているから、神経質になるとネクタイも茶か黒になってしまう。正しく言えば、茶系統とその他(紺系統やグレー系統)という感覚である。

「スーツでもっともむずかしいのはストライプなんだ。」

恰幅のよくない日本人にストライプのスーツは向かない、どうしても着たいなら、縞のシャツに縞のネクタイだけは避けろと言う。ストライプのスーツならシャツは無地。ネクタイも無地がよく、せいぜい曲線の地味な柄になる。ストライプもそうだが、チェック柄もこなしにくい。シャツは白で決まりだが、合わせるネクタイが悩ましい。

普段着は難しい。普段着のTPOが多様だからだ。いつ頃からか、洋服に迷ったらスーツを着ることにした。普段着よりもスーツのほうがわかりやすい。スーツがまずまず着こなせればシニアの身だしなみとしては一応合格ではないか。

男の作法―「食」

時代劇を好まないので小説は読んだことがない。作家としてではなく、玄人はだしの画人のほうに関心があった。だから、自筆の挿絵入りエッセイはだいたい読んでいる。先日のこと。雑談の中で作法の話が出た。流れで男の作法にも展開した。「いい本がある」と勧めた直後にふと思い出した。「そうそう、以前まとめた書評があるので、まずそれを読んでみたら」とプリントした。自分でももう一度読み返してみた。

池波正太郎の『男の作法』がそれ。インタビューに応じた語り下ろしで、十年前まで愛読書の一冊だった。何しろ池波正太郎(1923~1990)である。彼の生きた時代の男の作法である。「男というものが、どのように生きて行くかという問題は、結局、その人が生きている時代そのものと切っても切れないかかわりを持っています」と池波は語る。それでもなお、心しておいていい作法がないわけではない。歳相応の「いき」のヒントが見つかるかもしれない。

そば、てんぷら、鮨など食の薀蓄が切れ味よく披露される。

 「そばは二口、三口かんでからのどに入れるのが一番うまい。唐辛子はそばそのものの上に振っておく。」

日本全国にそば処がある。山形の箱そばを食べる際には、ワサビをそばに塗りつけて、つゆにつけずに二、三口食べるのがいいと言われた。そもそもうまいそばはアルデンテだ。そして、噛み過ぎてはまずくなる。中部・関東以北のつゆは濃いからつけ過ぎない、関西では淡泊だからたっぷりつけてもいい。

「てんぷら屋に行くときは腹をすかして行って、親の敵にでも会ったように揚げるそばからかぶりつくようにして食べなきゃ。」

強く同意する。てんぷら屋に数人で行って打ち合わせするなどはもってのほかだ。会合には向かない。彼女と二人で行っても話などせず、黙々と揚げたてを食べるべし。

酒やビールを飲みながらてんぷらをつまむのもよくない。お通しを前菜にして酒かビールを先に済ませる。その後はてんぷらに集中するのがいい。食べたらさっと店を後にする。最近はデザートを出す店がちらほらあるが、そんなものはいらない。

鮨屋の作法は何歳になっても難しい。行きつけの店ならいいが、一見だと店の仕切り方と値段が気になる。テーブル席のある店はさほど値が張らない。常連はカウンターに座るから、そういう店ではテーブル席について、 「おつまみ少しとビール。その後に一人前お願いします」と注文すればいいと池波は言う。銀座あたりだと、それでも1万円超になるかもしれないが、それが気に入らないなら銀座に行かなければいいだけの話。

なお、格のある寿司屋は「通ぶる客」を喜ばない。醤油のことをムラサキ、お茶のことをアガリなどと、鮨屋仲間の隠語を客が使うことに異議ありと池波は言う。客が「お茶ください」と言い、店主が「はい、アガリ一丁」が自然である。本来店側のことばである「おあいそ」をぼくは言わない。「お勘定してください」である。