ホモ・エレクトゥス

昨日も今日もそれぞれ約5キロメートル二足歩行した。週末には一日10キロメートル近く歩く。ホモ・エレクトゥスならではの行動である。明日もホモ・サピエンス的な仕事のためにホモ・エレクトゥスを生きることになる。

原人はある日突然二足歩行したわけではないだろう。昨日まで四つん這いだったが、今日突然立ち上がる赤ん坊は稀にいるが、かつての原人が突然一斉に二足で歩き始めたとは想像しづらい。おそらく時間をかけて遺伝子と行動習慣によって二足歩行を実現し子々孫々にリレーしてきたはずである。原人とぼくたちが直接繋がっているかどうかは知らない。ともあれ、人類は歩くことを選択して、それを第二の天性にした。

歩けば車や列車では体感できないものに触れることができる。車や列車もゆっくり走らせば歩行に近い視野が得られる。しかし、つねに視覚の内にとどまる。足底が地面に接地してはじめて体感できることがあり、それが見えるものと一体になる。歩かないとわからないことがいろいろあるのだ。


オフィスや書斎に閉じこもっても、おいそれとアイデアは出てこない。むしろ街中や公園の木立の中や川岸沿いに散策するほうがかなりひらめきやすい。散歩好きだった偉人たちは口を揃えてそう言ったり実践したりしていた。カントしかり、西田幾太郎しかり、アインシュタインしかり。

とは言え、散歩をアイデアのための手段にしてしまっては精神が卑しくなる。散歩前に散歩の目的があってはならない。散歩後に散歩のおまけが勝手に生まれる。おまけとしてアイデアが生まれることもあるし、印象的な写真が手元に残ることもあるし、雑念が取り払われてすっきりすることもある。金品を拾うというおまけの体験が一度もないのは、確率の低さを物語っている。つまり、そこらじゅうに落ちてはいないのだ。

散歩しない人生は機会損失である。せっかく二足歩行ができるのであるから、それを一つの特権と見なしたい。齢を重ねていけばそれもままならない時が来るだろうが、歩けるうちは歩くに限る。二足方向と道すがらのファンタジーを放棄する理由が見当たらない。ところで、自宅から300メートルの所にあるコンビニに車で行く知人がいるが、ぼくは彼をホモ・エレクトゥスとして認知していない。