短文 vs 長文

ああ、短絡的な時代。思いつきのつぶやきと罵倒で世界が動いているかのようである。情報技術の発達が意思疎通を分断する壁を作るという皮肉。もう二年になるだろうか、ケリー元米国国務長官がABCテレビのインタビューで「政策の選択上の複雑さをツイッター140文字で伝えることなど不可能」というような趣旨を語った。

ツイッターを批判したのではない。ツイッターを都合よく使う政治家への辛口評だった。つぶやき140文字が効果的なメッセージとそうでないメッセージがある。根拠なき主張が誇張された過激な表現で垂れ流されてはたまらない。政治や思想を語るのに短文はふさわしくないのである。

本文なしのキャッチコピーだけの時代になった。読まれないのには別の理由があるのに、長文だから読まれないと判断する。「文章は長文ではなく短文で書け」とまことしやかに語られる。もちろん根拠はない。短文だから読まれるのではない。仮にそうだとしても、短文だから伝わるということにはならない。

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書店で新刊書のフライヤーが置いてあったので持ち帰った。四つ折りの表裏。かなり小さな文字で印刷されている。ざっと見たところ、文字数は3,000を下らないようだ。読まない人も大勢いるだろう。出版社は誰にでも手に取って読んでもらえるなどと想定していない。ぼくは読んだ。文章の長短やボリュームは関係ない。そこに何が書かれているかである。関心があれば読むし、なければ読まない。ただそれだけのことだ。数行にしても読まない人は読まないのである。

『啓蒙の弁証法――哲学的な断章』(ホツクハイマー、アドルノ共著)という難解な本がある。上っ面しか読めていない。この本の段落感覚パラグラフセンスは尋常ではない。息が長いのだ。文庫本の見開き2ページは原稿用紙3枚(1,200字)に相当するが、このような段落は短いほうで、6ページくらい改行なしで文が続くこともある。論理が通らなければ一段落2,000字以上で書くことなど到底できない。

今この時点で本ブログの文章量が850字を超えた。ツイッターの6倍量である。現在の常識からすれば読んでもらえない長さである。他方、脈絡を考慮することなく一行か二行ごとに改行するハウツー本もある。読みやすい、つまり、読みごたえがなく、確たる筋も通らない、ふにゃふにゃの文章の羅列……。

文章は単純に長短で是非を語れない。短く書けるはずなのに長々と紙数を費やすのはよろしくない。簡潔にシンプルに書けるならそうすべきである。同時に、誤解なく伝えるには主張や根拠も必要で、そのために1,0002,000字を要するのなら、さわりだけを140文字内に閉じ込めて知らん顔してはいけない。

今日のブログは約1,200字になりそうである。これだけの文字が必要な内容であったかどうかは読者に決めてもらうしかない。自分なりには簡潔に書いたつもりである。