語句の断章(25) 言行一致

言行一致げんこういっち」によく似た熟語に「知行合一ちこうごういつ」がある。これは陽明学の学説の一つで、文字通り「知識と行為が一つになること」を意味している。知ることとおこなうことを並べてみたら、頭でっかちで、おこないはたいてい劣勢だ。

言行に関しても同様で、発言と行動はめったに一致することはない。言うだけ言って行動が伴わなければ、「あなたは口ばっかり」などと皮肉られる。

かと言って、自分の発したことばと矛盾することなく、何から何までことば通りに行動しようと思えば、几帳面さで神経がまいってしまいかねない。精神衛生的には、言はいつもおこないよりも水増し気味であるのがよさそうだ。

言行一致は理想であって、なかなか実現しそうにない。それが証拠に、完璧な実践者に出合うことなどめったにないではないか。しかし、一致が容易に達成できないにせよ、真実まことのことばは語れるし、おこないに誠意と気持ちを込めることもできない話ではないだろう。

孔子は「言忠信にしておこな篤敬とっけい」と言行一致の人情の厚さ・慎み深さという理想像を掲げた。なかなかハードルが高いが、ぼくたち凡人は焦らず慌てず一歩ずつでいいと思う。「言うはやすく行なうはかたし」を肝に銘じて、軽はずみな思いつきで喋るのを戒める。まずは「まことのことば」を語らせるよう舌をよくしつけねばならない。

語句の断章(24) 言い訳

「母がニワトリに襲われた」、「ボウリングの玉から指が抜けなくなった」……。

数年前、アメリカのウェブサイトがアンケートを取ったら、このようなずる休みの言い訳が判明したらしい。仮病を装うのは日常茶飯事だが、ニワトリやボウリングは新しいネタ。よくもこんな見え見えの言い訳をしたものだ。こうなると、言い訳と嘘の境目が見分けにくくなる。

言い訳は口実であり言い逃れであり弁解である。英語の“excuse”をラテン語の起源にまで遡ると、「罪を解除する」という意味だった。つまり、言い訳をする時点で本人に罪の意識があるということにほかならない。

サラリーマン時代の同僚に、お通夜と葬式を口実に休む男がいた。ぼくの在籍中に親族がほぼ全滅したはずである。最初の頃は、えらく叔父さんや伯母さんの多い奴だなと思っていたが、やがてでっち上げだということに気がついた。言い訳しようとする魂胆が嘘を生む。

「言い分ける」という動詞があって、これ自体は道理をつまびらかにする弁別であり説明である。ところが、表記が「言い訳」に転じてからはカモフラージュの意味合いが強くなった。人の言動にミステイクはつきものである。また、人は疲れるものである。土・日に休んでおきながら月曜日も休んでしまうと罪悪感にさいなまれる。そこで仮病を演じるかフィクションを仕立てることになる。

上司には「連休の翌日にまだ疲れが残っているのは情けないことです。どうか一日お休みを下さい」と正直に告げればいいのである。言い訳に潔さはない。たいていの場合、墓穴を掘ることになる。

語句の断章(23) 相互参照

クロスリファレンス(cross-reference)は〈相互参照そうごさんしょう〉と訳されて今に到る。この術語に大きな不満はないが、他に適訳の表現がありえたかもしれないと思う。ともあれ、相互参照とは、同一書類や一冊の書物内でAという用語からBという用語を引き、二つの用語を比べる機能を指す。

英語の″refer to ~"は「~に言及する、~を参照する」という意味だが、これに“cross”をつけることによってABの類似性・関係性を表現している。相互参照とは言うものの、必ずしも「タスキがけの相互」になっているものばかりではない。

ハイパーテキストもこの構造を特徴としている。だが、無限連鎖のような参照になりかねない。上記にも書いたが、本来は「閉じたテキスト内の参照」である。しかも「同一の」という点に意味がある。同一テキスト内を「同一脳内」に置き換えてみよう。そこで働く相互参照が〈ひらめき〉と言えるかもしれない。引き出す力でもある。

すでに知っているわずかな情報を手掛かりにして知らない情報に到ることを〈検索〉という。これがハイパーテキストの高頻度な使われ方である。

この逆の相互参照を重視してみたい。つまり、いま知ったばかりの新しい情報からすでに知っている情報を引き出して関連づけるのである。頭に入っている事柄を引き出す。知らないことは見つからない。ゆえに、記憶第一。次に、いま出合った情報をいろいろと言い換えて記憶の中の辞書を引くのが第二。知らないことは浮かばないが、記憶されている事柄なら浮かぶ可能性がある。

語句の断章(22) 欲張る

人は何でも欲張るが、現代人がむさぼる最たるものは情報である。手に入れるくせに手に負えない。それを承知のうえで情報を欲しがる。欲しがるが消化がままならない。まるで胃袋がギブアップしているのに焼肉食べ放題に耽溺するかのよう。

焼肉食べ放題には時間制限があるが、情報取り放題にリミットはない。それが逆に怖い。それゆえ、情報の取捨選択にはつねに細心の注意を払っておかねばならない。時間にも量にも制限を設け、取り込んだ情報にフィルターをかけてどんどん引き算して捨てることを忘れてはいけない。

しかし、情報を他者へ伝達する段になると、引き算がうまく機能せず、ややもすると足し算になってしまう。伝達情報をうまく絞り切れないのだ。与えられた時間では収まらないほどの、他者の受容と理解を優に超えるボリュームを欲張ってしまうのである。

仮に情報のインプット時に自己抑制が働いたとしても、アウトプット時には容易に情報がオーバーフローしてしまう。

料理をふるまうのに似て、少し多めであることに悲観することはない。ただ、情報提供のおもてなしやサービスの行き過ぎは慎むべきだ。誰もが日々嫌と言うほど情報を詰め込まれている昨今、情報の満願会席は必ずしも歓待にならないからである。

語句の断章(21) 会話・時間・金銭

一瞥するだけでは、会話・時間・金銭は異なる概念のように思われる。ところが、社会的規則性を求めるとき、これら三つの概念はかなりよく似てくる。どんなふうに似てくるかと言うと、いずれにおいても規則性を守らない人はルーズだと罵られて信頼を失う点である。

会話、時間、金銭は人間どうしの接点で機能する。もっともわかりやすい接点がコミュニケーションだ。他人に対して、ことばをバカ丁寧に使っても粗末に使っても接点が噛み合わない。両者がうまく接合する絶妙の調子というものがある。会話のリズムは人間関係性に欠かせない。

次に時間である。よく「自分だけの時間」という言い方をするが、それは一人でいるということにほかならない。そのとき、自宅にいてもカフェにいても時間に縛られることはないだろう。しかし、その時間から離れてある行為に向けてギアチェンジするとどうだろう、「ねばならない約束」に従わねばならなくなる。誰かや社会との約束事とは時間的規則である。時間とはある意味で社会における法なのである。

金銭にはコミュニケーションとよく似た「ギブ・アンド・テイク」があり、時間と同じように厳密な規則がある。不思議なことに、人と人の金銭授受の行為には振込・入金では見えない「通い合い」というものがある。

コミュニケーションにルーズ、時間にルーズ、金銭にルーズの三拍子が揃っている。しかも周囲からの信頼も失っている。にもかかわらず、そんな人間がある集団の輪の中心にいたり大勢の人たちの指導者として君臨したりしているのはなぜだろうか。理由は簡単である。取り巻く者たちも、三要素のいずれかを欠損しているからである。同病相哀れむように類は友を呼ぶ。

「責任者出てこい!」

おそらく関西圏出身の50歳以上でないと即座にわからないフレーズ、「責任者出てこい!」

これをギャグにしていた漫才師、人生幸朗が亡くなって37年になるという。若者が集まる飲み会で還暦前の男性が冗談まじりに「責任者出てこい!」と言ったところ、場がシーンとなったらしい。

あの芸風を漫才以外の語りで再現しようとしても、まずわかってもらえない。「何がおもしろいのか!?」と反応されたらそれまで。わかってもらおうと躍起になればなるほど場が凍る。ぼやきのネタには鮮度も欠かせない。

元祖ぼやき漫才である。人生幸朗は「まあ皆さん、聞いてください」でぼやきを始める。語りかけの口調はいたって静かだ。しかし、歌謡曲の歌詞に難癖をつけてぼやいているうちに、ボルテージが上がってくる。

伊東ゆかりが歌ってヒットした『小指の思い出』。「♪あなたが噛んだ 小指が痛い~」 小指は誰が噛んでも痛いわい! 

この後に「責任者出てこい!」となるわけだ。


並木路子の『リンゴの唄』などが流行したのは終戦の年。同時代人はもう85歳以上のはずである。幸朗がこの歌をネタにしていたのは半世紀も前なので、ターゲットは30代、40代あたりでちょうどよかった。うちの母もよく口ずさんでいたので覚えている。

並木路子の『リンゴの唄』。「♪リンゴは何にも言わないけれど リンゴの気持ちはよくわかる」 リンゴがもの言うか! リンゴがもの言うたら、果物屋のおっさん、うるそうてかなわん!」

すべてがこんな具合。そして、漫才の終わりがけに「責任者出てこい!」と怒鳴る。相方の生恵幸子が「出てきたらどないすんのん?」と聞く。幸朗は「謝ったらしまいや」と答える。おもしろいとくだらないが相半ばした、しかし異色の夫婦漫才だった。

幸朗はぼやきに先立って「浜の真砂は尽きるとも、世にぼやきの種は尽きまじ」と唱える。まったくその通りである。先日、NHKで歌手の水森かおりが『高遠さくら路』なる演歌を歌っているのを聞いた。

♪ほどいたひもなら 結べるけれど 切れたら元には戻らない

「切れたひもが元に戻ったら、ミスターマリックや!」

当たり前のようなことが、実は滑稽でシュールだったりする。不思議が日常茶飯事になれば、当然当たり前が気になってくる。ところで、ぼやきの対象を知らなければ、ぼやきに共感したり笑ったりできない。時代を反映するという点では、ぼやきは立派な時事批評である。

時代の最前線

言うまでもないが、未来はまだ来ていない。現在に続くのが未来ということになっているが、先回りして見ることはできない。すでに体験した過去の最前線に位置している現在ならある程度わかっている。しかし、一寸先はわからない。先端技術や流行の話をしているのではない。

今生きている老若男女のすべてが時代の最前線にいる。最前線にいて、見えない未来に直面している。その先に何があるかわからないから、不安に陥り落ち着かない。わからないゆえにワクワクすると言えるけれど、崖っぷちで見えないものに向き合っているのをイメージしてみればいい。決して楽天的になれるものではない。


だから、未来を見たい、知りたいという思いが募る。自力で見たり知ったりするには非力だから、誰かの空想や予想に頼りたくなる。誰かとは誰だ? 同時代人である。彼らもまた同じ時代の最前線にいる。空想や予想はぼくらと似たり寄ったりではないか。

誰もが過去を引き連れて現在に生きている。みんなが最前線にいて、未来を展望できる絶好の位置取りをしている。どんなふうに未来を展望できるのか? 結局、引き連れている過去と生きている現在を手掛かりにするしかないのである。

何々ファースト

「ファースト(first, 1st)」は最初や1番目を意味し、形容詞として使われることが多い。最初や1番目ならはっきりしていそうなものだが、美しいやおいしいなどの他の形容詞同様に、わかったようで実はよくわからない。

「レディーファースト(ladies first)」という表現が英国で生まれたその昔、対象になるレディーは今のレディーとはまったく違う待遇を受けていた。カナリアがサリン製造現場の捜索に使われたように、レディーは男にとって毒味役の存在だった。危なっかしいことを何でも最初に試させられたのである。

時代が移って現在、レディーファーストは(タテマエとしては)優先すべき存在としてリスペクトするという意味になり、リスクの大きそうな役割は男が受け持つようになった。だから、レディーに先に行かせたり先に食べさせたりする場面や状況をよくわきまえなくてはいけない。よくエレベーターにレディーを先に乗せる男がいるが、間違いである。エレベーターに乗る時は男が先。エレベーターはボートと同じで「危険な空間」と見なされる。降りる時は、危険地帯から安全地帯へ移動するからレディーファーストになる。


ところで、例の「都民ファースト」はいったい何だったのだろう。まさか都民を毒味役にしようとしたスローガンであるはずはなく、当然一番に考えて優先するということに違いない。それなら、わざわざ代弁してもらうまでもない。政治は国民、都道府県民、市町村民それぞれがファーストであることは自明だ。

つまり、「民主」というニュアンスにほかならない。過去様々な党名が生まれては消えたが、よく目を凝らして見れば、自由民主党にも立憲民主党にも民主が入っている。国民民主党などはくどいほどの念の入れようだ。

ファーストなどはあまり信用しないほうがいいのかもしれない。ファーストに対抗してオンリーワンも一時流行ったが、一見ランキング概念を外したようで、実は優位性を意識している。本質はさほどファーストと変わらない。ちなみに、もっとも適切で意味が明快だったファーストの用法は「四番、ファースト、王」である。

次は何?

草木の新陳代謝が目立つ季節になった。すっかり枯れていた鉢植えのツタが、待ってましたとばかりにこの一ヵ月の間に芽を吹き枝を伸ばした。いいことである。人も店もこうありたいものだ。

ところがである。人や店が複数になると、新陳代謝は古きものが新しきものに淘汰される競争状況をもたらす。企業の管理職やスポーツチームの選手の例を見ればわかる。新陳代謝を図れば、誰かが消え別の誰かが加わるのだ。

飲食店も同じ。新陳代謝が激しい地域では新規開店と店じまいが入り混じる。自宅からオフィスへの通勤路にチェーンのうどん屋がある。二、三度のれんをくぐったことがある。「きつねうどん」というのぼりが目立つ。かけうどん、天ぷらうどん、ぶっかけうどん、肉うどんもあるが、きつねうどんを強くアピールしている。

その隣りは喫茶店だった。大通りに面している割には人通りが少なく、人が大勢入っているのを見かけたことはない。それでも、数年間営業していた。よく頑張ったほうだ。閉店して二ヵ月あまり、リフォームが始まった。通り道なので、次はどんな店になるのか? と目配りだけはしていた。


表通りから見るかぎり、和風の構えになりそうな工事の進行。カジュアルな鮨屋か割烹か……いや串カツ屋という可能性もある……蕎麦屋だけはないだろうなどと、別に興味津々だったわけではないが、思い巡らしていた。先日、やっと看板が上がった。「肉うどん」の大きな文字。まさかの麺類の店だった。店名は小さく扱われ、かろうじて判読できる程度。うどん屋の隣りにうどん屋とは予想外だった。

繁華街の雑居ビルなら、スナックやラウンジが十数店テナントで入るのは珍しくない。しかし、ここは他に飲食店が多くないエリアだ。そこにうどん屋が並んで二軒。きつねうどん対肉うどん、いずれどちらかに軍配が上がるのだろうが、ずいぶん思い切った挑戦をした新店に勝算があるようには思えない。経験に裏付けられた直感ではあるが……。

ここから徒歩10分弱のオフィス近辺の飲食店の新陳代謝は目まぐるしい。オフィスを構えて30年ちょっと。当時から営業している店は二、三を数えるのみ。ここ数年に限っても半数は入れ替わったはずである。店じまいした飲食店の後にオープンするのは、これまた飲食店である。リフォーム工事を見るたびに「次は何?」と心中つぶやく今日この頃。成熟の時代は新陳代謝激しい時代だと痛切に思う。

早とちりから先入観へ

「人間のあらゆる過ちは、すべて焦りから来ている。周到さを早々に放棄し、もっともらしい事柄をもっともらしく仕立ててみせる性急な焦り」

フランツ・カフカのこの指摘は、様々な場面に当てはまる。焦りから結論を急げば、早とちりをしてしまう。早とちりは先入観として刷り込まれる。いったん刷り込まれてしまうと、判断を見直すチャンスを失う。

ずっと「神山」だと思っていた洋服店の看板。道すがら目に入ってくるが、わざわざ立ち止まって注視しなかった。なにしろ神山としてすっかり刷り込まれていたのだから。ある日、カラスを目で追ったついでにじっと見ることになった。なんと「山」だった。神山も袖山も珍しいが、僅差で神山がぼくの認識に先入しやすかったようである。

テレビの番組でオードリーの春日が芸人相手にやっていたのを思い出す。「りがとうございまし」の最初の「あ」と最後の「た」だけ残して、適当に間を別のことばに変える。「リゲーターいまし」と言おうが「バラ折れまし」と言おうが、相手は状況から早とちりして「ありがとうございました」と聞いてしまう。

NHK大河ドラマは『いだてん』。ビールのおつまみに買ったのは「いか天」。大河ドラマを見ていそうな人に聞いてみる。「NHKの日曜日の大河ドラマ、『いか天』見てる?」「ああ、見てますよ」。相当はっきり「いか天」と発音しても大丈夫。文脈や語の前後関係から早とちりする。ことばを一音ずつしっかりと聞いてなどいない。白紙状態で他人の話を傾聴しているのではなく、自分がなじんできたやり方で認識しているのである。いわゆる〈認知のバイアス〉。なお、ダジャレはこれとは違う。ダジャレは違いに気づいてもらわないと成り立たない。