知のスローエイジング

「四十にして惑わず」と孔子は言った。惑わないためにはぶれない考え方が必要。そのためには記憶力の減退、知の衰えに抗わなければならない。少なくとも遅らせたい。さて、どう対処するか?

➀  惑っていない振りをする。
➁  イチョウ葉エキスを飲む。
➂  読み・書きを習慣とする。

➀で凌げば多少なりとも気休めになるかもしれない。格下相手なら振りが通用することもある。ただ、抜本的処方になりそうもない。それどころか、知のアンチエイジングが手遅れになりかねない。

商売柄、サプリメント販売業者は当然➁を推す。なにしろイチョウは地球上で最も経験豊富な・・・・・植物なのである。たかだか数万年のキャリアしかないホモサピエンスに対して、イチョウは約25,000万年間、生き延びてきたのだ。

イチョウの葉のエキスには血管を広げる作用がある(らしい)。だから、動脈硬化を防ぐ(らしい)。血流が改善されると脳の毛細血管の血行がよくなる(らしい)から、認知症の改善に効果がある(らしい)。頭に血が流れたら記憶力が活発になり集中力も増す(らしい)。イチョウ葉はいいことづくめである(らしい)。もしこれらすべての「らしい」が確実であることが証明されれば、➁は絶対的に有力な対処法になる。


しかし、イチョウ葉エキスは定期購入すると毎月数千円、年に少なくとも56万円の出費になる。働き盛りの四十代ならともかく、仕事をしていないシニアにとっては家計の負担になる。そこで、➂という選択肢を真剣に検討することになる。

まず、買ったもののろくに読みもしていない手持ちの本を引っ張り出す。関心のあるテーマで、読みやすそうな本でいい。同じ本を何度も読み、気が向けば音読してみる。脳の血行がよくなり、記憶力も集中力も増す。慣れてくれば、読みながら傍線を引く。気になるページの欄外にメモを書き、少々面倒だが、ノートに転記すれば考えるきっかけにもなる。

ノートは数百円も出せばそこそこいいものが手に入る。そこに日々の気づきを書き込み、気まぐれに読み返せば個々のページに書いた情報どうしが相互に響き合い、気がつけば、考えることが常態になってくる。イチョウ葉と同じく「らしい」の域を出ない知のスローエイジング処方だが、イチョウ葉よりも財布にやさしいことは間違いない。

注意書き考

電車に乗り込む。ドアの内側を見ると、たいてい「注意」を促す文字やアイコンのシールが貼ってある。「閉まるドアにご注意ください」というアナウンスを耳にすることもある。これに先立って、「駆け込み乗車はおやめください!」という呼びかけをホームで聞いている。

どの地方の路線だったか忘れたが、電車のドアに「乗降車時には、戸袋に指を引き込まれないように注意してください」という、非常に丁寧に描写された注意喚起のステッカーを見た。この記述に動機づけされて、ついシミュレーションしたくなる者がいないともかぎらない。

社会の隅々に注意書き表示がおびただしい。音声バージョンも氾濫している。注意に加えて「どこどこ駅では何々線に乗りかえよ」や「次の駅では右側の扉が開く」などの説明もするからアナウンスが過剰になる。先日の特急。乗車した駅から次の停車駅までは約10分。最初の56分は間断なく注意と説明とお知らせが告げられた。日本語の他に英語、中国語、韓国語だから、アナウンスはますます長くなる。


オフィスのシュレッダーには「警告」のアイコンがあり、「稼働中は投入口付近に手を近づけないでください。用紙と一緒に手が投入口に引き込まれ、けがの原因になります」と書かれている。これもかなりリアルな描写だ。指先ではなく、いきなり「手」である。これは注意喚起のためと言うよりも、責任回避のための説明文と言うべきか。

自動車の安全運転を促す標語の代表格は「飲んだら乗るな! 乗るなら飲むな!」と「飛び出しに注意!」だろう。昨今、高齢の運転者の過失による悲惨な交通事故が後を絶たない。巻き込まれて亡くなるケースも少なくない。自動車事故の件数、電車やエレベーターやシュレッダーによる事故の比ではない。

車の運転手には「私は殺人装置に乗っている」と自覚させ、なおかつ車には「人を轢き殺すことがありますので、ご注意ください」というステッカーを大きく貼る。電車のドアにしていることを車にしない理由はない。と言ってはみても、健気に注意書きを読みアナウンスに耳をそばだてる人などほとんどいないと思われる。

長い名前に関する短いメモ

「文章は簡潔かつ短めに書け」などと言うが、何でもそういうわけにはいかない。理解のためにはある程度の長さもやむをえない。もちろん、意味なく冗漫なのは困る。ずるい言い方になるが、文の長短はケースバイケース、なるべく読みやすいのがいい。

ぼく自身あまり縁がないが、世間には長い名前が存在する。先日世界地図を見ていて、通称イギリスや英国と呼ばれるあの国が一番長いことに気づいた。「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」が正式な国名。いちいちフルネームを使うわけにはいかないから通称を使う。有名だから略しても何の問題もない。

この地図は下段に国旗が並び、旗の下に国名が書いてある。知名度が低い国名に長いのがいくつかある。「セントビンセント及びグレナディーン諸島」「サントメ・プリンシペ民主共和国」「セントクリストファー・ネイビス連邦」等々。どこに位置しているのかまったく知らないが、中南米やアフリカの地理がよくわからないので、そのあたりだと見当をつけて地図に戻ってチェックしたら当たらずとも遠からずだった。


フランス料理は和食に比べると長めにネーミングされている。「鴨のオレンジソース、グラタン・ド・フィノワ添え」という具合。もっと長いのもある。料理の要素や使う素材をことごとく言い表わせば、当然こうならざるをえない。醤油ラーメンをフランス流に命名すれば「焦がしにんにく醤油を香らせた澄んだスープと中太麺、厚切りチャーシューとネギをのせて」という具合になる。

ヘビは長いのに、名前は短い。英語ではsnakeとアルファベット5文字だが、発音すれば「スネーク」は一音扱い。世界で一番長い川、ナイル(Nile)の名前は短い。長いのはミシシッピ川。カタカナ表記では長くないが、英語ではMississippiで、綴りが覚えにくい。ラジオ講座で英語の先生が「エムアイエス⤴エスアイエス⤴エスアイピーピーアイ⤵」と抑揚をつけて覚えようと言ったのが印象に残っている。

長いものに巻かれるのと、長い名前や文章を覚えるのは苦手だ。

ここはどこ?

「ここはどこ?」と言えば、「わたしは誰?」が続く。どうやら判断も判別もできないらしい。

これまで「わたしは誰?」と自問したことはないし、他人に尋ねた記憶もない。プチ哲学っぽく「人間とは何か?」と問い、ちょっと考えてみたことはあるが、「わたしは誰?」はない。自問していないから、当然自答もしていない。

人は5W1Hを問う。いつ、誰が、どこで、何を、なぜ、どのように。こういう事実情報を問い、知ることはベーシックなのだが、ついさぼってしまう。手抜きして調べない。知っておくべき5W1H。実は、よく忘れる事柄でもある。


別に知らなくてもいいこと、瑣末なことを「トリビア」という。雑学や豆知識を威張れるのがメリットだ。稀にトリビアを知ってイメージが広がることもある。胡散臭いように思われるが、一応トリビアは事実を扱う。たとえば、ローマのトレビの泉のトレビは「三つの+通り」が由来。つまり三叉路を意味する。これは事実なのだが、事実だからと言ってすごいというわけではない。他のトリビア同様に、「へぇ」と「ふーん」という反応に分かれること間違いなし。

「ガセビア」というのもある。決定的な違いは、トリビアが発見されるのに対して、ガセビアは創作されるという点。つまり、事実のトリビア、嘘のガセビア。しかし、トリビアとガセビアはいずれも特に有用性のある知識ではなく、また怪しさの点でもよく似ている。事実と嘘は見分けにくい。「ここはどこ?」と尋ねる者に、教えられる情報の真偽が分かるはずがないのである。

可能的なこと

勘違いしてはいけない。不可能が可能になるのではない。もともと可能的なものが現実に可能になるのである。

〈不可能〉に挑戦すると言えば、聞こえはいい。しかし、いきなり〈不可能〉に? 性懲りもなく〈不可能〉に? そんな時間があるのなら、今はできていないが、何となくできそうな予感が湧くことから始めるのが筋ではないか。

不可能だと思っていたことが可能にならないわけではない。先入観で勝手に不可能のラベルを貼っていたことが、何かのきっかけでラベルが剥がれる。あるいは、実際に何度かチャレンジしてできなかったが、その後技能が向上してある日できるようになることもある。


しかし、再びよく考えてみよう。できないことにはいろいろなレベルがある。不可能としか思えないこともあれば、不可能と断定できないこともある。他にいろいろやらねばならないことを抱えている時に敢えて前者に挑む理由はなく、可能的なことにひとまず着手してみるのが妥当だろう。

どちらの食材も食したことはないが、食べられないと思うものと、食べられるかもしれないものを比較して、ぼくたちは食べられそうなものから口に入れる。食べ物は目に見えたり触れたりできる現実だからわかりやすい。しかし、不可能や可能というラベルで現れてくるのは「もの」ではなく「こと」。見えづらく摑みづらい。よくわからない。そして、よくわからないことに対して、人は何となく不可能なほうを選んでしまうものだ。

もし類まれな眼力が授けられるなら、不可能なことと可能的なこと――できそうもないこととできそうに思えること――を見分けることに役立てたいと思う。「人生は短い」とセネカは言った。これまでの経験と持ち合わせている才能をよく見極めて、可能的なこと――何の根拠もないが、不可能よりもよほどましだと予感すること――に力を注ぎたい。

季節の移ろい

移ろいというのは四季を通じて実感する。一年365日を振り返ってはじめて移り変わりがわかる。ところが、3月と4月は月単位で見てもかなり移ろう。三寒四温とは言い得て妙である。さらに、体感のみならず、視覚的にも移ろいを感知することになる。桜の仕業である。

オフィスの目と鼻の先に大川が流れ、年に二度賑わう。船渡御と花火の天神祭りが夏の風物詩。もう一つが今の季節。造幣局の敷地の遅咲き桜の競演を愛でる「通り抜け」だ。先週の火曜日に始まり、今日が最終日。平日、休日に関係なく、天満橋を渡り造幣局の門を目指す人々が長蛇の列を成す。


桜咲く桜の山の桜花 咲く桜あり散る桜あり

視覚的な移ろいとはこのことだ。咲く桜と散る桜が入り混じる。今年は例年と少々天候が違い、4月上旬には一本の木に花びらと新芽が同居していた。

明治時代の唱歌『四季の月』の「咲きにほふ山の桜の花の上にかすみて出でし春の夜の月」のような風情は、この都会では望めない。屋台の匂いが花の香を吸収してしまう。

七分咲きの桜が満開へと向かう。折り返してから三分散らすと、そこで再び七分咲きになる。咲く一方の七分咲きと散る一方の七分咲きは同じではない。不思議なもので、気配が違い、色艶が違うのがわかる。そして、地表に散りばめられた花片が春の移ろいを教えてくれる。

満開の桜を背景に撮影する人が多いが、散った桜の上でポーズする外国人観光客を稀に見かける。それはそれで旅先での思い出のシーンになるのだろう。

期待ということ

期待。どんな程度かはわからないが、とにかく心待ちにされること。待たれるのは相手にとって望ましい結果や出来である。とんでもないことを期待されることはまずない。

事の始まりにあたって期待は寄せられ、高められる。期待はこたえるもの、かなうものである一方、事が終わってみたら外れたり裏切られたりすることがある。何をどの程度に期待されているのかが摑めなければ、期待に見合うこと、期待に沿うことはままならない。期待というテーマは三部作になる。書名は『期待以下』『期待通り』『期待以上』。

『フェルメール展』を鑑賞してきた人が言った、「期待通りだった」と。期待通りとは期待以上でも期待以下でもないが、ちょうどいい感じなのだから褒めことばである。別の人は「期待外れだった」とつぶやいた。がっかり感が伝わってくる。但し、外れたのはクオリティではなく、期待の方向性だった可能性がある。


美術展でも仕事でも食事でもいい。まず誰もが「期待通り」を目標にする。プロフェッショナルなら「期待以上」の結果を出すのが当たり前とはよく言われるが、期待以上というのは、期待の範囲を通り越している。期待通りでないという意味では裏切りだ。その裏切りが評価されリスペクトされてこそ一流のプロに値する。

ずいぶん前になるが、前年度に実施した研修がかなり好評だった。翌年、さらにレベルアップして実施しようとしたところ、主催者がぽつんと言った、「前年の内容を変えなくて結構です。前年と同じ内容でお願いしたい」。期待以上にしても誰も価値がわからない、期待通りのレベルで十分というわけだ。

しっかりと御用聞きをしていれば期待通りはクリアできそうだ。しかし、相手の期待と自分の願望が一致しない、あるいは葛藤することさえある。この時、処世術としては願望を諦めて期待の顔を立てる。相手の期待にすり寄るばかりではつまらないが、やむをえない。期待通りというのは、相手次第ということだ。相手の期待が低ければ自分のレベルは上がらない。期待通りで満足していると一流の手前までしか辿り着けない。

御用聞きをしながら、なおも自分の願望や理想に近づくことはできる。裏目に出るかもしれないのは覚悟の上だ。期待以上という裏切りが期待以下の裏切りと同じであるはずはない。期待したのとは違う、裏切られた、しかし何という裏切りようだ……と相手が息をのむ。そして、リスペクトする。一応三部作なので『期待以上』で完結するが、いつも期待以上を期待する相手に対しては、次なる『期待何々』を書き下ろさねばならなくなる。

多様性という逃げ道

「個々特有の性質や事情を考慮せず、何がしかの規格に従って全体やすべてを一様にそろえること」。これを画一という。画一には「主義、的、化、性」などの接尾語が付くことが多い。こんな接尾語がくっついてしまうと、ただでさえわかりづらい概念がいっそうわけがわからなくなる。

かつて画一がもてはやされた時代があった。画一的に大量生産されたテレビを買い、画一的価値観を持つ大衆が画一的な番組を見、画一的な居間で画一的な感想を述べ合い、画一的な喜怒哀楽を分かち合った。当然反作用が起こり、高度成長時代の真っただ中に生きた世代には画一という現象とことばにアレルギーを持つ者が少なくない。


反作用は当然ながら「多様」へと向かった。多様性は今では絶対的に歓迎されているかのようである。生き方の多様性、場や役割の多様性、意見の多様性、何よりも種としての人間の多様性……。グローバルという、一見画一的に世界を眺望する捉え方も、根っこのところでは多様性を前提としている。

反面、この多様性を肯定することが、公平や平等などと同じく、その万能性によって逃げ道を用意することになる。つまり、「多様性はいいことだ」と言い終えて黙り、他に何も言わない。高度成長時代の「大きいことはいいことだ」を暗黙のうちに認めたのと同じような空気が漂う。

「多様性はいいことだ」。たしかに。しかし、多様性ゆえにどうなのだ、どうするのかという問いが続かねばならない。多様性の時代や社会でいったい何を決断し何に向かっていくのか――このことが不問に付されている。多様性は固有の価値を見つけられない者にとっては逆風になることを忘れてはいけない。

情報という問題

哲学者の言をどんな文脈で捉えて解釈するか……実に悩ましい。

「およそ語りうることについては明晰に語りうる。そして、論じえぬものについては沈黙しなければならない」
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951

何かを語りうるとは、その何かそのものについて、また、その何かに関わり派生することについて「ことばにできること」を意味する。明晰というハードルは高いかもしれないが、語りうるのであるから、認識できているかぎり語りうるのは間違いない。建築について、ワインについて、植木について語りうるなら、たしかに語ることができる。そして、論じえないものは語れない、ゆえに黙るしかない。いや、語らないのがマナーか。

言い表わせるというのは大したことなのである。言い表わせないもどかしさを体験すればするほど、言い表わせることが奇跡のように思えてくる。

「問題をそつなく表現できれば、問題は半ば解決されたも同然」
チャールズ・ケタリング(1876-1958

ケタリングは多彩な職業をこなしていたが、発明家としてよく知られている。ところで、問題が解決しづらい原因の一つに、いったい問題が何であるのかを簡潔に言い表わせないことがある。課題と言い換えてもいいが、課題の表現が拙いと解決すべきことが明快にならないからだ。


ケタリングで記憶に強く残っているのが、次のことばである。

「創造は思考と素材の融合である。よく考えれば素材は少なくて済む」

素材とは情報のことである。一般的に情報は少ないよりも多いほうがいいと思われている。多いほうがいいという前提ゆえに、ひとまず情報を集める。知っていることもあるだろうが、敢えて調査によって知らない情報を得ようとする。創造、すなわち新しいアイデアにとって情報は欠かせないが、情報が多すぎると自力で考えようとしなくなると、ケタリングは言っているのだ。

考えないから情報が必要になる。情報を集めると、情報の分類や組み合わせによって、何事かが創造されたような気になる。しかし、思考の出番がなければ、情報が語っただけにすぎない。それでは創造の粋に達していない。情報というものは思考を軸に選び編集するものである。「情報威張ると思考がへっこむ」のである。

「情報が増えれば増えるほど、知力そのものは減ってくる」
『ドイツ人の知の掟 トクする雑学』)

考えないで手に入れた情報は語りうるものなのだろうか。語ることのできない情報をいくら集めてもバカになるだけかもしれない。それが証拠に、情報を並べ立てる者は、決まってその後に沈黙することになる。

自分にできること

他人のしていることははっきり認知できないが、自分が日々していることはたいてい自覚できる。朝起きてトイレに行くこと、朝食を取って出掛けること、買い物をすること、電車に乗ること……。していることはできることでもある。自分にできることはだいたいわかっている。

ところが、他人と程度の比較をしてみると、できることは変容してくる。歌をうたうことができる、絵を描くことができる、走ることができるというようなことに程度が入ってくると、誰かは自分よりももっと上手にできるため、自分のできることなどはたかが知れている、いや、できないに等しいように思えてくる。

また、逆に誰もが苦もなくできてしまうと、もはやそれはできることではなく、単にしていることに過ぎないように思えてくる。朝起きること、トイレに行くこと、朝食を取って出掛けること、買い物すること、電車に乗ることなどは平凡な行為であって、できるなどと威張るのは滑稽である。


ずいぶん前なので本で読んだか誰かから聞いたかのか忘れたが、記憶に残っている話がある。小学校低学年の教室で先生が子どもらに特技を聞いた。ほとんどがたわいもないお遊びのことだったが、一人を除いてみんな何か言った。その一人の男子だけが「ない」と答えた。

後日、体育の時間。先生は逆立ちのやり方を教えた。初めての逆立ち、誰もうまくできなかった。ただ一人、特技がないと答えた生徒だけが軽々と、まるで忍者のようにやってのけ、クラスのみんなをびっくりさせた。

「前に特技を聞いたら何も言わなかったけど、逆立ちすごいじゃないの」と驚く先生に生徒は言った。「うちの家ではみんな逆立ちができるから、すごいだなんて思ったことない」。

子どものいいところを見つけると、ともすれば身内は過大評価してしまう。過大評価は子どもにプレッシャーを与える。他方、身内はわが子を過小評価することもよくある。過小評価は才能の芽を摘み取りかねない。主観的にも客観的にもできることを認識することはやさしくないのである。