食事の更新、意味の熟成

あっという間に半日、一日が過ぎる。今日のように休日に仕事をしていても、仕事そのものを愉しみとしながら、ああすればよかった、えらく遠回りしてしまったなどと、自責と後悔の念に駆られる。

休みの日に映画を観て、文具店と書店に立ち寄り、カフェに入って本を読みノートに駄文をしたためる。コーヒーを味わい小さなパンをつまむ。夕方にはマルゲリータでワインを飲む。見方によっては、無為徒食と一線を引くのが難しい一日の過ごし方だ。

それでもなお、無為に日々が過ぎていたとしても、決して徒食してはいないという自覚がある。とびきりの充実感に満たされているわけでもないが、そんな一日でも小さな意味の断片が織り成されていることに気づく。


生きているかぎり、生きようとしているかぎり、毎日何度か口に食べものを運ぶ。「最愛の夫を亡くした未亡人もお通夜を終えておむすびを口に入れる」と誰かが言った。人は食べる。そして、そのことに無関心であってはいけないし、何をどう食べるかになまくらであってはいけない。衣食住のうち、衣と住の更新に比べれば、食の更新ほど頻繁なものはない。食の更新が一見慢性的な日々の意味を少しずつ熟成させていると思われる。

朝から考え抜いて書き上げた仕事を振り返り、やり切った感には程遠い。考えて書くことに意味なしとは思わないが、昼につまんだ質素なひじきのおにぎりの意味の熟成ぶりには及ばない。

グルメを貪るという食ではなく、日々の生き方における食。食がつまらなくなる時、たぶん日常はすでにつまらなくなっている。大した仕事はできなかったが、今夜も夕ご飯が更新される。