洒落オチ

「洒落オチ」という言い回しがあるのかどうか知らないが、ただのダジャレではなく、ちょっと小粋なオチがつくものを、ぼくはこう呼んでいる。

即座に分かりかねる凝ったものもあるし、シモネタ系もある。大阪や関西特有のがあり、子どもの頃、下町の年寄りが洒落オチを間髪を入れずに使っていたのを覚えている。使っていたというのは定番があるから。即興でひねるのはそう簡単ではない。

s h a r e - o c h i

「あいつは実行力がないなあ。大晦日の髪結いや。結うばっかり」(結う→言う)

「今の話、どう? 結構笑えたでしょ?」
「ダメダメ。黒犬のお尻
「ん、何それ?」
しろくない」(→おもしろくない)

関西では「黒犬のお尻」ではなく、「黒犬のおいど・・・」とか「おもしろうない」と言っていたから、おかしみが増幅された。

s h a r e - o c h i

「わかりました。家に帰って冬の蛙
「冬眠するつもりかい?」
「いや、寒蛙かんがえる」(→考える)

「今年もまた赤字。女にふんどしや」
「そうか、くいこむ一方か」

「くいこむ」には貯金を減らして支出に回すという意味がある。そのことを知らないと何のことかわけがわからない。洒落オチがわかり、相手のフォローをするにはことばの教養がいる。

s h a r e - o c h i

時々このあたりを通るが、店を覗いたことも店名を確認したこともない。昨日はたまたま目に入った。「はまぐりの下に夏」と書いて何と読む? こんな漢字はない。漢字はないが、これはれっきとした洒落オチなのである。

「今日の客はひやかしばっかりやなあ。夏の蛤や」という具合に商売人が使っていた。夏の蛤は傷みやすい。身は腐るが、貝は腐らない。「身ぃ腐っても貝腐らん」、転じて「見ぃくさって買いくさらん」。見てばっかりで買わないことをこう言う。それで店の名前が「うたりや」。見るだけでなく買ってちょうだい、というわけ。よく捻りの入った洒落オチである。

いずれまた


「いずれまた」でも「別の機会に」でも「また今度」でも同じこと。見送る、見合わせる、日をあらためる、等々。とりあえず今ここではないという雰囲気がある。「飲み会? 今夜はちょっと先約があってねぇ。また今度お願いするよ」。また今度というのは、十中八九ない。いずれまたの「いずれ」も、別の機会の「機会」も、まずほとんどない。

読書の折りに次のようなくだりに出くわしたことがないだろうか。

「この話は別の本で書いたので、本書ではこれ以上詳しく述べない」

ちょっとだけ見せて、それ以上は見せないという趣がある。

申し訳ないが、著者の本を読むのは今回が初めてで、他にどんな本を書いておられるのか知らない。続きを読みたくても、わざわざその本の該当箇所を探し当てる気にはならない。中途半端に焦らされておしまい。けち臭いことを言わずに、繰り返しを恐れずに再掲すれば済む。

☆     ☆     ☆

皮肉っぽく響いたかもしれないが、気持ちがわからないでもない。別の本を読んでくれた少数読者を想定すると、同じことをくどくどと書いて読ませるのは申し訳ない気になるのだろう。大多数は「一見さん」だから、平気で書き切ってしまえばいいのに、別の本を読んだ人のことが気にかかるのである。

先日、行政でAという研修を実施した。翌週、同じ行政でBという研修を実施したところ、研修Aを受けた見覚えのある受講生が3名いた。いずれの研修も40名なので3名は少数派。ABの研修はジャンル違いだが、一部のスキルには共通点があるので同じスライドを34枚使っている。研修Aを受けた3人には二度目の話になる。そこで、ぼくが「別の研修で同じ話をしたので、ここではくどくど言いません。いずれまた」と幕引きしたらブーイングである。

ただ、その3人を意識して「どんな研修をしても、このスライドは言語感覚の定番として使っています」とわざわざ付け足した。まったく知らん顔できない性分ゆえ。集団相手でありながら、実は個人へのまなざしが欠かせない仕事なのである。

そうそう、一つ思い出した。どこかの講演に呼ばれた時のこと。毎年行くので知り合いも多い。「昨年もお伝えしたのですが……」と切り出して話を進めたら、ほぼ全員がポカンとしていた。いちいち気遣うには及ばない。学び好きはなかなか覚えない。だから、毎年聴講する。記憶力の悪い受講生はいいお客さんだと割り切ればいいのである。忘れた話はいずれまたして差し上げる。

今月の短文メモ

月末間近になって今月を振り返ろうとノートを繰ったら、長文がほとんどない。読み返して記憶を辿るには長文が適している。短文には文脈がなく、行間と言うほどの行数がない。ハイコンテクストな点メモをいくつか並べて一ヵ月を振り返ってみる。

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✒ 東洋陶磁美術館で『文房四宝ぶんぼうしほう』を鑑賞してきた。筆、硯、墨、紙。これらの凝りように比べたら、PCやスマホはつまらない。

✒ やむをえず、チェーン店のカフェに入った。つまり、巨大な飲料自販装置の一つの部品になった。

✒ 本と新聞を読む。下手くそなりに社会情勢や天気を読む。ほとんど当たらないが、他人の心理や手の内を読む。サバを読む連中もいるが、ぼくは酢で〆る。

✒ 雨の日の会合。「やっぱり雨。わたし、雨女」と誰かが言う。うぬぼれてはいけない。雨の日は、みんな雨男、雨女。

✒ わが街のウォーターフロントに垢抜けた店がずいぶん増えてきた。しかし、ドアや窓越しに受ける印象は手招きに到らない。垢抜けて逆に魅力は遠ざかる。

✒ グーテンベルグまで遡ることはない。活版印刷ということばと仕事の、なんとノスタルジックで重厚で生命力豊かなことか。

✒ 「三日月」を「三ヵ月」と書き間違えても、ワードは決して校正してくれない。

レオナルド・ダ・ヴィンチに寄り道

別に行き詰まっているわけではなく、ひらめかないわけでもない。構想の下書きもできているし、素材もほぼ揃っている。しかし、いま取り掛かっている仕事はここから先、道なりで進められそうな気がしない。予期せぬ紆余曲折に巻き込まれるなら、自ら早めに寄り道しておくのも一案ではないか。と言うわけで、水羊羹欲しさに和菓子屋に立ち寄るのを我慢して、視座を変えるためにレオナルド・ダ・ヴィンチに寄り道することにした。

困った時のレオナルド・ダ・ヴィンチというわけではない。ただ、何かしらうまくいかない時は、かつてよく目を通した本やノートに辿り着くことが多い。勝手をよく知っているので、寄り道しても迷うことなく戻って来れる。問題は長居をしてしまうことかもしれない。さて、本棚から引っ張り出したのは『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記(上) 』。上下巻だが、読みやすいヒントは上巻に集中している。

慣れ親しんだ箴言を飛び石づたいしていると、以前メモしたり暗記したりしたことばの箇所で立ち止まる。今日は翻訳文の古めかしさがやけに気になったので、自分なりに書き換えてみた。

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鉄が使われずして錆び、水が腐り、または寒中で凍るように、才能も用いなければ損なわれる。

才能は、この天才のように決して突出したものとはかぎらない。たとえば、ふつうに仕事することも生活することも才能ではないか。それをそのままにしない。とにかく日々知恵を使い、できれば更新する。こうしているかぎり、少なくとも錆びたり腐ったりするのを遅らせることができそうだ。この才能をさらに伸ばす方法については、レオナルド・ダ・ヴィンチは言及していない。残念である。

よく過ごした一日が安らかな眠りを与えるように、よく過ごした一生は安らかな死を与える。

頑張った、結果も出た、充実した一日だった。その一日の終わりに安らかな眠りがいつも保証はされないが、少なくとも夕食時から床に就くまでの気分は何物にも換えがたい。一日と一生を同じようにさらっと扱いさらっと語る。「死」を与えると言われているのに、迂闊にもほっとしている自分がいる。

権威を引いて論じる者は才能を用いているのではなく、ただ記憶を用いているにすぎない。

独力で論じなさい、自らの力で切り拓きなさいということ。いたずらに先人の業績に頼るべからず。権威の言うことをいくら覚えても記憶の勉強にしかすぎない。簡単にコピペできるようになったIT時代の勉強や評論への五百年前の警鐘である。ところで、ぼくはいま、レオナルド・ダ・ヴィンチという「権威」を引用している。才能を用いていないことが少々気恥ずかしいので、このへんで終わることにする。

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ところで、なぜわざわざフルネームでレオナルド・ダ・ヴィンチと何度も繰り返して書いたのか。若い頃、世間同様にダ・ヴィンチと呼んでいた。しかし、ある時あることを知った。ダ・ヴィンチ(Da Vinci)とは「ヴィンチ村出身の」という意味。これが姓なので、そう呼んでまったく問題はないが、イタリアではそう呼ばず、むしろレオナルド(Leonardo)を通称としている。とは言っても、面識もないので、親しげにレオナルドと呼び捨てにしづらく、以来、レオナルド・ダ・ヴィンチと言ったり書いたりしている。

どちらとも言えない

Googleで「どちらとも言えない」を検索したら、上から4つ目に『「どちらとも言えない」と「わからない」』というのが出てきた。見覚えがある。本ブログで自分が書いた文章だ。2008615日の日付。11年前のこと。

これに先立って20009月のノートにも「どちらとも言えない」という表題の小文を見つけていた。この2回にとどまらず、「どちらとも言えない」についてよく考察する。よく考えるのはよく耳にするからだ。実際の対話で相手が煮え切らない返事をするたびに、このフレーズを思い出す。

「どちらとも言えない」と答えるには、その前に二つの選択肢が必要だ。回答欄の一つ目に出てきてはいけない。「Q:あなたは2020東京五輪の観戦に行きたいですか?」に対して、いきなり「どちらとも言えない」とは言えないのである。

まず二つの選択肢、「行きたい(イエス)」と「行きたくない(ノー)」が示され、どちらにも該当しない場合に「どちらとも言えない」にが入る。では、「競技次第では行きたい」という条件付きの回答はどの欄にチェックを入れたらいいのか? 「競技次第では行きたい」は「競技次第では行きたくない」でもあるから、「どちらとも言えない」にチェックすることになる。それで本意が示せたかどうかは微妙である。

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おびただしい選択肢があるにもかかわらず、わずか数種類に絞ってあらかじめ回答欄に記してあるのがアンケート。そもそも問いと答えが大雑把なのである。精度を高めたいなら、面倒でも一人一人からイエス・ノー以外の微妙な条件をヒアリングするしかない。ただ、そうしたとしても、集めた回答から意味のある結論を導くのは容易でない。回答の多寡を評価するくらいしかできない。

Q: あなたは食後にコーヒーが飲みたくなりますか?
□ 飲みたくなる
□ 飲みたくならない
□ どちらとも言えない

条件を棚上げして、問いに素直に答えればいいのである。問いの前提に「どちらかと言えば」を感知すればいい。したがって、「どちらとも言えない」という項目はいらない。そんなイエス・ノーでは答えられないというむきもある。しかし、「飲みたくなる」は「どちらかと言えば、飲みたくなる」であり、「飲みたくならない」は「どちらかと言えば、飲みたくならない」である。条件がポジティブならイエス、ネガティブならノー。こういう結論に落ち着く。

もし三つ目の「どちらとも言えない」がなければ、上記のように考えて回答すればいい。条件というケチがつくと、おおむねノーがイエスより多くなる。なぜなら、ノーというのはケチをつけるのに似ているから。ともあれ、最初から「どちらとも言えない」という選択肢が書いてあると、さほど考えずにそこにチェックが入りやすい。そして、そんな回答はいくら多く集めても何の役にも立たないのである。

古い雑誌のページをめくる

昨年7月に自宅書斎の蔵書約4,000冊をオフィスに運び込んだ。自宅には書棚がそのまま残っており、まだ数百冊の本、雑誌、図録が平積み状態。これらはさしづめ「残兵」、処分しづらい。

奥行が浅い書棚なので、平積みだと大判の雑誌ははみ出した状態。落下しないように積み替えていたら、19491121日号の雑誌“TIME”が現れた。“TIME”はこれ一冊のみ。価格20セント。古書店で買ったのかもしれないし、もしかすると、30年前に年間購読申込みした際のギフトアイテムだったかもしれない。入手ルートは定かではないが、この一冊には見覚えがある。

紙の匂いや色褪せ感からして70年前の発行当時のもので、30年前の復刻版ではなさそうだ。英語を独学していた頃、雑誌は“NEWSWEEK”を読んでいたが、社会人になりたての頃から数年間は“TIME”に変えた。読むと言うよりも格闘に近い日々だった。

☆     ☆     ☆

“TIME”という週刊誌は見せるものではなく読ませるものである。見出しにはFranklin Gothicフランクリンゴシック、本文にはTimes New Romanタイムズニューローマンという書体を昔からずっと使っている。広告を除いて、ほぼこの2種類の書体で記事を読ませる。アルファベット26文字で文章を綴らねばならないから書体の変化をつけたくなりそうなものだが、意に反して、欧米の雑誌のタイポグラフィの理念はルールに厳しく、書体のデパートのような紙面づくりを決してしない。わが国のデザイナーや編集者が多種多様な書体を使いたがるのと真逆である。変化に富んだ紙面を目論んで書体を多用しても、可読性が著しく低下するので逆効果になる。

当時の“TIME”は広告の掲載がかなり多い。見開き紙面スペースの4分の3が広告というページが当たり前のように出てくる。広告の表現も商品・サービスの内容も今とはだいぶ違っている。タイプライターの広告が目立つ。裏表紙はタバコの全面広告。保険や自動車も多いが、何と言っても酒の広告が他を圧倒している。

数あるうち特に印象的なのがプエルトリコ産のラム酒の広告。ラムを使った有名ホテルのカクテルを「3つの簡単レシピ」として紹介している。読み間違いの余地のない、きわめてシンプルなヘッドラインだ。下段左に小さくキャッチフレーズが書かれている。“Light and Dry–not heavy and sweet.”  ありきたりな4つの形容詞だけで口当たりを明快に表現しているのはお見事だ。「軽くてドライ――強くなく甘くない」。これでどんな味なのか、何となくわかってしまうから不思議である。

🚫ステレオタイプ

ものを考えるのはあくまでも個人的な知的作業。そもそも集団的に同じことを考えるのは無理がある。アイデアを出す時、たとえば5人でいろいろ考えて一つにまとめると、誰の思いや願いでもない案に落ち着きかねない。いいアイデアというのはたいてい誰か一人が考えるのであって、あまり折衷操作が混じらないものだ。

こなもん、串カツ、コテコテ、おばちゃん、通天閣などという、明らかに誇張された大阪らしさは、大阪人全員がよってたかって作り上げたステレオタイプではない。また、異口同音にみんなが一斉に声を上げたわけでもない。マスコミか芸能関係者か、広告代理店だか知らないが、最初は誰かが言い出したのである。そして、自虐と自嘲を了解しながらおもしろがって増幅させていったのである。

大阪らしさを誇張するために、大阪弁がわざとらしく使われることがある。幕張メッセのようなメッセは見本市のことだが、これを「食のマッセ」などのようにダジャレにして名付ける。「商売してまっせ」のまっせをメッセに重ねるのだ。「ええやん大阪」などのスローガンを掲げ、「ミナミは愉快」で済むところをわざわざ「ミナミはおもろい」と言いたがる。ここに行政が乗り掛かる時もある。芸人も素人も何かウケることを言わねばならないという強迫観念に苛まれている。そうして生まれる笑いはナチュラル感に乏しい。

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大阪のインフルエンサーが「ヒョウ柄衣装の大阪のおばちゃんを世界遺産に」と本気で唱える。他方、それではいけない、もっと洗練されたイメージに刷新しようというチャレンジャーがいる。しかし、彼らもまた垢抜けしないコテコテの大阪が現状の姿であるととらえてものを考えている。

2017年、ニューヨークタイムズ紙は「今年行くべき世界の場所」の一つに大阪を挙げた。ネオンの看板が水面に映る道頓堀の写真が添えられ、「食を楽しめる街」だと紹介された。大阪通のインフォーマントの情報が提供されたに違いない。しかし、同時期に英国の旅行ガイド出版社も旅すべき世界の10都市の一つに大阪を選んだので、偏見を捨てて冷静に見れば、魅力ある都市として格付けされつつあると言えなくもない。

こういうニュースが流れてからまもなく23年が経つ。この間、海外からの観光客は相変わらず勢いよく押し寄せている。違和感はかなり薄らいだし、数年前に比べればマナーもかなり改善され、観光客のいる光景が日常的に街になじんできた。新しい観光価値を感知している観光客にわざわざ手垢のついたイメージを押し付けることはない。こなもん・コテコテ以外のネタが出ないのは発想力の貧しさにほかならない。

キャプションという文学

かれこれ40年近く広告や広報の分野で編集に従事してきた。文案を練って見出しを作り、記事の本文を書く。場合によっては、本文を書いてから見出しのキャッチフレーズを考える。時間の計算が立たない仕事。うまくいけばあっと言う間に仕上がるが、何日経っても満足に到らないこともある。

キャッチフレーズの他に、写真を短く説明するキャプションがあり、これが案外時間を食う。年に数回、請われて情報誌編集の研修をしている。写真にキャプションを付ける演習は研修の必須項目である。

写真を写実的に説明すると、ビジュアルとコピーが重複することになる。たとえば富士山の写真に「富士山」と書くのはほとんど意味がない。「初夏の富士」としてもほぼ見たままだ。そうではなく、見えないものや暗示されているものを描写し表現してこそ写真以外の情報が伝わる。キャプション演習はイメージと文章を融合させる練習機会になる。

☆     ☆     ☆

写真にキャプションを付けるのは、一つのキーワードを題材として写真を撮影することの裏返しである。しかし、創造の範囲が大いに違う。たとえば「扉」というテーマから撮影できる写真は無尽蔵であるが、一枚の扉の写真に付けるキャプションにいくらでもオプションがあるわけではない。記事との連動性も考慮するから、文案も表現もある程度限られることになる。

奈良公園のいつもの光景は、外国人観光客によって意味を変化させた。かくかくしかじかの理由から先住者たちは食傷気味のようである。

書き手の主観やものの見方が反映されるのがキャプション。記事と写真の旬が固有のキャプションを求める。先日久しぶりに奈良公園に行き、見慣れたいつもの風景を目にした。しかし、外国人観光客を通じて眺める心象風景はかつてと同じではなかった。「奈良公園の鹿」のようないつの時代も万能のキャプションでは芸がないのである。

大げさに言えば、キャプションは新しい文学のジャンルと言えるかもしれない。写真で表現できることがある一方で、写真だけでは明示されたり暗示されたりできないことがあり、それをことばで表現する。プラスアルファの気づきを読者に促すのは決して容易ではない。写真も光景の切り取りトリミングであるが、ことばもまた、きわめて個性的な感受性による対象の切り取りなのである。

一(声、歩、助、言、etc.)

「あと一つ」や「もう一つ」を加えるかどうかは悩ましい。下手をするとたった一つが過剰になりかねない。点睛が画龍を台無しにすることなきにしもあらずだ。その一声が大きなお世話になったり、その一助が余計なお節介になったり。

躊躇していてはいけないと思って一歩踏み出したら、とんでもないことになる。逆に、慎重にあと一言を控えたら意味が伝わらない。あと一つ、もう一つの匙加減で道筋も結果も変わる。決断には過不足がついて回る。

さあどうしたものだろうと悩んでいると、次の一つは出てこない。つまり、悩みはおおむね不足を招くことになる。発言に関して言えば、舌禍事件が相次ぐとあと一言が控えられる。かと言って、不足なら説明責任を果たしていないと咎められる。

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美意識からか、何事も控えめで過剰にならぬように振る舞う人がいる。「過ぎたるは及ばざるがごとし」に落ち着くばかりではつまらない。たまには「大は小を兼ねる」に従ってみる。取り返しがつかない事態を招くかもしれないが、それも一つの覚悟のありようではないか。

もう一声掛ける、もう一歩前に出る、もう一助とばかり手を差し伸べれば、その時点で何がしかの変化を感知できる。ああ、オーバースペックだったのかと反省もできる。他方、不足というのはその時その場では何事も起こらず、結果は後々になってわかる。その時に知らん顔するほうが無責任である。

あと一言のおかげでいいこともあったし、そのせいで面倒なことにもなった。そのつど判断するだけの才もないので、迷ったら一言することにしている。とりわけ、冗談やギャグはその場で言っておくのが旬。すべることもあるが、ウケることもあるのだ。言わなければウケることはない。