キャプションという文学

かれこれ40年近く広告や広報の分野で編集に従事してきた。文案を練って見出しを作り、記事の本文を書く。場合によっては、本文を書いてから見出しのキャッチフレーズを考える。時間の計算が立たない仕事。うまくいけばあっと言う間に仕上がるが、何日経っても満足に到らないこともある。

キャッチフレーズの他に、写真を短く説明するキャプションがあり、これが案外時間を食う。年に数回、請われて情報誌編集の研修をしている。写真にキャプションを付ける演習は研修の必須項目である。

写真を写実的に説明すると、ビジュアルとコピーが重複することになる。たとえば富士山の写真に「富士山」と書くのはほとんど意味がない。「初夏の富士」としてもほぼ見たままだ。そうではなく、見えないものや暗示されているものを描写し表現してこそ写真以外の情報が伝わる。キャプション演習はイメージと文章を融合させる練習機会になる。


写真にキャプションを付けるのは、一つのキーワードを題材として写真を撮影することの裏返しである。しかし、創造の範囲が大いに違う。たとえば「扉」というテーマから撮影できる写真は無尽蔵であるが、一枚の扉の写真に付けるキャプションにいくらでもオプションがあるわけではない。記事との連動性も考慮するから、文案も表現もある程度限られることになる。

奈良公園のいつもの光景は、外国人観光客によって意味を変化させた。かくかくしかじかの理由から先住者たちは食傷気味のようだ。

書き手の主観やものの見方が反映されるのがキャプション。記事と写真の旬が固有のキャプションを求める。先日久しぶりに奈良公園に行き、見慣れたいつもの風景を目にした。しかし、外国人観光客を通じて眺める心象風景はかつてと同じではなかった。「奈良公園の鹿」のようないつの時代も万能のキャプションでは芸がないのである。

大げさに言えば、キャプションは新しい文学のジャンルと言えるかもしれない。写真で表現できることがある一方で、写真だけでは明示されたり暗示されたりできないことがあり、それをことばで表現する。プラスアルファの気づきを読者に促すのは決して容易ではない。写真も光景の切り取りトリミングであるが、ことばもまた、きわめて個性的な感受性による対象の切り取りなのである。