いずれまた


「いずれまた」でも「別の機会に」でも「また今度」でも同じこと。見送る、見合わせる、日をあらためる、等々。とりあえず今ここではないという雰囲気がある。「飲み会? 今夜はちょっと先約があってねぇ。また今度お願いするよ」。また今度というのは、十中八九ない。いずれまたの「いずれ」も、別の機会の「機会」も、まずほとんどない。

読書の折りに次のようなくだりに出くわしたことがないだろうか。

「この話は別の本で書いたので、本書ではこれ以上詳しく述べない」

ちょっとだけ見せて、それ以上は見せないという趣がある。

申し訳ないが、著者の本を読むのは今回が初めてで、他にどんな本を書いておられるのか知らない。続きを読みたくても、わざわざその本の該当箇所を探し当てる気にはならない。中途半端に焦らされておしまい。けち臭いことを言わずに、繰り返しを恐れずに再掲すれば済む。


皮肉っぽく響いたかもしれないが、気持ちがわからないでもない。別の本を読んでくれた少数読者を想定すると、同じことをくどくどと書いて読ませるのは申し訳ない気になるのだろう。大多数は「一見さん」だから、平気で書き切ってしまえばいいのに、別の本を読んだ人のことが気にかかるのである。

先日、行政でAという研修を実施した。翌週、同じ行政でBという研修を実施したところ、研修Aを受けた見覚えのある受講生が3名いた。いずれの研修も40名なので3名は少数派。ABの研修はジャンル違いだが、一部のスキルには共通点があるので同じスライドを34枚使っている。研修Aを受けた3人には二度目の話になる。そこで、ぼくが「別の研修で同じ話をしたので、ここではくどくど言いません。いずれまた」と幕引きしたらブーイングである。

ただ、その3人を意識して「どんな研修をしても、このスライドは言語感覚の定番として使っています」とわざわざ付け足した。まったく知らん顔できない性分ゆえ。集団相手でありながら、実は個人へのまなざしが欠かせない仕事なのである。

そうそう、一つ思い出した。どこかの講演に呼ばれた時のこと。毎年行くので知り合いも多い。「昨年もお伝えしたのですが……」と切り出して話を進めたら、ほぼ全員がポカンとしていた。いちいち気遣うには及ばない。学び好きはなかなか覚えない。だから、毎年聴講する。記憶力の悪い受講生はいいお客さんだと割り切ればいいのである。忘れた話はいずれまたして差し上げる。