本と読書の雑感

本と読書はイコールではない。読書は本のしもべ的行為にすぎない。読書は文字を相手にするが、本は文字だけを扱っているのではなく、読む対象として存在しているだけではない。見て選び、装幀やデザインを楽しみ、紙の手触りを感じ、かつ所蔵して背表紙を眺める多様な対象なのである。
本という存在は読書行為以上のものなのだ。したがって、買いっ放しの積んどく状態や書棚に並べっ放し状態を恥じるには及ばない。

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書くには表現語彙が、読むには認識語彙が必要。表現語彙が乏しくても、認識語彙はその数倍あるから本が読めるのである。
どんなビールの味かと聞かれて「うまい」としか言えない者でも、辛口、キレ味、サラミソーセージに合う、のどに沁みるという表現を認識することができる。書けないが読めばわかる能力が読書を可能にしている。

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読書の季節と言えば、秋ということになっている。いつの頃からか、1027日から119日の2週間が読書週間とされるようになった。ちゃんと文化の日が挟まれている。本など読む気がまったく起こらなかった夏場が過ぎてほぼ一ヵ月、脳もようやくクールダウンしてリフレッシュする季節だ。
しかし、読書週間・・に触発されても読書習慣・・は易々と身に付かない。暇人か書評家を除いて、普段読書に勤しまない者は2週間で23冊読めれば御の字だろう。読書週間だからと張り切るよりも、全天候型で少しずつ読むのがいい。

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どんな本も多かれ少なかれ偽書である。『偽書百選』は、かつて存在しなかった本をでっち上げ、一冊一冊の偽書に丁寧な書評を創作した作品。読んでいるうちに、偽書であるか「真書」であるかは本質ではなくなってくる。フィクションという作品もまさにそういう類。
『ジョークに笑えない戸惑い』という本を実在の著者が実名で書いたとする。それを「テレ・カクシー著、井伊嘉元訳」という偽名で発表したとしても、何が大きな違いなのかはよくわからない。

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読まねばならないという強迫観念から脱した時にはじめて読書の意味がわかってくる。三島由紀夫の『仮面の告白』、太宰治の『人間失格』、夏目漱石の『こころ』、コナン・ドイルの『シャーロック・ホームズの冒険』を読むべし、読み返すべしと誰かに言われても、言われるがままに読めるわけがない。
気まぐれに本を手に取り、時にはゆっくり、時には飛ばしながら読む。著者が一気に書き上げていない本を一気に読まなければならない理由などない。

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誰かに薦められるまま本を素直に読んでいては、読書の妙味を失うことになる。何を読むかと迷いながら自ら選ぶ時に幸せになり、決断して買う時にさらに幸せになり、本に囲まれて背表紙を見てもっと幸せになる。やがて、幸せが極まって読み始める。ところが、読み終わったら幸福感が消えることがある。バカになっていたりすることもある。読む前の本は裏切らないが、読書は裏切ることがあるので要注意だ。

10月間近の趣

寒空さむぞらのもと、堀の水面みなもにただ影を落として沈黙する城の石垣。ぼくはと言えば、語りえぬものを饒舌に語ろうとしてまだ懲りない。

こんな文を綴ってから春夏が過ぎた。何があろうとも――温暖化だの猛暑だのと騒いでも――季節だけは着実に移ろう。月に一度、北大江公園の北側、旧高倉筋と呼ばれる細道の石畳の階段を上り下りする。この一ヵ月でずいぶん趣が変わった。空気が変わった。またぶり返すかもしれないが、ひとまず一つの分節をしたためた気がする。

階段の特徴はその二重構造にある。たいていの場合、上がったら下りねばならず、下りたら上がらねばならない。無限連鎖するように見えるエッシャーの絵にしても、上がったら下り、下りれば上がるという構造が基本になっている。まったく個人的な所見だが、エッシャーは春夏向きではない。どちらかと言えば、これからが鑑賞シーズンである。

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表通りには人が忙しそうに歩き、街角は喧騒に包まれている。だが、ほんの少し歩を進めると静寂の裏通りに入り込める……そんな街を選んで暮らしてきた。この歳になって、さすがに自然溢れる場所に飛び込んで新しい居とすることはできない。不足気味の自然は写真と動画で補う。生の身体は都市で動かす。

自然に囲まれたり自然に向き合ったりすると、従うしかすべがない。感動するにはするのだが、次第に感情が一定してきて、たとえば風景を描写しようとしてもいつも同じ形容詞しか出てこない。その点、都会は表現的な冒険をさせてくれる。あれこれといちゃもんをつけて反逆的個性を自覚できる。時には乾いた感想が、時には昂揚した表現が、また別の時には幻想や空想が、自由自在に湧き上がる。

朝、全方向をくまなく見渡すように空を仰いでみた。白雲の小さなかけらもなかった。つまり、晴れて澄みわたるような青天。10月間近。カフェテラスでのホットコーヒーが味わい深い季節になった。これからの一ヵ月が旬である。

ことばを紡ぐということ

「思いを明らかにするためにことばを用いる」という見方がある。この見方に与するには二つの疑問に答えなければならない。一つは、はたしてことばに先立って思いがあるのかという点。もう一つは、ことばが思いを明らかにできるほど精度が高いのかという点である。

ことばに先立って思いがあるのなら、思いは非言語的なはずである。非言語的な感覚をどのようにことばに変換しているのだろうか。ことばに頼らない意味とはいったどんなものなのだろうか。「悲しい」ということばとまったく無縁な心境が湧き上がり、なぜその心境を悲しいと言うのか、到底理解できない。

仮にことばがその悲しい思いを明らかにできるとしよう。その時のことばはどんな表現や姿かたちを取るのか。やっぱり「悲しい」なのか。度合を示すなら「とても悲しい」とか「ちょっと悲しい」なのか。そうではない。悲しいということばを知っているからこそ、そのことばに近い心理が感知されると言うべきだろう。

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悲しいや楽しい、腹立たしいなどの感覚が先にあって、それらを表わすために一つ一つことばを当てはめていったはずがないのである。むしろ、思いや感覚(さらには意味)はことばによって作り上げられている。単語としてはさほど精度の高くないことばを紡いでいるうちに、表現に工夫が生まれ言い回しが巧みになってくる。ことばの成熟が心の機微を枝分かれさせている。下手なことばをやりくりして編んでいるうちに思いが熟してくる。

すでに明快になった思いを表現しているのではない。ことばにふさわしい感覚がことばに対置されるのである。感覚を紡いでいるのではない。紡いでいるのはことばだ。風や花という文字や音を紡ぐ過程で、風や花にまつわる経験やイメージがあぶり出されてくるのである。

つまり、ことばを紡ぐから思いが呼応し、心象風景がくっきりと浮かび上がる。感覚や心象風景の数だけことばがあるのではない。分化したことばの数だけの感覚や心象風景しか姿かたちにならないのである。感覚や心象風景が大雑把で荒削りにならないで済んでいるのは、ひとえにことばをりながら紡いでいるからにほかならない。

まずうま讃歌

まずうま・・・・とは複雑な概念である。ほどよいうまさのことではない。まずくてうまい、あるいは、まずいがゆえにうまい、なのである。うまいものが氾濫している現在、過ぎたるはなお及ばざるがごとしにしたがえば、度を越してはうまさも裏目に出る。

一口入れて「うまい!」と感嘆するものの、もう少しまずければもっと「らしく」なるのにと思うことがある。そんな料理や食品があるのだ。

カフェ専門店でのランチにナポリタンを注文する。チーズがたっぷりかかっていて洗練された味。しかし、もはや想定内のナポリタンではない。昔懐かしい喫茶店の、少々ゆるっとした麺を使った、味に起伏のないあのレベルでいいのにとつぶやくのはアマノジャクな願望か。

京都七条の場末のパン屋で売っている酒饅頭のようなパンは見た目以上にまずい。1パックに56個入っている。一個50円ほどのやけくそのような値段設定。食べているあいだは「う~ん、よくもこんなに上手にまずく作ったものだ」なのに、食べ終わると「まずいがクセ・・になる、もう一個」となる。クセになるのは食後感に快さがあるからにほかならない。

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粉ものにはクセが欠かせない。穀物倉庫の匂いがするリングイネなどは最たるものだ。ミラノで食べたピザの粉っぽいまずさは呆れ返るほどだった。しかし、クセやまずさと折り合い、うまさに昇華させるには大人の舌が必要。食する者がクセやまずさをイマジネーションで補填してやらねばならない。ホウトウや団子汁もまずうまである。

うま過ぎるものに対して「もうちょっとまずくてもいい」というのは、美食の怪しさへの懐疑であり、一つの抵抗でもある。美食に飽きた人間が日常的な普通の〈実食〉に回帰する時、まずうまの良さを実感する。

ところで、へたうま・・・・というのもある。技術が未熟で下手なのだが、味があるという意味。以前よく似顔絵を描いていたが、絵は我流、ただ思うに任せてペンを動かすだけだった。へたうまと評されて気分は複雑だったが、うまへた・・・・と言われるよりはよほど褒め言葉であることがようやくわかってきた。まずうまに目覚めたお陰である。

愉快な文房具

『ないもの、あります』という本がある(クラフト・エヴィング商會)。聞いたり読んだりしたことはあるが、実際に見たことのないものがラインアップされている。左うちわ、転ばぬ先の杖、思う壺、一本槍……という具合。在庫があるなら、プレゼント用に一つ手に入れてみたくなる品々だ。

贈って喜ばれるような新種のプレゼントを文房具に求めたことがあるが、思いのほか発案に苦労した。まじめに書くならいくらでも書けるが、ユーモアを込めてことば遊びするには文房具は案外種類が少なく、すぐにネタ切れを起こしてしまった。未完の『愉快な文房具』のメモの一部をアイウエオ順に紹介しよう。

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エンピツけず筆箱ふでばこ  筆箱の蓋を開けると端に削り器が付いている。よくエンピツ書きした夜に数本まとめて筆箱に入れておくと、翌朝ピンピンに尖らせてくれる。

しいピン  押しピンの一種。安全性を考慮してピンを短くしたため、壁に貼った紙がすぐに落ちてしまう短所がある。ピンも同時に落ちるが、ピンが短いので靴さえ履いていれば踏んづけても足裏まで届かない。なるほど安全である。

めるクリップ  いわゆるリマインダー。忘れないようにと手帳に書いても、手帳を開けなければ意味がない。手のひらを備忘録に使うのは格好悪い。と言うわけで、マーカーで書き込めるホワイトボード仕様のクリップが生まれた。さて、このクリップ、どこに着ければ気づきやすいか? それが一つの課題になっている。

十数年筆じゅうすうねんひつ  万年筆は万年使えない。詐称ではないのかという声もちらほら聞かれる。数年筆なら誠実であるが、「数年は短すぎる」という批判があり、十数年筆と言い換えようということになった。しかし、人によっては数十年使うから、数十年筆という代案も出ている。

罪消つみけしゴム  小さい消しゴムなので、大罪を消してなかったことにはできない。「飲み会の約束を破った」とか「仮病で仕事を休んだ」とか「グラスを洗わずに客に出してしまった」などの、ちょっとした罪悪感もしくは気まずさ向き。罪の名を書いて消すだけで懺悔効果があるらしい。

ゴム  「わごむ」と読んでもいいが、輪ゴムとの違いが出ないので「なごむ」と読ませる。対象を単に束ねるだけではなく、しっかりとなごませ、必要に応じてえてくれる。

のりのり  糊はうすく平らに伸ばせば貼り合わせやすいが、テクニック不足の子どもにとっては扱いにくい。そんなことを気にせずに「盛れる」のがこれ。好きなだけ楽しくノリノリに使えば、勝手にうすく平らにまんべんなく広がってくれる。

ハイバインダー  ファイルとバインダーの複合機能を持つ「ホウルダー」。どんどん放り込めばいくらで入り、通常の倍以上綴じることができる。

風船紙ふうせんし  本に貼り付けたポストイットや付箋紙ふせんしが増えてくると、何のために貼ったのかが分かりづらくなり、また気になって貼ったにもかかわらず、情報が探しづらくなる。付箋紙の数は少なければ少ないほど参照しやすい。そこで、ここぞと言う時だけに使う付箋紙の登場。名付けて「ふうせんし」。貼るとページとページの間で小さく膨らむ。重要箇所が見つけやすく、ページがめくりやすい。但し、本を強く閉じると割れるので取り扱い注意。

ペンヒツ  筆ペンではなく、エンピツの一種である。筆ペンは使いやすいなどと言うが、実際の毛筆書きが下手なら筆ペンも下手と相場が決まっている。ペン筆はエンピツと同じように使うだけで、万年筆で書いたような筆跡を再現してくれる。

知るほどに景色が変わる

大川の天満橋近くにオフィスを構えて30年。そこから約1kmの所に住まいを移してからまもなく14年になる。仕事場周辺に地元感覚が芽生えるまで少々時間がかかったが、職住が近接して以来、この地区への愛着が相乗効果的に深まった。

天満橋を南から北へ渡ると大川右岸。その右岸の天満橋から天神橋までの一帯が南天満公園。そこに「天満青物市場跡」の碑が立つ。ふーん、ここに市場があったのか……という程度で通り過ぎていたが、ある日もう一つの碑をじっくり読んでみた。「天満乃子守歌」がそれ。碑のそばには子守姿の女性の像が立つ。

ねんねころいち 天満乃市よ
大根揃へて 舟に積む
舟に積んだら どこまでいきやる
木津や難波の 橋乃下
橋の下にハ かもめがゐやる
かもめ取りたや 竹ほしや

この歌の後に「竹がほしけりゃ たけやへござれ」「竹はゆらゆら 由良のすけ」の二行が続く別バージョンもある

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かつては水路が運搬の主要な役割を果たしていたから、川の周辺には随所に船着場があって大いに栄えていた。この大川は西へしばらく流れると堂島川と土佐堀川に分岐する。天満の青物市場、堂島の米市場、そして土佐堀川近くの雑喉場ざこば(魚市場)がかつての大阪の三大市場であった。

こういうことを知って、もう少し調べていくと、大坂城下町と商売人の生々しい実録が見えてくる。各藩の武家屋敷が川沿いに建ち、その背後の船場せんばあたりに商人の豪邸が控えていた。市場や両替で稼いだ旦那衆目当てに遊興街が生まれる。西の新町、北の新地、南の難波・道頓堀という具合。歩くたびに新しい発見がある。老舗の名残りや碑が目に入り、区割りや地形のおもしろさにも気づく。


しかし、見るだけでは限界がある。理解が深まらない。ある程度の活字的な知識がなければ話にならないのである。いろんな本を読んだが、一番勉強になったのが桂米朝の『米朝ばなし 上方落語地図』である。堂島、中之島、高津こうづ、天満、千日前などを舞台にした落語のさわりとエピソードを上方ことばで粋に語る一冊。もう35年も前の本なので掲載されている地図も地名も古いが、勝手知った場所の景色が大いに変わったのである。

情報の加減の難しさ

「本日、アルバイトが体調不良で急きょ休んでいるため、人手不足につきお昼の営業は休みとさせていただきます」

店の扉に貼り紙。強い違和感を覚える。「本日の昼は臨時休業」というだけで済むはず。それでは愛想がないと感じるなら、休業の理由ではなく、「せっかくお越しくださったお客様にお詫び申し上げます」と添えればいい。

この種の貼り紙を出す店は、たいていの場合、常連客に向けて書いている。常連がアルバイトと一言二言交わすことがあり、また、店主が忙しく切り盛りしているのを見て「今日も忙しいね」と声を掛けたりしているのだろう。

「本日臨時休業」で足りるのに、休業の理由を書きたがる。これまでに「店主腰痛につき」「冷房が故障したので」「スタッフがインフルエンザに罹ったため」……などの貼り紙を目にしてきた。理由まで述べるのは、ある意味で誠意の表れとも言えるが、常連客への甘えと言えなくもない。

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オフィスにベンジャミンの一鉢がある。日光や水やりや肥料に無頓着のまま十数年になるが、手のひらサイズだったのが1メートル以上の大きさになっている。ちょっと本気を出して育ててみよう、剪定や挿木もしてみようと思いネットで検索したところ、「ベンジャミンを育てる時に必要な準備は?」というサイトを見つけた。

鉢、皿、土、肥料、鉢底ネット、スコップなどを差し置いて、準備するものリストの一番最初に何が出てきたか? なんとベンジャミンの苗である。見事な念の入れようだ。「ベンジャミンの苗なくしてベンジャミンを育てることはできない」というのは暗黙の了解ではなかったのか?

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他方、どんなに説明されても、まったく知識がなく、また未体験ならわかりようがない場合がある。花札などがそれ。これもネットの無料ゲームの説明。

こいこいルールの花札です。50文でエンディングです。花見・月見はありません。月札とは同種札四枚を集めた役です。(オリジナルルールなので一般的には無い役です)

幸いにして、花札をよく知っているので容易に理解できる。と言うか、説明されるに及ばない。この説明では入門者には何のことだかさっぱりわからないだろう。と察してかどうかは知らないが、その下に「花札(こいこい)の遊び方」が解説されている。

手札の中から一枚捨ててください。同じ絵柄の札に札を合わせると自分の取り札となります。絵柄が合わない札は、場に残ります。
取札が増えて役が出来たら勝ちです。「こいこい」をして勝負を続行することができます。

ある程度わかっているから意味が汲み取れる。「わかりやすい説明をせよ」などと指導する専門家がいるが、そんな説明が可能だと豪語するなら、実際にやってみればよろしい。説明不足でも説明十分でも、伝わらないものは伝わらない。説明側の一人相撲ではないのだから。「人を見て法を説け」に反発する気はまったくないが、人を見ても説明できないものはできないのである。

説明される側、鑑賞する側にも理解の前提条件が求められる。この話は次回。

ことばの断片―愉快とリズム

いろんなことを実によく考えるものだ。あの手この手。他人の創作にある時は呆れ、またある時は感心する。仕事柄ことばの言い回しに工夫をしなければならないので、自分でも創作する。愉快とリズムをなるべく意識するようにしている。

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繁華街の入口に看板が出ている。「即日体入高収入」。人材募集らしきこと、少々怪しげな職種であることを感知する。体入とは体験入店。試しにその日にバイトを始めればその日から稼げるというメッセージである。

今度の台風は強いぞ、大きいぞ。被害甚大に気を付けよ。進路予想を見ればわが街も直撃エリアに該当している。ところが、いつ通過したのかもわからないほど、あっけないことがある。決死の覚悟をしていたのに、通常の雨の日とほとんど変わらない。被害地には申し訳ないが、ぼくは「がっかり台風」と呼んでいる。

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「モダンは追う。流行は追わない」(フォルクスワーゲン)
「安いワインは飲む。安っぽいワインは飲まない」(自作パロディ)
人は自己を誇示したり正当化したり言い訳したりするためにキャッチコピーを作る。

町内の釣鐘が時を告げる。ゴーン、ゴーン。その鐘の音を耳にするたび思い出す。
ゴーンゴーンとすり寄って保身した者たちはいまどこで何してる /  岡野勝志

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四字熟語で攻める。
放蕩三昧・・・・の勇気なく、無為徒食・・・・にも居直れず。日々の刻苦精励・・・・も及ばず。おおむね中途半端・・・・に生き長らえていく」

カタカナの漢字変換。
分厚いハンバーグのことを「味覚認肥厚物体みかくにんひこうぶったい」という。前日に仕込んだのを焼いてしかと存在を確認し、しかる後に消滅させることに成功した。