ことばを紡ぐということ

「思いを明らかにするためにことばを用いる」という見方がある。この見方に与するには二つの疑問に答えなければならない。一つは、はたしてことばに先立って思いがあるのかという点。もう一つは、ことばが思いを明らかにできるほど精度が高いのかという点である。

ことばに先立って思いがあるのなら、思いは非言語的なはずである。非言語的な感覚をどのようにことばに変換しているのだろうか。ことばに頼らない意味とはいったどんなものなのだろうか。「悲しい」ということばとまったく無縁な心境が湧き上がり、なぜその心境を悲しいと言うのか、到底理解できない。

仮にことばがその悲しい思いを明らかにできるとしよう。その時のことばはどんな表現や姿かたちを取るのか。やっぱり「悲しい」なのか。度合を示すなら「とても悲しい」とか「ちょっと悲しい」なのか。そうではない。悲しいということばを知っているからこそ、そのことばに近い心理が感知されると言うべきだろう。


悲しいや楽しい、腹立たしいなどの感覚が先にあって、それらを表わすために一つ一つことばを当てはめていったはずがないのである。むしろ、思いや感覚――さらには意味――はことばによって作り上げられている。単語としてはさほど精度の高くないことばを紡いでいるうちに、表現に工夫が生まれ言い回しが巧みになってくる。ことばの成熟が心の機微を枝分かれさせている。下手なことばをやりくりして編んでいるうちに思いが熟してくる。

すでに明快になった思いを表現しているのではない。ことばにふさわしい感覚がことばに対置されるのである。感覚を紡いでいるのではない。紡いでいるのはことばだ。風や花という文字や音を紡ぐ過程で、風や花にまつわる経験やイメージがあぶり出されてくるのである。

つまり、ことばを紡ぐから思いが呼応し、心象風景がくっきりと浮かび上がる。感覚や心象風景の数だけことばがあるのではない。分化したことばの数だけの感覚や心象風景しか姿かたちにならないのである。感覚や心象風景が大雑把で荒削りにならないで済んでいるのは、ひとえにことばをりながら紡いでいるからにほかならない。