食べること

仕事を大いに楽しめる時がある一方で、捗らない、やり直しが多い、締切に追われるなど、仕事で消耗することもある。逃げ出したい気分になることも少なくない。しかし、長い目で見れば、仕事の特徴はほどよい喜怒哀楽であることがわかる。つらいことがあって楽しいこともあるのが仕事なのだ。もう何十年も山あり谷ありを経験して今に到っているから、よく承知しているつもり。

つらい仕事から逃避して仕事以外の慰みで相殺しようとしても、結局仕事のつらさは緩和しない……仕事のストレスは仕事の中で解消すべきなのだ……という硬派な意見がある。一理以上の理があると肯定するが、凡人が仕事のつらさを仕事の楽しさによって克服するのは容易ではない。仕事の外にくつろぐ場面や楽しみの拠り所を求めるのもやむをえない。

食事の場面がまさしくそれで、食べることが楽しみの拠り所になるのである。食べることは、仕事を内蔵した生きることと不可分の行為なのだ。しかも、わずかな例外を除いて、一日に三度、決まったようにその機会がやってくる。食事は仕事の前、途中、後にやってきて、その時間割は仕事を包み込んでいる。

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池波正太郎の『男のリズム』に「食べる」という小文があり、天婦羅や鮨の食べ方について独特の薀蓄が書かれているが、その冒頭は次のように神妙な切り口で始まる。

人間は、生まれると同時に、確実に〔死〕へ向って歩みはじめる(……)その〔死〕への道程をつつがなく歩みきるために、動物は食べねばならぬ。これほどの矛盾があるだろうか。

いずれ死ぬことはわかっている。死を前提として生きており、生きるために他の命を積極的にあやめて食べている。生きるために食べていると同時に、死を前提として食べているのである。

いかにも、食べることは生死に密に関わっている。そして、死生観について語ろうとすれば、形而上学的な屁理屈だけではなく、必然的に日に三度の現実的な食べることによって大部分かたどられるはずである。食べることに恵まれ積極的に楽しめるのは、限られた生の、刻一刻の至福にほかならない。

あれこれが嫌いなどというのは、食べることの――ひいては生きることの――冒瀆であり傲慢な態度である。食べることは人生と同じ重さであり、食べることには精神の横溢がある。仕事観も人生観もポジティブにならざるをえない。「生きるために食べるのか、食べるために生きるのか」という古典的な問いがあるが、答は明白、その両方だ。言うまでもなく、仕事は生きることに含まれているから、「人は食べるために仕事をし、仕事をするために食べる」も真である。