街をこよなく愛する理由

――ひいては、概念としての都市――を礼賛すると、地方や田園はどうなのかと聞かれたり、場合によっては批判されたりする。短絡的である。肉をこよなく愛するからと言って、野菜嫌いと決めつけられては困る。住まいとして街をこよなく愛するということであって、そういうふうになった外的要因や自己都合などの経緯を今さら打ち消すことはできない。

街や田園にはそれぞれの環境的特性があり、別の場所では感じられない固有の良さがあることを知っている。そういう前提に立って街と都会的な特徴をこよなく愛すると言っている。なぜかと言えば、数年間の郊外を除いて生活場面はずっと街だったし、功罪を体験しながらも、街によって育まれ少なからぬ恩恵を受けてきたからである。

都市のリバーサイド夜景

47都道府県のほとんどに旅やビジネスで出掛けたので、今住む街しか知らないわけではない。偏見も先入観も何もない。行きつけの店をひいきするように、素直に街を――特に生活と仕事の場である街を――ひいきにしてきたという次第である。ひいきとはよく馴染んだ結果である。馴染んだものは愛おしく、何よりも余計な気遣いをせずに済む。十数年前に職住近接の暮しになってから、いっそうそのような趣が強くなった。


そんなバカなと言われるかもしれないが、つくづく街は人間的だと思う。反自然や自然の対抗概念としての人間ではなく、日常の生活者としての人間という意味である。その人間に必ずしも家族があるわけではない。街での生活者の最小単位は家ではなく、あくまでも一人の人間なのだ。そういう意味でも人間的なのである。

家中心的な考えと対極的な意味での街は、市民という概念と不可分である。市民意識によって生きるから街。家中心に生きると都市は形成されにくく、生きる場は市という単位を飛ばして、いきなり国という大きな舞台に吸収されてしまう。「国」という概念がそれをよく現わしている。

街を愛し誇りに思うことを〈シビックプライド〉という。街をこよなく愛するのはこのプライドと個としての市民意識があるからだ。家の意識はともすれば身内や仲間や地縁に向いてしまうが、市民意識はそれ以外の関係性と街へと広がるのである。