落葉と木漏れ日びより

河畔に公園に街路に秋が巡ってきた。春夏秋冬にはそれぞれ均等に三ヵ月が割り当てられていると思っていた頃があった。幼かった。自然界の季節が暦に忠実にしたがうはずがない。

近年、秋が短くなったと実感する。二十四節気のうち、かつて秋が受け持っていた立秋、処暑、白露、秋分、寒露、霜降などの分節の違いは言うまでもなく、もっと大雑把に初秋や中秋や晩秋と言ってみても、移り変わりの機微には触れがたく、風景の色相の変化も慌ただしい。秋は遅れ気味にやって来て足早に立ち去るようになった。

上田敏訳詩集『海潮音』にヴェルレーヌの詩、「落葉」がある。

秋の日の
ヴィオロンの
ためいきの
身にしみて
ひたぶるに
うら悲し。

鐘の音に
胸ふたぎ
色かへて
涙ぐむ
過ぎし日の
おもひでや。

げにわれは
うらぶれて
こゝかしこ
さだめなく
とび散らふ
落葉かな。

声に出して読めば哀愁の趣にしんみりとさせられる。秋のどこに感じ入るか。気に入った情景を好きなように切り取って眺め、文字の音にすればいい。庭が自然の切り取りであるように、散策する人は散策路の光景を好きなように切り取って感覚の庭に移植すればいい。この詩では詩人は落葉の秋に感応した。

☆     ☆     ☆

けちのつけようのない青天、落葉に一瞥だけくれて樹々を見上げる。木漏れ日の漏れ具合がちょうどいい。自分の影、枝葉を早々と落葉にしてしまった樹々の影を楽しむ。『日曜日の随想』という、これまた木漏れ日びよりにぴったりの本を繰ってみる。偶然にしては出来すぎの、仕組まれたようなシチュエーションが生まれる。

空気も光もよどむことなく流れている。忙しなくしていると流れは見えない。流れが見える貴重な刻一刻。自分が安らぎの時間と場所に身を置いているからこそ、移ろいの妙が感じられる。

先の詩の後に上田敏が注釈を記している。

仏蘭西フランスの詩は、ユウゴオに絵画の色を帯び、ルコント・ドゥ・リイルに彫塑の形をそなへ、ヴェルレエヌに至りて音楽の声を伝へ、而して又更に陰影の匂なつかしきを捉へむとす。

秋は色であり、形であり、声だと言う。絵画、彫刻、音楽。なるほど、芸術の秋ではある。