〈まなざし〉へのまなざし

「見たけれど、さほど気に留めなかった」。よくあることだ。つまり、まなざしを注がなかったということ。この〈まなざし〉、ごくふつうに使われることばだが、哲学の思考用語になると、意味が一変する。

言うまでもなく、まなざしは見ることから始まる。しかし、肉眼で何かを見てぼんやりと視線を泳がせることではない。見ることを超越して、向けられた方向にある対象を認識したり理解したりしてこそのまなざしなのである。

まなざしを向けた対象を認識する。そして理解する。認識して理解した内容を(必要に応じて)言語に置き換える。置き換えは自分のものの見方に則って自分の〈参照の枠組み〉の中でおこなわれる。あくまでも主観的なのだが、見る以上に踏み込んで対象を把握しようとしているから、何となく見るのとは違う。


視覚から始まったまなざしが視覚以外の感覚へと広がり、やがて身体的な意味を持ち始める。全身がまなざしに参加する。まなざしは自分からの対象への五感的かつ身体的関与である。そのように関与しているのは自分だけではない。他者もそうしている。つまり、自分のまなざしもまた、他者のまなざしのもとに捉えられている。

中村雄二郎は『知の旅への誘い』の「方向――意味を生むもの」の中で次のように書いている。

〈方向〉が〈意味〉をあらわしていること、しかもその両者を〈感覚〉や〈知覚〉が結びつけている(……)。

まなざしを向ける方向に意味がある。意味を汲むのは感覚と知覚であり、さらには身体的な運動ゆえである。ある集団があって、仮に沈黙の集団だとしよう。ことばが交わされない状況であっても――いや、沈黙だからこそ――まなざしが「ものを言う」。無数のまなざしが集団内で放射し合っている。「まなざしがまなざしを向けられる」のが、社会の構造的特徴なのである。