様々な些細な事実

🖋 雨が降っている時の雨音はまったく気にならない。雨が止んだ後に軒から物置の上に落ちてくる滴の音はかなり気になる。

🖋 コメントが付いていないシェアは体裁のいい盗作。

🖋 「立派な趣味ですねぇ」「いやあ、ほんのままごとですよ」……本人はままごとなどと絶対に思っていない。

🖋 「考えることだけが唯一の希望だ」とジョージ・オーウェルは言ったが、希望のない人はそもそも考えようとしない。

🖋 エイジングが進んでいるのか、アンチエイジングできているのか……医者よりも歯と筋肉に直接聞いてみるのがよい。

🖋 嘘をつかないK氏のつぶやき。
「寒いなあ」と思ったら窓が開いていたんですよ。翌日、「昨日よりさらに寒いなあ」と思ったら、窓が開いていたうえに素っ裸だったんですよ。

🖋 手をまったく汚さずに万年筆のインクを充填できたことは一度もない。

🖋 「また飲みに行きましょう」とシニアが言う時、指先をお猪口の形にして口に近づける。ビールかハイボールしか飲まない人でもそうする。

🖋 以前豪ドルを買ったが、豪ドル紙幣は見たことがない。今日、銀行でキンの積立預金を始めたが、金貨も金の延べ棒も契約期間中に見ることはないだろう。

🖋 その銀行で各種粗品セットをもらった。ティッシュも入っていたが、商談デスクの上に置いてあった印鑑拭きが欲しかった。

🖋 お笑い芸人の「いつもここから」の山田一成の『やまだがん』を古本屋の店先で見つけた。金百円也。「電車の弱冷房車に不良が乗っていた」という観察が微妙に可笑しい。

記憶の方法

同輩だけでなく一回りや二回りの年下が「物忘れがひどくなった」と嘆く。覚えたことが出てこない。では、揮発しないように知識を脳内に格納するとしよう。たとえば、広辞苑に収録の25万語のUSBを脳につなぐ。これで記憶は万全になるか。検索はできるかもしれないが、記憶されたことばが再生できる保証はない。ことばは使うことによってより強く記憶されるからだ。

なぜ人は記憶しようとするのか。いつか再生するためである。再生の必要も機会もないことを覚える必要はない。たとえば賃貸契約書。丸暗記などせずに、いつでも参照できるように記録する。たとえば長編の小説。将来再生することはないから事細かに覚えない。しかし、どこかで使うかもしれない名調子の文章なら覚えておこうとするかもしれない。

うんと昔に読んだ夏目漱石の『草枕』など、あらすじはほとんど覚えていないが、冒頭の「智に働けば角が立つ、情に棹させば流される、意地を通せば窮屈だ。とかくに、人の世は住みにくい」という名調子だけはよく覚えているし、いつでも再生できる。「これは使えるぞ」と直感する。そういう意識のアンテナが立って、『草枕』の知情意がアリストテレスの『弁論術』に関連づけられたりもする。

☆     ☆     ☆

記憶力の強化について、脳研究者の池谷いけがや裕二が次のように書いている。

脳は入ってきた情報を「記憶すべきかどうか」と品定めします。このときの判断基準は「出力」の頻度です。
脳は「この情報はこんなに使う機会があるのか。ならば覚えておこう」と判断します。「こんなに頻繁に出会うのか。ならば覚えておこう」ではないことに注意してください。
(『自分では気づかない、ココロの盲点 完全版』、下線は岡野)

よく出てくるから覚えようという時は「入力インプット」に軸足を置いている。入力の行き先が定まっていない。他方、使えそうだと判断する時はすでに「出力アウトプット」を意識している。「これを覚えておけば使えるぞ」という魂胆をさもしいと片づけるむきもあるが、ひとまず使ってみることで記憶は強化される。池谷は「繰り返し学習して頭に叩き込むよりも、テストを解く」ことを推奨する。テストを解くというのは、覚えたことを使ってみるということにほかならない。

インプットしたものをアウトプットするという考え方はインプット主導型。空っぽの脳ならそれでいい。知識を仕入れなければ話にならないから。しかし、何十年も生きてきて脳内には知識も経験も言語の在庫もある。いくらでも出荷できるのだ。

加齢にともなって記憶力が衰えると言うが、実は脳の問題ではない。定年になり他人との交流機会が減ってアウトプット量が激減するのが原因だと睨んでいる。同輩と雑談したり後輩に蘊蓄したり……喋ることに関しては生涯現役を続けることが理想的な記憶の方法なのである。

日々の笑い

いつの頃からか知らないが、「笑い」が「爆笑」の同義語になった気がしている。腹を抱えて大笑いする、コメディ的なものだけが笑いの定番。ユーモアやエスプリや微笑みは笑いとは別物になってしまった。ところが、日々見聞きする笑いのほとんどは「ガハハハ!」とは無縁の、小さな笑いなのである。

ユーモア作家の阿刀田高が「ユーモアはギリシア語由来で、元の意味は体液だった」という話を書いていた。体液は身体を巡っている。ユーモアを感じると巡りがよくなる。大笑いでなくてもよい。ほんの少し口角を上げて微笑むだけでも十分。安上がりなサプリメントだ。やずやでもDHCでも売っていない。

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知人が引っ越した。葉書に「近くにお越しの際にはお立ち寄りください」と書いてある。これは「ついでの折りにどうぞ」という意味で、積極的な招きではない。こう書かれているうちは二流である。「ぜひともお越しください」と言われてはじめて一流。「車でお迎えに上がります」と書いてあれば、VIP級の一流扱いだと思ってよい。

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「脱食べ放題、脱飲み放題」を宣言した。「すごい決意ですね」と褒められた。いやいや、食べ放題・飲み放題こそが異端的で大胆な決断だったのだ。普通に食べて普通に飲むのは特に禁欲的でもなく、難しい自制心を必要としない。それを一大決心と言われても困惑するばかり。

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自宅から12キロメートル圏内のいつもの散歩コース。二日連続で歩いた。観光客の人出は尋常ではなかった。「中華人民心斎橋」や「中華人民大阪城」が建国されつつある。店頭で中国語で呼び掛けるドラッグストアは「中華人民ダイコク」。

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諺辞典を読んでいてしりとりがしてみたくなった。「目は口ほどにものを言う」→「口はわざわいの門」→「禍転じて福となす」「目→口→禍→福」の完成。と言うわけで、ハッピーエンド。

語句の断章(26)問答

問いのないテスト用紙に答えは書けない。生活や仕事で問題があると薄々感じていても、その問題が明らかでなければ解けない。解決の難しさの最大の理由はここにある。裏返せば、問題を記述化して明らかにできた時点で、解決への一歩を踏み出すことができる。「問題は何か」という問いに何がしかの答えができれば、糸口が見つかるのである。

「言い表わすことのできない答えには問いを言い表わすこともできない。謎は存在しない。およそ問いが立てられるのであれば、この問いには答えることができる」
(ヴィトゲンシュタイン)

問題のありかを問いの形で表わすのは、解決を促したり答えを導いたりするうえで有効だ。その問いが的を外したような愚問なら答えもつまらないだろう。アレキサンダー大王がインドの行者に言った、「難解な問いへの答えもまた難解である」と。問いの質と答えの質は響き合う。問いと答えは二つでワンセット。だから〈問答〉という。

物事を理解しているかどうかを判断しようとして問い、その後に答えの中身を評価するのが常套手段。さほどいい方法ではない。むしろ、答えさせるよりも質問させてみるほうが理解度がよくわかることがある。

「旅はいかがでしたか?」などと問われて困ることがある。たいてい「よかったよ」と応じるしかない。こんな問いに答えるのは時間の無駄だ。ほんとうに旅のことを知りたければ、その程度の社交辞令的な聞き方をするはずがない。古代ローマの詩人であり喜劇作家であったプブリリウス・シルスは「どんな問いでも答えるに値するとはかぎらない」と言った。良き問答は良き問いによって成り立つのである。

主張するゴシック、誘う明朝

書体は味わい深い。書体は差異でできている。人間の体つきと同じく、文字にも様々な体つきがある。よくぞ「の身」と表現したものだ。

ことばはそれぞれ固有のイメージとニュアンスを共通感覚的に備えている。ぼくたちは「さて何が書いてあるか」と文字を読むが、読む前に書体の見た目ですでに雰囲気を感じ取っている。

主要な書体はおおむねゴシック体と明朝体の二系列に分かれる。ゴシック体は字画の多少に関係なく線の太さが均一だ。これに対して、明朝体の文字は一画一画の線の太さに変化があり、ハネや曲線に特徴がある。読み手が受けるイメージやメッセージ性はゴシックと明朝では大きく異なる。

力強く、注意喚起力のあるゴシック体は「主張する」。ゴシック体は広告や雑誌記事の見出しに使われることが多い。他方、明朝体は線に変化があるのでパターン認識しやすく可読性が高く、長文に向いている。書物の本文にはほぼ明朝体が使われている。明朝体は読み手を「いざなう」。

標識の書体の定番はゴシック体だ。指示に適している。先日、中之島を歩いていた。勝手知ったるエリアだから迷うことはない。じっくり標識を眺めることはなかった。なにげなく飛行機雲を見上げたら標識も目に入った。大阪市役所、バラの小径、北浜駅、天神橋、バラ園の文字。すべて明朝体である。いつから明朝体を使っていたのだろうか。

文字が威張っていない。主張しすぎていない。やさしく場所の方向を指し示している趣が感じられる。なじみの地名が洗練されたように見えて新鮮だった。この標識に誘われるまま歩を進めてしまうオトナがいるに違いない。

アコースティックなことば

音声と文字の言語を習得する前に先験的アプリオリな〈サイレント・ランゲージ〉、つまり、沈黙のことばがある。沈黙のことばの原点を母語とすれば、話しことばが第一外国語、書きことばが第二外国語という見立てができそうだ。

耳に入ることばをサイレント・ランゲージや事物と照合して意味づけし、話し始める。文字を覚えて意味を読むようになり、やがて意味を書くようになる。母語と第一外国語と第二外国語を同時に習得するのだから、言語的生活はもとより気楽にというわけにはいかない。

何を言っているのかさっぱりわからない時、たいていその話者は単語や短文しか使っていない。単語や短文から意味を汲み上げるのは容易でない。カラスの「カァー、カァー」や犬の「ワンワン」とほとんど変わらない。

文が構文になり、構文と構文が相互に結びついてようやく意味が浮かび上がる。にもかかわらず、一語か二語話しては止まり、途中「その、あの、ええっと」を挟んでから次の語が発話される。もともと会話にはこんな側面があるのは否めないが、動詞のない文や単語の羅列では聞き手の負荷が大きすぎる。

思うかぎりを尽くして、その相手にその場で言うべきこと、言いたいことを生の声で語る。生真面目なエトスを静かなロゴスで、奇を衒わず、また迎合もせず、パトスを抑制気味に……。テンションの高いトークや熱弁など意識するには及ばない。こういう語りを、ぼくは〈アコースティック・トーク〉と呼んでいる。自分一人ではいかんともしがたい。このトークは題材と相手を選ぶ。

独学を見直す

名称や形態は変遷したが、30代後半から本業以外に私塾を主宰してきた。地元大阪の縁がある、緒方洪庵が創始した適塾てきじゅくの〈輪講りんこう〉という会読と討論の方法にはとりわけ触発された。ちなみに、輪講は段階別の8クラスに分かれていて、各クラスで3か月連続首席を取らないと上のクラスに上がれない仕組みになっていた。福沢諭吉は首席を取り続け、最短の2年で最上級まで駆け上がった。さすがと言うしかない。

『福翁自伝』をはじめ『適塾の研究』(百瀬明治著)や『日本の私塾』(奈良本辰也著)などを読み、かつての私塾の姿を垣間見るに及んで、現代人は学ぶということについて幕末や明治期に比べてかなり甘いと感じるようになった。わかっていることを確認したり、わかることだけを都合よく学ぶだけの人たちがどれだけ多いことか。翻って、適塾の勉強量は圧倒的だった。それでいて、難しいことをおもしろいとする塾風のお蔭で「苦の中にこそ楽あり」という精神が漲っていた。

適塾は蘭学塾だったから、学びの狙いははっきりしていた。しかし、蘭学を蘭学で終わらせず、世事一般に生かす知力も同時に備えることができた。本物の競争をおこなうという環境の中で、総合力が身についた。

☆     ☆     ☆

本を読んだり人の話を聴いたりするだけの学びでは閾値を超えることはできない。何を読むか何を学ぶかよりも、何を考えるかが初めになければ話にならないのである。結局、知識は思考域に落とし込んでおかないと自分のものにならないし、行動にもつながらない。

そもそも学ぶことは難しいものだ。独学ならなおさらだ。だから、「難しい」などと嘆いてはいけない。「難しい」は禁句である。容易にわかるのは、すでにある程度わかっているからだ。Xを学んでわかるのは、そのXについての知識を持ち合わせており、新しい学びと既知を照合できるからだ。

その〈照らし合わせ〉ができない時に、わからない、難しいと感じる。そこでストップすると進化はない。昔の人が、意味もわからずに漢詩を素読したり丸暗記したりしたように、わからなくても齧っておけば、かけらの一つでも取り込める。それが次なる未知と出合う時に、照合可能なヒントになってくれる。

人の〈知圏〉というのはこんなふうに広がっていく。語彙ゼロで生まれた赤ん坊が知らぬことばを徐々に習得するのと同じ構造である。誰もが通過してきた経路なのに、大人になると能率的ではないことに苛立つ。

本物の勉強は――赤ん坊がそうであったように――「無私的」なのだと思う。自ら学び考えることをろくにせずに、勉強の彼方に立身や利益を求めるかぎり、学びは安易なハウツーに偏重するばかり。決して人間性や社会性を帯びることはない。独学を習慣化し切磋琢磨して競い合うような厳しさが決定的に不足している時代を嘆く。

恒例を変えてみた

儀式や行事をいつも決まって同じようにおこなうこと。それを恒例という。だから、変えるともはや恒例ではなくなる。「変わりゆく恒例」など本来ありえない。

今の居住地に引っ越してから14年。元日には毎年高津宮こうづぐうに詣でて神籤みくじを引いてきた。今年も同じく詣でる〈儀〉を執り行ったが、神籤は引かなかった。過去13回引いて、吉が出たのが一度、あとは凶や小凶や大凶の類ばかり。吉の出た年を除いて、過去13年はまずまずの好日の日々だった。神籤? もういいだろうという気分で引かなかったのである。つまり、枝葉末節的に恒例を変えてみた。

二日後にたまたま天満宮近くを通りかかったので、ついでなので境内を横切ることにした。元日ほどではないが、大いに賑わっている。人混みを避けて歩いていたら「おみくじ所」の前に出た。高津宮で引かなかったから今年はここにするかとふと思ってしまい、美人の巫女の列が空いていたので引いた。変えた恒例がまた変わった。 

番号札は第十五番。いつもの通り「凶」だった。よほど凶との相性がいいようだ。けれども、凶に特別な嫌悪感はない。くにがまえならメ(×のつもり)が格納されているみたいだが、幸いにしてメが入っているのはうけばこである。上部が開いているからいつでもメを取り出せばいい。

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引いた手前、凶の文字だけ見て終わらない。律儀に全文に目を通す。願事、学業、恋愛、探物、健康、旅行、商業、家庭……どれも良くないことが書いてある。とりわけ、健康は身体ではなく心の養生をせよと。精神に問題を抱えているのか。縁談は時期尚早、良縁を待てとのお達し。もうとうに手遅れだ。

吉方のみ、良いも悪いもなく、「北の方」が良いと告げる。遠方の出張では西方面多く、北にはほとんど縁がない。但し、近場なら、自宅から事務所は北の方向、月に一、二度行く梅田も北。吉方が北だからと言って、北ばかりに行くわけにはいかない。行った手前、帰ってこなければならないから、同じ数だけ南へ戻ってくることになる。

総評または概要として【ただ祈るべし】という見出し。神社仏閣に詣でても祈ることはないし、神仏の信仰心も浅いことが見抜かれたようである。祈るべしと命じられたら祈ることはやぶさかではないが、そもそも「何をどう祈るのか」を知らない無粋者である。

堂々巡りの語釈

単行本では読んでいたが、古本屋で文庫版を手に入れた。別役実の『虫づくし』。カフェで読み始めた直後、「序にかえて」の文中の次のくだりで考えさせられる。

試みに、広辞苑に拠って「虫とは何か」を調べてみると、次のようになる。
「①古来、本草学で、人類を獣類・鳥類・魚介以外の小動物の総称。昆虫など。」

この本は虚構的なエッセイである。あるいは、ある種の小説として読むこともできる。真の中に偽なるものが、偽の中に真なるものが書かれるので、この著者の文章を読む時は真剣すぎても油断しすぎてもいけない。

上記の引用の真偽のほどはわからない。念のために調べるなどという読み方をすると途端につまらなくなる本なので、書かれるまま読み続けるのがいい。著者は広辞苑から引用し、「虫は、否定形でしか説明されていない」と補足する。

☆     ☆     ☆

なるほど、辞書の語釈の記述にはたしかに否定形がよく現れる。定義に困ったら見出し語の本質に切り込むのではなく、「~を除くもの」「~ではないもの」「~の反対」などの記述で逃げる。これが辞書編集の常套手段であり苦肉の策である。

「しろ【白】」が「雪のような色。↔黒」という具合。気になって、「くろ【黒】」の項を見ると「墨のような色。↔白」である。白は黒に、黒は白にもたれ掛かっている。まるで二語ワンセットによる意味のあぶり出し。

「じゆう【自由】」はどうか。「他からの拘束・束縛などを受けないこと」。自由の意味を知らない学生が拘束と束縛を知っているとは思えない。編纂者もそう確信していると見えて、ご丁寧に「拘束こうそく束縛そくばく」とルビを振っている。

自由の見出し語から先へ十数ページ捲ると、「じゅつご【述語】」に出合う。「文の成分の一種。主語について、その動作・状態・性質・作用などを表す。」とある。「主語」を知らなければ、述語の意味がわかるはずもない。

あることがわかっているから、それを手掛かりにして別のことの意味が類推できる。わずかな既知から未知を導く。手掛かりがなければ、いかんともしがたい。定義にはどこか堂々巡り的なところがある。意味を明快にする必殺の一文などないのだ。このことは、言語を学ぶ過程で常に体験することだと思われる。

クロワッサンとパン屑

ショーソン・オ・ポムを食べる。なに、大それたものではない。「アップルパイ」をフランス語で書いただけ。まずまずの好物だ。

アップルパイは食べにくい。ぽろぽろと皮が剥がれるわ、くずがこぼれるわ、とにかく食べにくい。しかし、それでこそアップルパイだ。ぱりぱりの皮を剥がさずこぼさずに上品に食べている人がいたなら、その人かアップルパイのどちらかが怪しい。皿やテーブルにかけらを落とさず、指や口元を汚さないでアップルパイを食べるのはマナー違反である。

パリに三度旅し、アパルトマンを借りたことがある。レストランで料理を食べるよりも自炊が楽しく、自炊のための材料の買い出しにわくわくした。とりわけパン屋で並んでバゲットとクロワッサンを買うのが日課になった。焼き立てがいいのに決まっているが、必ずしもこだわらない。

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アップルパイも皮が剥がれて口元からこぼれるが、クロワッサンはそれ以上に剥がれてこぼれる。しかし、こぼれないようにと手で受けてはいけない。絶対にしてはいけない。

「正月食」に飽きて、アップルパイかクロワッサンを食べたくなった。S.マルクというカフェの前を通りかかったので、コーヒーとクロワッサン生地のチョコレートパンを注文した。店側はそのパンを「チョコクロ」と呼ぶ。チョコレートクロワッサンである。さすがはクロワッサン、ぽろぽろ落ちる。周囲を気にせずに食べ続ける。テーブルや床にこぼし放題。繰り返すが、手や紙ナプキンで受けてはいけない。集中力がパン屑に向くと、クロワッサンがまずくなるのだ。

くずはトレーの上に落ち、トレーからはみ出てテーブルの上にも床にも落ちた。生地のぱりぱり度にもよるが、本体の約10パーセントがこぼれる覚悟が必要。つまり、10個買っても食べるのは9個。それがクロワッサンというものなのである。