スローフードの2月

コロナで明け暮れた2月。コロナの2月ではつまらないから、足早の2月をちょっと足早に振り返ってみる。


節分の恵方巻は罪作り。どこかの方角に向かって巻き寿司を食らう。言われるまま、丸かぶりすると喉を詰めかねない。噛み切った断面は美しくなく、みつばだけがずるっと抜けて口元から垂れる。縁起がよくても美しくない。だからカットして上品にゆっくり食べる。

そんなふうに味わっても、売れ残った恵方巻は大量廃棄される。儲けようとして多めに作っては捨てる。早食いも過剰もよくない。不足気味のほうが健全である。何でも欲張らないのが本来の〈人間の格〉ではなかったか。

一人一本が恵方巻に贅沢感を付与する。そう言えば、板チョコは兄弟で分け合った。いつか一人で一枚を食べたいと思っていた。独り占めという願望と罪悪感。もし幼い頃に一本や一枚丸ごと手にしたら、黙々と、しかしガツガツと平らげた違いない。


まったく話にならないのもあるが、一部のコンビニの100円コーヒーは侮れない。一部のビストロが提供するディナー後のコーヒーでは太刀打ちできない。コーヒー味のぬるいお湯なら一気飲みするしかない。前菜もメインも台無し。コンビニコーヒーのほうがゆっくり味わえる。

とは言え、うまいコンビニコーヒーにしても、紙の容器にプラスチックの蓋をするうちに喫茶店のスローな時間に及ばないことを感じる。古めかしい喫茶店の隅に座り、その店自慢のブレンドを注文する。「すする」とは言い得て妙である。ゆっくりの時間に浸ると、タイルの壁が古代ギリシア・ローマ色に見えてきたりする。しめて金450圓也。

コーヒー好きは蘊蓄する。蘊蓄などせずに一杯を堪能すればいいのに……。しかし、蘊蓄の語りは実は自分に向けられている。蘊蓄は蘊蓄者自身に気づきをもたらし、記憶を整理してくれる。聞かされる方は犠牲者かもしれないが、コーヒーをおごってもらえるという見返りのために耳を傾ける。


イタリアで始まった〈スローフード〉。ドリンクも含む。「偽りがない、栄養がある、本物」が基本理念。早食いではこれが実感できないから、ゆっくり食べる。いろんな解釈が可能だが、好き嫌いをつべこべ言わず、なるべく旬のものをふつうに食べ、作り過ぎず残さずというふうにぼくは捉えている。そんな食事ができたスローフードの2月に感謝する。

都市との出合い

〈都市〉は多義語である。国によって多様な形成の背景がある。地方や山村の対義語だが、地方や山村に比べて人が多いからという理由だけで、都市と言えるわけではない。増田四郎の『都市』によれば、「人数だけでは都市が成立している決定的な条件にはならない」のである。同著には「自分らでつくり上げた自治体」「市民、つまり都市の原理が国家の原理」などのキーセンテンスが出てくる。

「自分はこの国の国民だ」などと普段は思わない。国は見えない。見えない国でたみの一人であると感じることは稀だ。国民は抽象的な上位概念。ぼくたちは国民である前に、市民として日々暮らし働いている。都市では市民感覚が根を張っている。

10年前までよくヨーロッパへ旅していた。ぼくの旅は今住む都市から別の都市への移動だった。フランスに来た、イタリアに来た、スペインに来たなどという感覚ではなく、パリにいる、フィレンツェにいる、バルセロナにいるという感覚だった。旅とは国との出合いではなく、都市との――ひいてはその都市の人々や歴史との――出合いにほかならない。


ホテルやアパートに泊まる。窓の外に目をやる。街歩きの前に、窓外の光景へのまなざしは欠かせない。都市に投宿すれば、美しい自然が窓外に広がることはない。承知の上だからそれを残念がることもない。広場の様子をじっと眺める。広場が見えなければ裏通りに視線を落とす。都市では建物が主役の趣がありそうだが、行き交う人々と歴史という遠景こそが絵図のテーマになる。

新しい都市と出合うたびに、自分のまちが対比される。見知らぬ都市の人々や歴史に触れるたびに、自分とまちの過去の残像が見えることがある。

「新しい都市まちに着くたびに、旅人はすでにあったことさえ忘れていた自分の過去をまた一つ再発見する。もはや自分ではなくなっている、あるいはもう自分の所有ではなくなっているものの違和感が、所有されざる異郷の土地の入口で旅人を待ち受けている。」(イタロ・カルヴィーノ『見えない都市』)

旅で一番よく気づかされるもの、それは忘れてしまった自分とまちの過去である。このことは、自分のまちで旅人を受け入れる時にも当てはまる。ぼくのまちでは、大勢の外国人旅行者の〈不在〉によって、つい最近までの賑わいが遠い過去のように思い出され、架空の人の群れが想像の中で浮かび上がる。入口で旅人を待ち受けようとも、しばらくは待ちぼうけが続きそうな気配がある。

ディベート総決算

半世紀近くディベート教育に携わってきた。本業でもなく趣味でもなく。敢えて言えば、機会創出と普及活動。普及と言ってもたかが知れている。「ギリシア・ローマ時代から引き継がれてきた対話の手法があるので、一度は見たり経験してみたら?」という、ささやかな動機づけというところだろうか。

以前は、入門者のためにディベートを討論と位置づけていた。しかし、討論だとディスカッションや交渉との違いが鮮明にならないので、〈異種意見間交流〉という造語で説明したこともある(余計わかりづらくなった)。1990年代はちょっとしたブームになり、全国の講演や研修に招かれ報酬も手にした。本も書いたし、ディベート交流協会も立ち上げて定例活動もおこなった。残念ながら、今はディベート寒冷期に入っていると思われる。

世紀が変わってからは、討論ではなく、言語トレーニングの一方法として細々とプチ勉強会をしたり行政の研修に赴いたりしてきた。ある論題を巡って、賛成する側と反対する側を交互にロールプレイして議論するのがディベート。予期せぬ方向に議論が展開すると即興色が濃くなる。口頭でおこなうから、ことば遣いの精度は紙に書くよりもかなり低いのはやむをえない。先日実施されたディベート大会では、意味不明瞭な表現が飛び交い、たった一つのことばで議論の質が落ちる場面が少なくなかった。

阪神・淡路大震災25年メモリアル 〈防災・社会貢献ディベート大会〉のひとこま。

ある概念や思いを伝える表現オプションはいくらでもある。適切な用語を選んで明快に伝えるのはやさしくないが、表現の言い換えパラフレーズをいろいろ試みてようやくわかってくる。普段は自分の主張を述べるから、表現が変化しにくい。ところが、賛成と反対の両方の立場で議論するディベートでは、表現が多様化する。

ディベートはことばの可能性に気づく眺望点になりうる。社会には様々なテーマの是非や功罪がある。相反する概念を踏まえて論じれば、是と功のみ、非と罪のみを常套句で語るのと違って、斬新なことば遣いが生まれやすい。立証する時のことばと検証する時のことばが変わるのだ。ディベートの1試合や2試合の経験ではいかんともしがたいが、場数を踏むにつれ、ことばのセンシティビティが磨かれていく。

ものを書いたり読んだりしていれば、これが詭弁だ、あれは詭弁でないということがよくわかる。ところが、音声は消えるから、話したり聞いたりする時は、妥当な論理か屁理屈かを見分けにくくなる。ことばを現場の代理メディアとする議論では、実態とことばには誤差や筋違いの意味が生まれ、誇張や曲解がつきまとう。ことばはつねに詭弁と隣り合わせなのである。わかりにくいことばを言い換えようとした結果、詭弁に傾くこともある。実社会の論争では正義も悪も、ことばを使うかぎり、詭弁を免れない。

なお、『ディベート総決算』と題したのはほかでもない。聴衆の一人として観戦することはあっても、今後はディベートの指導・審査にピリオドを打つという意味である。

書き始めてからの話

200865日に最初のブログ記事を書いてから11年と約8ヵ月。おおむね3日に1回のペースの更新。先週1,499回に達し、今1,500回目となる記事を書こうとしている。

今日の記事の着地点はまだ見えていない。書き始めてからの話であり、書き終わってからでないと話にならない。節目の1,500回に何を書くかなどと気負うこともない。何かを書けば、それが1,500回目になるだけだと、案外行き当たりばったりである。

テーマがはっきり決まってから書くこともあるが、ほとんどの場合、気になる小さな事実やわずか一行のメッセージをきっかけにして冒頭の一行をひとまず書きおこす。今しがた歩いた足跡を振り返るように、書いては読み返す。ことばが何がしかの記憶を呼び覚ましてくれれば、その記憶を飛び石伝いにして書き進めていく。愉快に書こうとか、啓発的に書こうとか、文章を凝ろうなどと目論むことはほとんどない。ほぼ道なり。

小難しい話は、自分でも分かっていないことがあるから、右往左往したり迂回したりしながら、気づけばことば遣いも小難しくなっている。話題が軽めの方向に傾きかけると表現も軽くなる。自分の思惑以上に、記憶や素材の色や雰囲気が出る。自然に話がまとまって一安心することもあれば、着地しないまま不自然にペンをくこともある。

「ペンを擱く」と書いたが、実際にペンで文章をしたためる。文章は何度か読み直して推敲してからキーボードで打ち込む。フォントの体裁にしてからも文章を調整したり段落を組み換えたりする。こう書くとえらく大そうなことをしているようだが、そうでもない。時間をかけても才能以上の出来にはならないから、作業を切り上げてブログの公開ボタンをクリックする。

話のほとんどは書くにつれて決まってくるが、とにかく書き始めなければ話は始まらない。何を書くかではなく、書きながら話題を探す。そんな書き方と話題を決めてから書くのとではどんな違いがあるか。実は、自分でもよくわからない。いずれにせよ、書かないよりも書くほうが考えもはっきりするし、記憶もよみがえりやすいことだけは疑いようがない。

こんなふうにして、今日1,500回目に達しようとしている。自分のために書いてきて、よろしければご笑覧くださいというスタンスはずっと変わっていない。いつまで書き続けるのか、これまたわからない。どんな展開を経てどんな末尾で終わらせるのかと、書く前から案じてもしかたがない。最初の一文を始める意欲さえ失わなければ、これからも何とか続けられそうな予感がする。

「人があれもこれも成し得ると考える限り、何一つ成し得る決心はつかない」というスピノザのことばを思い出す。ブログ以外にしたいことはいろいろある。しかし、欲張ってもしかたがない。ここ十数年、仕事以外に途切れなく続けてきたのはこの〈オカノノート〉以外にない。せめて一つに絞って成し得ようとするなら、これしかない。

語句の断章(27)言及

第七版が手元にないので第六版で間に合わせて紐解く。『広辞苑』では【言及】を「(その事柄に)言い及ぼすこと」と定義している。「言及とは言い及ぼすこと」という記述は堂々たる同語反復トートロジー。「悪人は悪い人だ」という類に同じ。言及に言及していない。

パスカルはこういう定義はけしからんと言った。

「用語の定義にあたっては、十分に知られているかすでに説明されている(用語以外の)ことばだけを使うこと」

定義しようとしている用語“W”を、WまたはWの一部で説明してはいけない。【言及】の定義文に言及を使ってはいけないし、「言」や「及」も使ってはいけない。ちなみに、『新明解』は「段段に話を進めて行って、結局その事を話題にすること」と記述している。必ずしも明解ではないが、『広辞苑』よりは良心的だ。パスカルの法則を守ろうとした努力の跡が窺える。


「言及の有無について」という一文を書いたことがある。「あることが言及されたことだけに当てはまり、言及されていないことには当てはまらないなどと都合よく考えてはいけない」という趣旨の話だった。たとえば次の文章。

「部屋にある金魚鉢で二匹の金魚が飼われている」

この文章の書き手は明らかに金魚に言及している。正しい観察であるなら、金魚は二匹である。だからと言って、「金魚鉢にはメダカはいない」と早とちりしてはいけない。この一文からわかることは、メダカがいたかいなかったではなく、書き手がメダカに言及していないということだけである。

何の確証もないのに、金魚鉢も一つだと決めつける(英語では一つか複数かはわかるが、日本語では明示しないことが多い)。金魚鉢も二つかもしれないが、書き手は一つの金魚鉢だけに言及した。その金魚鉢の形状や色などには言及せず、二匹の金魚だけに触れた。そういうことである。

「今、デスクの上には分厚い手帳がある」。こう言うぼくはデスクトップPCやキーボードに言及していない。目に入るもののすべてをことごとく一気に描写することなどできないのである。もっと言えば、デスクの上にないものなど無尽蔵に存在するのだから、いちいち「何々はない」などと言っている暇はない。

214日、午前11時現在、デスクの上にはバレンタインデーのチョコレートはない」。しかし、鞄の中に入っていないとは言っていないのである。

〈読み〉について

「読む」という、何の変哲もない、何度も使ってきた用語の意味をはたして読めて・・・いるだろうか。〈読み〉とは何と関わろうとする行為なのか? わかったようでよくわからない。一度たりともじっくり考えたことはない。

推測したことが的中することを「読みが当たる」と言い、的中しないと「読みが外れる」と言う。読みは「当たったり外れたりする」。

ある局面で見通しが楽観的に過ぎる時を「読みが甘い」と言い、見通しがよくて変化を感知できれば「読みが深い」と言う。読みは「甘くなったり深くなったりする」。

一直線で探ろうとすると「読みを誤り」かねない。だから、いろんな岐路でいろんな方向から「読みを重ねる」。読みは「誤る、誤らないためには重ねる」。

人は読みを当て、読みを外す。甘い読みに後悔し、深い読みに満足する。読みを慎重に重ねる一方で、単純に読みを誤ってしまう。本、空気、風、他人、場、状況、将来、心、思惑、作戦、手の内、時流、展開、関係、行間、意図、雲行き……すべてにおいて読みの精度を高めようとし、その難しさに苦渋しては読めない自分を嘆く。


「いったい何を読もうとしているのか?」

ひとまず当面の対象を読もうとする。しかし、その先まで読んでいるのか。仮に読んでいるとしても、読んでどこに到ろうとしているのか。たとえば、程度はさておき、本は読める。しかし、本を読む行き先はどこなのか。あるいは、手の内を読んでどうしようというのか。その手の内は相手の手の内であって、自分の手の内ではない。相手の手の内への読みがなければ、自分の手の内の読みようがない。

「なぜ読もうとしているのか?」

対象を乗り越えるためではないか。乗り越え、克服し、対象が帰属している環境に適応しようとして読むのではないか。読むという、一見受動的な行為は、他の生物と同じように、人間にとっても環境適応のための積極的な生き様なのに違いない。

イタリア現代陶芸の巨匠、ニーノ・カルーソの造形展を鑑賞した。一切の予備知識を持たず、作品の解説もろくに読まずに作品だけを眺めた。途中から、これは「神話世界の再生ではないか」と感じ、そこに読みを入れてみたら、展覧会のテーマ〈記憶と空間の造形〉とつながった。しかし、まったく釈然としない。まだまだ環境適応を意識した読みになっていないのである。

寄贈本と思い出と

最近、故人の遺志により蔵書の一部、およそ200を寄贈していただいた。

初めての出会いは故人Y氏が47歳でぼくが35だった。当時ぼくは広報・販促の小さな会社のサラリーマン。Y氏は香川県に本社を置く大手企業の子会社の次長として親会社の広報を担われていた。ある企業を介しての縁だった。委託されたミッションは海外向けのアニュアルレポートの英文コピーライティングと編集である。

気性は穏やかとは思えず、時折り苛立って少々ぶっきらぼうなことば遣いをする人だった。初対面ではぼくが信頼できるかどうか品定めしている様子だった。実力の程を試すような質問が本題の会話の随所に投げ掛けられた。若かったので体をかわすようなことはせず、自然流に答えようと努めた。それが結果的に人間関係で吉と出た。任務は精度を落とさぬように慎重に執り行い、満足していただけた。

ぼくは翌年退職して起業した。「前の勤務先であの仕事を引き継げる人材はいない。今年もお願いしたい」と連絡があった。仕事の当てもなく起業したので、ありがたい話だった。以来、その案件以外に諸々の仕事を出していただき、お付き合いは十年以上になった。クライアントの都合や社会状況に応じて仕事の縁はやがて途切れるが、途切れてから――Y氏が現役を退かれてから――それまでの仕事関係をリセットして、新しい交際が始まった。


たまたま香川で別件の仕事が発生し、毎年赴くようになった。連絡しては前泊日の昼や夜に会うようになった。最初出会った頃にぼくを値踏みするような口調やまなざしはすでに消え、早口ではあるが穏やかに物語る人に変わっていた。年に一回、会って何を話していたのかと言うと、本と読書のことばかり。談義は3時間、4時間と続いた。「岡野さん、シェークスピアはおもしろいねぇ……」と切り出すと、もう止まらない。シェークスピア講座に通っている話、DVD全巻で観劇した印象、ある作品の名場面の精細な描写……

シェークスピアが終われば小林秀雄、その次はドストエフスキーという調子。もちろん、Y氏が話し手でぼくが聞き手という役割分担だけではない。ぼくも最近読了した本の書評をする。「よくいろんなものを読んでいるなあ。おぬしの知見には感心する」などと褒めてくださる。「いやいや、読んだふりですよ。Yさんほどには熱心な読書人ではありません」と応じる。謙遜ではなく、本心からそう思っていた。なにしろ手に入れた本は一冊残らず完読されていたのだから。ぼくのなまくら読みとは次元が違う。

定年を機に、ビジネス本やハウツー本をすべて処分し、小説や詩、思想や哲学にのめり込んで貪るように読んでおられた。ぼくの読書観がきっかけの一つになったとおっしゃったが過分のお褒めである。201712月、酸素吸入装置を引っ張ってホテルまで来られ、干物専門の居酒屋でほとんど箸をつけず、ちびちびワインを含みながら、本や近況の話を交わした。翌201812月の出張時は病状悪化で会うことはままならず。出張から帰った一週間後に訃報が届いた。

亡くなる3週間前に、力を振り絞ってしたためたような筆致の手紙をいただいた。

「書籍の寄贈の件、後日、ジャンルにとらわれずセレクトして、僅かですが贈りたいと思っております……ご厚情に感謝するとともに、今回の欠席、お詫びいたします……今後もご交際のほどよろしくお願いします」。

結局、その「今後」はなかった。

昨年12月、奥さまから連絡をいただいた。蔵書の寄贈のことが気になっていたが、一年間ぼんやりして何も手つかずだった、云々。まもなく一回忌というタイミングで自宅を訪問し、お言葉に甘えて読書談義に出てきた作者の本を選ばせていただいた。書棚五段分。オフィスの図書室で所蔵している。

ごっこをした頃

最近、バーチャル世界だけでなく、リアル世界でも〈ごっこ遊び〉が目立ち、しかも大仕掛けになっている。五輪もIRもある種のごっこ遊びだ。また、小さなごっこのつもりで始めた個人が、知らず知らずのうちに巨大な電子システムの中に巻き込まれていたりする。リアルかバーチャルなのか、よくわからない。

本来ごっこはリアルを真似たたわいもないバーチャルな遊びだった。ごっこには複数のプレイヤーが参加し、少なくとも二人を必要とする。稀に一人でごっこ遊びする子がいるが、その場合でも仮想の誰かをイメージするので、実際は二人で遊んでいることになる。

誰かに成り切ってロールプレイするのがごっこ。ヒーローと悪人、医者と患者、売り手と買い手などと役割が分担される。それは人間関係ゲームでもある。カイヨワの言を借りれば〈ミミクリー〉の範疇に入る。いわゆる模倣や真似事。ごっこは本物を模倣するフィクションで、しかも現在進行形の脚本と即興的な演出を特徴とする。

🔫

小学生だった昭和30年代、テレビのある家は町内に一軒か二軒しかなかった。引きこもっても特に遊べる材料が家にない。必然、子どもは屋外に出る。当時、近所に団地が建ち、敷地には給水塔があった。視界を遮る構造物のお陰で〈戦争ごっこ〉のゲーム性が高まった。三角ベースボールに飽きた頃だ。小遣いで買ったブリキ製の銃と火薬を持って出掛ける。銃は一発撃つごとに火薬を充填するタイプのものだ。

一枚ずつ切り離して使う平玉火薬。一発撃つごとに充填する。

火薬と言っても、危険なものではない。紙に火薬を盛りつけた花火の一種。火を使わない分、花火より安全である。これを銃に充填して引き金トリガーを引く。撃鉄ハンマーが火薬の上に落ちてパーンという乾いた破裂音がする。音だけで玉は飛び出さない。

破裂音がするだけのこんな銃でどんなふうに遊んでいたのか。集まった子どもたちが敵と味方に分かれる。建物や給水塔や植え込みに隠れて、敵を見つけたら飛び出してパーンと撃つ。どっちが先に撃てるかが勝負。玉が当たるわけではないから、銃口が正確に相手に向けられて「バーチャル命中」したかどうかは阿吽の呼吸で決める。当てられたと思ったら「あ~」と叫んで倒れる。当たったか当たってないかでもめることもあったが、子どもなりに取り決めたルールに従っていた。

連射用の銃には巻玉火薬を使う。何十連発も撃てる。

みんながこういう遊びをしているのを知って仲間に入った。銃は父が買ってきてくれたのだが、その銃、みんなが使っている平玉火薬用ではなく、巻玉火薬用のものだった。つまり、ぼくだけがそのつど充填せずに連射するというアドバンテージを得たのだ。「ずるい」と皮肉られたが、敵味方に分かれる時にぼくを仲間にできれば作戦は半ば成功だった。連射の優位性を十分に生かしたわけだが、一発ずつ充填してこその遊びだったと思う。敵が火薬を入れ替えるタイミングを見計らって撃つことに妙味があったのだから。

複文のことば遊び

ウンベルト・エーコの『ヌメロ・ゼロ』に、ありきたりな言い方の反対を考えるシーンが出てくる。登場人物の一人が言う、「(……)礼節を知って衣食足りる、ぼけているが歳をとっていない(……)」。ありきたりな言い方だと「衣食足りて礼節を知る」であり、「歳をとったのでぼけている」である。

前件の単文と後件の単文から成る文章を〈複文〉という。複文の前件と後件を逆にした上で、肯定を否定に(あるいは否定を肯定に)してことばを遊ぶと、別のありきたりな文章になることもあるが、ありきたりでない偶然の文意が生まれることもある。可笑しさの判断は人それぞれ。

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「歳はとったが、まだボケていないぞ」
「ボケてはいるが、歳はとっていないぞ」

「かなり飲んだが、まだ酔っていない」
「すでに酔っているが、まだ飲んでいない」

「滑る気はあったが、滑り台には上がらなかった」
「滑り台に上がったが、滑る気はなかった」

「今なら90パーセントOFFなので、大変お買い得です」
「かなりお買い損なのは、90パーセントONだから」

「前菜をお召し上がりになるまでは、メイン料理をお出ししません」
「メイン料理をお出ししますが、前菜をお召し上がりにならないように」

「間違って書いた場合も、消しゴムは使わないでください」
「消しゴムを使う場合も、間違わないように書いてください」

「劇場内にいる間は、ポップコーンを食べてもよい」
「ポップコーンを食べないなら、劇場から出て行ってくれ」

「本場の英国ほどではないが、わが国にもシェークスピア研究者は多い」
「わが国にはシェークスピア研究者が少ないが、本場の英国以上いる」

「善人であり、元政治家でもある」
⇒ 「現役の政治家であり、悪人である」

読んだ本の取り扱い

書店巡りをして本を買ったらブックカバーを付けてくれた。次のような宣伝文が印刷されていた。

「読み終わりましたらぜひお売りください」(TSUTAYA)
「家にある本、お売りください」(BOOK-OFF)

新刊であれ古本であれ、本をよく買う。買った本は読むか読まないかのどちらか。読まないのなら買わなければよさそうなものだが、読まなかったというのは結果の話。読む気があったから衝動買いしたのである。買った本はそれぞれおよそ3分の1の割合で分類できる。完読する本、拾い読みする本、まったく読まずに書棚に並べられる本。

読んでいない本を処分しないのは、気になるから置いているわけで、いつかは手に取って読もうという気はある。しかし、もし本を売るとなれば、読んだ本ではなく、読んでいない本だろう。BOOK-OFFの宣伝文句にある「家にある本」で買ったままそのままにしている本のほうが処分の対象になりうる。


文庫本と違って、単行本は置き場に困る。すでに読んだ本をダンボール56箱に収納していたことがある。もう30数年前のこと。大掃除の日に家人が誤って廃棄してしまった。不用だという判断をしたのも無理はない。ダンボールには、ガルシア・マルケスの『百年の孤独』などのラテンアメリカ小説、ビュトールなどのお気に入りのアンチロマン小説を入れていた。読了した本が手元から消えて、ちょっとした寂寥せきりょう感に襲われたのを覚えている。意図に反しての処分だったが、本を処分したのはこの一件のみ。

数年前に『百年の孤独』を再読しようと思い書店に行った。まだ文庫化されていなかった。今も文庫になっておらず、間違って廃棄したのと同じ単行本しかない。しかも、当時よりも値段は上がっている(ちなみに、ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』もまだ文庫化されていない。世界的ベストセラーになった小説はなかなか文庫にならないのである)。

以上のことからわかるように、ぼくは読み終わった本は捨てないし売りさばかない。気に入った本は二度読みするにかぎる。読んだからこそ、手元に置いて再読機会を待つのである。