ディベート総決算

半世紀近くディベート教育に携わってきた。本業でもなく趣味でもなく。敢えて言えば、機会創出と普及活動。普及と言ってもたかが知れている。「ギリシア・ローマ時代から引き継がれてきた対話の手法があるので、一度は見たり経験してみたら?」という、ささやかな動機づけというところだろうか。

以前は、入門者のためにディベートを討論と位置づけていた。しかし、討論だとディスカッションや交渉との違いが鮮明にならないので、〈異種意見間交流〉という造語で説明したこともある(余計わかりづらくなった)。1990年代はちょっとしたブームになり、全国の講演や研修に招かれ報酬も手にした。本も書いたし、ディベート交流協会も立ち上げて定例活動もおこなった。残念ながら、今はディベート寒冷期に入っていると思われる。

世紀が変わってからは、討論ではなく、言語トレーニングの一方法として細々とプチ勉強会をしたり行政の研修に赴いたりしてきた。ある論題を巡って、賛成する側と反対する側を交互にロールプレイして議論するのがディベート。予期せぬ方向に議論が展開すると即興色が濃くなる。口頭でおこなうから、ことば遣いの精度は紙に書くよりもかなり低いのはやむをえない。先日実施されたディベート大会では、意味不明瞭な表現が飛び交い、たった一つのことばで議論の質が落ちる場面が少なくなかった。

阪神・淡路大震災25年メモリアル 〈防災・社会貢献ディベート大会〉のひとこま。

ある概念や思いを伝える表現オプションはいくらでもある。適切な用語を選んで明快に伝えるのはやさしくないが、表現の言い換えパラフレーズをいろいろ試みてようやくわかってくる。普段は自分の主張を述べるから、表現が変化しにくい。ところが、賛成と反対の両方の立場で議論するディベートでは、表現が多様化する。

ディベートはことばの可能性に気づく眺望点になりうる。社会には様々なテーマの是非や功罪がある。相反する概念を踏まえて論じれば、是と功のみ、非と罪のみを常套句で語るのと違って、斬新なことば遣いが生まれやすい。立証する時のことばと検証する時のことばが変わるのだ。ディベートの1試合や2試合の経験ではいかんともしがたいが、場数を踏むにつれ、ことばのセンシティビティが磨かれていく。

ものを書いたり読んだりしていれば、これが詭弁だ、あれは詭弁でないということがよくわかる。ところが、音声は消えるから、話したり聞いたりする時は、妥当な論理か屁理屈かを見分けにくくなる。ことばを現場の代理メディアとする議論では、実態とことばには誤差や筋違いの意味が生まれ、誇張や曲解がつきまとう。ことばはつねに詭弁と隣り合わせなのである。わかりにくいことばを言い換えようとした結果、詭弁に傾くこともある。実社会の論争では正義も悪も、ことばを使うかぎり、詭弁を免れない。

なお、『ディベート総決算』と題したのはほかでもない。聴衆の一人として観戦することはあっても、今後はディベートの指導・審査にピリオドを打つという意味である。