本のこと、読書のこと

在宅の仕事が苦手なこともあるが、かなり恵まれた職住接近なので毎日事務所に出てくる。仕事はある。ただ、発注者にも諸事情があってスムーズに進まない。そんな日の昼下がりに本を――じっくり読むのではなく――拾い読みする。『書物から読書へ』。漫然とページを繰り、気に入った見開きに視線を落とす。ほどなく瞼が重くなり半覚醒状態に陥る。

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本は、読書家の対象になるばかりでなく、書棚に収まって読書家の後景になったり読書家を囲んだりする機能も持ち合わせている。

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読まねばならないという強迫観念から脱した時にはじめて読書の意味がわかる。見て選び、装幀やデザインを味わい、紙の手触りに快さを覚え、書棚の背表紙を眺めることもすべて読書だということ。

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放蕩三昧する勇気なく、無為徒食に居直れず、かと言って、日々刻苦精励できるわけでもなく、おおむね人は無難な本を手に取って中途半端に読んで生きていく。

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急ぎ足で読むことはない。速読ほどさもしくて味気ない読書はない。著者が一気に書き上げていない本をなぜ一気に読まねばならないのか。

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旅もままならない今日この頃、いつもと違う本との付き合い方をしてみればどうだろう。本からのメッセージが伝わってくるかもしれない。本の希望、本の励まし、本の快癒、本の精神こころ、本の所縁、本の愉快、本の幸福……。

異化や転移のこと

大岡信の『詩・ことば・人間』を読んでいたら、ぼくが時々感じるのとよく似た、ある「不思議な文字作用」について書かれているくだりがあった。

かねがね不思議に思っていること。
私だけの経験ではないと信じるが、辞書で同じ漢字がたくさん並んでいるページを眺めているとき、その文字がなぜかしだいにばらばらに分離して見えてくる。今様にいえば、その字がその字としてのアイデンティティをなくしてしまうのである。ヘンとツクリがばらばらに分離してしまい、統一体としての一個の文字とは見えなくなる。
それはあるいはゲシュタルト説風の説明をほどこしうる現象なのかもしれない(……

ぼくの経験では、漢字のヘンとツクリがばらばらになることはない。しかし、ある日、新聞のコラムの文中に「変わった」というありきたりのことばを見た時、どういうわけか、これが変に・・浮かび上がってきた。変を変に感じたのだ。実際に「変、変、変、変、変……」と手書きで連ねてみると異様な雰囲気が漂ってきた。これが異化いか〉という知覚の作用なのではないか、と思った次第である。

よく知っているものが、ある日突然奇妙に見えるのを〈異化〉といい、奇妙に見えていたものを普通に感じるのを〈異化の異化〉という。こういう現象(あるいは知覚作用)が繰り返されると、〈異化の異化の異化の異化……〉というような、不思議この上ない体験をすることになる。


音声についてもよく似たことが起こると、大岡信は指摘する。同じ語を繰り返して言い続けると、抑揚や意味の転移、さらには音節の長さの変化も生じて、本来の語とは違う別の旋律を伴ってくることがあるのだ。たとえば「愛」を繰り返して「アイアイアイアイアイ」と発声してみると、「イ」の抑揚の位置が変わって「ア」になったり、アとイの順が変わって「イアイアイア」に転移したりすることがある。ここでの〈転移〉はぼくの場合の〈異化〉に似た作用だと思われる。

「ぬ」と「め」が相互に異化し、「ね」と「わ」が相互に転移する。あることばや漢字がなぜこのようにかたどられ発音されているのかが急に気になり始める。書かれた文字も発せられた音も、繰り返し眺め耳にすればするほど――「変」や「愛」という漢字が本来の意味を失うように――原形や原音も揺らいでしまう。

試みに「アベアベアベアベアベ……」と念仏のように繰り返してみればいい。あの「アベ氏」という存在と意味が失われ、何をも表わさなくなってくる。本来意味をもつことばを無思考的に繰り返せば不感に陥るのだ。ことばのマンネリズムや陳腐化はこのようにして生じる。意味あることばではなく、意味のない惰性的な文字と音が、目障りな形と異様なノイズと化して脳を支配してしまうのである。

 

「騙し」の構造

どんな意見でもひとまず受容することにしているが、こと現象となると、信じるか懐疑するかの二者択一しかなければ、懐疑から入るのを常としている。いったん盲目的に信じてしまうと、相当怪しく感じるようになっても、信じた己の正当性を否定しにくくなるからである。逆に、対象が何重もの懐疑のフィルターを潜り抜けたなら、それに共感して納得に転じることにやぶさかではない。

スピリチュアルが入っている人には申し訳ないが、超能力や超常現象は信じる者による独断的な定義だと思っている。別の者にとっては「トリックによる創作」という定義が成り立つ。科学絶対とはゆめゆめ思わないが、すべての現象は現代科学ですでに説明がついているか、現代科学で解明できていないかのいずれかである。後者の、解明できてはいないが、現実に起こりうるものは能力であり現象であって、わざわざ「超」や「超常」を被せる必要はない。

超能力の仕業とされていることのすべてをミスターマリックやナポレオンズやマギー司郎ならやって見せるだろう。自分がこの宇宙で棲息している事実以上に不思議な現象に未だかつて出合ったことはない。

「騙し」の構造について書評会で『人はなぜ騙されるのか』(安斎 育郎著)を取り上げたことがある。もう一度拾い読みしてみた。

本書では109の話が、第Ⅰ章 不思議現象を考える、第Ⅱ章 科学する眼・科学するこころ、第Ⅲ章 人はなぜ騙されるのか、第Ⅳ章 社会と、どう付き合うか、第Ⅴ章 宗教と科学の5章に割り振られている。サブタイトルに 「非科学を科学する」 とあるように、不思議や超常の仕掛けが次から次へと科学的に暴かれていく。なお、本書の示唆をぼくは教育的啓発としてとらえるようにしている。


スレイド事件
スレイドは交霊できる職業的霊媒であった。何も書いていない一枚の石板とチョークをテーブルの下に置いて、居合わせた人の先祖と交信して霊にメッセージを自動書記させた。錚々たる物理学者もみんな信じてしまった。
ある交霊会でロンドン大学の教授が、スレイドが交霊する前にテーブルの下から石板をひったくるという荒手を使ったら、そこにはすでにメッセージが書かれていたのである。

ノーベル生理学賞のリシェー教授と幽霊
心霊現象に否定的だった教授は、ある将軍の家で幽霊を出現させるのを目撃してから、一気に幽霊説に傾いていった。しかし、人間が幽霊に扮したかもしれないという疑問をまったく検証することはなかった。人は信じたいほうを信じ、信じたくないほうを疑わないという習性を持つ。

幽霊の写真
撮影霊媒で有名だったデーン夫人は、現像段階で早業のすり替えを暴かれた。誰もが騙されてきたのは、すり替えの小道具に 「讃美歌の本」 を用いていたからである。「神を讃える聖なる書物を、まさかインチキの小道具に使うはずがない」 というキリスト教徒の常識的道徳観が、詐欺師を見破る目を曇らせたのである。「奇術とは、常識の虚をつく錯覚美化の芸術である」。

こっくりさん
降神術の一種であるこっくりさんは、英語で 「テーブルターニング(机転術)」 とか 「テーブルトーキング(談話術)」 などと呼ばれている。大学生の頃、合宿などでよく興じたものだ。
十九世紀の科学者にとっては こっくりさんの解釈の足場を 「霊界」 に据えるのか、それとも 「理性」 の側にしっかりと足を踏まえるのかは、いわば思想の根本にかかわる問題だったのである。
こっくりさんは、答えはこうなるはず、こうあってほしいという 〈予期意向〉 と筋肉運動である 〈不覚筋動〉によるものであると解明された。

文化勲章受章者と死後の世界
岡部金治郎博士は、「動物の霊魂→五官で完治できない神秘→不生不滅の法則→魂の素→肉体の活性から非活性状態→……→魂が受精卵に宿る」という見事な(?)説を唱えた。生真面目な一方で、すべての根底に「人智の及ばぬ神秘」 という荒唐無稽が置かれている。死後の世界論どころか宗教なのである。
霊魂の存在などまったく証明されていない。ここにあるのは 「私は霊魂を信じる」 という前提のみである。科学と信仰が混同された典型的な例であった。

経験絶対化の危険性
しばしば自分の感覚器官でとらえた 「事実認識」 を絶対化し、厳密な検証もなしに、その命題が 「真」 であることを信じ込む。
「この目で見た」 「この耳で聞いた」 という体験がもつ説得力は非常に大きい。しかし、 「感覚器官は錯誤に陥りやすい 」ことを忘れてはいけない。

科学のブラックボックス化
科学は進歩しても、なかなか人間の意識の変革は思うに任せず、孔子の春秋時代からあまり進歩していないのではないか 。
現代人はWhyへの執着心よりもHowへの指向性のほうが強い。科学技術の成果がブラックボックスになったがゆえに、「なぜ」 が消え失せてきた。科学の時代であればこそ非科学的思考に陥る危険があるのだ。

錯誤と対象認識過程の省略
人間は、部分から全体を推定し、 時間を追って順番に起こった事象については、本当はそれぞれの事象が独立のものでも、「一連の事象」 として関連づけて理解してしまう。
大きさ、形、色、肌ざわり、香り、味などの性質を刷り込んで、リンゴを認知する。しかし、今度再認識するときは、これらすべての性質を再生するのではなく、二つくらい一致するだけで対象を認識するのである。


本書によれば、「信じよ、さらば救われん」 も 「為せば成る」 も 「念じれば花開く」 もすべて、非科学的ということになる。因果関係の吟味、二者関係の明確化、主観的願望と客観的推論の峻別などをおろそかにして結論を導くのは危ういのである。

UFOよりも46億年経過してもマグマがたぎる地球のほうが不思議であり、幽霊よりも一般的なオバチャンのほうが怪奇的である。超常現象をわざわざ創作しなくても、現実の現象だけで十分に不思議であり驚きなのである。

本日は本の日なり(後編)

10年近く前の会読会で『読書のすすめ』(岩波文庫編集部編)を書評した。著名人らの読書にまつわるエッセイをまとめた本。前編に続いて、後編の9人の読書観を紹介する。


📖 若き日にバラを摘め(瀬戸内寂聴)

「生きている人生の愉しみは、食べることと、セックスすることと、読書することに尽きるのではないでしょうか。」

ものをズバリ言う人だ。得度前の瀬戸内寂聴(旧名、晴美)をよく知っているので、うなずける。もっとも、いくら愉しいからと言って、三つの行為を同時におこなうことは容易ではなさそう。

📖 夏の読書(坪内祐三)

読書には教養主義的な――あるいは情報主義的な――読書と面白主義的読書があり、これら二つを合わせてなお越えていく読書があると著者は言う。

「どこかに連れ攫われてしまう読書。日常の中を流れている物理的な時空間とは異なる、もう一つの時空間を知るための読書。自分の内側に潜在的にしまいこまれている別の自分と出会うための読書。」

📖 隠れ読みの悦楽から(中野孝次)

人はそれぞれの置かれている立場によって、読んでいる一文に独自の感覚的反応を示す。著者は次の文章によって、どれだけ勇気づけられ、自分自身を取り戻せたかと述懐する。

「音楽であれ、恋愛であれ、人間の探求であれ、彼はつねに彼自身感じることを、自分の眼で正確に知るという点に帰ってくる。他人は考慮されない。他人は審判者ではない。」
(アラン『スタンダール』)

📖 読書による理解(中村元)

「読書から得られる楽しみも大きいが、読書によって得られた知識が自分の知識体系の中のいずれかの場所に位置を得たことを知る喜びは、非常に大きなもの。」

一つの単語が自分の語彙体系に入ってきて、体系そのものの磁場を変えることがある。一冊の本ならなおさらだ。人生観まで大きく転回させられた経験はないが、新しい知識が知識体系の中で核になったことは何度かある。

📖 〈面白い〉と〈わかる〉(中村雄二郎)

「〈わかる〉ことを中心にして書物を読むことには大きな落とし穴がある。」

すなわち、わかろうと思い、わかるだろうと目論んでいるから、〈わからない〉や〈わかりにくい〉に遭遇すると書物とのコミュニケーション断絶を感じてしまうのだ。わからない場面でめげずに読み続けるためには、愉快が絶対条件になる。

「ある種の辛抱づよさも読書には必要である。その辛抱づよさを支えるものは、ある本の内容を〈面白い〉と思うことによる関心の高さでなければならないはずである。」

📖 我儘な読書(松平千秋)

「好きな本、読みたい本を読む。」

強いられる読書よりも欲求のおもむくままの読書。好きで読めば身につく。好きでなければ身につきにくい。敢えて「読むぞ!」などと宣言しなくても、自然流に読める本がいいに決まっている。

📖 宝石探し(北村薫)

「本を読むというのは、そこにあるものをこちらに運ぶような、機械的な作業ではない。場合によっては作者の意図をも越えて、我々の内に何かを作り上げて行くことなのだと思います。」

「そこにあるものをこちらに運ぶような、機械的な作業」のような読み方は、学生時代の教科書によって身についてしまったのだろう。社会に出てその悪しき読み方から脱却するのに何年、いや何十年かかったことか。

📖 わが読書(中村真一郎)

「頭脳を、三年たったら無用のゴミの山に化するような本の読み方は愚の骨頂である。」

仕事に関係する読書ばかりしていた知人は、還暦になってはじめて空しさに気づいた。そして、腹立たしさを抑えることができず、それまでに読んできたビジネス本をすべて処分した。その後の20年間は主に古典に没頭したという。

📖 本の読み方(養老孟司)

「『くだらない本』というのは、わかりきったことを確認する意味しか持たない本のことであろう。」

講演の後に、「とても共感しました。私の思っていたことと同じです」と言ってくる人がいるが、「確認しただけだから、時間の無駄でしたね」と冗談ぽく返すことがある。うなずくばかりの本では楽しみ半減である。


ぼくの場合、読書してきたものが知らず知らずのうちにおおむね仕事のヒントなったように思う。つまり、関心が向いて深読みしたテーマが、幸いなことに仕事になったのである。仕事のために無理に知識を得ようとした読書はごくわずかである。今も、愉快な本を中心に、著者と対話するように読む。どうせ何冊読んでも記憶に残る知識などごくわずかなのだから、プロセスを重視する。

同じ趣味でも、読書とゴルフには決定的な違いがある。ゴルフの場合、運動や健康や付き合いなどの目的を掲げたとしても、取るべき行動は18ホールを仲間と競い最少打数を目指すことに変わりはない。打法や戦略は人それぞれだが、指向している内容は同じである。

では、読書の場合はどうか。これも目的や方法はいろいろあるが、18ホールや最少打数などの道標があるわけではない。ジャンルも読み方も千変万化する。要するに、読書はゴルフなどの趣味に近いのではなく、食べ物と同様に嗜好性の強い趣味なのである。偏食があるように偏読というものもある。ゴルフのアマチュアはプロの技術をお手本にすることが多いだろうが、読書ではプロの読書家の嗜好する珍味がアマチュアの口に合うとはかぎらない。

〈完〉

本日は本の日なり(前編)

二年前、オフィスの図書室兼勉強部屋を“Spin_off”と命名したが、実は別案があった。「本にちカフェ」というのがそれ。「本の日」と「本日ほんじつ」を重ねたもので、“It’s a book day today.”という英語のキャッチフレーズを作り、ドアの表示のデザインまで考えた。「本日は晴天なり」を捩って「本日は本の日なり」と訳せるかもしれない。

まとまった時間が作れたので、本を拾い読みしたり、主宰していた会読会のためにしたためた書評を読んだりしている。「本日は本の日なり」にふさわしそうな『読書のすすめ』(岩波文庫編集部編)の書評に新たに手を加えてみた。この本では37人の著名人がそれぞれ独自の読書論を寄稿している。そのうち18人を選び、今回と次回で9人ずつ紹介したいと思う。

ところで、最上の読書は、好きな本を好きな時に好きな姿勢で好きなページ数だけ愉しむのがいいということに尽きる。この歳になって、「いかに本を読むか」で悩むことはない。けれども、「読書家らはどんなふうに読んだのか」には少々興味があるので、時々覗いてみる。誰もが生活環境やキャリアによっていろいろな読み方をしていることがわかるが、少なからぬ共通項があることにも気づく。


📖 『ガリア戦記』からの出発(阿部謹也)

著者は現在をどのように生きるかと真剣に問い、生きるために不可欠なテーマを見つけようとするが、容易に見つからない。

「長い間考えたあげく、ついに何も考えず、何も読まずに生きてゆけるかどうかを考えてみた」。

そしてそれが不可能だとわかった。出合った一冊の本はカエサルの『ガリア戦記』だった。ぼくに「それを読まなければ生きてゆけない本」という選び方ができるだろうか。ちなみに、カエサルの『ガリア戦記』は本棚にあるが、なまくら読みしかしていない。

📖 読むことと想像すること(池内了)

「私にとって読書とは、それまでに未知であった世界を、想像しあるいは空想し、時には一体となって考えあるいは反発し、やがて既知の世界として私の中に沈めてゆく行為である。従って、たとえ実際に経験しない事柄でも、読むことと想像することによって限りなく近づき、私の中の世界の一事象とすることができると考えている。」

未知の世界のことを読むには辛抱がいる。知っていることを手掛かりにして知らないことに想像を馳せるわけだから。わからないという度々の状態に陥るのが嫌なら、読書を続けることはできないだろう。

📖 古典の習慣(大江健三郎)

「本を読むこと、とくに古典を読むことには、無意識的なものもふくめて全人格が参加している。それはひとりの人間の生きる上での習慣ともいえるものだ。」

全人格などと大それたことを言える自信はないが、読書が国語力だけで何とかなるなどとは思わない。歯を磨くことにしても、歯ブラシと歯磨剤だけで済むものではないのと同じことである。

📖 読書家・読書人になれない者の読書論(大岡信)

「本を読むという行為は、いついかなる場合においても、作者対読者の一対一の関係に還元されてしまう。」

「私たちは本を読む場合、必ずしも一冊全部を初めから終りまで読み通すとは限らない。ある場合には、ある本の一、二ページしか読まないこともある。そしてその一、二ページが、決定的に重要なことさえ多いのである。」

作者と読者の一対一の関係なのに、一冊を読み通さなくてもよく、一部齧るだけでもいいと言われれば安心する。ここが読書のいいところだ。もっとも、小説は別にして、たいていの本のテーマはもとより1ページか2ページで書けることが多いから、運よく開けたページが「さわり」であることなきにしもあらず。

📖 研究と読書(大野晋)

「読書とは眼鏡をかけて物を見るようなものである。多読家とは要するに次々と眼鏡をかけかえて行く人。眼は疲れて実は何もよく見えなくなるだろう。」

読まないよりは読むほうがいい。しかし、読まずに済ませる選択肢もある。いろいろと本を読んでも開眼するとはかぎらない。読書に親しむのはいいが、適度な距離を保つことも重要である。

📖 翻訳古典文学始末(加藤周一)

「私は日本語の美しさを、専ら本を読むことで覚えた。読みながらの、意味よりも言葉の響き。」

何が書かれているかばかりに気を取られると、語感や表現の豊かさを見逃すことがある。意自ずから通じなくても、何度も読み返してリズムの良さを楽しみたくなる古典がある。

📖 「読書をなさい」(京極純一)

「勉強のために本を読むことは、ふつう、読書とはいわない。」

「本を読むことは、想像力と感受性の世界のなかで、人間の可能性の広がり、善の能力から悪の能力までの幅の広さを経験することである。人間が自分を捨てて他者を愛すること、また、人間が愛する者と別れてひとり死ぬこと、こうしたことを経験する、これが読書である。」

何かを学んでやろうと思うと、必然ハウツーばかりを読むことになる。ぼくはハウツー本を読むことを読書などとは思わない。著者が言うように、読書は一つの経験的行為である。

📖 読書と友だち(坂本義和)

著者は終戦直後にカントの『純粋理性批判』を読み、「考えることを考える」ことの重要さを思い知ったという。

「国中が思考の短絡におちいっている時に、カントはその逆を私に示したのである。そこには、石造りの壮大なゴシック建築のような、驚くほど強固な思考力があった。」

📖 塩一トンの読書(須賀敦子)

このエッセイのタイトルは著者の姑(イタリア人)の「ひとりの人を理解するまでには、すくなくとも、一トンの塩をいっしょに舐めなければだめなのよ」にちなんでいる。ゆえに、

「本、とくに古典とのつきあいは、人間どうしの関係に似ている。」

〈続く〉

徒然なるままに二字熟語遊び

【出発と発出はっしゅつ
(例)緊急事態宣言が「発出」された。耳慣れない用語だが、これが事案終息への「出発」になることを願う。

『新明解』にも手元の類語辞典にも発出という見出しはない。別の辞書には類語として出発が挙がっているが、「緊急事態宣言を出発」と言い換えるには抵抗がある。よくわからないけれど、発令でもなく命令でもなく発布でもないから、発出なのだろう。

二字熟語アイコン

【作家と家作かさく
(例)ベストセラーで売れっ子になった「作家」には、書けなくなった時に備えて「家作」の一つや二つを所有している人がいるらしい。

家作ということばを知ったのはバンカースに興じた小学校低学年の頃だった。給料を蓄えて土地を買い、その土地に家を建てる。そのマス目に入った他のプレイヤーから家賃をもらう。当時のバンカースはある種の不動産ゲームだった。

【野外と外野】
(例)かつてはすべて「野外」でおこなわれていた野球。今では球場の半数以上が屋内ドームになったから、「外野」の守備に就いても空は見えない。

野外スポーツには自然現象に左右される妙味があった。外野手は風に悩まされながら捕球をするのが当たり前だったのだが、ドーム野球になってからは外野フライ捕球時のスリルが半減した。

【温室と室温】
(例)「温室」の温は、温度の温ではなく、あたたかいを意味する。これに対して、「室温」の温は、あたたかいの温ではなく、温度の省略である。

植物園の「温室」に入ると、真冬なのに大汗をかくことがある。熱帯ゾーンの温室では温度も湿度も年中一定だが、わが家の「室温」は年中変化する。

【陸上と上陸】
(例)「陸上」のある地点から別の地点に移動しても、「上陸」などとは言わない。上陸と言うかぎり、空か海から目指す陸地に到達するのである(参考:「ノルマンディー上陸作戦」)。

陸上の動物の起源は海という説が有力だ。好奇心のある動物が海から上陸して陸上に棲みついた。したがって、正確に言えば、海の動物はまず上陸動物になり、その後定着して陸上動物になったのである。陸上動物になった人間は夏になると海で泳ぎ、疲れたら上陸して陸上動物に戻る。


シリーズ〈二字熟語で遊ぶ〉は二字の漢字「AB」を「BA」としても別の漢字が成立する熟語遊び。大きく意味が変わらない場合もあれば、まったく異なった意味になる場合がある。その類似と差異を例文によってあぶり出して寸評しようという試み。なお、熟語なので固有名詞は除外。

マスクとまなざし

まなざしや顔つき――突き詰めれば〈ペルソナ〉――は、平時と有事で異なる。平時では、目を中心とした顔がふつうに見え、表情がわかりやすい。他方、最近のようにマスク装着が常の有事になると、顔全体が見えないので表情のニュアンスが感じ取れない。

「目は口ほどにものを言う」はおおむねその通りだと思うが、鼻も口も、さらに顔全体が見えて輪郭もはっきりしているからこそだ。見えるのが目だけだと眼力めぢからばかりが際立って、表情が窺いづらく不気味さを感じることがある。


先日、輸入食料品店でこんな出来事があった。

通路がいくつもあり、探している商品の棚がすぐに見つからなかった。通路を順に覗き込んで移動し、それらしい棚が並んでいる通路に足を踏み入れたところで、マスク姿のぼくの視界に熟年男性が入った。男性はマスクをしていない。

目が合ったわけではない。男性をまじまじと見たわけでもなく、男性の立つ前の棚のパスタに視線を向けただけだ。いきなり男性がぼくに向かって「何か用か?」と言った。まるで万引き寸前の男が見つかる前に先制攻撃するかのような口調。この時点で目が合った。厳しい目つきである。手に商品をいくつか持っている。

お目当てはパスタだから、男性に関わる気はない。こっちが動じる理由もないので、男性に近づき、丁寧かつ穏やかにこう言った。「あなたを見ていないし、あなたに用もありません。今夜の食材を探しているだけです」。

マスクをしている時の目、そのまなざしは、見られる側からすると自分に向けられているように感じるのだろう。そのことは自分の立場になればわかる。道で向こうから歩いてくるマスクの顔の目という目のすべてが自分を見ているように思ってしまう。明日への見通しも、人どうしのまなざしも焦点が定まりにくい今日この頃である。

午後二時の二字熟語遊び

どなたとも連絡が取りづらい今日この頃、仕事は間断なく流れてくれない。必然、時間ができる。時間のちょっとした隙間に駄文を綴って息抜きをする。息抜きで書く文章なので押しつけるつもりはない。午後二時にコーヒーを飲みながら……。

二字熟語アイコン

数多あまたと多数】
(例)昔は「引く手『数多』」という言い回しをする年配者もいたが、いかにも古風である。最近の若者は「多数」、多くの、いっぱい、たくさんで済ませる。

『万葉集』に「鷹はしもあまた・・・あれども……」という長歌がある。「鷹にかぎれば多数・・いるが……」と現代語に訳すと雰囲気が出ない。数多をそのまま使って「鷹こそ数多かずおおくいるが……」とするほうがいくぶんこなれるかもしれない。

【色気と気色けしき
(例)「色気」は人の性的魅力に使われるが、「気色」は風景や気配の様子を表す。「気色だつ」とか「気色ばむ」と言ってもなかなか通じなくなった。

気色を「けしき」と読めない人が少なくない。また、「けしきの漢字が間違っていますよ。ではなくですよ。そう、景色」などと節介を焼いて平気である。

【学力と力学】
(例)「学力」は純然たる本人の実力だと思うむきもあるが、オトナ世界ではそこにも「力学」が働くことが稀ではない。

力学には様々な変種がある。学閥と派閥、贔屓、脅しや威喝……。最近とみに注目されるようになった忖度も力学の一つと見なされる。

【実現と現実】
(例)夢が「実現」することはめったにないが、「現実」だと信じていたことが夢まぼろしだと気づくことはよくある。

現実とは何かを考える上で、対義語である「理想」「虚構」「架空」の理解は絶対である。人は、理想や虚構や架空ではない現実に直面する。そして、気に入らなければ現実逃避する。しかし、実現は動的な変化を示す。誰もが実現機会に恵まれるとはかぎらない。

【取引と引取】
(例)荷物などの「引取」の代理をしてくれるという条件付きで、御社との「取引」を前向きに検討したい。

うまく行かない取引もあるが、本来は利益を生むための積極的な手段である。他方、引取はややネガティブだ。要らなくなったものや厄介なものなら、下取とほぼ同じ意味になる。しつこい人なら、早々にお引取いただきたくなる。


シリーズ〈二字熟語で遊ぶ〉は二字の漢字「AB」を「BA」としても別の漢字が成立する熟語遊び。大きく意味が変わらない場合もあれば、まったく異なった意味になる場合がある。その類似と差異を例文によってあぶり出して寸評しようという試み。なお、熟語なので固有名詞は除外。

表現のトッピング

本業として企画を生業なりわいとしている。企画は料理に似ているとつくづく思う。シェフや板前は料理の名称、素材、体裁、レシピを調理に先立って考える。その「設計図」を一皿に仕上げる。企画もそうだが、料理も「初めにコンセプトありき」。

いま作っている料理が何だかわからないなどということはありえない。中華料理人が酢豚か青椒肉絲かわからぬまま調理しているはずはないのである。昨日仕上げた企画のコンセプトづくりで四苦八苦したが、少なくとも何を創案してまとめようとしていたかはわかっていた。


想定した出来上がりの一皿を巧みに表現するのか、それともレシピづくりの時点で表現を捻り出して料理に反映するのか……。食される前に差異化しようとすれば、どうしても表現に頼らざるをえない。凝り始めると表現がどんどんトッピングされて、料理の名称は長くなる。フランス料理などはその典型だ。

昔は「親子丼」と言えば済んだ。しかし、独自性を出そうとすればそれでは足りない。素材の産地や品種による特徴づくりが欠かせなくなる。「〇〇産の地玉子を使った△△鶏のもも肉と魚沼産こしひかりの親子丼」という具合になる。必要ならネギの名称も詳しく。

ある日のビストロの料理名。

「琵琶湖のマガモの胸肉のロースト、シャンピニオンとアスパラガスのソテー添え、黒トリュフの赤ワインソース……」。

長い、長すぎる。しかし、その気になれば、もっと表現をトッピングできる。こんな具合に。

「琵琶湖のマガモの胸肉のロースト、フランス産シャンピニオンと北海道の朝摘みアスパラガスの青森県産ガーリックソテー添え、イタリア・ピエモンテ州の黒トリュフの赤ワインソース……」。

残念なことに、大仰な料理名に感動して食べ始めても、舌のほうが表現に見合った味を峻別するわけではない。

足下を見つめてみた

この時世、協働パートナー以外の人たちとここ一カ月ほとんど会っていない。目を向けるのは見えざる情報世界ばかりで、現実の生活周辺への視界は決して良好ではない。かろうじて足下だけが見える。そこから思いつくまま思い出すまま断章を綴る。


🖋 「今日の忍耐、明日の希望」「今日の焦り、明日の絶望」。今日とは今日のことだが、明日はずっと先までの未来の比喩。

🖋 巨大な建物は、意識せずとも、正面からそこに近づけば必然見える。しかし、巨大な建物を背にした格好で、たとえばメトロから地上に出ると、どれだけ大きくても見落としてしまう。背を向ければ、対象が巨大であろうと微小であろうと同じ。
まあ、建物に気づかないことくらい大した問題ではない。大切だが見えづらいものを見損じるほうが恐いのだ。

🖋 周りを過剰に気にして、何に対しても様子を窺っていると「左顧右眄さこうべん」に陥って決心がつかない。何を見て何を見ずに済ませるかは、自分の立ち位置、社会や他者へのまなざしが決める。

🖋 Give and takeギブアンドテイクであってはならない。ギブは主体的であってもいいが、テイクはそうではない。取るのではなく、授かるのである。ゆえにGive and givenギブアンドギブンでなければならない。価値を提供したら、その価値に見合ったほどよい対価を授かるのである。取りに行ってはいけないし、取れると思ってもいけない。

🖋 数年前に『欲望の資本主義』をテーマにしたドキュメンタリー番組を見た。「現代は成長を得るために安定を売り払ってしまった」という一言が印象に残る。これに倣えば、「現代は今日の欲望を得るために明日の活力を前借りする」とも言えるだろう。

🖋 その番組中に語られた比喩的エピソードをふと思い出した。アレンジしてみると、次のような話だった。
金曜日の夜に酒を飲む。もう一軒行こう、カラオケに行こうとテンションを上げてエネルギーを消費する。しかし、このエネルギーは飲めや歌えやの勢いで生まれたわけではない。土曜日に使うべきエネルギーを金曜日の夜に前借りしたのである。

🖋 足下あしもとを見つめてみたら、生活の大半は不要不急であることがわかる。経済は、不要不急の大いなる欲望によって成長してきたにすぎない。