笛吹けども踊らず

商店街の某商店主に聞いた。
「なぜ午後7時に店を閉めるのですか?」
店主は言った。 
「開けていても、その時間になると客が来ないからねぇ」

客にも尋ねてみた。
「午後7時を過ぎると客が来ない。だから店を閉めていると言う商店主がいますが……」
苦笑いしながら客が言った。
「いやいや、その逆。店が閉まっているから行かないのですよ」

売り手と買い手それぞれに思惑があり、取る行動がある。売れるなら店を開けるし、売れそうになければ店を閉める。ぜひとも欲しい商品があるなら行くし、そうでなければ行かない。買い手の〈要不要〉と売り手の〈強み・弱み〉の古典的な関係図式を示している。

別に急ぎではないし、慌てなくてもその商品はどこででも手に入る……行っても閉まっていることが多い商店街だ……デフレ時代、消費者はある程度充足している。欲しくもない多機能なんかいらない。これが「供給>需要」の図である。モノがオーバーフローしたり質がオーバースペックになる。買い手にとっては必要以上に選択肢が増え、逆に面倒になる。急がない客が相手なら、店は午後7時に閉めざるをえない。

急ぎの必要があるか、またはどうしても欲しい……かつその店にしか商品がないのなら、客は午後7時までに行く。必要かつ欲しいと思う消費者が多ければ競うように店に駆けつける。売れれば商品が足りなくなる。かつての高度成長時代とよく似た「需要>供給」の図になる。今時のマスクやアルコール消毒液がそうである。質に疑問符が付いても欲しがる。作れば売れる。


感染対策を取りながら、徐々に経済活動を元に戻していく。とは言うものの、自粛癖がついて外出しない、買い控え癖がついて買わない。需要のテンションが低い状態で、売り手側が笛を吹いても買い手側がすぐに踊り始めるような気分にはなっていない。ここ数年インバウンド市場向け仕様の商売をしてきた供給者ほど状況が厳しい。

市場全体から観光市場――多分にご祝儀市場――を差し引けば、バブル崩壊後のわが国の正体はデフレなのだ。供給したくてうずうずしても、需要のほうがうずうずしてくれない。いつの時代も需要と供給の理想像は経済学的には見えない。需要と供給のバランスが取れればいいという単純な話でもない。

しかし、冒頭の商店街の件のように、客が来ないからと言って店を閉めてはいけない。「供給>需要」なら、客が来なくても店を開けるしかない。そして、笛を吹き続けるしかない。その体力がどこまで持つかが勝負になる。あるいは、いっそのこと供給の内容を変えて「需要>供給」ビジネスにシフトする。これもエネルギーがいる。観光市場も含めて、経済は間違いなく縮減する。元の姿を夢見るよりも縮減経済を覚悟するほうが現実的である。

最近笑っていない

毎日何がしかの仕事があるが、相手の事情により今日はまったく仕事が動かない。新年度になって初めてのことだ。仕事以外にすることがいろいろある。この「いろいろ」がまずい。することが一つか二つなら悩むことはない。

100de名著』というNHKの番組がある。一冊の名著を4講にわたって各回25分で解説する。取り上げられる名著そのものを読まなくても、テキストをじっくり読んで講座を見れば「読んだふり」はできる。講座が始まって以来、毎月テキストを買って拾い読みしているが、視聴したのは二、三度のみ。

来月の名著はカントの『純粋理性批判』である。気温と湿度が上がり、集中力が続きづらい梅雨の季節向きの本ではない。本棚に新訳――と言っても78年前発行の――文庫本がある。全7巻である。小難しく訳された同書に若い頃に挑戦したが、途中で挫折した。悔しいので、解説書の類を参照してこの稀代の哲学書を「読んだことにして」今に到っている。超難解な重い本が100分でわかるなら儲けものではないか。


文字以外に適宜図解が入るのが『100de名著』のいいところだ。哲学の名著を文字だけで追いかけて理解するには、時間と頭脳もさることながら、スタミナがいる。省エネの図解があるだけで少しはわかった気になる。経典や経論などの文字のみで深奥な密教の教えは伝えきれない……絵画や彫刻などの「ビジュアル」の助けが必要だ……というようなことを空海が言ったらしい。絵図や仏像、書の類のオーラのお陰で理性も少しは研ぎ澄まされるような気がする。

とは言うものの、自粛や在宅疲れで小難しい本を忍耐強く読める人は多くないだろう。わが身を振り返っても、ここ23ヵ月、他人と仕事をしていないし、雑談もほとんどないから、笑う場面がない。YouTubeで大笑いなどしてしまうと、その後に仕事に戻るのが大変である。軽い本で軽く笑う程度なら軽い息抜きになるし、軽やかに仕事に戻れる。

本棚の『純粋理性批判』を押し戻す。右手の本棚に顔を向ければ、ずいぶん前に古本屋で買った、宇野信夫の『昔も今も笑いのタネ本』が目に入る。さほど笑わせてもらった記憶はない。適当にページをめくる。「あわて女房」という小話。記憶にない。

あわて者の女房が、伊勢屋のお内儀さんに出合って、
「旦那さまは、おかわりなく――」と言いかけて、三月みつき前、旦那の死んだことに気がついて、
「やっぱり、お亡くなりになったまんまでござんすか」

わかりやすくて微笑みやすい。こういうのがいい。純粋に理性の批判になっている。

ぬけぬけと棒読み

今に始まったていたらくではない。国会や委員会の棒読み答弁、報道解説委員の棒読み説明、スライドの棒読み講義……。一昨年だったか、スライドがタイトルだけの一枚で、講演者が手元の原稿を棒読みするだけの講演に居合わせた。義理で聞かされたのだが、名の通った先生が一切聴衆の反応をうかがわず、アドリブもなく小一時間を消化した。

いくらか期待もしていたが、がっかりだった。いや、怒りに近い感情すら覚えた。よくぞ小一時間もぬけぬけと原稿を棒読みしたものである。原稿を作った時点では考えもしただろう。しかし、人前に出てからあの先生、まったく考えてなどいなかった。考えないで喋るという厚かましい態度の恥さらし。

目を見開いて聴衆や相手に語りかけず、ひたすら演台に置いた原稿に視線を落として読むなら、ライブの必要はない。それこそ自宅でリモートで読み上げれば済む。映像もいらない。講義や講演でスライドを使うのが標準仕様になった現在、なければないで喋れる講師でも、掲示資料を棒読みする傾向が強くなった。


その場で何もかもアドリブで喋るのがベストだとは言わない。しかし、よく考えてきたのなら、一言一句を原稿にして棒読みせずとも、話の順番や用語をチラ見する程度の小さなメモさえあれば、人前でも「自分のことば」で喋ることができる。少々流暢さを欠いてもいいではないか。パスカルも言う通り、「立てつづけの雄弁は、退屈させる」のだから。

棒読みでいいのなら、もはや講演者の個性などいらない。声がよくてもっとスムーズに語れる代弁者を起用すればいい。優秀な人がなぜ棒読みに甘んじるのか、まったく考えずに文字だけを追えるのか、不思議でならない。棒読みするために大臣や解説委員になったわけではあるまい。

上記でパスカルを引いたので『パンセ』の当該箇所の前後を再読してみた。第六章の哲学者について綴る断章である。

三三九  (……)私は、考えない人間を思ってみることができない。そんなものは、石か、獣であろう。

ちなみに、この八つ後の断章が、あのあまりにも有名な「人間は考える葦」である。なお、パスカルは「思考万歳!」とばかり言っているわけではない。三六五では、考えることの偉大と尊厳性と同時に、考えの愚かしさと卑しさについても指摘する。つまり、考えに潜む二律背反性を踏まえている。

ともあれ、考えた末に書いたのが手元原稿だと言うのなら、人前で読み上げるその手元原稿はすでに「死に体しにたい」であり、原稿以上の上積みはない。そうそう、その丸読みの原稿を事前に配付する場合もある。話者も聴衆も資料の文字を追うばかり。誰も顔を見ない。棒読みは厚かましいが、何よりもけしからんのは他人に対して開かれていないことだ。

入るを量りて出ずるを制す

二十数年前のこと。年配の飲食店経営者がつぶやいた。「この歳になるまで経営やマーケティングのいろんなセミナーを受講して小難しい勉強をしてきましたがね、あまり役に立たなかった。さほど儲からないけど易々と潰れないしぶとさ――経営はここに尽きると思っているんです」。そして、ぽつんとあの金言を持ち出した。「るをはかりてずるを制す」。

素人でもみんな知っていること。子どもが小遣いを貯めておもちゃを買った後に残金をチェックするのも、主婦が家計簿をつけながら大きくため息をつくのも、小さな会社を創業したビギナー経営者が収入と支出に目配りするのも、すべて「入ってくるお金と出ていくお金」への関心ゆえである。みんなわかっている、「出ずる・・・入る・・を上回らないようにしよう」と。創業してから30余年、未だ経営オンチのぼくでも、このことは――このことだけは――わきまえている。

現在の自分の収入や自社の売上はわかっている。現在から寸法を測ればある程度将来の伸び率も予測できる。しかし、お金は出ていくし、収入や売上が予測通りに順調に推移するとはかぎらない。ただ、入ってくるお金に比べると、毎月出ていく固定費を含む支出は大きく変化しない。だから「るをはかりてずるを制す」、つまり、支出は収入に釣り合うか収入の範囲内にとどめておくのが安定の基本になる。


しかし、いくら支出を制していても、予測できない危機に見舞われて収入のほうがどうにもならなくなることがある。今の新型コロナ禍はおそらく今世紀に入って最大の危機だ。このリスク状況がいつまで続くのか、資金注入でどの程度急場をしのげるのか、誰にもわからない。1兆円超の赤字を出しても潰れない企業がある一方で、わずか100万円の資金繰りがどうにもならず、社員を解雇したり廃業したりし、最悪、命を絶つ零細企業経営者がいる。これが社会の現実。

事業者への給付金は、一定条件を満たせば一律に支払われる制度である。この制度の公平性や不公平性については黙して語らないのがいい。どんな泣き言や不満を吐き捨ててもどうにもならないからである。立地の良くない場所で細々と一軒の店を営んできたオーナーと、好立地に数店舗を経営してきたオーナーが受けるダメージは違う。前者は100万円で持ち堪えられるが、後者にとっては100万円は焼け石に水である。

何もかもウィルスのせいではないし、給付金申請の手続きの煩わしさや対応遅延のせいではない。経営者はいろいろな選択肢から今に到る道を選んだのであり、自分なりの経営哲学によって戦略を立ててきたのである。テレビのインタビューに対して、複数店舗を経営する美容院経営者とラーメン店経営者が絶望的に語るシーンを見た。その二人は危機に対して自らが脆弱な体質だった点については触れなかった。有事と平時とにかかわらず、経営の根底には自己責任があることを忘れてはいけない。

テレワーク雑感

創業してから数年のうちに本を3冊著した。仕事場で本業をこなしながら、合間に原稿を書いた。締切直前にはオフィスに顔を出さずに自宅でワープロを打った。今風に言えばテレワーク。能率は落ちなかったが、誰にも気遣いがいらないから集中力に乏しくなるし、疲れたら横になるという甘さも出た。当時は郊外に住んでいたので、往復の通勤1時間半が節約できたが、節約できたその時間が作業時間にプラスされたとは思わない。

今は自宅とオフィスは徒歩で10分少々、自転車なら5分。のろまなパソコンとプリンターと程度の自宅インフラでは仕事がはかどらないので、自粛ムードの今も毎日会社に出ている。ワンフロアでたった一人という日が週に何度かある。小さな会社なりにITインフラを完備しているし、蔵書のほとんどをオフィスに収蔵しているので、出てくるほうが何かと便利がいい。

この一週間、「非通知」の電話が何度か鳴った。受話器を耳にあてると、いきなりの音声ガイダンス。どんな悪だくみなのか興味があるのでしばらく聞き流してみた。給付金を振り込むので情報をインプットせよという内容で、おそらく最後には銀行口座番号とパスワード入力へと誘導するメッセージが続くのだろう。人間にこんなテレワーク営業をさせていたら人件費が高くつく。コンピュータに自動音声で営業させれば能率はアップする。思えば、「オレオレ詐欺」などはある種のテレワーク営業ではなかったか。


オフィスの道路向かいにマンションがある。一方通行の狭い道路なので、目と鼻の先という感じだ。当社は5階、マンションのその一室も5階。毎朝ぼくは8時台に出社して、ロールブラインドを上げて窓を開放する。午前9時、正面に見える一室の窓際の椅子に男性が座る。おそらくテレワーク組だと思われる。さっきベランダに出てきたが、初めて顔を見た。見た目30代前半。

今日は半袖の赤いポロシャツ姿で、おそらくパソコンに向かって、おそらく仕事をしていたと思われる。かれこれ一ヵ月。別に裏窓から覗いているわけではない。窓外に目を向ければ勝手に見えるのだ。長袖の白のカッターシャツの日もある。上司か得意先とのテレビ会議だろうか。在宅勤務時間もランチタイムも休憩にもルーチンを決めているに違いない。ぼくは何度も席を外したり隣の部屋へ行ったりして頭を切り替えるが、彼はずっと座っている。まじめな働きぶりが窺える。

あの彼がハードワークしていると仮定しよう。しかし、今まで出社してしていた仕事をこんなふうに毎日テレワークでできてしまうなら、もうオフィスはいらなくなる。二ヵ月か三ヵ月続けられそうなら、半年や一年でもできてしまうだろう。オフィスと在宅の仕事に効率や質の差がなければ、企業はインフラだけ整備して正社員を契約社員にすればいい。オフィスは縮小できる。

これを機にテレワークができる体制を取るべしという意見が目立つ。しかし、部屋に閉じこもって電話かビデオで時々やりとりして済むような仕事は、やがてAIに取って代わられる。一部職種で仕事がかなりデジタル化されたのは間違いないが、仕事から人と人の関係が消えることはない。いや、消えることがないように、自分の固有のアナログ価値を保持しなければならないはずである。

ともあれ、ほとんどの会社にとってテレワークは非常措置である。すべてとは言わないが、いずれ年初の頃の状況に戻る。数ヵ月在宅したテレワーカーたちが首尾よくオフィスや現場に戻れるか。出社拒否症候群という禍も想定しておかねばならない。

テイクアウトで考えたこと

行きつけの店に「テイクアウトできます」の貼紙、初めて見る店のドアにも同じ文言の貼紙。どこもかしこもテイクアウト。店内飲食不可でもテイクアウトならできる。

以前「テイクアウトは和製英語です」と英語通の知人が言った。別の英語通の所見は「あちらではあまり使わないけれど、何とか通じますよ」。ぼくはと言えば、カリフォルニア州に旅した折りはすべて店内飲食だったので、持ち帰り経験がなく、はたして「テイクアウト」が伝わるかどうか知らない。もし持ち帰ろうとしていたら、おそらく“to go”という一般的な表現を使っただろうと思う。

ともあれ、わが国では「ツーゴー」などとは言わずにテイクアウトが定着した。ちなみに、「こちらでお召し上がりですか、お持ち帰りですか?」という英語――”For here or to go”――を最初に知った時、妙なことを妙な言い回しで尋ねるものだと思った。本格的な料理店で入店するなりこんなことを尋ねられるはずがない。こういう尋ね方はハンバーガーショップから始まったに違いないと睨んでいる。


食べるつもりで店に行ってはみたが、気が変わって持ち帰ることにした。この時のテイクアウトは、店で出している料理と同じものを持ち帰るという意味のはず。たとえば、近くのカオマンガイの店では店で食べるのと持ち帰るものは、容器以外はほぼ同じである。ところが、コロナ禍で自粛し始めてからは、ほとんどの店では店内メニューに載っていない持ち帰り用の弁当を作ってテイクアウトと称している。あるうどん店はメニューにない「とり天丼」を店頭で持ち帰り用に販売している。テイクアウトではなく、最初から弁当と言えばいいではないか。

ピザ屋と自宅はピザの冷めない距離なので、テイクアウトしても味に大差はない。トンカツやハンバーグ定食のテイクアウトも店内メニューとさほど変わらず、持ち帰って皿に盛れば格好はつく。ただ残念なのは、店内なら付いてくる味噌汁がテイクアウトには付いてこないという点。やむをえない。

「寿司、テイクアウトできます」――そんな貼紙を出さなくても、スーパーに行けば、寿司はすべてテイクアウトではないか。オヤジが日本酒でちょっと寿司をつまみ、帰りがけに家族用に一合折か二合折をお土産にしたのが昔からの寿司屋。寿司折を手に帰宅する波平やノリスケの姿が浮かぶ。

先日寿司屋に寄った。店は空いていたが、自粛癖がついているので、二合折を持ち帰ることにした。「ご新規さん、テイクアウトで!」という声に大いなる違和感を覚えた。寿司にテイクアウトという言い方は合わない。お土産か、せめてお持ち帰りと言ってもらいたい。二千円ほどの寿司が八百五十円に格下げされた気分。

「まるで絵はがきみたい!」

観光旅行中にナイアガラの滝を眼前に見た日本人女性が「わぁ、まるで絵はがきみたい!」と感嘆の声を上げた。

実際の風景を眺めたりその風景の写真を見たりして、「まるで絵はがきのようだ」と比喩する人がいる。なぜ自然の風景を見て、わざわざ絵はがきという二次的に再生されたものに譬える必要があるのか。絵はがきみたいとは、そこに写る対象が自然そのものという印象を語っているのか。

また逆に、画集に一枚の絵を見て、それが自分の目で見たことがあれば、「実景そっくりだ」と感嘆する人もいる。その作品の画家は、実景を写実的に描いたわけだから、ある程度そっくりであることに不思議はない。なぜわざわざそこに実景のことを持ち出す必要があるのだろうか。


有島武郎の『描かれた花』と題された随筆を読んでいたら、次のようなくだりがあった。

巧妙な花の画を見せられたものは大抵自然の花の如く美しいと嘆美する。同時に、新鮮な自然の花を見せられたものは、思はず画の花の如く美しいと嘆美するではないか。

絵から入れば実景を持ち出し、実景から入れば絵を持ち出す。絵の感嘆にしても、風景の感嘆にしても、感嘆に値する適切なことばが見当たらない時に、どうやらそのような比喩を使うらしい。

実際の対象とそれを題材として描いた絵との関係に、人はそれぞれの感慨を抱き、似ているとか似ていないとか、絵のほうが実物よりも美しいとか、いや、絵は実物の美しさには及ばないなどと評する。

有島武郎は随筆の別の箇所で「人間とは誇大する動物である」と言っている。誇大には程度はあるが、芸術作品としての絵は実際の対象以上に誇張されてこそ意味を持つような気がする。似顔絵などその典型で、誇張ゆえの作品価値である。本物とまったく同じに再現する腕は望むべくもないが、本物とまったく同じであっては作品に勝ち目はない。

十数年前にヴェネツィアに旅した折りに、運河をスケッチし、帰国後に写真を見ながら着色したことがある。何枚か描いてみたが、ヴェネツィアの運河を感じさせない。思い切って原画をデジタル的にいじってみたのがこの一枚。原景をとどめない誇張であり歪曲であるが、ヴェネツィアらしさが出たのではないかと思っている。

気がつけば五月

二月、三月がずいぶん前のように思えてくる。えっ、もう五月? いかにも、気がつけば五月。気がつかなくても、カレンダーが五月に変わっている。


今日のこの陽気と空を背景にした青葉の見映えは、すでに春の終章を告げるかのよう。冷たいもので喉を潤したくなる昼下がり。この季節は同時に、今年に限っては――今年だけに限ってほしいが――コロナ」の季節になった。


まばゆい新緑に心が動く。しかし、閉塞感に苛まれて、一編の詩を紡ぐような気分にはなれない。何もかもが鈍く、何もかもが重苦しい時はただそぞろ歩きするのみ。好きなように空を切り取ってみる。対岸の樹木も、萌黄、若草、松葉、青磁、孔雀、緑青……と、「よりどり緑」。


近年、四季が三季になってきた。春の時短が著しい。春よ来いと願っても、なかなか来ず、来たと思えば足早に去る。急いで夏のリハーサルをしてくれなくてもいいのに……。

五月の別れ

風の言葉に諭されながら
別れゆく二人が五月を歩く
木々の若葉は強がりだから
風の行く流れに逆らうばかり
(井上陽水)

五月に別れる人あり。ほとんどの人は五月に別れを告げる。いや、今は、月が変わると、五月のほうから一方的に別れたいと言い出してくる。やむをえない。重苦しさが軽やかさに変わることを願って、六月を迎える準備をしよう。

まいど! 二字熟語遊び

外出自粛してテレワークを! と言われるが、4月は一日たりとも休まず出社した。宣言に逆らっているわけではない。

理由は三つある。一つ目、幸いなことに間断なく仕事を受注している。二つ目、自宅からオフィスまで徒歩なら10分、自転車だと5分。電車通勤の密と無縁。三つ目、オフィスの仕事インフラに比べて、自宅には廃棄予定のWindows7のノートパソコンとのろまなプリンターのみ。在宅では仕事がままならない。

なお、得意先の発注担当者がテレワークゆえ、仕事がスムーズに運ばない。途切れて隙間の時間が生まれる。そんな時間には本を読んだりブログを書いたりしている。

二字熟語アイコン

【実名と名実】
(例)「実名」とは名のことであるが、「名実」は名と実から出来ている。だから「名実ともに」と言うことが多い。

仮名や偽名と二項対立の関係にあるのが実名。実名が名のことだからと言って、太郎や花子だけでは困る。実際の姓と名でなければならない。なお、「名実ともに」と言う時の名を匿名にすると値打ちがなくなる。

【身分と分身】
(例)社会の約束事に基づいて必要書類を取りまとめてどうにかこうにか「身分」を証明することができた。しかし、各種書類が自分の「分身」だとはとても思えない。

人間は身分や地位が高くなると足元が滑りやすいとタキトゥスが言った。その人間が分身の術を会得したなら、分身の方の身分や地位を低めにして、共倒れにならないように保険をかけておくのがよい。

【線路と路線】
(例)廃線でないかぎり、「線路」があれば「路線」の名前がついているはず。しかし、路線の名があっても、必ずしも線路が通っているとはかぎらない。

わが街ではメトロとバスの路線の重複を是正するために、バスの路線がかなり減らされた。バス路線を減らすのは簡単だ。バスを走らせなければ路線は廃止できる。

【類比と比類】
(例)筆を誤る弘法と木から落ちる猿は「類比」の関係を成すが、弘法大師は「比類」なき固有の存在なのに対して、猿のほうは特にこの猿でなければならないというわけではない。

一方が固有名詞で、他方が普通名詞なので、正確に言うと、ぴったりの類比ではない。「弘法も筆の誤り」に対しては、「忠犬ハチ公も飼い主を忘れる」というレベルの類比にする必要がある。

【空虚と虚空こくう
(例)いずれも何もない状態なのだが、「空虚」は価値や拠り所など心に関わり、「虚空」は物質や空間に関わる。

色も形も何もない空間を想像するのは難しい。しかも、それが久遠くおんに続くとなれば何がなんだかわけがわからなくなる。では、存在する中身や価値なら想像できるのか。こう問われると、それも心もとない。


シリーズ〈二字熟語で遊ぶ〉は二字の漢字「AB」を「BA」としても別の漢字が成立する熟語遊び。大きく意味が変わらない場合もあれば、まったく異なった意味になる場合がある。その類似と差異を例文によってあぶり出して寸評しようという試み。なお、熟語なので固有名詞は除外。