「思う」と「ぼくは思う」

「……と思う」と言うかぎり、他の誰のことでもなく、そう言う者の思いのはず。ふつうはそうだ。しかし、小説では、「……と、彼(彼女)は思っている」とか「……と、きみは思った」などと、思う主体が自分ではなく他人になったりする。案外気楽かつ安易に自分でない誰かが何かを思っていると言えてしまう。

「その時、Sは昼飯に何を食べるか考えながら歩いていた。あの通りには鰻屋とうどん屋がある。鰻はうどんの値段の10倍ほどもするが、たまには昼の贅沢も悪くないと、Sは思った」。

主体である書き手は直接Sから話を聞いたのではなさそうなのに、Sの気持ちをおそらく本人の了解なしに描いている。しかも最後には、そう思ったかどうかもわからないのに、「思った」と勝手に決めつける。他人の心理を首尾よく読めた経験に乏しいぼくには驚きだ。小説世界は他人の気持ちを見事に推し量ってみせる。


ところで、「思う」や「考える」と言う時、英語ではほぼ確実に自分である主体を“I think”というふうに明らかにする。わざわざ主語の「わたし」を明示しなくても、自分の認識を表す動詞「思う」は「わたし」のことであり、「わたし」が今思っていること――過去形なら過去に思っていたこと――に決まっているではないか。

自ら自分の考えていることを伝えるのに「思う」と言えば済むのに、なぜわざわざ「わたしは思う」と言うのか。ちょっと待てよ、これは英語に限ったことではない。特に示さなくてもいいのに、日本語でも「ぼくは思う」と言う時がある。だいたい「……と思う」などとめったに言ったり書いたりしないのに、いざ使うとなると、ご丁寧に「ぼくは思う」と言ったり書いたりすることがある。

「ぼくは思う」は強調なのだろう。あるいは、「他人はいざ知らず、こと自分に関しては」という補足かもしれない。さらにはまた、ずっと主語を省いて書いてきたが、主体としての認識を自ら確かめるために、段落の終わりのほうで念のために、あるいはケジメをつけるために「……とぼくは思う」として書くのではないか。

しかし、懐疑するデカルトの「我思う、ゆえに我あり」に懐疑的なぼくとしては、そもそも「ぼくは思う」という部分がかなり怪しいと思っている・・・・・