現実と願望のはざまで

あれもこれもしてみたい、しかしやり遂げるにはいくつものハードルがある、ハードルは現在進行形の現実にある、ハードルのすべてを越えるのは容易ではない……。

では、願望を諦めるのか。目の前の現実は願望もかなわないほど頑強だというわけか。現実と願望が凌ぎ合う、そして往々にして現実受容という折り合いをつける、それで、何かが変わることは稀だ。そうと知りながら、やっぱり現実はじめにありきなのか。

一億総評論家時代、現状の様子を窺うばかり。プロは少しは分析するが、素人は見てるだけ。見てるだけで直感的に語り始める。問題の解決は先送りされる。分析と観察は解決への入口ではあるが、扉を開けなければ解決には到らない。


分析の主な対象に原因と結果がある。数多くの原因から数多くの結果が生まれるので、そう簡単に因果関係を突き止めることはできない。ある部族が酋長の指示に従って雨乞いの踊りをすると百発百中で雨が降るという話があった。踊れば必ず雨が降るのである。なぜなら雨が降るまで踊り続けるからだ。このように、原因と結果の関係では、結果に合うように好みの原因をこじつけることができる。

精細に分析しても原因と結果を正確に捉えることはできない。つまり、現実の中に未来のヒントがあるにしても、問題解決のための処方箋が見つかるとはかぎらないのだ。問題を解決するエネルギー源として願望が欠かせない。こうあってほしい、できたらいいという熱量が創意工夫を突き動かし、構想を育む。

しばし現実を棚上げして構想に向かう環境が整っても、試練が待ち構える。構想の芽を摘むのに物理的な力はいらない。現実に直面している諸条件のフィルターを次から次へとかければ事足りる。もっと言えば、構想が潰れるまでとことんケチをつければいいのだ。時間を費やせば費やすほど、新しいアイデアは却下される。そして、誰もが満足していない現状が長らえていくのである。