丸覚えの苦、棒読みの愚

待合室でコーヒーを飲んでいた。税理士先生が入ってきた。「こんにちは」「あ、どーも」と交わした後、先生が隣に座った。手書きした紙を手にしている。

「余裕ですねぇ。もう覚えましたか?」
「覚えるって、何を?」
「今日は主賓のスピーチでしょ?」
「らしいです。先生もトリのスピーチじゃなかったですか?」
手にした紙を示して、「まだ全部覚えてないんですよ。早く着いていたんですがね、さっきまでトイレにこもっていました。もう完璧ですか?」
「ぼく、スピーチは覚えないです。覚えないどころか、原稿もないですし……。だいたい何を喋るかくらいは決めていますが、一字一句考えていないし、行き当たりばったりです」

「へぇ~」と先生は驚いてみせたが、その場で適当に喋るとはいい加減な……というような顔つきだった。「ギャラをもらって喋る仕事に比べたら、今日は祝儀をはずんで喋るので気楽なもんです」と冗談を言っておいた。

とある結婚式の直前の会話の様子。あれからまもなく四半世紀になるが、スピーチ役を引き受ける今の人たちもやっぱり丸暗記しているのだろうか。


たった一度きりのその日の結婚式のスピーチのために、何日もかけて内容を練って原稿を書き、当日の出番までに丸暗記する。こんな苦労をするくらいならスピーチなど受けなければいいのにと思う。冒頭のスピーチならともかく、トリのスピーチだと最初から最後までドキドキが続く。

いざ話し始めたら覚えたことが思い出せない……頭が真っ白になり始める……ことばに詰まる……。こんな無様なスピーチをするくらいなら、半分酔っ払って即興で喋っているほうがよほどましだ。書いた原稿を覚えたから忘れるのであり「思い出せない」という現象が生じる。だから、スピーチなど準備しなければいいのだ。

丸暗記した内容を正しく再現するのは大変である。落語家や講談師はそれが仕事だが、覚えたての頃はいかにも「再現している」という感じが強い。やがて場数をこなしているうちに、いま・ここで即興的に演じているような雰囲気が出てくる。つまり、芸が板についてくる。しかし、親族か知り合いの結婚式の場で披露するのは芸ではない。祝辞である。月並みであれ少々捻ったスピーチであれ、もっと気楽にできるはず。

丸暗記が苦手なら小さなカンニングペーパーもやむをえないが、原稿の丸読みだけはやめたほうがいい。絶対にいけないのは、他人が書いた原稿の棒読みだ。平気でこれができる職業は等しく儀式色が強い。何も持たずにえらく上手だなあと思う時は、たいてい透明板に映し出されたプロンプターを演技っぽく読んでいる。

パワーポイントの普及によって、スライドを追っていけば丸暗記の必要もなく棒読み感もなく話せるようになった。格下講師と格上講師の格差が縮減した。スライドの準備に時間はかかるが、丸暗記の苦から解放され棒読みの愚を冒さずに済んでいる。しかし、現代のパワポ講師たちは「フリップ芸人」と化したかのようである。フリップ芸人なら少しはおもしろおかしくやればいいのに……。手ぶらとユーモアと即興の喋りの時代を懐かしく思う。