形容詞が言い表していること

オフィスを借りているビルの1階にイタリアワインの専門店がテナントで入っている。お世話になっている(つまり、よく買っている)ので、だいたいの好みを告げて新入荷の中から薦めてもらう。

「ピノネーロでいいのがある?」と尋ねる。ピノネーロはぶどうの品種。フランス語だとピノノワール。
「ちょっと値が張りますが、こちら今日入荷したおすすめです」
「おとなしくて上品なのがいいけれど……」
「ピノの割にはちょっと強いかも。それならあちらの……」と言って誘導された棚には北イタリア産のピノ。イタリア語とドイツ語併記のラベル。オーストリア国境に近い産地だ。
「とてもエレガントです」
エレガントなら上品に見合うはず。と言うわけで、今手元にある。

「おとなしい」「上品な」と形容詞で味と飲み口を伝えたぼくに対し、ソムリエが「強い」「エレガント」という形容詞で返してきた。意味はおそらく共有できているのだろうが、形容詞が味覚の同一性を保証しているはずがない。わかり合えたとしても「だいたい」であり「おおよそ」である。日常の会話ならまったく差し支えない。


数年前に、コロンビアはエルベルダム農園のスペシャリティコーヒーを飲んだ。当時はワインもコーヒーも飲んだ味を文章で表現していた。このコーヒーについてしたためたのが次の文章。

芳醇にして甘い香り。酸味にとげがなくやわらかい。舌に沁みる感触はまろやかで、ほとんど雑味がない。コスタリカの類似クラスよりもやさしい印象だ。

いったい何を表現したのだろうか。そして、いったい何が他人に伝わるのだろうか。形容詞を並べるにしても、形容詞だって無尽蔵にあるわけではないから、同じ表現が何度も繰り返される。誰もが「美しい花」だの「青い空」だのと何度も言い、繰り返してきたはず。花は誰にも同じように美しいわけではなく、空もまた同じように青いはずがないのに、工夫もせずに美しい、青いと言って済ましている。

『コーヒーの科学』(旦部幸博著)に「コーヒーの味ことば」「おいしさを感じることば」などのリストが掲載されている。頻出上位を選んでリストアップしてみた。

香ばしい、コクがある、濃厚な、風味豊かな、まろやかな、深みのある、芳醇な、リッチな、フルーティー、後味すっきり、さっぱり、さわやかな、マイルド、すっきり、ほろ苦い、酸味のある、甘い……

こうしてみると、形容詞は感覚の主観的表現であって、決して感覚を他人に正確に伝えるものではないことがわかる。だから、伝わらないとかわからないという理由で表現者を責めたり追及したりしてはいけない。感想を言うほうも、「おいしい」を筆頭にした、常套的な形容詞を使うのがいい。決して相手が知らないことばを使うべきではない。

ことばがらみの一月

出掛けたり人に会う機会が極端に減って、どちらかと言うと「ことば人間」の自分がいっそうことば人間化しているような気がする。ことば人間イコール頭でっかち人間とはかぎらない。しかし、動いてみたら簡単にわかりそうなことが、じっとしてことばを探っているだけでは何も見えてきそうにない。

自分がことばにからみ、ことばが自分にからみついてきたこの一月だった。ことばとの――ことばだけとの――付き合いは物足りないが、無言語地獄の深みに嵌まってしまうよりはよほどましだと思う。


✍ 守破離は「道を求める人」の鍛錬手法であり、断捨離は「道を外した人」の残念手段である。

✍ 身体にツボがあるように、ことばにもツボがある。ツボを刺激して身体を整えるように、ことばも整える。整体と整語。

✍ 自分の普通を認識するには普通でない存在と付き合うのがいい。しかし、そうしているうちにやがて「普通でない自分」へと変えられていく。「ウィズコロナ」などと妥協しているうちに人は普通でなくなってきた。

✍ アイデアはイメージとことばで形になるが、誰かと共有するにはことばで何とかせねばならない。その過程に情念を挟んではいけない。なぜなら、情念というものはたいていことばの邪魔をするからだ。

✍ 女店主は親しみやすく、ランチは素朴でおいしかった。そして一句できた。

親睦しんぼく素朴そぼくにほっこりカフェのぼく

✍ 「言葉が人を作る」とか「人は言によって知られる」とかの謂は、たぶんほぼ真理だと思われる。

✍ 先月同様に今月もコラムやキャッチコピーを書く仕事が多かった。特に調べることはないが、傍らに諺辞典を置いてある。ところで、「諺」は「言+彦」であり、彦は「くっきりとした顔」の意である。つまり、諺とは本質をコンパクトにうまく言い表した文章で、キャッチコピーの役割を果たしていたのではないか。

新版の辞典

手元にある辞典を見ると、【格言】とは「人間の生き方を端的に言い表わした古人の言葉」とある。この古人は単に昔の人ではなく、偉い昔の人なのに違いない。格言が名言や金言と銘打たれる時は、だいたい最初に発した人物がわかっている。どこの誰が言ったかわからないが、民間伝承されて生き残っているものを、どうやら「諺」と呼んでいるのではないか。

ところで、「手元にある辞典」と書いたのは『新明解国語辞典』である。仕事柄いろんな辞書を引くが、よく引くのは『新明解』(三省堂)と『広辞苑』(岩波)と『類語新辞典』(角川)だ。

その『新明解』の第八版が昨年11月に出たのを知っている。今使っているのは第六版。第七版を買いそびれて今に至っているので、第六版をかれこれ15年以上使ってきたことになる。まだ手元にないが、第八版は買うつもりにしている。


版を重ねても何から何まで変わるわけではないので、新しい版に関心がなければ、古い版のものを使い続ければいい。それでゆゆしき問題が起こることもない。しかし、新しい版が出たら欲しくなる。辞書の、垢にまみれていない新品のページをめくるのは快楽なのだ。

『新明解』には他の辞典にはない「異端臭」が漂うことがある。すべてとは言わないが、語釈に思い切りのよさや斜めっぽさを感じるのだ。異端色を極限化して定義すると、ピアスが先駆けた『悪魔の辞典』風になる。悪魔の辞典は「辞典」ではなく「視点」である。新しい見方、部分をデフォルメした解釈を提示して楽しませる読み物。ユーモアだから、目くじらを立ててはいけない。若い頃に悪魔の辞典遊びをしたことがあった。そのほんの一部。

【人生】人生に目的はない。ただ日々歩むものである。
【幸せ】この言葉の前に人は「より」をつけたがる。
【社会】社会を上手に生きる方法を教えた社会科の授業は未だかつてない。
【知識】これが頭の中に
少量かつ偏って閉じ込められたら固定観念と呼ばれる。
【時間】時計がある時は主役の座を針と文字盤に奪われ、時計がない時にはじめて実感できる瞬間の集合概念。

「こと」のこと

和辻哲郎の著作は、二十代の頃に『古寺巡礼』と『風土――人間的考察』を読み、啓発されるところ大であった。その二冊に比べると、この『日本語と哲学の問題』は少々面倒くさい。一、二章だけ読みたい箇所があったので買ったが、本棚に放り込んだままだった。

お茶目な表紙にだまされてはいけない。だいたい和辻哲郎という人の本は――おおむね論理的に書かれていると思うが――一筋縄で読み下せない。「簡単に言えることをわざわざこねくり回しているようだし、そうでないとしても、テーマそのものがチンプンカンプン。苦手中の苦手」と言う知人がいる。実は、そういう人が多数派だ。

前々から、「こと」と「こと」が同じではないと知っていた。そういうことがこの本に詳しく書いてあるので手に取った。「事」とは出来事や事件を意味している。「変わったこと・・が起こった」とか「何かこと・・があれば」と言えば、「事」のことである。

他方、「事」ではない「こと」がある。「こと」は動詞――たとえば「書く」――にくっついて「書くこと」という動作を示す。なぜ「書くこと」があるかと言うと「書くもの・・」があるからで、つまり、「こと」は「もの」に属する……まあ、こんなふうに和辻哲郎は考えるのである。


先日、依頼されて4,000字の文章を書いた。初稿を読み返していたら、「もの」「こと」「ある」「~ということ」がやたら出てくる。これは苦しんで書いた証拠だと潔く認め、大胆に推敲することにした。かなり減らせて読みやすくなった。

「もの」「こと」「ある」「~ということ」がこの和辻の本で独特の視点で考察されている。分析的にそれぞれの意味を解き明かしている。それはそれでご苦労さまと言っておくが、ぼくとしてはそのような意味を含めたり理由をわきまえたりして書いているわけではない。今回取り上げた「こと」が文中に増えてしまうのは、ただただ作文が下手だからである。

会計はテーブルで

どんなに評判がよくランキング上位だとしても、入ってみないことには食事処の良し悪しはわからない。今いるエリアで「カレー 近く」とスマホに入力すると数十店がリストアップされる。大阪随一のカレー激戦区だけのことはある。ともあれ、好みは人それぞれだから、この種の情報は参考程度にしかならない。

情報か行動か。自分が下す評価は行動の他にない。レストランの食後の満足度につながる要素のうち、筆頭は「味」である。他のどんな要素よりも「うまい」が決め手であり、「ふつう」や「まずい」では話にならない。

味に続く要素を順不同で考えてみる。もてなしを含めたサービス、清潔感、雰囲気、インテリア、椅子の座り心地、コスパなど、いくらでも列挙できる。しかし、料理評論家やグルメライターでもないぼくたちは「調査票」で採点するわけではない。総合評価で良し悪しを決めているのではなく、自分の関心に応じて判断しているのだ。


調査票ではおそらく項目として出てこないし、一般的にはたぶん取るに足らないことだが、ぼくにとってその店が将来ひいきになりそうな要素がある。それは、今しがた食事を終えたそのテーブルで、着席したまま会計ができることだ。「お勘定してください」に対して「(勘定書きを)お持ちします」と告げられる。テーブルサインを置いてある場合もある。

出張時や買物帰りは持ち物が多い。食後に荷物を携えてレジに行き、勘定書きを示して会計するのは煩わしい。料理のうまさが――ひいては食事の満足度が――半減することさえある。にもかかわらず、ほとんどの店では上着を抱えカートを引っ張ってレジに向かい、財布を取り出さねばならず、支払ったらすぐに店を出る。

先日の中華料理店では、ホール兼会計担当者が二人しかいなかったが、手際よくテーブルで会計をしてくれた。食事をしてお手洗いを済ませ、また席に戻ってきて会計を告げる。現金でもクレジットカードでもいい。実にスムーズかつスマートだ。支払い後にお茶の一杯も飲める。「とてもいい食事ができた」という満足感の画竜点睛を欠かずに済むのである。

一円で二つ買えた頃

テーブルで注文を取る喫茶店はテーブルにコーヒーを運んでくれる。昔の喫茶店はすべてこうだった。このスタイルの喫茶店のコーヒーは1400円~600円が相場のようである。半世紀前は100円~150円だった。隔世の感があるが、コーヒーの物価はあまり上がっていないとも言える。

大阪で「ぽんせんべい」と呼ばれる駄菓子(直径約11㎝)。

昭和30年代に入って間もない頃、まだ1円札が流通していた。1円札が1円玉に変わった「瞬間」をとてもよく覚えている。まだ小学校に上がる前だ。十円玉を一つもらって「ぽんせんべい」を買いに行った時のこと。

売っているのは近所の遊び仲間の家。自宅でぽんせいべいの製造卸をしていた。せんべいを焼く小さな装置があって、ばあちゃんと友達の母親が交代で内職として焼いていたのである。裏木戸につながっている小さな一室で、工場の雰囲気とは程遠かった。近所の子らはその裏木戸から入ってぽんせんべいを売ってもらう。105円。五十銭は流通していなかったが、概念としてはあったということだ。

105円なので、十円硬貨を出すとお釣りが5円。お釣りはふつう五円玉だが、稀に一円札5枚のこともあった。おばちゃんがぼくの手のひらに乗せたお釣りは、キラリと銀色に光る小さな5枚。その頃流通し始めた一円硬貨で、見るのも触るのもその時が初めて。家に帰って見せびらかしたのを覚えている。


1枚が50銭だが、五十銭硬貨が流通していないので、1枚だけ買うわけにはいかない。いや、奇数枚のぽんせんべいを買うことができなかった。ぼくの場合はいつも5円で10枚だった。わくわくしながら駄菓子を買う時に握りしめていた硬貨は、たいてい五円玉だったような気がする。

現在、スーパーに行けば「満月ぽん」という商標などで、小さなぽんせんべいが売られている。先日、あの頃と同じ大きさの懐かしいぽんせんべいを見つけた。醤油が香ばしい。自分が今もぽんせんべい好きだということがわかった。ところで、105円だったせんべいは10330円と、値段は66倍になっている。その上昇率はコーヒーの比ではない。幸いにして、自分の小遣いは物価上昇以上に順調に上がったので、今もぽんせんべいが買えるし、それよりも上等なせんべいも賞味することができる。ありがたい。

語句の断章(28)普通

〈普通〉というのは、わかりやすそうでわかりにくい。よく使いよく耳にするという点で何となくわかりやすく、しかし、それ自体で身元証明ができないという点でわかりにくい。普通は、その左方向と右方向、あるいは、その上方と下方にあると思われる例外や極端との対比によってはじめて認識できる概念なのである。

たとえば「普通列車」は特急列車や急行列車との対比によってその正体をより明らかにする。つまり、それほど速くなく、各駅に停まるという、可も不可もない特徴が浮かび上がる。

『新明解国語辞典』は次のように普通を定義している。

㊀その類のものとしてごく平均的な水準を保っていて、取り立てて問題とする点が無い(良くも悪くもないこと)。
㊁その類のものに共通する条件に適っていて、特に変わった点が認められないこと。

㊀の意味で使う普通の対義語を「特別」、㊁の意味の対義語を「異常」としている。特別でもなく異常でもないことが普通ならば、人は在宅と外出を適度に使い分けるのが普通なので、ずっとステイホームしている状況は特別であり異常だということがわかる。ちなみに、家に閉じこもって外出しないことを、今ではステイホームと言い、この外来語が普通になった。他方、れっきとした閉居へいきょ」ということばはほとんど普通に使われなくなった。

「夕食は普通七時に摂る」や「今年の寒さは普通ではない」という用例にケチをつけるつもりはないが、普通というのはまじめそうではあるが、どうも面白味に欠ける。普通には笑いが少ないような気がするのだ。桂枝雀は笑いを「緊張と緩和」と捉えた。緊張と緩和が繰り返されると秩序が乱れる。笑いの多くは秩序の崩壊から生まれる。

ところが、権威にとっては規則性からの逸脱は都合が悪い。したがって、特別や異常などの異端の危険性を嗅ぎ取るのに敏な正統派ほど「型通りの無難」を歓迎する。型通りの無難というのが、まさに普通なのである。普通は良くも悪くもなく、かと言って、積極的に選択するものでもないが、権威や正統がひいきする普通がつまらないのは確かである。

腹八分目の生き方

謹賀新年。いつも拙い文章をご笑覧いただきありがとうございます。本年もよろしくお付き合いのほどお願い申し上げます。


「う~ん、ちょっと物足りないなあ。もう少し欲しいが、いや、う~ん、やっぱりここらでめておくか……」

長年、出張先の朝食はほぼビュッフェスタイル。食べられるだけ食べていた。時には、その貪りようを卑しいと思うことさえあった。一年前の34日の出張では満腹前に席を立つようにした。言うまでもなく、腹いっぱいよりは軽快に朝を過ごすことができた。

「腹八分目」とは食べることについて言っているのだが、食べること以外の生活上、人生上の諸々の比喩でもある。つまり、貪るな、分をわきまえよと促し、過剰よりも「やや不足」のほうをすすめる。欲望と抑制のバランスを上手に取るのは容易ではない。

何を嗜むにしても程々がよいのは承知している。たった一回でも度を過ぎてしまうと、そのツケをしばらく払い続けることになる。かと言って、何もなければどうしようもないから、必要なものは求めようとするし、ついでに欲するもの望むものも手に入れたくなる。「不要不急」? たしかに。人生の大半はそういうものだろう。

去る二日に書き初めをしようと思い、納戸から道具を取り出したが、半紙だけがない。次の日に近くのモールの文具売場で買い求めた。さて、半紙は必要だったのか否か。なければないで、書き初めを諦めれば済む。しかし、何もかも不要不急で片づけてしまうと、文化は消え、人生は殺伐となる。極端はいけない。腹八分目といういいことばがあるではないか。と言うわけで、少し遅くなったが、今年の初硯は「人生腹八分目」とした。