リアルとシュール

ステーキにはステーキソースか塩・胡椒が当たり前だった。この組み合わせが常識・定番コモンセンスで、それ以外の選択肢はないように思えた。ところが、ステーキにわさび醤油が合わされるようになった。シュールで前衛的な印象を受けた。「ん? 合わんだろう」と首を傾げて食べているうちに、この食べ方も定着して、今ではまったく意外性はない。

シュルレアリスムの手法の一つに〈デペイズマン〉というのがある。フランス語で「意外な組み合わせ」を意味する。今、ぼくのデスクの上に書類があり、その上にガラス製のペーパーウェイトが置いてある。「デスクの上の書類とペーパーウェイト」に誰も不意を突かれない。このマッチングは常識も常識、日常茶飯事の光景である。しかし、書類の上にラップに包みもせずに焼きおにぎりを乗せたら、その光景はシュールになる。

対立する二つの要素――または常識的にはなじみそうにない二つの要素――を並べて、コラージュのように貼り合わせてみると、シュルレアリストたちの好む画題が生まれる。かつてロートレアモンが表現した「解剖台の上で偶然に出合ったミシンとこうもり傘」を美しいと思うか思わないかは別にして、意外性にギクッとする。特に解剖台という設定に。


「シュルレアリスムとは、心の純粋な自動現象によって思考の働きを表現しようとすること。理性や美学や道徳から解放された思考の書き取りである」とアンドレが言った。一言一句この通り言ったのではなく、こんな感じのことを言った。アンドレ? フランスの詩人で、シュルレアリスムの草分け的存在、ほかでもないアンドレ・ブルトンその人。

フランス語の“surréalisme”は「超現実主義」と訳された結果、前衛的なニュアンスを持つようになった。ともすれば、現実に相反する概念のように錯覚するが、“sur-“は強調であり誇張だから、シュルレアリスムは現実の表現の一つにほかならない。ある場所において、何かと何かが出合う可能性は無限のはず。頻度の高い組み合わせが当たり前になってきただけの話ではないか。

花札の二月も都々逸も「梅に鶯」だが、ぼくの居住圏では「梅にメジロ」しか見たことがない。子どもの頃から親しんだ花札には定番のマッチングやペアリングがある。たとえば、一月の「松に鶴」は掛軸に多く描かれているし、落語の笑福亭松鶴を思い出す。三月の「桜に幕」は花見光景、また、八月の「すすきに月、芒にかり」や十月の「紅葉に鹿」などもいかにも「らしい」。

他方、シュールっぽいのもある。五月の「菖蒲に八つ橋」、九月の「菊に盃」、十一月の「雨に柳と小野道風」、十二月の「桐に鳳凰」等々。すべてにエピソードがあり、知ってしまえば納得できるが、知らずに組み合わせの絵柄だけを見ればかなりシュールである。定番や常識の世界にシュールが現れてドキッとし、何度も見ているうちに慣れてきてシュールが不自然でなくなる。シュルレアリスムが現実や常識とつながっている証拠である。

足したり引いたり

ある原型にあれもこれもと足して新しい形を作る。さらに足していくと別の新しい形が生まれる。こんなふうに足し続けていけば、やがて飽和状態になる。そこから先はもう盛りようがないので、翻って盛ったものを削ぎ落とし始める。いったん足したものを引いていくと、型が徐々にすっきりとシンプルになる。これを〈洗練〉と呼ぶことがある。

足し算していくと煩雑になり野暮になる。そこで引き算に転じる。しかし、引き算には限界がある。ずっと引き続けていくと何も残らない。どこかで引き算に歯止めをかけたり、ほんの少し足してみたりして加減するようになる。有名なあのウィスキーは、「何も足さない、何も引かない」という絶妙なところに落ち着いた。


肉うどん好きの新喜劇の役者。その日にかぎって、いつもの肉うどんが重く思えた。「うどん抜きの肉うどん」という変則の一品を注文してみた。肉うどんからうどんを引けば、肉とネギの出汁である。これを「肉吸い」と呼んだ。肉吸いは評判になり、店のオリジナルメニューになった。

その店ではないが、肉吸いと卵かけご飯の定食を出す店がある。肉うどんの主役はうどんだが、肉吸いで食べるのは肉である。肉が主役だから、肉うどんで食べる肉よりも質が問われる。安物の肉では商品にならない。ぼくが注文した肉吸いの肉は割といい近江牛だった。したがって、肉吸いは肉うどんよりも高くつくことがある。

肉うどんからうどんを引いて肉吸い。ランチが肉吸いだけでは物足りないから、ご飯ものが欲しくなる。ご飯に代わる腹の足しになるものは結局麺類だから、それなら肉うどんにしておけばいい。肉吸いにうどんを足せば肉うどんの一丁上がり。

先日、蕎麦処でおもしろい一品を見つけた。「肉吸いそば」である。「肉そば」ではなく、肉吸いそば。つまり、いきなり肉そばを作るというイメージではなく、引き算の肉吸いを経由して生まれたコンセプトである。料理というものは、麺類だけに限らず、このように足したり引いたりして変化していくものなのだろう。

名付けとネーミング

「名付け」を英語にすると「ネーミング(naming)」。ネーミングを日本語に訳すと名付け。同じ意味だが、使う場面に違いが出る。名付けは対象を特に選ぶことなく命名一般に使う。他方、ネーミングのほうは商品やブランドの名前に使われることも多く、消費者への印象付けを意識するところがある。

『古事記』は名付けの例の宝庫である。誰それがこうしたというエピソードにちなむ地名が詳細に書かれ、史実らしきものも多々あるが、駄洒落やことば遊びと思われるものも混じっていそうだ。そもそも苗字の命名は土地とその地形的特徴に由来し、山や田や村、川や森や野などを含む姓などは必然おびただしくなる。

最初にことばが生まれた頃は、何らかの〈音〉と〈もの〉が、特に規則性もなく、たまたまくっついたと思われる(但し、人間にとって発声しやすい音だっただろう)。ともあれ、名とその名で表されるものの関係は恣意的であった。つまり、犬を「ネコ」と命名しても、猫を「イヌ」と命名してもよかったのである。

ほとんどのものがまだ名を持たない時代と違って、名の付かないものがない現代では新しく生まれるものに創作的な名付けがおこなわれる。既存のものとの差異をはっきりさせるために、また、コンセプトを定めてそれに見合うように名前が考えられる。コンセプトをかたどるような表現が名付けされることもあれば、コミュニケーションを意識した表現でネーミングされることもある。


ものの名を知らないなら、もの自体もたぶん知らないだろう。いや、ものは見たことがあるかもしれない。しかし、見ていたとしても名を知らなければよく知っていることにはならない。名が不明不詳だと目の前の「それ」に不安を覚える。知らなければ信頼しづらいし、「それ」についての情報もうまく共有することができない。

Xに名付けするとは、同時にYZと差異化することでもある。Xだけに名前があってYZになければ、その三者間において名付けすることに意味はないし、名がないものとの差異化もできない。特に、「右」と「左」など、概念が二項対立的な関係の場合、今日「右」だけが名付けられて、明日「左」が名付けられるなどということはありえない。同時に名が生まれる必要がある。右は左によって、左は右によって明らかになる。相互にもたれ合って成り立っている関係なのである。

人の名前を知らなかったら、「すみません」とか「そこのあなた」などと呼びかけるしかない。名前を知らないと落ち着かないから、初対面の場では口頭で自己紹介したり名刺を交換したりするのである。一度も見たことのない人の話が出たとする。その人の名前が「〇山〇郎」であろうと「川□和□」であろうと何とも思わない。

しかし、指名手配犯になると話は違う。容疑者の名前がわかっているし写真もある。名前だけでも写真だけでも指名手配はやりにくい。名前と写真が一体となってこその手配書なのだ。姓名不詳の似顔絵やモンタージュの場合、姓名と写真の不足を補うための「50歳代の丸顔の男」という情報だけでは逮捕に協力するのが難しい。かつての「キツネ目の男」がそうだった。顔文字にほんのわずかなコメントを添えた手配書ではいかんともしがたいのである。つまり、人のアイデンティティには名とものとしての顔が欠かせない。

批評における主語選び

私はこの街に住んでいる」
「私は元気な人間だ」
だから、「この街に住んでいる人は元気である」

書かれた文章を読むと、二つの前提から導かれた結論の危うさがわかる。前提となる文章はどちらも「私」に限った話なのに、結論ではいきなり「みんな」に膨らんでしまっている。この論理の誤りには〈小概念不当周延の虚偽〉という難しい名前がついている。

〈私〉という小さな概念を〈みんな〉という概念に不当に置き換えてはいけない。全体について言えることは部分についても同じことが言えるが、部分について言えるからといって全体にも同じことが言えるとはかぎらないのである。

命題には主語と述語が含まれる。主述関係は論理の基本なので、主語の集合概念の大小をきちんと捉えておく必要がある。書いたらわかるのに、不注意に話したりすると、後になってとんでもないことを喋っていたことに気づく。「つい口が滑ったのではない、常々思っているからそう言ったのだ!」と指摘されてもしかたがない。


女性っていうのは、優れているところですが、競争意識が強い。誰か一人が手を挙げると、自分も言わなきゃと思うんでしょうね。それでみんな発言されるんです。結局、女性っていうのは(……)」(森喜朗東京五輪・パラリンピック組織委員会会長、2月3日、臨時評議員会。傍線は岡野)

「女性は」「男性は」「高齢者は」「今どきの若者は」など、大きな概念の一般主語でデリケートな内容を語ろうとすると誤謬の可能性が高くなる(虚偽を免れるのは、ごくわずかに「人間はみな死ぬ」のような自明の命題に限られる)。

大きな概念の主語でデリケートな問題について断言的に主張すると、「すべてがそうではないぞ!」と反論される。それだけでは収まらず、問題によっては差別・偏見と批判され、この時代ならではのネット炎上を招くことになる。では、「一部の……」と概念を小さくしたり具体的に名前を挙げたりして批評をすれば、極論や虚偽を避けられるだろうか。公開の場なら、一部の人たちや名指しされた人物から当然反論が出てくる。

では、公開の場で「誰々」と言うかわりに、密室で直接会って言ってみるのはどうか。これで世論からは隠れることができるかもしれないが、今度は当の相手から「パワハラを受けた」と訴えられ、公になるかもしれない。覚悟の足りない御仁はあまり慣れない批評などしないほうがいい。

と言う次第で、主語を何にするにしても、批評がしづらい時代になっているようだ。安全な批評は「私」を主語にした、一人反省会のような自己批評だろう。たしかに批評は昔に比べてデリケートになった。しかし、女性や男性や高齢者や若者などの大雑把な括りで、大雑把な物言いをするから問題なのだ。批評を手控えるようなことがあっては中身のある議論ができなくなる。実名による批評は――たとえそれが堅固な世論に向けられたとしても――匿名のネットでのやりたい放題よりはよほど健全なのである。

最良だったり最悪だったり

「今がサイコー」とご機嫌よくても、そこがピークでその先はくだるのみかもしれないし、サイコーの気分は上方修正されるかもしれない。同様に「サイアク!」と落ち込んでも、この先上向きになるかさらなるサイアクが待ち受けているのかはわからない。

最良/最高(best)とか最悪/最低(worst)だとか言えるのは、ある一定期間を振り返るからだ。最良とか最悪と感じる本人による過去の述懐にほかならない。期間限定であっても、数字で表せるのならともかく、気分や感覚をベストとワーストで評価するのはむずかしい。

昨年の土用の丑の日に食べた鰻を生涯最高だったと言うことはできる。この一年を振り返って「あの仕事は最悪で散々だった」と嘆くことはできる。他の誰でもない、本人がそう感じそう思ったのだからとやかく言うことはできない。最悪だと嘆く自分に「そんなに落ち込まなくても、ここが底だから」と言う友人の場合はどうか。決して励まされてはいけない。友人は預言者ではないし、底という主張の責任を負ってくれないのだから。


控えめなベターではなく、ベストなどと最上級で断定できるのは将棋や囲碁のAIソフトを除いて他にない。一般的には、最上級表現は現在形とは相性が悪いのである。だから、今が最悪、これからは良くなるという保証などありうるはずがない。

ピンチに陥ったにもかかわらず、どれだけの素直な人たちが、根拠のない「ピンチの後にチャンスあり」で励まされ、ノーテンキに生きたことか。常識的に考えればわかるはず。ピンチがチャンスに変わる可能性よりも、ピンチがさらなるピンチを招く可能性のほうが大きいのである。

もっとも、「人生最高!」と歓喜した次の日に、それを凌ぐ最高もありうるだろう。しかし、最良だ最悪だと言って一喜一憂してもしかたがない。最上級に出番を与えすぎてはいけないのだ。用いるべき評価としては比較級のほうが現実的である。英語の比較級“better/worse”に対して、日本語の表現は「より良い/よりひどい」などと少々ぎこちない。だから、安易に最上級の「サイコー/サイアク」を使ってしまう。取り扱い要注意である。

様々なコミュニケーション

📔 コミュニケーションとは「共有的人間関係」の別の言い方であり、他人に向き合って生きることである。したがって、すべを磨こうとか上手に振舞おうとかという魂胆でどうにかなるものではない。

📓 帰属先が定まらない情報のほとんどは、ひとまず〈コミュニケーション〉という索引のファイルに挟み綴じできるはずである。

📒 語彙はコミュニケーションの要。国語辞典に収録した語を覚えても語彙は増えない。むしろ外国語の翻訳をするほうが日本語の活用語彙は増えるだろう。だから英語の勉強をしている時は日本語の勉強もしているのである。

📔 「イエスかノーでお答えください」と二者択一の制限をかけたら、「いつ? どこで? 誰が? 何を? どのように? なぜ?」という形式の問いはできない。「あなたの名前は? イエスかノーでお答えください」は成り立たない。

イエスかノーを求める問いは〈命題〉を含まねばならない。命題とは、たとえば「今日のランチはサンドイッチです」という類。これを問いの形にすると「今日のランチはサンドイッチですか?」になる。この問いならイエスかノーで答えることができる。

📓 「心から出ることばは心に響く。でしょ?」と同意を求められても困る。「心から出ることばは心に響く」などは呪文のようなもので、その一文だけにおいそれとは頷けないのである。「心から出る」も「心に響く」もよくわからない。心を含む文章はたいてい心に逃げているか、心を隠れ蓑にしている。

📒 話にはユーモアがあるほうがいい。ところが、ユーモアの表現をパフォーマンスと取り違えるむきがある。パフォーマンスは話を誇張したがるが、ユーモアは逆で、派手になりがちな話を抑制する。

📔 コミュニケーションには大胆と精細が同棲している。思い切って「だいたい」を伝えることと、慎重に正確無比に伝えること。どちらがよく伝わるかはやってみないとわからない。

📓 相手を傷つけまいと、遠回しに、ソフトに、婉曲的に話しても、関係が浅い場合はなかなか通じ合えないもの。通じ合えたかどうかを確認するためには、いつか腹を割って踏み込んで話さねばならない。ソフトからハードへの転換が起こることになるが、人間関係はそこからさらに強くなるか、そこで終わるかのどちらかである。

独り占め

ずいぶん前の話。たまたまデパートに行く用事があった。頼まれていた恵方巻はいつもの商店街で買うつもりだったが、ついでだからここでもいいかと思い、地下へ降りた。寿司を売る店が2店舗並ぶ。どちらの店も初めて。海鮮巻1,000円と値段は同じ。海鮮の具の違いはわからない。こんな場合、どっちの店で買うかは多分に気まぐれだ。

しかし、買って来てくれと頼まれた中高年男性をターゲットにするなら、巻いてある海鮮の具が「鰻、いくら、数の子」と表示してあるほうが、表示していないよりも訴求力がある。他に差異化できることがあるなら、何もしないよりも何かを書くほうがいい。遊び心で、そんな恵方巻のコピーを考えたことがある。

節分の宵に 恵方を向きて もの言はず 巻寿司一本
丸かぶりの 習はしあり 願ひ事が叶ふ と伝え聞く

見た目も値段も同じなら先に覗いた店で買うだろうが、十人に一人を引き寄せるちょっとした工夫があるはず。


恵方を向く……何も喋らずに丸かぶり……。儀式などに関心はないが、巻寿司一本が割り当てられる少年少女は、恵方だけに「まれた々」である。ぼくらが子どもの頃は、巻寿司はカットして兄弟でシェアした。兄弟の数に比例して寿司は薄切りになったはず。一人であるだけすべて食べて誰にも与えないのが独り占めだが、たとえ一本でも、誰かとシェアしないなら、独り占め気分に浸れる。

父のパチンコの戦利品の板チョコ一枚をいつか一人で食べたいと思っていた。兄弟で公平に分けようとするから溝できれいに割るのだが、一人一枚なら溝など無視して斜めに割ったり、割らずに丸かじりしたりできる。独り占めは人の本能でありさがなのだろう。大人も子どもも関係ない。一人で食べることにはいくばくかの罪悪感もある。だから、たいてい黙って頬張る。もの言わずに恵方巻を丸かぶりするのもその流れに違いない。

ものすごくうまい手土産をもらったが、お裾分けが面倒なので、独り占めしてこっそり食べることがある。堂々と食べるよりもこっそりと食べるほうがおいしい。禁断の美味度が増す。みんなで食べると「おいしいなあ」と言って終わるだけだが、独り占めすると「あいつらはこの味の良さがわからんだろう」などと生意気が言える。こうしてうまさはさらに倍増する。

「みんなでワイワイと食べるほうが楽しい」という主張がある。たしかに楽しいかもしれない。しかし、十分に味わえているとはかぎらない。独り占めしているという意識で一人で食べるほうが間違いなくおいしい。だから、おいしい食事をしたいのなら一人に限る。『孤独のグルメ』とはそういう意味である。

どこに向かうのか?

著者ニコラス・ウェイド、英国人科学ジャーナリスト。題名『5万年前 このとき人類の壮大な旅が始まった』。帯には次のように書かれている。

あなたの祖先は、5万年前にアフリカ大陸を脱出した150人あまりの集団のなかにいた。[ヒトゲノムが紐解く、人類史の驚くべき事実〕

この本が発行されたのは14年前。5万年を語るうえで14取るに足らないが、実はこの十数年に限っても人類誕生から今に到る真実の解明はかなり進んだようだ。とは言え、大筋に関してこの一冊の価値が低められるわけではない。『サピエンス全史㊤㊦』を昨年読んだ流れで、本書を十何年ぶりかで再読してみた。

以前は、〈起源〉を解き明かそうとする、人類の誕生やホモサピエンスの出自などの本を好奇心の赴くままに、ずいぶん読んだ。起源についての真実は誰にもわからないし、著者も「アダムとイブに限らず、人類の起源にまつわるさまざまな物語は神話である」と言う。しかし、「ほぼ真なること」ならかなり解明されてきたとも言えそうだ。

ある意味で、日本人はどこからやって来たか、どういう系統から枝分かれしたのかなどよりも、5万年前の現生人類の出アフリカのほうが明らかなのではないか。エチオピアあたりから小規模集団が出発して紅海を渡り、海に沿って狩猟採集しながら東へ西へと散らばり、やがて世界のあちこちで定住するようになった……云々。「世界は一家、人類はみな兄弟」というスローガンはあながち間違いではなかった。


ダーウィンはまず『種の起源』(1859年)を書き、その後『人間の由来』(1871年)を書いた。歴史を遡って物事の原初や起こりに達するのが〈起源〉。素人にとっては起源よりも〈由来〉の方が関心が持続する。誕生したホモサピエンスがその後どのように枝分かれし、言語が分化し、体躯も見た目も多様化して今に到ったのか……こっちの謎解きを由来が受け持つ。

人類は今も進化し続けているというのが著者の持論だが、他方、進化は5万年前に終わった――つまり、5万年前の先祖と現在の人類は何も変わっていない――という主張もある。何を以て進化と呼ぶか次第だろう。類人猿からヒトへの何百万年をかけた進化を思えば、なるほど、出アフリカから現在までの5万年の進化などは微々たるものかもしれない。

地球の歴史46億年を1年のカレンダーに見立てて何かと類比する手法がある。元日に誕生した地球が今除夜の鐘を聞いているという設定だ。では、ホモサピエンスはこのカレンダーのどのあたりで誕生したのか? 大晦日の今日、午後115420秒に生まれた。今から540秒前のオギャーである。

ホモサピエンス。さて、これから先はどこに向かうのか?