何かが変わる兆し

醤油を通常の1.5倍量滲み込ませた満月ポンが売られていた。衝動的に買い、買ったことをしばらく忘れていた。赤ワイン摂取中の今夜にそのことを思い出し、袋を開けて赤ワインのつまみにするという暴挙に出た。時代が変わるとまでは言わないが、何かが変わるような予感がした。

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2020年の1月まで圧倒的な数の中国人観光客が、超過密状態で大阪ミナミの一帯で店に群れ通りに群れていた。今、ミナミから繁盛店すら姿を消しつつある。その最たる現場を今日目撃した。心斎橋の絶対的な商業一等地で長い間インバウンド景気で繁盛していた大手ドラッグストアが閉店していたのである。数年前からすれば「まさか」の――しかし今となっては「さもありなん」の――この事象は、インバウンド景気の終わりの始まり、いや、終わりの終わりを象徴している。

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巣ごもり需要をねらってメールやDMやポスティングが増えているような気がする。昨日も一通がポストに入っていた。「いつもご愛顧いただいているあなた様に今だけの特別商品のお知らせ」から始まるDM。「今月はボルドーの厳選金賞赤ワイン10本セットが半額以下!」 今だけ? 今月? いや、昨年の春から毎月2回は来ているぞ。

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長く商いしている老舗の江戸時代のポスターの絵葉書が、その老舗の末裔の家の壁に貼ってあった。萬小間物所は「よろずこまものどころ」だが、その右に書いてある「鼈甲べっこう□物類」の□が読めない。何だろうと思案していたちょうどその時、玄関が開いて婆さんが出てきた。「あの、べっこうの次は何と読むのですか?」と聞いてみたが、そんな細かいところまで見たことないと言う。昨日の話だ。

気になるので、帰宅してからついさっきまで、馬の部首を調べ、ネットもまさぐり、辞書も引いているが、まだわからない。ともあれ、諦めのいいぼくが気になって調べているのはちょっとした異変である。

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最近何かが変わる兆しをよく感じる。あまり他人様と会わないから、人以外のものに感覚が開かれているような気がする。もっとも、何が変わるのかはまったくわからないが……。

一言多い、一言少ない

知人と道で出会った。少々久しぶりなのに、「こんにちは」や「ごぶさた」だけを交わして通り過ぎたら不自然至極。ことばの不足感を拭えない。もう一言添えないといかにも白々しい。社交辞令っぽいプラスアルファを続ければ済む話なのだが、もう一言が続かない人がいる。一言多めが苦手なのだ。

英米人と仕事をしていた時は、一言多いという印象が強かった。毎日親しく会話していると喋ることが尽き果てるものだが、まるでコミュニケーションが使命かのように何かを話そうとする。沈黙を恐れているのだろうか。一言少ないことに平気なぼくらと違って、一言少ないことのリスクに敏感なのに違いない。

食事のできる喫茶店やグリル何々という洋食店ではショーケースにビーフカツやエビフライのサンプルが収まっている。あれは料理のビジュアル情報である。あればイメージがつかみやすい。

一方、日本でもフランス料理店やイタリア料理店はめったにサンプルを置いていない。フランスやイタリアに行けば店の前や壁に貼り出してあるメニューはほぼ文字情報だ。サンプルも写真もないから文字に頼るしかない。メニューに関する情報は、まず店外で掲示されるのがよく、また、少ないよりも多いほうがいい。


一言多いと指摘されたら、その一言が余計だという意味。その余計な一言が相手の感情を害したり、話を複雑にしたり、舌禍を招いたりしかねない。一言少なくて舌禍を招くことはない。だから、「記憶にございません」は無難なのだ。しかし、一言少なくて理解できなければ苛立つし、言葉少なだと誤解を生む。説明責任を果たしていないと非難される。

一言多いとか一言少ないと言うが、別に「二言三言ふたことみこと」でもいい。「一言ひとこと」は便宜上そう言っているに過ぎず、つまりは饒舌と寡黙のことである。一言多いの一言が余計であるのなら、その時点ですでに批判されている。しかし、余計なお節介もあるわけだから、相手をおもんぱかっての一言かもしれず、念には念を入れての補足という意味もあるかもしれない。

一言多いか少ないかなら、多いほうを取るようにしてきた。勝手なことを言わせてもらうなら、一言多ければその一言を無視するかなかったことにしてもらえばいい。しかし、足りなければ「どうか適当に足してください」などとお願いできない。足りないと相手に考えさせることになるからだ。口は禍の元であり、無口も禍の元になる。批判の的になるのが五分五分なら、一言多めでもいいと思うが、世論はいま確実に口を閉ざさせる方向に動いている。

いま、S社製の空気清浄機が音声を発した。「今日もキレイですね。空気のことですよ」。あなたのことではないと暗に示している。「空気のことですよ」は余計な一言だが、別に目くじらを立てることはない。

この世界、別の世界

「この世界とは別の世界があることは確かだ」(サルバトール・ダリ)

現世と前世または現世と後世のことか、もしかしてこの世とあの世のことだろうかと類推した。しかし、それなら「確かだ」などと言い切らないはず。ここで言う世界とは、たぶん、見える世界のことで、ひいては世界観に近いのではないか。こんな見当を付けて、今さらながらだが、「世界」ということばについて少し考えてみた。

地球上のありとあらゆるものが一つになった総体を一般的に世界と呼んでいる。英語の“world”を訳して世界を造語したのではなく、前々からあった仏教のことばである世界を借用した。それによると、世界の世は前世と現世と後世の「三世さんぜ」から成り、世界の界は「すべてにまたがる様子」を表わしている。すなわち、世界はあらゆる時、あらゆる場を包括する概念である。

それでは大きすぎるので、世界は分化して多義語になった。とは言え、ダリのことばを「此岸とは別の彼岸があることは確かだ」というようにスピリチュアルに読み替えることはなさそうだ。世界とは住んでいる所、行く所、想像する所。また、世界とは同種や類似のものが集まっている所。そして、世界とは見える範囲のこと、つまり視野や視界。漠然としているが、何となくわかるので、何となくよく使う。


この世界とは、自分がいる所であり、ゆえに何となく知っている所。別の世界とは、自分がいない所であり、ゆえにあまりよく知らない所。いまこの時、この世界とは違う別の世界を別の誰かが見ている。根拠はないが、「見ていない」よりも「見ている」と考えるほうが自然に思える。ダリも確かさの根拠は示していない。

人それぞれの知覚の枠で世界が認識され、人それぞれが自分流の世界観を構築している。いまあなたが「この世界」と呼ぶ世界を誰かが「別の世界」と呼ぶことは不思議ではなく、他方、誰かが「この世界」と呼んでいる世界をあなたが「別の世界」と呼んでも何ら不思議ではない。呼び方と見え方が違うだけで、それらは同じ世界なのだ。

複数の世界があるのではなく、たった一つの世界が複数の人々によって複数の解釈によって認識されているのである。「この世界とは別の世界があることは確かだ」とは、公園の同じベンチに腰掛けるあなたと隣りに座る親しい人が違う世界を見ているということにほかならない。

フェイントの季節

近くの川岸が夕方になるとほのかに橙色を帯びる。もしかして桜? と早とちりする人がいるが、十日以上早いからさすがに桜はない。実はライトアップ。ライトアップが春のフェイントをかけているのだ。

春本番を控えて景色がフェイントをかける、気配も気候もフェイントをかける。フェイント(faint)は「かすかな」ということ。かすかであるから一時的に春らしくなっても、すぐにらしさは消えて、また肌寒くなったりする。三寒四温とは、冬から春に移り変わる時期の言い得て妙である。

散歩中に、右へ曲がりかけて、ふと気が変わって左へときびすを返すことがよくある。冬色と春色が境界なく混ざるような配色も目に入る。焦点が定まらず、身体も適応し切れず、気持ちはいいのだが少々気だるくふわっとする午後の時間がある。


今年こそやるぞ! 旅に出るぞ! 本を読むぞ! 趣味に勤しむぞ! などと毎年同じことを決意表明する者がいる。必ずしも他人事と言って片付けられないが、あれもフェイントの一種である。自分を宥め欺き、決意をきれいさっぱり忘れるために欠かせない一人フェイント。

人生は大小いろいろなフェイントの連続。時には一人で、時には集団で。フェイントは自分を、他人を惑わせ続ける。そして、フェイントであったことがばれる。フェイントのフェイント、それに次ぐフェイント、そのまたフェイント……フェイントはフェイントを呼ぶ。

ことばと味覚の辻褄合わせ

ヴァイン・イン・フレイム/カベルネ・ソーヴィニヨン 2018 ブドゥレアスカ。

初めての赤ワインの銘柄。まだ抜栓していない。最後尾のブドゥレアスカに「ブドゥ」が入っているのは偶然である。これはワイン生産者の名前。場所はルーマニアの南部。外国のワイン生産者が日本に合わせて名付けしたのではない。

デパートで見つけた一本。日本ではフランスとイタリアが圧倒的な流通量を誇り、次いでスペイン、ドイツ、チリ、南アフリカ、オーストラリアあたりが続く。メジャーではないジョージア、ハンガリー、ブルガリアなどのワインをデパートや品揃えのいいワインショップで見つけるたびに飲んでみた。飲んでいなければ親近感を覚えないが、少し飲み慣れるとコスパの良さに驚く。


そして、ついにルーマニアである。どんな香りでどんな味か。専門家のレビューなど読まずにさっさと飲んでみればいいのに、「初銘柄のルーマニア」にそそのかされてつい評判を知りたくなって、ワインサイトを覗いてしまったのである。

カシスやブラックベリー、爽やかな新緑のような香りに、黒胡椒のニュアンス。酸は心地よく、しっかりとした果実味にまろやかなタンニンが感じられる。

爽やか、ニュアンス、心地よい、しっかりとした、まろやかな……香りや味はいつの時代もボキャブラリー不足である。既知の表現の組み合わせから未知の香りと味をイメージすることはできるが、再現性は頼りない。

自分が感知した味とすでに書かれたコメントが違うと、「あれ?」という感じになる。大いに違っていると、不快感や不安感を覚えるかもしれない。そして、自分の味覚にがっかりしないように、感じた印象が実は書かれたコメントに近いと思いなすようになる。さて、近々このワインを賞味するつもりだが、はたしてそのような――認知的不協和的な――味覚とことばの強引な辻褄合わせすることになるのだろうか。

楽 (らく) と楽しみ

背伸びして生活したり仕事したりしていれば肩肘も気も張る。誰にもそんな時期があるだろう。しかし、気は――張るだけでなく――時々緩めないと疲れ果てる。己の分と能力をよくわきめておくのが肝要である。

堀口大學に『座右の銘』という短詩がある。

暮らしはぶんが大事です
気楽が何より薬です
そねむ心は自分より
以外のものは傷つけぬ

分相応に生きろなどと他人に言うと生意気だが、自分自身に言い聞かせるなら支障はない。分や能力の程度で生きていれば、周囲の事情や他人の存在につねに気を遣うこともなくなる。つまり、気楽になれる、力が抜ける。


気楽は「いい加減」とは一線を画す。無理することなく、どこかで「なるようにしかならない」と諦観してのんびり構えている様子だ。「気楽が何より薬です」と言われてあらためて「薬」の中の「楽」を確かめる。漢字で薬と書けば、その薬は元々漢方。漢方薬の原料は草の葉や根や皮がほとんど。だから「くさかんむり」。

この楽は「らく」であり、落ち着いてゆったりした気持ちのさまだ。気楽、安楽、極楽の楽である。病を治すばかりが薬ではない。うまく処方すれば、未病に働いて心身は楽になる。

楽はやがて余裕を生み、歓楽や快楽にも変化して感覚をたのしませてくれる。それは、身近なところでは音楽が与えてくれるような安らぎ、歓び、快さ。

先日のこと、知人から電話が入っていたのに気づかなかった。折り返した。
「すみません、間違ってかけました。元気にされてますか?」
「まあ、耐えているというところかな」
「暖かくなったら歌いに行きましょう」

なんで歌? とその時は思ったが、なるほど、音楽にはらくたのしみの薬効がある。歌うどころか、最近はあまり聴きもしていないことに気づかされた。

本にとって都合の悪いこと

「対象への愛に支障を来す存在は対象の敵である」と言えるのかどうか。ちょっと面倒だが、こんなことを考えさせられる本に出合ってしまった。『書物の敵』(ウィリアム・ブレイズ著)という本である。

まず「書物への愛」について考えてみた。すぐに一筋縄ではいかないことがわかった。単に読書好きと言うだけでは片付かない。所蔵好き、装幀好き、書斎好き、書店・図書館好き、本の歴史好き、そしてぼくのような背表紙眺め好き……。本にまつわる何々好きなどいくらでもある。

古本屋でこの本の背表紙に目が止まった時点で、書物と敵という組み合わせに新鮮味を覚えた。そして手に取った時点で、書物の敵はぼくの敵でもあることを認めたような気になった。普段はここで表紙を開けて目次に目を通してページを繰るのだが、そうしなかった。「本の敵とは何か」を、この本を読む前に推測してみようと思ったのである。


書物に危機を与えたり破滅させたりするもの。書物イコール読書ではないから、読書を妨げる騒音や読書を遠ざける怠慢は敵ではない……。

物理的存在としての本にダメージを与えるものは何か。人間もダメージを受ける自然災害だ。とりわけ水害や過度の湿気。湿気が多いと本の紙魚シミがわく。人間が原因となる人災も敵になる。本の良さは紙だと思うが、その良さが弱点になる。火災に見舞われたら跡形もない……。

精神的存在としての本の敵は思想弾圧であり、それに付随して頻繁に焚書がおこなわれた。これも火である。焼き尽くされなくても、厳しい検閲によって禁書にされれば書物の存在は危うくなるし、人々は読書機会を失う……。

書物の敵として読者の知性の低さも忘れてはいけない。書物はありとあらゆることに関して、様々な知的レベルで編まれ出版されるのが健全だ。苦労せずに読める、売れそうな本ばかりが求められれば、本の文化は広がらないしテーマもジャンルも偏ってしまう。本が存続するためには多様性が不可欠ではないか……。

こんなふうに思い巡らしてから、本を開け目次を見た。第一章から第十章までの見出しは次の通り。

火の暴威、水の脅威、ガスと熱気の悪行、埃と粗略の結果、無知と偏狭の罪、紙魚の襲撃、害獣と害虫の饗宴、製本屋の暴虐、蒐集家の身勝手、召使と子供の狼藉

火と水と無知と紙魚以外はまったく見当もつかなかったし、かなり違和感を覚えた。気になる箇所だけざっと読んでみたら、なるほど安っぽい製本にすれば劣化が早い、また、蒐集した本の題扉とびらを好き勝手に切り取れば希少本が失われることになる。それにしても表現や時代感覚がしっくりこない。奥付を見たら、原書“The Enemies of Books”1896年にロンドンで発行とある。この本を買ったことに後悔はないが、今から買おうとする本の目次と奥付くらいには目を通しておくのがいいと思う。

シリーズや行頭の番号のこと

新聞や雑誌でシリーズ化されたコラムを見つけるとする。その時、なぜシリーズだとわかるのか? タイトルの近くに番号や符号が付いているからである。『ドキュメント 新型コロナを検証する ㊤』という具合。㊤とあれば、次回はおそらく㊥で、シリーズの最後が㊦になり、3回シリーズの可能性が高い。最初に出合ったのが㊥で、記事がおもしろかったら㊤も読んでみたくなるが、理髪店でたまたま手に取った雑誌だと先月号は手に入れにくい。

書籍は上巻と下巻でいいが、コラムなら「前編、後編」のほうがよさそうだ。コラムによっては何も印さず、最初の記事の巻末に「続く」と書き、続編の記事の最後に「完」で締めることもある。4回以上続くなら通常は数字を使う。第1回、第2回……、①、②……、<1>、<2>、……というような体裁で記す。数字の場合は何回続くかはわからない。「最終回」という文字を見てその記事でシリーズが終わることを知る。

ワードやパワーポイントで箇条書き体裁にする時、上記のような順序を示す行頭符号を選ぶ。箇条書きが小さな箇条書きに枝分かれしていく場合は、複数の符号を使う。このようにしてできる箇条書きの構造を〈抽象のハシゴabstract ladderと呼ぶことがある。よく論文などで見る次のような構造である。

Ⅰ ・・・・・・・・・・
  A ・・・・・・・・・・
    1 ・・・・・・・・・・
      (a) ・・・・・・・・・・

 があるのだからがあり、それぞれにAがあり、AがあるからBもあり、またABの下にそれぞれ12があって、さらに12の下にそれぞれ(a)(b)が置かれることになる。どこにどんなことが書かれているか(ディレクトリー)を示すのは簡単で、たとえば「Ⅱ-D-3-(c)」などで示せる。


小難しそうだが、何のことはない、普段住所を書く時は「抽象から具象へのハシゴ」を下りている。二段目以降が同じでも、一段目が違えばカテゴリーは別になる。東京都と大阪市には同じ地名が存在するが、おおもとの東京と大阪が別だから郵便配達も間違わないのである。

Ⅰ 東京都
  Ⅰ-A 中央区
    Ⅰ-A-1 日本橋
  Ⅰ-B 港区

Ⅱ 大阪市
  Ⅱ-A 中央区
    Ⅱ-A-1 日本橋
  Ⅱ-B 港区

符号――特に番号――をモノや概念に振るのは、順序やグループ分け(差異化)を認識しやすく共有しやすくするためである。裏返せば、順序もグループもどうでもよく、誰かと共有しないのであれば、わざわざ行頭に符号を振って箇条書きにすることもないし、シリーズに番号を付ける必要もない。書き手が「第何回」を意識するほど、読み手は気にしていないのである。