休日の二字熟語遊び

一字だけでもいろんな含みが出るのが漢字。では二字ならもっと意味が膨らむだろうと思いきや、実はそうならない。二字、三字、四字……と熟語の字数が増えるにつれて意味は限定されてくるのだ。たとえば「音」の一字は多義だが、二文字の「音楽」になると意味の輪郭がはっきりしてくる。

二字熟語を逆さ読みしてみるとたいてい類義語になる。しかし、同じ漢字を使っていても並びが変わるとまったく別の意味が生成されることがある。それがおもしろいので、二字熟語で遊んでいる。

色物物色】
(例)寄席で落語や講談の合間に「色物」ができる芸人を「物色」していたら、異色の芸ができる大学生を紹介してもらった。

白物に対して染めた布地のことを色物と呼んでいた時代がある。寄席で色物と言うと、落語や講談以外の演芸のことを指す。奇術、曲芸、紙切り、物まねなどだ。
物色する対象は、文字通りの色であったり鮮度であったり美しさであったりしたようだが、いろいろある選択肢から一つを選りすぐる様子が伝わってくる。

【回転と転回】
(例)皿をレーン上で「回転」させるという画期的な発想は、寿司業界においてコペルニクス的「転回」となった。

中心に軸があって、その軸をぶれないようにして全体をくるくる回せば回転。そういう意味では、転回という動作も回るのだから同じように見える。しかし、転回にはくるりと向き・・が変わるイメージがある。向きが180°変わるのがコペルニクス的転回。コペルニクス的回転と言ってしまうと、いつまでもずっと回り続きかねないし、360°回転して止まったら元に戻るだけの話である。わざわざコペルニクスに登場してもらう意味がなくなる。

【下部と部下】
(例)上部組織の「部下」が直属の上司の指示に従わずに、「下部」組織の長の指示を仰いだため、人事が騒ぎになっている。

下部の対義語は上部。下部とか上部は力学的な階層構造を感じさせる用語である。上下には権威象徴的な意味もともなう。他方、部下の対義語は上司である。ここでの上下は職場での人間関係を感じさせる。上部の組織にも部下はいるし、下部の組織にも上司はいる。建物の中では、上部組織のお偉いさんが下の階にいて、下部組織の部下が上の階にいることはよくある。誰がどの階にいても、上意下達という方法は今もよく実践される。


シリーズ〈二字熟語遊び〉は二字の漢字「〇△」を「△〇」としても別の漢字が成立する熟語遊び。大きく意味が変わらない場合もあれば、まったく異なった意味になる場合がある。その類似と差異を例文によってあぶり出して寸評しようという試み。なお、熟語なので固有名詞は除外。

メモと衣食住

大阪で3度目の緊急事態宣言が発出される前日の土曜日。もう少し先まで開催されるはずの小さなコレクション展は急遽その日が最終日になった。若い女性画家の展覧会である。入場料が無料の上に、小冊子と呼ぶには立派過ぎる、画家がセレクトした60ページの作品評集、それに画家自身のポートフォリオまでいただいた。

小冊子をめくる。図録から引用されたある画家の一文に目が止まる。

「美術がなくても、衣食住にはさほど影響はないと錯覚してしまったところに盲点があった」

世の中、アヴァンギャルドな青少年ばかりではない。普通の少年なら衣食住優先の生き方がたいせつだと知らず知らずのうちに刷り込まれる。「美術がなくても、衣食住にはさほど影響はないと錯覚……」という一文の「美術」の箇所には、衣食住に直接関わらないモノやコトなら何でも入る。思い当たることがいろいろある。

もう40年以上、何かにつけてメモを取ってきた。忘れないためだけでなく、メモにはペンを手にしてノートに向き合えば知恵を絞りだす効能があるからだ。長く習慣にしてきた者にとって、メモを取るのは苦痛でも何でもない。それは、ヘッドホンでいつも音楽を聴いている人と同じで、楽しい、なくては困る、生活の一部……と言うべき存在になっている。


このところよく言われる不要不急論と衣食住優先論はよく似ている。衣食住以外のたいていのことは、極論的に言えば不要不急なのかもしれない。いや、衣食住のうちにも不要不急扱いできるモノやコトが少なくない。しかし、生活は――つまるところ人生は――要か不要か、急ぎか不急かで線引きできるほど単純でないことは誰もが百も承知している。

ぼくが中高生の頃、「芸術なんぞでは食っていけない」という大人たちのことばをよく耳にした。衣食住では食が最優先されていた証だ。食っていくことを抜きにして、文化だの芸術だのとほざくわけにはいかんぞということだったのだろう。

文化芸術にしてそうなら、散歩も雑談も読書も当然衣食住に優先することはなく、ましてやメモを取るような行為がその上にあるはずがない。メモを熱心に取りながらも、まあ、なければないで困ることはないだろうと最初の頃は思っていた。ところが、そういう物分かりの良さ、大人の常識になびく事なかれ主義が、大変な錯誤だということにまもなく気づいたのである。

衣食住満たされてこそのメモと言えるなら、メモ取りができてこその衣食住とも言え、それで何の不思議もないではないか。「メモが取れなければ、生活も人生もなく、衣食住を考えるどころではない」という思いを、何を大げさななどと自ら言ってはいけないのである。

文化や芸術がなく、散歩も雑談もせず、その他諸々の不要不急を抜きにして、現代人はギリギリの必要条件を満たそうとするだけの衣食住生活を送ることができるのだろうか。

始まりと終わり

桜は「咲く」と「散る」がつながっている。咲いたら散るし、散るのは咲いたからである。咲かなければ散りようがない。咲いてやがて散って一つの経過が完結。では、どんな物事でも始まりあっての終わり、終わりあっての始まりと言えるか。必ずしもそうではなさそうである。

終わりは始まりに知らん顔できないが、始まりは終わりを無視することがある。「始めるのが当方の仕事でして、いつ終わるかは終わりに聞いてください」という趣がある。『新版 モノここに始まる』という本が、「モノここに始まりここに終わる」ではないことに注目しておきたい。

この本では、洗濯石鹸、フォーク、拡声器、チューリップ、人造真珠、金融業などの始まりについて書かれているが、終わりには言及していない。なぜなら、紹介されているすべての物事が今も現役で存続しているからである。原初についてはわからないことだらけなので、「始まる」と言い切っていても断定しているわけではない。


「開花宣言」という表現があるように、開花したかどうかは桜が決めているのではなく、人が観察して決めているのである。始まりと終わりは「告げられる」ものであり、観察による解釈にほかならない。それまでとは違う状態が新たに認知されたら「始まり」、ずっと続いていた状態がこの先続かないと判断したら「終わり」。

ある現象や状態を「始まり」と呼ぶか「終わり」と呼ぶかで感じ方が一変する。ルネサンスは「近世のはじまり」なのか、それとも「中世のおわり」なのか。青葉の見映えが鮮やかで、汗ばむほど陽気のいい昼下がり。これは春の終章か、それとも夏の序章なのか。散歩の途中で寄ったカフェでアイスコーヒーを飲みたくなったらひとまず後者。

始まりも終わりもデジタル的なスイッチが入るのではなく、アナログ現象のどこかに人が分節点を見出しているにすぎない。おおよその始まりに「初」を、おおよその終わりに「晩」をつければ、いちいち厳密に始まりや終わりを告げなくてもすむ。初夏や晩夏とは巧みな言い表し方だ。半月に一回移ろう二十四節気という分節点の多い風土ならではの創意工夫である。

読書のきっかけとつながり

二十代の一時期に手当たり次第に本を読んだことがある。一時期と言っても一年かそこらの短期間だった。狙いの定まらない読書をずっと続けるには、行き当たりばったりが許されるだけのあり余る時間が必要だ。暇があるのは貴族か無職だが、幸か不幸か、一年かそこらのうち半年ほど仕事に就いていなかった。だからいろいろ読めた。

ほとんどの人は何かのきっかけで本を手に取る。偶然がきっかけになることもあるが、そればかりになると手当たり次第と同じことになる。たいていの場合、かねてから興味があったとか誰かに勧められたとか仕事上の動機とかがきっかけになっているはずだ。

415日はレオナルド・ダ・ヴィンチの誕生日だった。ひょんなことからそのことを思い出した。お釈迦様の誕生日が48日、その一週間後がレオナルド・ダ・ヴィンチの誕生日だということを思い出したのである。


お釈迦様とレオナルド・ダ・ヴィンチがつながり、本棚に数あるダ・ヴィンチ関連書のうちこの一冊、ポール・ヴァレリーの『レオナルド・ダ・ヴィンチの方法』を手に取った。そして、また別のことを思い出したのである。この本はほとんどダ・ヴィンチのことについて書いていない。以前読みかけたものの思惑が外れて、つまらなくなってやめたのを思い出した。

きっかけからつながりが生まれたにもかかわらず、この本は途中で挫折した。読書にはよくあることだ。読書は愉しみであると同時に、本の中身次第では苦痛にもなりうる。何かのきっかけでもなければ、一生涯読むことのない本がある。読んでよかった、読まなきゃよかった、どうでもよかった……読後感もいろいろである。

ぼくを読書家と勘違いしている人から「何かおすすめの本はないですか?」とよく聞かれる。当たり前のことだが、自分が読んで満足した本を他人が気に入る確率はかなり低い。ミリオンセラーの本であっても、その数字は全読書人口を1億とした場合、わずかに1パーセントにすぎない。したがって、ぼくは本をどなたにも推薦しない。すすめた本が苦痛と退屈のきっかけになる可能性が大きいからである。

コロナ禍、二年目の春

テレビ番組で誰かが言う。「コロナ禍で自由に行動できずに……」云々。「コロナ禍」が「この中」に聞こえる。当然、「この中」は「コロナ禍」に聞こえる。

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いろんな理由があって桜は散った。「来年に咲くために」というのも理由の一つ。来年のことを言えば鬼が笑うらしいが、いまは鬼は笑わない。ここに鬼はいないから。
さて、来年の干支は、……、すぐには言えない。いつものことで、翌年の干支を知るのはだいたい十二月になってからである。

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昨年に続いて今年も大阪の風物詩、造幣局の桜の通り抜けが中止になった。通り抜けスタートの門へアクセスする要所のあちこちにガードマンがいる。通り過ぎる人達に中止を伝えているのだが、人の列を整理するために立っているように見えなくもない。逆に引き寄せてしまわないか。
近くで仕事をしているから、来客のアテンドも含めてこれまで数回通り抜けた。未体験の知り合いに一度見てみたいと言う人がまずまずいる。一度見ておくのもいいかもしれない。ここの桜は遅咲きなので、どこかで一、二度花見を予習してからここで
復習する感覚になる
見るのは一度で十分だと思う。おそらく「なぜ大勢の人が桜を見るのだろうか」という哲学体験をすることになる。その時、大勢の人に自分は含まれない。哲学とはそういうものだ。

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造幣局の外から見学者のいない通り抜けの現場を窺うことができる。これから満開へと向かう場内桜と場外ですでに青葉になった樹々が重なる。コントラストが鮮やか。しばし佇めば野鳥がさえずる。お礼に凡歌を返す。ことばは通じないのでハミングで。
Mmmmm lalalalalalala hmmmm

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平和な風景。平凡な平日。平坦な仕事。口に出してみれば何ということはないが、何事も平らにならすのは容易ではない。その体験的証人であることはまんざらでもない。

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三年目の春にコロナ禍が収まっていることを切に願う。

一行詩と一文詩

ネット検索で「一行詩いちぎょうし」は出てくると思っていたが、一文詩いちぶんし」もヒットしたのは想定外だった。こういう命名は誰もが思いつくものなのか。但し、いずれも詳しく書かれていない。つまり、詩の形式としてはまだまだ一般的ではなさそうである。ちなみに、「一句詩」と「一語詩」は出てこなかった。出てこなくても、そのように名付けて詩作するのは人の勝手だ。

文字数にとらわれて書くと難度が高まる。文字数の制限から解放されると、長短どっちに転んでも意のままなので書きやすくなる。書いた文がいくつかの行にわたり、ほどよく調子が整うとその体裁を一応「詩」と呼んでもいい。定型詩でなくても、五七五でも五七五七七でなくてもいい。一行でも一文でもかまわない。

一文すなわち一行とは限らない。長い一文は縦書きでも横書きでも、紙面サイズの制限を受けるから、必然強制改行して行は複数になる。一行に収めるならまずは文字数を減らさねばならない。さもなければ極端に小さな字にして無理やり一行にしてしまうかだ。

種田山頭火がこんなふうに考えたとは思えないが、定型にこだわらない自由な一行詩、一文詩には俳句のようで俳句でなさそうな、俳句でなさそうで俳句のような魅力がある。

窓あけて窓いつぱいの春

さすがだと思う。春が来ているし、ガラス越しでないことがわかる。


若い頃、俳句に川柳、短歌に詩と一応いろいろやってみたが、文字に制限があるので見たこと感じたことを削るか象徴することになる。それが楽しみの一つであり、それだからこそ言外の意味も生まれ余韻も残るのだが、文字数を合わせるのに意識過剰になるとストレスがたまる。気がついたら下手な自由詩ばかり作っていた。それも二十代半ばでばったりやめた。ちなみに、アルチュール・ランボーが二十歳で詩作をやめたのとは関係ない。

その後コピーライターの仕事のチャンスがあり、俳句や短歌ほどではないが、いくぶん字数を気にしたり調子を考えたりしながら作った。一行や一文のキャッチコピーを作った経験は、巧拙はさておき、書くことに生かせているような気がする。シンプルな広告のキャッチコピーは一行詩であり一文詩であり、鑑賞価値が高いものもある。

「なにも足さない、なにも引かない。」(サントリー)

「おーいお茶」(伊藤園)

「でっかいどお。北海道」(全日空)

「そうだ 京都、行こう。」(JR東海)

三つ目は眞木準の代表作。眞木準の作品集を座右の書にしていた時期がある。ところで、『新明解』では詩を「自然・人情の美しさ、人生の哀歌などを語りかけるように、また社会への憤りを訴えるべく、あるいはまた、幻想の世界を具現するかのように、選びぬかれた言葉を連ねて表現された作品」としているがちょっとハードルが高く、料簡が狭いのではないか。

今年に入ってから読んだ本に、見たことも聞いたこともない「筐底きょうていに深く秘する」というくだりが出てきた。語感から詩を感じた。「人目に触れないように箱の底深くにしまっておく」という意味らしい。以前、芥川龍之介の小説の中の一文、「その瞬間彼の眼には、この夕闇に咲いた枝垂桜が、それほど無気味に見えたのだった」にも詩情を覚えたことがある。なぜだかわからないが、波長が合ったと言うほかない。

最後に、拙作の「一{行 文 句 語}詩」をいくつか。

手に負えぬ書物を書棚に隔離する儀式を執りおこなう

大手門の巨石に花が影を落としている、肌寒い

裏窓から未来の時間を刻む音が時々聞こえてくる

朝にため息はつかない、夜のために取っておく

「落書」をエアゾールで消す、一件「落着」

「あ、こんな時間」 日時計の時刻を見て約束場所へ急ぐ

都会の隙間に目を凝らす、耳を傾ける、言葉を紡ぐ

失われた環を探す

企画したり文章を書いたりする仕事では無から有は生まれない。仕事の起点に題材と情報は欠かせない。題材はふつう依頼者が提示するが、時々お任せもある。情報はたいてい依頼者から出てくる。過剰な場合もあれば不足の場合もある。

実は、情報は多いほうが困る。どんなメディアを使うにしても紙数が限られるから、情報を欲張られると取捨選択に時間がかかるのだ。しかも、あれも入れたいこれも入れたいという情報提供者の要望にいちいち寄り添っていくと、どの段落もよく似た内容になりかねない。

他方、情報不足も大変なように見えるだろうが、案外そうではない。企画も執筆も情報は不足気味のほうが、自ら考え類推するのでオリジナリティを発揮しやすくなる。考えたり類推したりするには何か材料がいるから、少しは自分で調べもする。ともあれ、自分のペースで仕事を進められるので、情報過多よりもうんと楽なのである。


企画や仕事では、事柄や概念どうしがつながらず、両者の間に不足や喪失を感じることがよくある。その空白を埋めようとしてある種の「ときめき」が生まれ好奇心が旺盛になる。情報過剰だと仕事は作業に堕しかねないが、情報不足ゆえに創意工夫に出番がある。推理が働くのだ。別に推理小説を創作するわけではないが、「失われた環」を探そうとするプロセスに遭遇する。

失われた環はmissing linkミッシングリンクの訳である。進化論や人類学の概念で、ABがつながりにくいとか何かがスキップされていると感じる時に、両者の間に未発見または不明の中継的存在があるはずと考えるのだ(「A →(?)→ B」)。たとえば、「サル→人類」はジャンプし過ぎる……何かがその間をつないでいたはずだ……そう推理していたら、猿人アウストラロピテクスの骨という失われた環が見つかった……という具合。

いったい「一つの事実」がそれ自体、他の事実から切り離されて成り立つことはあるのだろうか。ある対象が「在れば」、それはすでに「そこ・・に在る」ことだから、場所と「在りよう」が付随する。リンゴという対象またはリンゴという事実は、認識された時点でもはや一つの対象、一つのリンゴではありえず、「赤い」「テーブルの上」「齧られた」などの他の事実との関係上で成り立つ。存在とは他の事実との関係性において「そこに在る」ことだ。

対象や事実を認識する能力や習慣は人によって異なる。関係性や他の事実に目を向ける経験的認識の差は、その後の思考力や想像力の差になってくる。ともあれ、かぎりなく数学的・物理的意味での「一つのリンゴ」などは現実の生活ではめったに存在せず、したがって認識する機会もない。あることが解せなくて首を傾げる時、人は失われた環を探して自分なりの辻褄を合わせようとするのである。

表現の型と代入練習

本のタイトルを眺めていると、並列的な型や対比的な型が多いのに気づく。もっともシンプルなのは「AB」という形式で、「ペンと紙」「西洋と東洋」「王様と私」などがある。今読んでいる『泣ける話、笑える話』もその一つ。

並列したり対比させたりする型を使えば、ことばを変換するだけでタイトルは無尽蔵だろう。たとえば『木のいのち 木のこころ』という本があるが、「木」を別の漢字一文字に変換すれば本の題名にも小文のタイトルにもなる。思いつくまま代入してみる。

「花のいのち 花のこころ」「風のいのち 風のこころ」「水のいのち 水のこころ」……

花や風や水や空や雲、自然の風物、花鳥風月ならほぼ何でも代入可能だ。いや、いのちとこころなのだから、たいていの漢字で格好がつく。

「食のいのち 食のこころ」「色のいのち 色のこころ」「人のいのち 人のこころ」……

食で成り立つなら「魚」も「胡椒」も「ブロッコリー」でもいけるし、人がいけるなら「男」も「女」も、「仏」も「神」も大丈夫。しかし、いのちやこころを含む題名は少々情念的に響くので、サブタイトルを添えて意味を引き締めたい。「虫のいのち 虫のこころ――一寸の虫に五分の魂」という具合。


『書物としての都市 都市としての書物』は構造的には回文に近い。どんな内容かあまり見当がついていないのに、つい買ってしまうタイプの本である。

よく使う「としての」がこの題名では小技をかせている。一般的に「としての」は立場や性質を示す。書物としての都市とは「都市には書物性がある」、つまり「都市には書物のようなところがある」というほどの意味だ。同様に、都市としての書物とは「書物の都市性」であり、書物の中に都市の特徴を見出している。

この書物と都市の組み合わせに似た関係性が他の概念でも成り立つのか、代入練習してみた。

「喜劇としての悲劇 悲劇としての喜劇」
「珈琲としての時間 時間としての珈琲」
「料理としての芸術 芸術としての料理」

悲劇の喜劇性も喜劇の悲劇性も、これまで観てきた映画でおびただしく感じたところである。悲劇と喜劇は同じコインの表裏に過ぎない。時間の珈琲性には、時間の経過と「煎る、挽く、淹れる、注ぐ、啜る」の過程が重なるのを感じ、珈琲の時間性からは珈琲に向き合うとは時間を喫することだろうとと察する。料理と芸術などは、単なるアナロジー(類比)ではなく、ほとんどホモロジー(同一)と言ってもいいかもしれない。

長くコピーライティングをしてきて思う。コンセプトをことばに込めることを忘れてはいけないが、結果を急がずにしばし表現の型を逍遥してみるのも悪くない。偶察的・・・な気づきに恵まれることがあるからだ。今日の代入練習の最後に「索引としての店舗 店舗としての索引」というのができた。そう書きながら意味はピンと来ていないし、さらに少々考えないといけないが、明日の仕事であるコラムの切り口になりそうな気がしている。