表現の型と代入練習

本のタイトルを眺めていると、並列的な型や対比的な型が多いのに気づく。もっともシンプルなのは「AB」という形式で、「ペンと紙」「西洋と東洋」「王様と私」などがある。今読んでいる『泣ける話、笑える話』もその一つ。

並列したり対比させたりする型を使えば、ことばを変換するだけでタイトルは無尽蔵だろう。たとえば『木のいのち 木のこころ』という本があるが、「木」を別の漢字一文字に変換すれば本の題名にも小文のタイトルにもなる。思いつくまま代入してみる。

「花のいのち 花のこころ」「風のいのち 風のこころ」「水のいのち 水のこころ」……

花や風や水や空や雲、自然の風物、花鳥風月ならほぼ何でも代入可能だ。いや、いのちとこころなのだから、たいていの漢字で格好がつく。

「食のいのち 食のこころ」「色のいのち 色のこころ」「人のいのち 人のこころ」……

食で成り立つなら「魚」も「胡椒」も「ブロッコリー」でもいけるし、人がいけるなら「男」も「女」も、「仏」も「神」も大丈夫。しかし、いのちやこころを含む題名は少々情念的に響くので、サブタイトルを添えて意味を引き締めたい。「虫のいのち 虫のこころ――一寸の虫に五分の魂」という具合。


『書物としての都市 都市としての書物』は構造的には回文に近い。どんな内容かあまり見当がついていないのに、つい買ってしまうタイプの本である。

よく使う「としての」がこの題名では小技をかせている。一般的に「としての」は立場や性質を示す。書物としての都市とは「都市には書物性がある」、つまり「都市には書物のようなところがある」というほどの意味だ。同様に、都市としての書物とは「書物の都市性」であり、書物の中に都市の特徴を見出している。

この書物と都市の組み合わせに似た関係性が他の概念でも成り立つのか、代入練習してみた。

「喜劇としての悲劇 悲劇としての喜劇」
「珈琲としての時間 時間としての珈琲」
「料理としての芸術 芸術としての料理」

悲劇の喜劇性も喜劇の悲劇性も、これまで観てきた映画でおびただしく感じたところである。悲劇と喜劇は同じコインの表裏に過ぎない。時間の珈琲性には、時間の経過と「煎る、挽く、淹れる、注ぐ、啜る」の過程が重なるのを感じ、珈琲の時間性からは珈琲に向き合うとは時間を喫することだろうとと察する。料理と芸術などは、単なるアナロジー(類比)ではなく、ほとんどホモロジー(同一)と言ってもいいかもしれない。

長くコピーライティングをしてきて思う。コンセプトをことばに込めることを忘れてはいけないが、結果を急がずにしばし表現の型を逍遥してみるのも悪くない。偶察的・・・な気づきに恵まれることがあるからだ。今日の代入練習の最後に「索引としての店舗 店舗としての索引」というのができた。そう書きながら意味はピンと来ていないし、さらに少々考えないといけないが、明日の仕事であるコラムの切り口になりそうな気がしている。