一人ブレスト、最近の話題

会議があまり好きでないので、以前から一人でブレストするのが習わしになっている。自分で文章を書いて自分で推敲することは一人二役の最たるもの。この時期、会議もブレストも相談もすべて自前、一人二役で何とか凌いでいる。


📃 音声POP
店頭から「♪ タターンタタタタン、タターンタタタタン」のメロディが繰り返し聞こえてくる。その場を去った後も耳にこびりついている。そのことをある人にした。メロディとリズムを忠実に再現したら、「ああ、あれは焼き芋の宣伝ですよ」と言った。いやいや、ぼくがいつも耳にするのはドラッグストアのS薬局の店頭で、あそこでは焼き芋など売っていないけどなあ。
ある日、別のドラッグストアKの店頭で流れていた。もしかしてS薬局とKはグループ企業か!?  と思った。しかし、同じ日、プチスーパーのM屋からも流れてきた。ぼくの横で中年の女性二人が立ち止まり、「ねぇ、この曲、ドン・キホーテでかかってる」「えっ、ここドンキ?」と会話を交わしたので、ぼく以外に気になる人がいるのを知る。
知人は焼き芋の宣伝楽曲ジングルだと言い、ぼくはS薬局グループのテーマソングだと思い、見知らぬ女性らはドン・キホーテのメロディだと指摘した。
宣伝している商品はいろいろであり、曲が流れているシチュエーションはほぼ店頭である。企業や商品特有のものではなさそうだと思い、後日しばらく立ち止まってよく見たら、発生源らしき装置が見えた。繰り返し音声POPを流す、その名も「呼び込み君」。なるほど、それでぼくは何度も呼び込まれたのか。

📃 くずし字
幕とほうき、張と強、店と居……極端に字をくずすとよく似てきて、違いがわからなくなる。しかし、心配無用。字はめったにくずされることはない。それどころか、めったに手書きされることもない。

📃 
あまり効果がないのはわかっているのに、眠れない時に相変わらず羊を数える人がいる。途中まで数えて、数え間違いしたことに気づき、一から数え直す生真面目派もいるらしい。神経がピリピリして逆に眠れなくなると察する。そこで「羊肉には誘眠効果がある。だから、数えるよりも食べるのが正解だ」と教えてあげるのだが、「ほんとかな?」と疑う。これは遊牧民の常識、催眠術師の非常識なのである。

📃 みんな
「みんなで大家おおやさん」という
テレビコマーシャルが最近までよく流れていた。ある街で、もし住民みんなが大家さんになったら、貸主ばかりで借主がいなくなり、兼業の大家さんビジネスは成り立たなくなる。この広告に人を欺く悪意はないと思うが、キャッチフレーズに少々問題がある。「みんな」と言っては誤解を招く。正しくは「内緒で大家さん」である。

坂と通りの街歩き

松屋町筋から谷町筋の夕陽丘方面へ、口縄坂くちなわざかのぼり切った所に文学碑がある。織田作之助の短編小説、『木の都』の一節が刻まれている。

 口縄坂は寒々と木が枯れて、白い風が走っていた。
 私は石段を降りて行きながら、もうこの坂を登り降りすることも当分あるまいと思った。青春の回想の甘さは終り、新しい現実が私に向き直って来たように思われた。
 風は木の梢にはげしく突っ掛っていた。

一節と書いたが、物語の最終段落である。〈私〉――おそらく織田作之助――はいくつもの思い出とよみがえる記憶に懐かしさと穏やかならぬ感情を併せ持ちながら、風の強い寒い日に坂を下った。ぼくはと言えば、一昨日の日曜日、何一つ難しいことを考えずに、陽射しの強い朝、いくつもある坂の一つを上ることにした。上り切った時は額に薄っすらと汗をかいていた。それが久しぶりの口縄坂だった。

小説の題名になっている「木の都」については、冒頭のつかみで出てくるだけだ。大阪が樹々溢れる緑豊かな都などと言うと小馬鹿にされるかもしれないが、口縄坂のあるこのエリアは上町台地の西端であり、寺内町でもあることから古木も多く植わっている。写真を撮って後で見てみると、緑を背景にした木が主役の構図になっていることに気づく。


多分にノンフィクション的な私小説だとするなら、この坂を上り切った「ガタロ横丁」のあたりに「名曲堂」というレコード店があった。〈私〉は時に足しげく通ったと思えば、しばらくごぶさたするという具合だったが、主人とは親しくなり、常連的存在になった。

人恋しくなった年の暮れ、〈私〉は懐かしさを覚え、風邪気味だったにもかかわらず、口縄坂を上って行く。そして名曲堂の前へ。表戸が閉まっており、そこに紙が貼ってある。「時局にかんがみ廃業仕候つかまつりそうろう」と書いてあった。戸をたたいたが返事はない。そして、おそらく後ろ髪を引かれるような心模様で坂を下った。

これ以上書くとネタバレになるからやめるが、坂ゆえのノスタルジー、情趣、上った手前下り、下った手前上るという構造が、ただ歩くだけの行動に意味を与えてくれる。平坦な通りを歩いているうちに、高台の緑が広がり始め、路地よりもやや幅が広めの坂が次から次へと現れる。坂が街のアート性に気づかせてくれる。くねくねする坂を蛇坂と言わずに、婉曲的に口縄坂と呼んだのは文化の遊びである。

昭和19年の作品。織田作之助はその3年後に没した。享年33歳。

食卓ネタが最後の砦

「精も根も何もかも尽き果てた」と大仰なジェスチャーで知人が嘆く。同情を禁じ得ない。尽き果てるものは人によって違う。ぼくの場合、ずっと閉じこもって仕事をしているとアイデアが出づらくなる。文章がこなれない。特に「換気」が悪いとアイデアが出にくい。空気の換気ではない。気分の入れ換えのほうだ。

なるべく人が混む場に不要不急で出掛けないように努めているが、こういう状況に置かれても、飲食だけはパスするわけにはいかない。何事があろうと食卓には着くし、さて今日は何を食べようかと思案する。飲食は最重要関心事であり、身内での主たる話題であり、こうして雑文を記すにしても食に関することなら書きやすい。

「ささやかなご馳走でも、手厚くもてなすと宴会は楽しいものになる」(シェークスピア)

強く同意するが、残念なことに、現在その宴会が推奨されないから、ご馳走したりされたりの楽しみがない。

土日くらいはランチ外食したい。徒歩圏内で一、二度行った店を思い浮かべ、営業しているかどうかチェックして出掛ける。11時とか11時半の開店直後やピークを過ぎた13時半頃に店に入る。先週は40分歩いて串天うどんを目指した。別盛りの串6本に麺は大盛り。平日のランチは軽めなのに、休みの日になると食い意地が張る。料理も味わうが、ありがたみまで味わう今日この頃である。

オフィスには常時45種類のコーヒーを置いてある。勝手に「今日の日替わり」を決めて、一日に2杯ほど楽しんでいる。今朝はコスタリカジャガーハニー。生き方や仕事では自分の思うままにならないことが多いが、コーヒーだけは貴重な「自家薬籠中じかやくろうちゅうの嗜好品」になっている。

「で、どんな味だった?」
「キリマンジャロとコロンビアの中間かなあ」
「おいおい、キリマンジャロにもコロンビアにも味はあるけど、中間・・という味はないぞ」

その店では「こし餡入り蒸しパン」と呼んで売っている。目をつぶって口に入れたら「水分多めの饅頭」のように思う。あの一品はパンか饅頭か……論争して決着をつけるべきか。いや、老店主が「こし餡入り蒸しパン」と言っているのだから、逆らわずにそっとしておいてあげたい。

喫茶店の隣りの席に二人のシニア。コロナ談義の後は行きつけの店の話。聞き耳を立てるまでもなく、聞こえてくる。
Y町のあそこもコロナで休業か?」
「あそこて、どこや?」
「ローソンの手前、右に入ったとこ」
「キタガワかいな。長いこと行ってへん。あんなとこ、前から年中休業みたいなもんやろ」
「客はオレらくらいか」
「売上より給付金のほうが大きいやろな」
「ほんまやな。夫婦二人、細々とやってたら潰れへん」

トッピングの作法

日常使われるようになって久しい〈トッピング〉。綴りは“topping”で、おなじみの“top”から派生したことばだ。名詞なら「頂上、先端、最高」などを意味する。動詞から派生しているので、トッピングには「付ける、覆う、乗せる、塗る」のようなニュアンスがある。

トッピングは料理や菓子の上に食材や調味料をふりかけたり乗せたりすることをいう。よく目にするのは、アイスクリームにチョコやナッツをふりかけること、ピザにベーコンやピーマンをあしらうこと、ケーキに粉砂糖をまぶすこと。トッピングが洗練になるか野暮になるかは紙一重。抑制気味にふりかけ、まぶし、あしらうかぎりは料理を下品にしない。しかし、盛り過ぎると残念なことになる。

デザートのケーキとフルーツにミントの葉をあしらい、粉砂糖をまぶす。

具だくさんになって主役の料理がぼんやりしたり、場合によっては台無しになることがある。麺類は昔はシンプルだったが、今は盛るのがはやりのようだ。麺が見えなくなるほどトッピングしたら野暮である。具を多くしたいのなら別皿にして食べればいい。麺類の主役はあくまでも麺である。但し、トッピングを特徴とする海鮮丼やピザはこの限りにはあらず。

有名なお好み焼き店がある。一度行ってみようと思っていた矢先、テレビ番組で紹介され、見ただけで嫌になった。お好み焼きに高級なイセエビやステーキを乗せるのである。お好み焼きは豚肉かイカか、せいぜい二つ三つの小さな具の組み合わせでいい。高級食材をトッピングするコンセプトはたいてい気まぐれだ。そんなことでお好み焼きが進化するわけではない。贅沢にして値段を吊り上げる店側のメリット以外にいいことは何もない。

食のみならず、暮らしや仕事にもトッピングの加減がありそうな気がして、暮らしや仕事のあり方についていろいろ試行錯誤してきた。何かにつけてまずシンプルを目指すのがよさそうだと思うようになった。過剰と不足の見極めが難しく、何事にもシンプルを徹底できているとは言えないが、迷ったら、ひとまず下手なトッピングや過剰を回避するようにしている。

エスプレッソ?(マジで?)

コーヒーが当たり前の嗜好品になって久しいのに、「ある種のコーヒー」だけがまだ蚊帳の外。それは、「急行」という名のコーヒー、エスプレッソだ。


シーン1: 友にウンチク

「またエスプレッソ?」
「また、と言われるほど飲んでない。エスプレッソのマシンが見えて、いかにもエスプレッソを売りにしているような店では注文するけどね」
「エスプレッソってイタリア語だったよね?」
「うん、急行という意味の」
「なんで急行?」
「注文してすぐに出てくるから。それに、出てきたら砂糖をたっぷり入れてかき混ぜ、これまた一気に飲むから。注文から飲み干すまであっと言う間。だから急行」
「本場にはぼくたちがよく飲む、例のホットコーヒーもある?」
「あるよ。カッフェ・アメリカーノ」
「いわゆるアメリカンというやつ?」
「いや、ベースはエスプレッソなんだ。ほとんどのバールではそれを湯で薄める」
「ゆ、湯で!?」
「そう」
「ところで、いまカッフェって言ったよね。エスプレッソとカッフェは違うもの?」
「同じものさ。そもそも、バールに入ってエスプレッソを注文する時、誰もエスプレッソなんて言わない。カッフェと言えばエスプレッソのこと。エスプレッソが苦手な日本人が、普通のホットコーヒーのつもりでカッフェを頼むと、エスプレッソが出てくる」
「イタリア料理店でエスプレッソを飲む場面は稀に見るけど、一緒に喫茶店に入って、エスプレッソを注文した知り合いはきみが最初だ。そしてたぶん、これからもきみだけ」
「コーヒーと言えばエスプレッソを意味するイタリア、コーヒーと言えば絶対にエスプレッソを意味しない日本。おもしろいね」


シーン2: 使用上の注意

「エスプレッソください」
「はい?」
「エスプレッソのシングル」
「お客様、エスプレッソは苦いコーヒーですが、よろしかったでしょうか?」
「はい」
「ごく少量になりますが……」
「知っています。シングルで」
「シングルですとこちらの小さなサイズのカップになりますが、よろしかったでしょうか?」
「それで結構」
「砂糖とミルクはご入用ですか?」
「砂糖だけでいいです」
(しばらくして)
「お客様、こちらエスプレッソのシングルになります」


シーン3: ほんとにいいんですか?

「エスプレッソください」
「えっ? お客さん、いま何て言いました?」
「エスプレッソ」
「エスプレッソ? ほんとに? この店始まって以来の初注文!」
「驚かれても……。だってメニューにあるんだから」
「ええ、マシンがあるので一応書いてはありますがね。ほんとにいいんですかあ? ほら、こんな小さなカップですよ。それにとびきり苦い」
「わかって注文してる。ダブルで」
「ダ、ダブル!? シングルじゃなくて?」
「エスプレッソのダブル」
「お客さん、もう一度確認しますね。いま注文されているのはエスプレッソのダブル。よろしいでしょうか?」
「それでよろしく」
「最終確認です。小さなカップに少量、それで450円。よろしいですね。後悔しても責任は負えませんので。(別のスタッフに)エスプレッソダブル入りました。マジで!」

見上げると空に軌跡

九年前の今の季節のとある日、散歩しようと自宅を出た。少し歩いて空を見上げた。別に音や風にそそのかされていたのではなく、何気なく仰いだだけ。それは初めて見る光景だった。

その前年の11月、ブリュッセルにいた。分刻みで旅客機が飛び、次から次へとシャープな線を描き出していく。線は順に滲んで広がり、二本、三本と重なり合い輪郭を失っていく。あれだけのおびただしい飛行機雲を見たのはその時が初めてで最後だ。

数年前の12月中旬のある日、冥々として感傷的になる薄暮の時刻、中之島公会堂をタペストリーに見立てたプロジェクションマッピングの開始を待っていた。その時、舞台上空に一条の飛行機雲が見えた。タイミングもマッチングも演出の一部かと一瞬思ったが、もちろん偶然に決まっている。

飛行機の軌跡が白い雲間に一筋の青い線を描くのを見たことがある。珍しい反転飛行機雲だが、長くは続かなかった。しばらくすると、青い線は白い雲に吸収されて消えた。たった一度の目撃なので、もしかすると目の問題だったかもしれない。あいにく証拠写真は撮り損ねた。


考えごとをしたり行き詰まりを感じたりしたら、そこが緑の中の小径であろうと部屋の中であろうと、ひとまず見上げてみるものだ。視線を変えるのはもっとも手軽に発想を切り替える方法である。旅もそういう切り替え効果を与えてくれる。

ところで、古い10年パスポートの有効期間は20112月から20212月だった。その10年間で使ったのはたった一度きり。それは2011年11月、バルセロナ~パリでの約半月の滞在型の旅だった。つまり、それ以来海外に出ていない。いや、海外どころか、国内でも(出張では方々に出掛けたが)一度も旅をしていない。

去る2月、パスポートが切れる10日前に申請して更新した。コロナが終息すれば旅立つ意欲満々だが、今年は当然として、来年、再来年に旅程が組めるような気がしない。なのに、なぜまた10年パスポートなのか? おまじないである。過去の写真をたまに繰り、ブログに書いた紀行文を読み返し、錆びかけている外国語の音読をしたりして願っているのである。

旬を食す

季節を感じながら旬の食材の食べ頃を見計らうようにしているが、店にいいものがあることが第一で、自分の都合だけではどうにもならない。

近年、春先から目につくようになった西瓜や、まだ残暑なのに店頭に並ぶ松茸に旬は感じない。食材を見てこの季節ならではと思うのはタケノコとホタルイカ。他の時季でも味わえないことはないが、出盛でさかりだと新鮮で味が格別である。タケノコに「筍」という字を与えた発想に敬服する。

筍とホタルイカの酢味噌和え

初物がもてはやされるが、それは珍しいからであって、旬の始まりが必ずしもうまいわけではない。上旬、中旬、下旬と言うように、旬は十日間を意味するが、食材の実際の旬はもっと長く、筍もホタルイカも産地では3月から5月まで楽しめる。


産地へ行かないと口に入らない旬の食材がある。一度、旬が短いとされるメジカの新子シンコを高知で食した。タイミングよく9月上旬に出張があった。生後一年未満のソウダガツオの幼魚だが8月から9月にかけての一カ月間が旬。一カ月なら短いとも言えないが、その時季に毎日店が仕入れて出すとも限らない。その後何度も旬の季節に当地を訪れているが、以来巡り合わない。

季節の産物が出盛るのは、需要と供給の法則通りになるので消費者にとってありがたい。旬というのは、本来、手に入りやすい、安い、うまいの三拍子が揃うもの。だから、ステイホームばかりしていては機会損失することになる。

静かなGWの二字熟語遊び

7年半前に最初の『二字熟語で遊ぶ』で二字熟語の例文と説明文を書いてから、今日で66セット取り上げたことになる。□○と○□で1セットなので、熟語の数は倍数の132。ノートにはまだ88セットのリストがある。リストと言っても熟語の見出しだけで、例文と註釈は書いていない。これからも少しずつ続けていくつもり。

【子女と女子】
(例)「転校生のオカノ君です。オカノ君はお父さんの仕事の関係で5歳から15歳までアメリカで過ごした帰国『子女』です」と先生が紹介した時、少なからぬ同級生がぼくを「女子」だと思ったそうである。

子女は息子と娘の両方を指すが、「良家の子女との縁談」などと聞くと娘を感じてしまう人が多いそうだ。しかし、帰国子女と言う時は男女を区別していない。他方、女子は文字通り女の子である。最近、「おばあちゃんなのに女子会とは厚かましい」と文句をつける人がいるが、女子という語は本来長幼を問うものではない。なので、おばさんやおばあちゃんの女子会は正しい用例なのである。

【前門と門前】
(例)メールには「午前10時に○○寺の『門前』で集合」とだけあって、その門が「前門」か裏門かは書いていなかった。てっきり駅に近い裏門だと思っていたら「正門です」というメールがきた。

神社仏閣には前門があればたいてい後門もある。一般的には前門が正門または表門、後門が裏門である。有名なのが「前門の虎、後門の狼」。門前にも「門前の小僧」「門前払い」などの慣用句があるが、元は単に「門の前」の意だった。前門は表門だが、門前の門はどの門かを特定しない。門前町の門は具体的な門ではなく、やや概念的な門である。すなわち、寺や神社の周辺に広がる町をそう呼んだのである。

【保留と留保】
(例)「保留」と書けばよかったのに、恰好をつけたつもりで「留保」を使ったら、「留保にした理由は何かね?」と聞かれて困った。当時はまだニュアンスの違いを知らなかった。

保留と留保のニュアンスがよくわからないので、英語でチェックした人がいた。どちらも“reservation”が出てきて困惑したらしい。決めたいのは山々だが、その場ではすぐに結論が出せない・・・・ので、しかたなくするのが「保留」。一時的に結論を見送るという点では「留保」も同じだが、留保には「結論を出さない・・・・」という趣がある。つまり、敢えて決めない理由が意図がありそうだ。相手が強く意識されるのが留保の特徴かもしれない。


シリーズ〈二字熟語遊び〉は二字の漢字「〇△」を「△〇」としても別の漢字が成立する熟語遊び。大きく意味が変わらない場合もあれば、まったく異なった意味になる場合がある。その類似と差異を例文によってあぶり出して寸評しようという試み。なお、熟語なので固有名詞は除外。