食卓に着く愉しみ

🍽 16世紀フランスの「食卓では歳を取らない」という諺がある。長くても2時間の晩餐中に加齢を実感することはないと思うが、生命科学的もしくは生理化学的に厳密に見れば、たとえわずか2時間の内でも歳は取っているはず。ともあれ、歳を取ろうが取るまいが、食卓に着くのは愉しい。

🍽 雨の合間の暑い日に、さてランチに何を食べるかと少々思案し、ガツンとくる肉料理が思い浮かんだ。辛い四川風牛肉煮込みか、黒酢の酢豚か、羊肉炒めか。そうか、中華料理を欲しているらしい。メニューの多い中華料理店に入る。席に着いて少々悩み、羊肉のクミン炒めと小ライスを注文する。

羊肉と言えば、昔はマトン、今はほぼラム。食卓の「ぜん」に羊が潜み、羊には「えん」が隠れている。お勘定、¥1,400ほど。

🍽 希少食材のご馳走を自分一人で食べる場面が時々ある。誰にもお裾分けせずに食べると天罰が下るかもと思わないわけではないが、そんな恐れなどは独り占めという愉楽を微塵も揺るがさない。

🍽 「冷や酒、一合」と注文したら、店員に「カウンターのお客さま、冷やの小」と言い換えられた。人物も小さく扱われたような気がした。二合が大、一合が小と呼ぶならわし。二杯目はハイボールにした。

お通し:かわ和え
生もの:レバーとムネ身とずりの刺身盛り合わせ
焼き物:ハツ、もも、つくね、さんかく、手羽先、合鴨、うずら
揚げ物:もも軟骨の唐揚げ

地鶏焼き鳥のメニュー。焼き鳥屋は昼に営業していない。今、ぼくは夜に出歩かない。ずいぶんごぶさたしているが、続けているのだろうか。再訪できることを祈るばかり。

🍽 夏向きのパスタ「トンナレッリのカーチョ・エ・ペペ」

二人前を作る。手打ちパスタ160グラム、ペコリーノチーズ50グラム、粗挽き黒胡椒30グラム。いつものようにたっぷりの湯にひとつまみの塩を入れてパスタを茹でる。トンナレッリはローマ伝統の手打ちパスタ。太めでコシが強い。材料の妥協案:ペコリーノは値が張るので、パルミジャーノの粉チーズで代用可。トンナレッリが手に入らなければ太めの乾麺で。

いろんな作り方があるが、一例は次の通り。

茹で上がったパスタを皿に盛り、熱々の茹で汁を大匙2杯まわしかける。チーズを振り、ダマができないように軽くすばやく和え、胡椒をたっぷり振りかける。完成。彩りが欲しくても、ハーブを添えたり厚切りベーコンを足したりしないこと。カーチョ・エ・ペペ、すなわち「チーズと胡椒(だけ)のパスタ」は素朴を食すもの。

日常の魅力

『日常の魅力』と題した直後に、「日常」を含むタイトルのブログをこれまでに何度か書いたのを思い出した。調べてみた。

『日常、あらたなり』(201610月)、『芸術家の日常』(20171月)、『日常の周辺』(20173月)、『日常について』(20182月)

日常ということばも現実も気に入っていて、読み返してみると、いずれの文章も日常礼賛の趣が強い。数年経った今も、大げさに言えば、二度と同じ日常はないと覚悟して愛おしんでいる。もしどこかでプロフィールを書くことになって、そこに趣味の欄があれば、読書や音楽鑑賞や散歩ではなく、迷わず「日常」と記してみようと思う。

ところで、先日、日常の本質を「日常論」として書いた本があれば読んでみようと思い、書店で検索したり背表紙を眺めたりしてみた。見当たらない。少なくともぼくには見つけられなかった。と言うわけで、論としての日常を自前で少し考えてみる。


日常は「普通」と関わる。日常的なこと・・もの・・は、普通によくあること・・やよく手にしたり見たりするもの・・である。また、日常は「行為」ともかかわる。習慣的に毎日繰り返され、勝手をよく知っているおこないである。

「非日常」に比べると派手さを欠くので、日常を哲学の対象にするとねた切れを起こしそうだし、深掘りも広がりも望みづらい。では、哲学用語集に日常という術語は収録されているか。手元にある数冊の用語集にあたってみたが、日常が見出しとして立てられている本は一冊もなかった。

日常の本質を概念的に捉えるのは容易でない。日常について考察していくと、日常生活を解体して要素に分けることにならざるをえない。たとえば日常的で普通の一日を朝、昼、夜に分け、食べる、働く、遊ぶなどの行動に分類するのが精一杯だ。そして、日常的に感じることを私小説風にとことん描写するにしても、日常の本質――日常とは何か?――に迫れそうな確信は持てない。

日常が少しでもあぶり出されたり浮き彫りにされるのは、非日常と対比される時に限られる。日常という「ケ」には非日常という「ハレ」が必要なのだ。こんなことはすでにわかっている。いろいろと思い巡らしたものの、またいつもと同じところにやって来たようだ。そうか、この道はいつか来た道と思うこの感覚がまさに日常的なのではないか。

散歩に出掛ける。カフェに入る。いつものようにコーヒーを注文し、本を読んだりノートを書いたりする。毎週繰り返されるぼくの日常の典型である。しかし、これが旅先のホテルを出てからの一連の行動になるとワクワクして非日常になる。ワクワクとは心が浮くことで、「いつもの」という感じがしない状態だ。この対極にある安心感、それが日常の魅力のようである。

語句の断章(29)自家製

「自家製」と言っても、作るものの要素の何から何までもが自家製であることは稀だ。一般家庭の自家製ポテトサラダの場合、ジャガイモ、ニンジン、タマネギ、それにマヨネーズはスーパーで買ってきているはず。自家製なのは、潰したり切ったりえたりする調理過程だけである。

使い慣れた自家製だが、その意味は? 『新明解国語辞典』には「自家」という見出しがあるのみ。「その人自身の家」と説いて「――・製」という例を示すにとどまる。これでは何だかわからない。『広辞苑』はどうか。自家製とは「自分の家で作ること、またそのもの」と書いてある。そんなことくらい、漢字を見たらわかるではないか。

「自分の家」で用意するものと他所よそから調達するものの割合によって自家製と呼べる・呼べないがあるのかどうか。その境界がよくわからないし、作る対象によって自家製と呼べたり呼べなかったりするような気がする。ポークのゼリー寄せという料理がある。豚を飼っていて屠畜して肉を使っていれば純粋に自家製だ。しかし、豚のスネ肉や足を買ってきて細かく刻んで自ら調理しているなら、それもれっきとした自家製である。

ポークのゼリー寄せ

自家製は「作る」という視点ではなく、「他所で出来上がったものをそのまま使っていない」という意味でとらえるのが正しい。うちの自家製ポテトサラダは業務用に売られているものを使っていない、うちの自家製ポークのゼリー寄せはデパートで買ったものではないという主張であり、少なくとも調理過程では自分の手で工夫しているということだ。

麵、スープ、焼き豚を自分で作っているのなら、自家製と呼んでもいい。しかし、ぼくが自宅で作るパスタ料理を自家製パスタと呼ぶには違和感がある。だから「家で作ったパスタ」でいい。買ってきたベーコンではなく、自分で燻製にしたベーコンを使っているのなら、自家製の燻製ベーコンと言えばいい。どうやら、自家製と相性がいいのは料理の要素であり、出来上がった料理そのものではなさそうだ。

だから自家製サラダは不自然に響く。「自家菜園で採れた野菜を使ったサラダ」と言えばいい。スーパーで買ってきた野菜に市販のドレッシングを使ったサラダは、たとえ手作りであっても自家製ではない。梅もリカーも買ったけれど、自分で漬ければ自家製梅酒。同じく、漬物も自家製と名乗ってよい。なお、器具や機械を使っても手作りと呼ぶことがある。もし手以外に何も使っていないことを強調したいのなら、たとえば「手ごねハンバーグ」である。

店じまいの戦術と現実

靴下を買おうと、店じまいと貼り紙してある肌着のディスカウントショップに入った。「店じまい」の文字を目にしてから数年が経つ。アパレルの卸売りや雑貨問屋が多い土地柄なので、閉店セールを年がら年中やっている店が少なくない。閉店と謳いながら閉店しない店ほど目立つ。

店頭で店じまいを通知するが、ほどなく無事に・・・閉店するのはごくわずか。ほとんどの店じまい宣言店は宣言後もずっと続く。これらの店では「店じまい」は「閉店しない」の同義語だ。「閉店を告げ、在庫一掃して安く売る」という恒常的な業態戦術である。これを閉店商法と言うが、万が一本当に閉まってしまうと逆に驚いたりする。

ギャグ①
「この閉店セール、いつまで?」
「うちが潰れるまでやりますよ」
ギャグ②
「閉店セール大好評につき、閉店は延期!」
ギャグ③
「お店、いつ閉めるの?」
「その時が来たらね」
ギャグ④
「毎週土曜日は閉店セール。年中無休」


本気で店じまいしようと安売りしたところ、話題になって客が殺到した。そんな日が毎日続いて、想定外の大きな利益が出た。閉店なんかしている場合ではない。こういう店は閉店を宣言したまま商売を続ける。「やめようと思ったし、今もそう思っているけれど、顧客満足優先です」。

冒頭のディスカウントショップでは、閉店セール中、レジカウンター内で社員がだいぶ先までの仕入れの話をしているのを聞いたことがある。やる気満々だ。

大阪に閉店セールで有名な店があった。何年どころではない。よく知る人によれば十数年ずっと「もうアカン!」という看板を掲げていたらしい。そしてついに閉店商法にピリオドが打たれ、正真正銘の店じまいの日がきた。大きなニュースになった。

コロナが蔓延して止みそうにない昨今、閉店商法はもはやギャグではなくなった。閉店セールの貼り紙は戦術ではなく現実なので、下手にいじることもできない。閉店商法華やかなりし日々は、ある意味でものがよく売れた平和な時代だったのである。

そうであり、必ずしもそうではない

どんな意見に対しても、社会にはイエスがありノーがありうる。また、ある意見に対して一個の人間の内でも「そうだ」と「必ずしもそうではない」が拮抗し、イエスともノーとも結論できないことがある。「そうである」と「必ずしもそうではない」を往ったり来たりしているあいだは、たぶん少しは考えているのだろう。

「(……)人がその偉大さを示すのは、一つの極端にいることによってではなく、両極端に同時に届き、その中間を満たすことによってである」(パスカル『パンセ』三五三)


「考えろ、考えろ、たとえ一秒の何分の一ぐらいの時間しか残されていないとしても。考えることだけが唯一の希望だ」(ジョージ・オーウェル『1984』)

外食に出掛けたら、何を食べるかよく考えた時ほどおいしくいただける。食べることは人生の重要案件であるから、よく考えるにこしたことはない。しかし、何も考えずに行き当たりばったりでもうまいものに出合えることがある。食に関しては考えることだけが唯一の希望ではなさそうだ。考えに考えて絶望することだってあるのだから。

「上手に勝ち、上手に負ける。上手に勝つとは、相手を傷つけず相手に恨みを持たせず、相手が潔く負けを受容して納得すること。上手に負けるとは、わざと負けたり早々に投げたり諦めたりするのではなく、精一杯戦って負けることである」(拙文、20111月)

十年前に書いた文章だが、今も勝ち負けに下手であったり下品であったりしてはいけないと思う。とは言うものの、「精一杯戦って負ける」ことを上手と呼んでいいものか。だいいち、「精一杯」かどうかを判断するのは自分を除いて他にない。「精一杯戦って負けたのだから仕方がない」は自己正当化のための言い訳になる。

「(本を選ぶにあたって)自分の身に付いた関心から選ぶのがいい(……)自分の内側からの欲求=好みを強烈にもつことがどうしても必要であり、そうすることなくしては、現在のこの書物の洪水、情報の氾濫から身をまもること、いやそれに積極的に立ち向かうことは難しい」(中村雄二郎『読書のドラマトゥルギー』)

読みたい本も読まざるをえない本も含めていろんな本を読んできた。ぼくのような歳になったら読まねばならない本や無理に読まされる本などはもうほとんどない。好奇心の赴くまま、書店や古書店で縁を感じて手に入れて読むばかりである。しかし、好みや欲求に応じて限られたジャンルの本ばかり読んでいると飽きがくる。時々、まったく知識のない本に立ち向かっておかないと知がなまぬるくなる。

「頑張ってください」

他人が使っているとほとんど何も意図せずに抜け抜けと言うものだと思うが、他に何も言うことがない時、「頑張ってください」はとても便利である。使わないように気をつけているが、つい使っている自分がいる。しかし、励ましのつもりが、残酷でひどいことばと化すことがある。そして、ぼくの経験上、「頑張ってください」と伝えた相手が頑張ったためしはほとんどないのだ。

シャンプーとリンス

この時期理髪店に行くと、シャンプーもトニックも涼感メントールを使ってくれる。すっきり爽やかな気分になって店を出る。但し、効果は長続きしない。灼熱の空気の中をしばらく歩いているうちに頭と額から汗が滲み出る。

「シャンプーとリンス」という題名ではあるが、記憶と検索にまつわるエピソードを書く。先日、シャワーを浴びシャンプーをしている最中に「ブログでシャンプーということばを使ったことがあったかなあ?」とふと思ったのである。書いた覚えはあるが、どんな内容かまったく思い出せない。

こんな時、手帳で探し当てるにはエネルギーを要するが、ブログなら記憶にないことを一発検索できる。検索窓に「シャンプー」と入力したら1件がヒットした。1件のみである。次のような文章を7年半前に書いている。

「理髪店に行くと、何かが変わる」という一文を読んだことがある。たしか、「まずヘアスタイルが変わり気分が変わる」ようなことが書いてあった。そして、「もしかすると、魂が変わり、ひょっとすると、髪型だけではなく顔も変わるかもしれない」というようなことが続いた。しかし、現実に変わるのは髪型と気分だけで、それ以外は変わらない。変わると思うのは妄想である……と書いてあったような気がする。理髪店は妄想の時間を提供してくれる。だから、最後にシャンプーで妄想を洗い流す……

以前読んだ本のうろ覚えの話を再現した文章である。妄想多き人にはシャンプーをおすすめしたい。


シャンプーとくれば、次はリンスである。シャンプーのことは書いても、リンスはたぶん書いていないと半ば確信して、これも検索してみた。驚いた。1件だったシャンプーに対して、リンスは3件ヒットしたのである。リンスのことを3回も書いたとはにわかに信じがたかった。1件目は次の文章である。

(……)カフェやレストランは四季の節目単位で模様替えしているかのようである。しばらく足を踏み入れないと、迷宮(ラビリンス)のさすらい人になりかねない。

意味内容まで精査せずに、文字づらだけを探し出すのが検索。ラビリンスの「リンス」を拾った。リンス違いである。シャンプーで妄想を流した後は、リンスしてさまようのか。

2件目と3件目は同じ。なんと「ガソリンスタンド」である。ガソリンスタンドからリンスを拾うとは、PC検索ならではの「ぎなた読み」である。

と言うわけで、本家のリンスについては一度も書いてないことがわかったが、今回のこの記事の公開後、早速検索に引っ掛かることになる。

言いがかりや文句ばかり

想像以上に事態が長引いている。コロナである。もはやご丁寧に「新型コロナ」などと言わなくていい。すでに第5波と言うから、長引くという表現は生ぬるい。まだ感染拡大傾向にあるなら「こじれてしまっている」と言うべきか。厄介だが、個人で対処できることは限られている。

現実を受け止めるしかないが、受け止め方や反応はいろいろ、人もいろいろ。淡々と日々を送る人、じっと辛抱している人、開き直っている人、自暴自棄になっている人、ストレスをため込んでいる人、苛々を文句に換える人……。

この人、変わったなあと思う場面が増えた。これまでは温厚だったのに、相手不特定のまま言いがかりをつけたり文句を垂れたりするようになった人。何事にもハハハと笑い飛ばしたり大らかに処していたのに、今はSNSでもメールでも過激に吠えまくる人。わずか23行の言いがかりや文句だから、解決案も理由も特に書かれていない。

ステイホームでひきこもるのもストレスがたまる。仕事がキャンセルになる、延期になるのも当たり前。さっき電話があって、再来週の出張が10月以降に延びた。自分の思うようにならない。この機会に暮らしや生き方の見直しをしてみるのも一つの解決策である。一方、一部の人たちは、以前なら見過ごせた些事に不平をこぼし不満を募らせる。不平、不満は「不機嫌」と化し、やがて「不賛成」へと高じ、仮想敵と対立する。公開の場のクレーマーはたちが悪い。


本ブログに『世相批評』というカテゴリーを設けているが、理由付きの批評をしようと思ったら数行では無理で、経験的には少なくとも千字を要する。数行の世相批評ではモラルを欠くし、ことばを選ぶ余裕がない。ストレス解消のための自分勝手な言いがかりだけで終わる。それを主義主張だと思っているから、揚げ足を取っていちゃもんをつけ始めると止まらない。

ある種の素直な諦観がないと現状は曇って見えてしまう。企画研修でも一番難しいのは現状分析だ。企画初心者の分析のほとんどは現象面への文句に近い。現状の原因解明はかなりアバウトである。そんな思いつきのような分析からは解決策が出てくるはずもなく、仮に出てきたとしてもその出来は推して知るべしだ。と言うわけで、言いがかりや文句のメッセージが目に止まった瞬間、脳内シュレッダーで裁断している。

素人の評論は玄人の評論と違うべきであり、違うがゆえに素人の批評が意味を持つ。評論をなりわいとする批評家と違って、ぼくたちアマチュアの世相批評は言う人・書く人も聴く人・読む人も楽しまなくてはならない。言語的に過激になりがちなところをちょっと我慢して、ユーモアや愉快の味付けをしてみるのだ。

知人とのやりとりを元に本稿を書いたが、ユーモアや愉快の味付けができなかった。反省している。千字以上費やしても批評は容易ではない。

私的ニューズペーパー事情

新聞を購読する世帯がどんどん減っている。ここ数年特に顕著だ。購読者が減れば発行部数が減る。ちなみに、2020年の発行部数は2017年に比べて700万部も減少した。部数だけで価値を評価すべきではないが、他のメディアに比べて新聞への情報依存率が低くなったのは明らかである。

今のマンションに引っ越した2006年、一番に訪問してきた販売店の新聞を購読することにした。当時はまだ勧誘が活発で、初月無料や美術館チケットの配付などのサービスがあった。新聞にはよく目を通し、公私に役立ちそうな記事はマメに切り抜いて再読したりもした。しかし、34年前からあまり読まなくなった。そして、ついに20195――記念すべき令和元年早々に――購読をやめた。

新聞がないと情報オンチになるかもしれないと危惧したが、この2年、特に困ったことも不便もない。テレビとネットがあればビッグニュースには事欠かない。新聞ならではの小さなエピソードや夕刊にしか載らないようなローカル事情には疎くなったが、一大事ではない。但し、万事がオーケーでもない。ネットで情報渉猟しているうちに、読みたくもない記事に晒され、つい目を通してしまう。


新聞購読をやめてからテレビの情報ではさすがに物足りないと感じることがあり、そのたびに購読再開をちらっと思うこともある。しかし、購読をやめた直後の状況をもう一度思い起こしてみる。新聞のない朝が考えられないと思っていたのに、やめても何も変わらなかった。毎日読むのも記事をクリッピングするのも必要不可欠なルーチンではないこともわかった。

そうこう考えているうちにあることに気づいた。なぜ今まで気づかなかったのかが不思議である。実はマンションの二軒隣のビルの1階にコンビニのLがあるのだ。購読していた時は、寒い朝も慌ただしい朝も8階から玄関横のポストまで取りに行かねばならなかった。しかし、それを13年続けたのだから問題ない。なにしろわがポストからコンビニはわずか30歩なのだから。

コンビニならその日の気分でそのつど毎日、朝日、日経、読売、産経から選べる。場合によってはスポーツ新聞でもいい。読みたいか別に読まなくていいか、朝に決めればいい。あの話を詳しく読みたいという日に買うのでコスパがいいのである。夕刊が読めないことと購読に比べて一部20円ほど高くなることくらい大したことはない。

先月から実践し始め、土、日を含めて週に3回ほど買って読む。先週は土曜日に朝日、日曜日に毎日を買った。早朝にマスクをつけてコンビニに行くのにも慣れた。買うのは新聞だけなので手ぶらで行ってスマホ決済する。毎回「レジ袋はいかがいたしましょうか?」と「レシートはご入用ですか?」と聞かれる。これにはまだ慣れない。