小さな愉しみの繰り返し

一つの大きな愉しみを取るか、複数の小さな愉しみを取るか。食事や集いや旅行ごとに楽しみ方は変わる。仮に旅だとしよう。長い旅程をしっかり組んで数年に一度遠くへ旅行する愉しみがあり、他方、週末の街歩きや、思い立った日に日帰りか一泊で近郊へ出掛ける愉しみがある。

年に何度も一泊や二泊の旅をするくらいなら、数年に一度海外に出て滞在地を一、二カ所に絞って過ごしたいとずっと思っていた。願いが叶って、2004年から2011年の間には、数年に一度どころか、6度もヨーロッパに出掛けた。いずれも約半月の旅である。2011年の旅ではバルセロナのホテルに4連泊、パリに移動してアパートに11連泊した。目論んだ愉しみは「広く浅い観光」ではなく「狭く深い生活」だった。

しかし、この10年、計画した海外への旅はことごとく実現しなかった。旅行予定月に飛び石出張が23件入ると半月の旅程が組めなくなる。そんなケースが何度かあった。また、親族が病気を患ったため仕事以外で長期間留守にしづらくなった。昨年の春はチャンスだったのだが、新型コロナで渡航不可となった。この調子だと来年も難しいかもしれない。


来年を待ちわびても、たとえば腰痛が出ると海外の旅はきつい。残された人生もどんどん短くなっていく。計画や準備という種まきをしても予定通りに刈り取れる保証がない。と言うわけで、今は考え方がだいぶ変わった。ずいぶん先のたった一つの大きな愉しみよりも、〈今・ここ〉の小さな愉しみのカードをいつも手元に置いて小まめに切り出すようになった。

「愉しみ」というのは充足感を味わえることで、そういう機会や対象や場所を自ら進んで求めることだ。それならいくらでもある。近すぎて気づかないだけの話である。当面の愉しみは刹那的かもしれないし、心底求める愉しみの姑息な代案と言えなくもないが、いくつかの小さな愉しみを繰り返しているうちに、近場の街歩きでいろんなものが見えてきた。オフィス街の工事現場沿いの通りもまんざら捨てたものではない。

知らない美術館や古い建造物はいくらでもある。食事処や文具店、雑貨店などは際限がない。同じ場所へ行くにしても、通りや道の組み合わせは何十とある。小さな愉しみは自らが能動的にならなければ味わえないのだと強がってみせる。しかし、年初にパスポートをさらに10年更新したことだし、大きな愉しみのチャンスが巡ってくるのを一応心待ちにはしている。