10月のレビュー

 旧暦の神無月は新暦でも使い、グレゴリオ暦の10月と併用すればいいのに……と思ったことが二、三度ある。

 今月は、厚切りベーコンとたまねぎのトマトソースパスタ、牛肉スープにつけて食べる和蕎麦のつけ麺、パクチーお替り無制限のフォーなど、麺の当たり月だった。「麺月」と呼んでもいいくらいだ。

 コピーライティングの仕事が多かった。そのうちの一つに、何を書くかはほぼお任せというミッションがあった。
「始まりは心弾む予感に満ちて」という見出しを思いついた。そして本文の一行目に「一つの季節の終わりが次の季節の始まりにバトンを渡す」と書いた。
何を書くかを考える前にことばを綴ったら、原稿用紙一枚分がまずまずうまく、さっと書けた。考えるだけが能ではないことにあらためて気づかされる。仕事を続ける効能の一つ。

 とある和食店は毎日一種類のランチ提供を貫く。店の前のホワイトボードには「天然ぶりの刺身とはまちの煮付け」と書いてあった。ぶりとはまちの出世魚定食? パスした。

 リバーサイドの夕暮れ、川面の濃紺とくれない。清濁併せ吞む大阪の繁華街には、古都では出合えない、侮れない風景が時々浮かび上がる。

 その数日後、難波なにわゆかりの万葉集をテーマにした展示を見た。古代にも侮れない大阪があったことを知る。

昔こそ難波田舎なにはゐなかと言はれけめ今は京引みやこひみやこぶにけり

「昔こそなにわ・・・は田舎と言われていたが、今は京の様々なものを移してきたので、いかにも都らしくなった」というほどの意味。「垢ぬけた」ということだろう。

 9月末から、行きつけの野菜のセレクトショップに旬の落花生が出始めた。生の落花生を半時間ほど柔らかすぎず硬すぎずに茹でる。毎週二、三回、実によく口に放り込んだ。

 来年2月にグランドオープンする大阪中之島美術館。建設の様子を見てきた。開館から春にかけては岡本太郎、モディリアーニが予定されている。黒のエクステリア。少し歩くと対照的な赤。愉快でキュートだった。花の写真はめったに撮らない。つまり、撮った花の印象はなかなか忘れない。

 高知産の新生姜をスライスして生食したら、嘘のように翌日シャキッとした。二箱が無料のあの「しじみ習慣」も嘘のようにシャキッとするのだろうか。

 一昨日から読み始めたのでたぶん来月にまたがるが、古本屋で買った『なんだか・おかしな・人たち』(文藝春秋編)がなんだか・おかしい。渋沢栄一を父に持つ渋沢秀雄の「渋沢一族」という小文は、他の渋沢像と違った見方でおもしろい。渋沢栄一は明治24年に87箇条の「家法」をしたため、第一条で渋沢同族を次のように限定している。

「渋沢栄一及ヒその嫡出ノ子ならびニ其配偶者及ヒ各自ノ家督相続人」

同族から誰か貧困の者が出ると「子孫の協和」が保てなくなるため各家の生活を保障するシステムを作った。渋沢一族という「組織」にあっては、長男以外は兄弟姉妹が男女同権で平等に栄一の恩恵を受けることができた。私企業の利ではなく国家、社会の利を強調した栄一も、同族を末永く保持することにかけては細やかな神経を使っていたのである。

今どきの様々な事情

今年初めての出張が入った。八月の予定が人流抑制のために十月下旬に延期になった。久々の伊丹空港はかなりリニューアルされていて、要領を得るのに少々手間取った。行き先は高知龍馬空港。一年八カ月ぶりの高知。この前は冬装束、今回は背抜きのスーツ。連泊だった前回はキャリーケース、一泊の今回はトラベルリュック。一番の違いは、ビフォーコロナの前回はマスク無し、コロナの今回はマスク有り。

高知出張の最大の楽しみは魚食い。ビフォーコロナの昨年1月に訪ねた料理店はその年の秋に店を閉めた。地元で根強い人気がありいつも常連で賑わっていた。常連が誰かに伝えその誰かからいい店だと聞き、数年前から高知に行けば必ず足を運んでいた。出張族もリピーターになり、調べ上手な観光客も集まる渋い店。現地の新聞でも取り上げられ惜しまれながら消えた。

新型コロナ感染者数の多寡増減に一喜一憂し、緊急事態宣言とまん延防止等重点措置のスイッチのオンオフが繰り返された一年と八カ月。様々な事情が生まれ、日常の景色が濃淡様々に変化した。今年の秋になって、一部の景色が元に戻りつつある。しかし、まだまだ異変が続いて歓迎されない場面はあるし、別の一部では落ち着いたものの元には戻らず、新しいアフターのスタイルが定着し始めている。


宿泊したホテルは立地がいいのでここ数年定宿じょうやどにしている。フロントのチェックインはまるで海外渡航者向けの厳重な態勢だった。朝食会場はビュッフェスタイルではなく、数種類の定食から選ぶ方式に変わっていた。ドリンクはフリーだが、席を立って水、ジュース、コーヒーと取りに行くたびに簡易手袋を装着する。アルコール消毒した手を手袋で包むわけだが、面倒この上ない。

高知には十数年前から年に一、二度仕事で来ている。店じまいした料理店を知る前は、知人に老舗の割烹に何度か連れてきてもらっていた。その店に一人で行きカウンターの席に座ったのが七年前。今回は三人で訪れた。地元の名士が集まる店なのだが、その日の夜、ぼくたちの他に客はなかった。新鮮な魚貝を使った料理が売りだから、こんな状態では仕入れのやりくりも難しいに違いない。

あの七年前、チャンバラ貝とどろめ・・・をつまみ、ヒラメの刺身や鰹のたたきも注文して静かに飲んでいた。間に二席を置いて男性客が一人座った。「いつもの」と言い「今夜は何がいい?」と女将に聞くその人、常連に決まっている。いつもいいけど鰹が特にいいと女将がすすめ、紳士、間髪を入れず「刺身、皮付きで」と告げた。ダンディズムを感じさせるやりとりだった。

ずっと一つ覚えの鰹のたたきだったので、あの紳士が唸るように食った刺身をいつかぜひ、この店でと思っていた。七年越しの願いが叶い、皮付きの鰹の刺身にありついた。忘れることはないが、「皮付き鰹の刺身、史上最強の厚切り」と念のために脳内に記す。たたきをニンニクといっしょに頬張るのは毎度だが、刺身を頬張るのは初めての体験。今どき、世の中には様々な事情があるが、ぼくにとってその夜の事情は過去の場面とつながる特別な事情だったのである。

地名と書名と人名めぐり

オフィスの近くを旧淀川の上流、「大川」が流れている。大川は、大阪湾に向かって出世魚のように堂島川、安治川と名前を変える。大川の左岸に八軒家浜の船着場がある。かつて京都から船で織物や海産物が運ばれてきた。熊野街道はここを起点として南へ走る。八軒屋浜は現在観光用の船着場になっている。船着場の東に天満橋、西に天神橋が架かっている。二つの橋の間は約500メートル。右岸にも左岸にも遊歩道がある。

八軒屋浜の対岸風景。右下に天満橋の一部、左端手前に天神橋が見える。川岸の緑のゾーンは南天満公園を含む遊歩道。

地名は全国区になると固有性を失って一般名詞化してしまう。つまり、場と名が一致する。一方、当該地域以外ではあまり知られていないローカルな地名は依然として固有性を保つ。土地に馴染みがないとローカル地名は文章の中で煩わしく、冒頭の段落で書いたように頻繁に出てくると退屈このうえない。たとえばフランスの片田舎の町や村の名、登場人物がおびただしい西洋小説を読むには覚悟がいる。

不案内な人は天橋と天橋を間違う。橋が現存しているから橋の名ではあるが、いずれも橋周辺に広がる街の呼び名になっている。天神橋は天神橋と変化して一丁目から六丁目まで南北におよそ2キロメートルの地域を形成しているから、行き場所の住所を勘違いすると厄介である。一方、メトロの天満橋駅はJRの天満駅と間違われる。JR天満駅はややこしいことに天神橋筋四丁目に近く、天満橋から歩くと半時間近くもかかってしまう。


仕事が一段落した昨日の昼前、オフィスのある天満橋から(橋を渡らずに)天神橋へ向かい、その橋を渡った。天神橋 渡てんじんばしわたる? まるで演歌歌手のようだ。橋を渡り終えて天神橋筋の商店街に入る。三丁目あたりにひいきにしている天牛書店がある。戦前は日本橋にっぽんばし、戦後はしばらく道頓堀にあった古書店で、当時は織田作之助、折口信夫しのぶ、藤沢桓夫たけおらが足繁く通った。織田作之助の『夫婦善哉』にも登場する老舗だ。

オフィスから歩けば約20分。本の過剰買いをしないように最近は一、二カ月に一度しか来ない。しかし、来れば数冊買ってしまう。店頭に五木寛之と塩野七生の対談本を見つける。何度か読んだガルシア・マルケスの『百年の孤独』の新版を最近買っていたので、その縁で関連書を一冊。さらに一冊、ついでにもう一冊……という具合で、気がつけば諸々もろもろ。書名は本を選ぶ重要な条件の一つ。ところで、初めて塩野の本を手に取った時、七生を「ななみ」と読めなかった。

オフィスへの帰途、大川の北側の右岸を歩いた。桜の名所の散歩道が、季節が変わって葉が色づき始めている。ちらほら落ちている枯葉を見ると「♪枯葉よ~」のあのメロディが自動再生される。日本語の歌詞はうろ覚え、当然フランス語の歌詞も覚えていない。それでも、イブ・モンタンのあの声が聞こえてくるから不思議である。

シンプルな美しさ

美や美意識は十人十色で、あれは好きだがこれは嫌いと言いたい放題するのが許される。それなのに、「美とは何か」と問い、十全十美的な本質を追究しようとする人が絶えないのはなぜ? 仮に美の根源があるにしても、すでに美はそこから多様に派生した姿になっているはず。いや、だからこそ、本質を知りたいのか。

たった一つのユニバーサルな美はありえないから、「美とは何々である」と言い切ることはできない。しかし、レオナルド・ダ・ヴィンチは「簡潔性は究極の洗練」だと確信した。たしかに、一目で読み解けない煩雑さよりはシンプルな見え方のほうに心は動く。但し、こうして天才の言を引用することはできても自論として発展させるとなると凡人には荷が重い。それでも、「美とはシンプルである」とは言えなくても、「シンプルな美」について語ることはできる。

構成する要素が多く――ゆえに情報が増えると――誤認識が生じやすくなる。要素が少ないほうがシンプルに伝わりやすい。大胆に省略しながらも要点を押さえるピクトグラムやアイコンが典型的な例で、ユニバーサルな価値を秘めている。ピクトグラムもアイコンも誤情報を発信することがあるが、簡潔ゆえに習慣化しやすく、一つの意味媒体として定着しやすい。


日本画家の上村松園は能楽の装束の華麗さを「沈んだ美しさ」と言う。沈んでいるというのは抑制であり、簡潔を基調とするの意だと思われる。『簡潔の美』という小文には次のように書かれている。

舞台に用いられる道具、それが船であろうが、輿こし、車であろうが、如何に小さなものでも、至極簡単であって要領を得ています。これは物の簡単さを押詰めて押詰めて行ける所まで押詰めて簡単にしたものですが、それでいて立派に物そのものを活かして、ちゃんと要領を得させています。ここに至れり尽くされた馴致と洗練とがあらわれていると思います。

能楽の話ではあるが、他の芸術や伝統芸能でも、あるいはそこから派生し分化した様々な流派でも同じことが言えそうである。シンプルな美しさ――上村松園の「簡潔の美」――は、散歩中に目を向けた川面に、地に映った樹木の翳に、街中のタワーマンションの直線に現われ、日々の生活の平凡な光景の中でも浮かび上がってくる。

無駄が排除されて簡潔になればわかりやすくなる。わかりやすさは美の感知にとって欠かすことができない。「美しきものはすべてシンプルである」とは決して断言できないが、「シンプルな美しさ」なら身近に感じることができるし、迷ったらひとまずシンプルにしておくというのは一つの知恵になるだろう。

表現品性とユーモア

以前紹介したが、『増補版 誤植読本』(高橋輝次編著)という本がある。錚々たる書き手による誤植のエピソードをまとめたもの。竹内寛子の「誤字」という一文が印象に残っている。誤植は作者の非ではなく、製版や印刷過程で生じるミスプリント。対して、誤字は原稿時点での作者の間違い。竹内は言う、「間違い方にも人は出る。よきにつけ、あしきにつけ、人と離れようのないのが文字遣いであり、言葉遣いである」と。

ことばのミスを完全に避けることはできない。絶対にしてはいけないと気を引き締めていてもミスの罠はあちこちに仕掛けられている。しかし、「間違い方にも人は出る」と指摘されると心中穏やかではない。悪気はなく、舌が軽く滑っただけなのに、失言に人柄や品性が出てしまう。下品が失言すると下品になり、上品は失言しても何とか品を保つ。

ネット上で注目された56年前の投稿を思い出す。文中に散りばめられた強烈なことば遣いの数々。「保育園落ちた 日本死ね」「一億総活躍社会じゃねーのかよ」「何が少子化だよクソ」「子供産むやつなんかいねーよ」「そんなムシのいい話あるかよボケ」……。

違和感のある表現が、このようにほざくしかなかった事情の前に立ちはだかる。事情がどうであれ、「死ね」「じゃねーのかよ」「クソ」「ボケ」などのことばを多用する者をぼくは原則信用しないことにしている。こうした表現をギャグとして使うお笑い芸人もいるが、芸もたかが知れている。上品がつねにいいとは言わないが、下品はつねによくない。ほどよい品性を下地にしてこその批評であり喜劇なのである。


周囲に目配りも気配りもせず、車内の優先座席で座って知らん顔している高校生にいきなり罵言を吐き怒号を浴びせた高齢の男性がいた。正義感に火が付いての言動だったが、下品に過ぎた。高校生のマナー違反の現象が小さく見えてしまい、高齢者の正義感を誰も支持しなかった。「じいちゃんの言う通りだ」と共感した乗客はほとんどいなかった。

「保育園落ちた」にも「座席ポリス」にも共感者はいる。自分勝手にテンションを上げていると感じるから、ぼくにはどちらも後味が悪く、苦笑いすらできない。読んだり居合わせたりするこっちの顔が引きつるばかりである。英語スピーチ術の定番の教え、It’s not what you say, but how you say it.”は「何を言うかではなく、どのように言うかである」という意味だ。表現の質は意見の妥当性よりも重要である。

うまそうな肉を焼いたのに、乗せた皿が悪かった。主張に引き込もうとしたのに、そんな言い方はないだろうといさめられる。とは言え、表現品性を高めるのも容易ではない。しかし、ミスにしても批評にしてもほんの少しユーモアの色味を足せば、何とかなるのではないか。

神がいないばかりではない。もっとひどいことに、週末にブリキ職人に来てもらうこともできない。

「神がいないこと」を下品に言うと大変なことになるが、ブリキ職人を登場させるだけで愉快な批評になる。これはウッディ・アレンのことば。怒鳴っていないし、いきり立っていない。

創作小劇場『そば湯』

 

 〈そば切り 文目あやめ〉がかなりいいそばを打つらしいと聞いていた。近くに行く用事があれば寄ってみようと思っていた。ようやく機会に恵まれた。
 オフィス街の外れだが、住宅地の町内で時々見かける質素な店構えだ。気根が丈夫そうな鉢植えのガジュマルが置いてある。背広姿が二人出てきた。入れ替わりに暖簾をくぐる。
 そば屋は主人も店員も、たいてい藍、白、抹茶、茶、黒のいずれかの作務衣を着る。迎えてくれた初老の男は白だった。店主だと直感した。厨房は息子に任せて客応対に専念していると推理した。

 「は~い、いらっしゃいまし~。奥の方へどうぞ、奥の方へどうぞ」
 口調も空気も今は亡き
桂枝雀に似ている。茶が出た。一口啜る。そば茶だった。客に「そばアレルギーはございませんか」などと野暮は聞かない。そばアレルギーが来ることはない。だから黙ってそば茶を出す。
 「今日は何を召し上がりますか? 何がよろしいですか?」
 一見いちげんのそば屋でメニューは見ない。行きつけの店に行ってもたいてい注文は決まっている。冷ならざる、温なら天婦羅そばだ。
 「ざるそばをください。後で替えそばを」
 ちなみに、ざるそば730円。替えそば400円。

 ほどなく二八のざるが運ばれてきた。ゆるいところがまったくない麺。嚙み心地ものど越しも申し分ない。麺に合ったつゆにワサビ。一枚終わってしばらくして替えそばがきた。そば徳利の汁を器に足して薬味も加える。あっという間に平らげた。
 「こちらそば湯です」
 絶妙のタイミングだった。使い込んだ朱塗りの湯桶ゆとうが置かれる。
 「だいぶ膨らんだので、すみません、今日はパスで」
 腹あたりをさすりながら、そう言った。

 その時である。離れたテーブルに座っていた常連風の初老の男性が突然喋り出した。
 「ビタミンB1B2、葉酸、タンパク質……亜鉛、カリウム、食物繊維……ロイシン、イソロイシン、リシン、バリン、メチオニン、フェニルアラニン、スレオニン、トリプトファン、ヒスチジン等々のアミノ酸……便秘解消、食欲増進、高血圧と脚気に効能発揮……熱々の白濁そば湯、当店自慢はとろみの強いこってり系。さあ、汁に注いで召し上がれ」

 調子のよい口上に、目を丸くしてたぶんポカンと口も開いただろう。お見事だった。店主を見れば、何もかも承知した上で笑いをこらえている。そば湯をすすらない客へのいつもの啓発か。
 あっさりと促されてそば湯を飲み干す。そば湯をパスしかけた自分を恥じはしなかったが、
そば湯目当てに足繫くそば屋に通った頃を懐かしく思い出す。そうだ、そば湯をそばの「ついで」にしてはいけない。
 「ありがとうございました。またのお越しを、またのお越しを」

 次の日も、一週間後も暖簾をくぐった。

日々のいくつもの事実

📅 ちゃんぽんを売りにしている中華料理店のホール担当は、小柄なおばさんで年齢はおそらく60代後半、いつもいるがたぶんバイト、声は大きくややかすれている。

グラスを持ち上げて水を飲み、グラスを戻して数秒後に「おぎしましょうか?」と寄ってくる。頷くと飲んだ分をすみやかに注ぐ。グラス内の水量がずっとおばさんにチェックされている。ちゃんぽんを食べ終わるまでにこのルーチンが数回続く。飲み干した後に爪楊枝を手にしたりすると忍者のように駆けつけてきてグラスを満タンにする。だから最後に水を飲んだらすぐに立つ。店内約20席。今は密を避けているので最多で10席だから、おばさんにとっては楽勝。

📅 ポケットに手を入れたら丸い金属に触れた。五百円硬貨だった。ポケットの中に見つける想定外の五百円硬貨には、普段小銭入れに入っている想定内の五百円硬貨にはないサプライズ価値が付加されている。ちなみに百円硬貨を見つけてもこんな文章を書こうとは思わない。

📅 「人々を動機づけるクリエーティブな方法を生み出そう」と平気な顔をして自称クリエーターが言った。「新鮮な感覚を与える独創性」はあるかもしれないが、それをクリエーティブという、すでに新鮮さを失ったことばで呼んだ瞬間、クリエーティブな方法など絶対にないと確信する。

📅 「やましいことなどない!」と語気を強める者がやましくなかったためしはない。そして、声の大きさに比例してやましさの度合が増すのも事実である。

📅 街頭でインタビューされる一般通行人が「いっぱい」と「一番」をよく口にする。世代に偏りはない。「コロナが終息したらみんなに会いたいという思いでいっぱいです」、「今は早くコロナが終わって欲しいという気持が一番です」という具合。いっぱいと一番を抜いてもほとんど意味は変わらない。つまり、「いっぱい」と「一番」に特別な強調効果があるようには思えないのだ。おそらくインタビューを受ける人たちは、「~という思いです」「~という気持です」ではぶっきらぼう感を覚えるのだろう。そして、一言足す。その蛇足に「思いがいっぱい」と「気持が一番」が選ばれている。

プロ野球選手もヒーローインタビューで「あの場面では打ちたいという気持が一番でした」と言う。一番があるのだから二番もあるはずだが、今のところ「では、二番は?」と聞いたインタビューアーはいないようだ。

ノートを綴らない日々

一週間ぶりにここ・・に戻ってきた。「ここ」とは、ブログの「クイックドラフト」という下書き専用の画面である。ルーティンとして、手書きでノートに綴って文章を推敲してからPCに向かうようにしているが、ここしばらくノートすら開けていない。コラムを書くという仕事が入ってきたからだが、ノートを綴らなかったのは仕事のせいばかりではない。

どんなに仕事を急かされている時でも、書ける時は書く。どんなに時間を持て余していても、書けない時は書かない。今は後者である。人的交流上の、情報交換上の、そして印象観察上の刺激が圧倒的に少なくなっているのが原因だろう。書けないなら書こうとしなければいいのだが、長年のノート習慣に背いているような気がして、心地よくない。

「書けない」か「書かない」か、どっちでもいいが、半月もノートに書き込みをしないのは感じることが少ないからである。いや、小さな気づきがないわけではないが、そこから先へ進むには探究心とマメさが必要だ。さもなければ、細くて軽い水性ペンですらずっしりと重そうに感じて、手に取ろうとしない。今日も机の横に置いてある背丈2メートルほどのアマゾンオリーブの幹に1センチほどの新芽を見つけたが、それをテーマにして綴ってみようという気は今のところ起こらない。


「出掛ける前にスプレーしておくと衣服に虫がつかずに帰ってこれます」という、消臭剤の説明書きを見つけたことがある。虫除けスプレーではなく、消臭剤! 以前なら、嬉々としてそのことについて書いてみようと思ったものである。そんな話をうまく展開しながら書けたとしても駄文の可能性が高いのだが、どんなネタからでも企画したり書いたりするのが本業の本能だと自覚していた。

しかし、「何々だから何々すべきだ、何々できて当たり前だ」というのも変な強迫観念である。それは「せっかくどこどこに来たのだから、やっぱりアレ・・を食べなきゃ!」という気分に似ている。たしかに、そういう時もあるけれど、別にそうでなくてもいいではないかと割り切ることもできる。讃岐に来たら「うどん」という定説に反したこと、一度や二度にあらず。ナポリでもピザを食べなかった。

今ふと讃岐うどんのあの地のある日を思い出した。混み合っているうどん店を諦めて、場末感の強い喫茶店でランチをしたことがある。外はやや強めの雨が止まず、どこでもいいから近くの店でいいという妥協策だった。床にじかに置かれた扇風機、開け放たれたテラスの扉、おびただしいアロエの鉢……。何を食べたかはっきりしないが、あの時の店の光景は鮮明によみがえる。

何かに気づき、その何かから考えを巡らすことはできなくても、記憶が動くなら、そして駄文でよければ、こんなふうにまずまず書くことができるようだ。