本読みのモノローグ

たいして本を読んでこなかった人が、一冊の読書入門書を機に読書の魅力に惹かれた。本への意欲が高まり、その後も読書術の本を何冊も読破した。だが、辿り着いた先は読書の方法と推薦図書の長いリストだった。待ち望んでいたのは読みたい本を好きな時に楽しむことだったのに……。

強迫観念に苛まれて、本との付き合いに器用さを欠く。決して他人事ではない。読書は自分流であっていいという立ち位置から軽くつぶやいてみたい。題して、『本読みのモノローグ』

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読書の荷の重さを感じたら、どこかに出掛けて他人の話を聴く状況を想像すればいい。その面倒に比べれば、読書は実に気楽で安上がりな方法ではないか。読書はある種の疑似体験だが、実社会にはめったにない希少な知の僥倖に巡り合うことがある。

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あれもこれもと読みたい本は日に日に膨れ上がる。「慌てて読むことはない、速く読んでも何も残らない」と諦観しておこう。気まぐれに本を手に取り、ゆっくり読むのがいい。著者が時間をかけて書いた本ならなおさらだ。読書は冊数を競うものではない。

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本と読書はイコールではないのに、イコールだと錯覚しがちである。

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読書に「パーセンテージ発想」は厳禁。たとえば「百冊買ったのに、まだ一割しか読んでいない」と嘆いたりすること。残りの九十冊が現時点で未読状態ということにすぎないのに、森羅万象を無限大の分母として知を量ろうとしてしまう愚。分母に気を取られると読書は難行苦行と化す。

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どんな本を読むべきか、いかに読むべきかについて他人の尺度を気にすることはない。本と読書には自由気ままが許されている。かつて禁じられた時代もあったが、今では本と読書に関してはめったなことでは文句を言われないし強制されることもない。

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人物が気に食わないからと言って退席すれば一大事。しかし、本の場合は気に入らなければ閉じれば済む。読むのをやめるという行為も読書体験の内にある。本には読むという選択と読まないという選択が用意されている。

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放蕩三昧の勇気なく、ふてぶてしく無為徒食もできないくせに、日々刻苦精励に努めない。こういう生き方同様に、おおむね人は中途半端に本を読む。それも一つの読み方ではあるが……。

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蔵書は読むことを前提に本棚に収まっているが、出番がない時は読書人の後景として控えている。

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惰性でも読めてしまう本と高度な深読みを迫る本がある。前者の本が役に立つことはめったになく、また、後者の本で身についた思考が必ずしも功を奏すとは限らない。本に恵まれず読書も不調なら、読書の「プチ断食」に挑戦してみよう。これで読書の方法が整い、今までと違う本の世界に覚醒することがある。

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本で学んだことはいつか役に立つだろう――知はそんなアバウトに生まれない。知は勝手に熟成しないのだ。知に別の知を合わせ、つねにメンテナンスよろしく攪拌してやらねばならない。読書は攪拌作用である。攪拌とは混沌であって、秩序ではない。読書とはカオス的体験にほかならない。

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本がある。文章を学んでいるのではない。本を読むとは、書かれたものと自分を照合したり重ね合わせたりすることだ。だから誰が読んでも同じ本などない。読み手の知識・経験が本と葛藤し妥協し融和し、時に決裂する。

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誰にとっても「読むべき本」が世間にあるのだろうか。稀に仕事で読まねばならない本はあるが、原則は好きな本を楽しく読むことに尽きる。世の中には万巻の書があるから、好奇心を広く開いておけば稀に「大当たり」が出る。狭くて小さな読書世界に閉じこもっていると当たりは出ない。

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「理想の読書」という、あるのかないのかわからぬ観念から脱した時に初めて、人は読書の意味を理解するようになる。見て選ぶ、装幀やデザインを味わう、紙の手触りの感覚に喜び、書棚の背表紙を眺める……これらもすべて読書的行為なのである。

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十歳から半世紀にわたって週に一冊読み続けたら還暦で二千五百冊に到達する。堂々たる読書家と言えるだろう。ところが、日本人の平均読書冊数は年に十五、六冊。このペースだと生涯千冊に満たない。たった千冊しか読まないのに、「そんな本」に時間を割いている場合ではない。


旅も外出もままならない今、ウィズブックス――本との縁――による希望、快癒、愉快、幸福の修復を祈りましょう。
二〇一八年六月に図書室〈スピンオフ〉を開設。試運転を終え、二〇二〇年四月から本格的に本と読書のイベントに取り組む予定でした。疫病流行により計画の中断を余儀なくされましたが、読書会や勉強会で再びお会いできるのを切に願っています。

2021年の年賀状用に書き下ろした原稿を転載しました〉