日々の街歩き

当世のシニア世代は運動したり、学びに励んだり、芸術文化を楽しんだりと、趣味が多彩になった。『東京フィフティ・アップBOOK』という、東京都が昨年作成した冊子を見ると、趣味は細分化され、ドールハウス、健康麻雀、フラダンス、太極拳、ステンドグラス、チェロ、ピアノなど多岐にわたって紹介されている。

この冊子、これから高齢期を迎える50代・60代向けに、仕事や趣味、社会貢献活動などのライフプランに役立つヒントを網羅している。冊子と言うものの、200ページを越える「大作」だ。活動や目的がある程度はっきりしている趣味が多い。暇つぶしに何となくやっているような趣味では長続きしないのだろうか。

先日ある人とちょっとしたやりとりをした。「生涯で一度も車を所有したことがない。ゴルフもしない。一度マンションを買ったがすでに売却して、今は賃貸暮らし。大金を使ったことがない。以前は絵を描いたり語学を独学したり印を彫ったりしたけれど、今はしていない」とぼくが言ったら、「じゃあ、趣味は何ですか?」と聞かれてちょっと困った。読書や旅行は趣味とは思っていない。食べることへの好奇心は旺盛だが、これもまた趣味ではない。少考した後にこうつぶやいた、「散歩かなあ」。そう、散歩だ。散歩からお気に入りの諸々が派生している。


「お出掛けですか?」
「気まぐれな散歩です」
「どちらまで?」
「さあ……」 

気のない返事で申し訳ないが、明確に説明できたら散歩ではなくなる。健康や体力を意識する歩行動作ではない。山道を歩けばウォーキングとかトレッキングとかハイキングになる。山道は散歩には向かない。散歩に適した道は息を上げてまで頑張らなくてもいい道であって、あてもなくそぞろ歩きできる街中にある。

ぼくにとって散歩は街歩き。歩きながら街角や街並みの様子や雰囲気を窺いながら体感する。ペーパー上で得る知識とは一線を画す身体的体験である。行き先や道順などを特に決めていないから、行き当たりばったりの寄り道にほかならない。不覚にも「あて」が見つかってしまうことが稀にあるが、意に介せずにそこへ向かう。街歩きに想定外はつきものだと割り切っている。

どこの国のか忘れたが、「歩いて渡った者が川を知っている」という諺があった。百聞は一見にしかず、百見しても一触にしかずの意味。つまり、川のことをいくら見聞きしても、自分の足で川の浅瀬を一度歩くのに及ばない。しかし、少しでも歩けば川底の凹凸、水の冷たさを体感する。

散歩もまた、空気や色合いや凹凸に触れて街を探っている。散歩前に散歩の効果を期待するべきではないが、散歩後に勝手についてくるおまけを否定することはない。おまけには健脚、ひらめき、気分転換、新たな発見などがある。机に向かって悶々として得られる成果とはまったく違うおまけだ。散歩好きの古今東西の偉人らも異口同音にそう言っている。

まったくあてもなく川沿いをそぞろ歩きした10年前、「体感記憶」が昨日のことのように甦る(パリ、サンマルタン運河)。