住みやすい街、十人十色

以前、ぼくの居住する大阪市中央区が欧米のある雑誌が企画した「訪れたい街のベスト10」にランクインしたことがある。悪い気はしない。しかし、何の意味もない。総じて言えば、訪れたい街や住みやすい街ランキングほどつまらないものはない。幸福度ランキングもしかり。どこに住みたいか、どこに行きたいか、どの街で幸せを感じるか……そんなことは自分で決めるものだ。

住みやすい街は自分自身の尺度でイメージする以外にない。専門家の評にも一般論にも出番はない。個人の意見あるのみ。その意見と違った意見があって当然である。賛成反対もあっていい。しかし、正しい間違いはない。

ここに書く、ぼくのイメージする住みやすい街は「コンパクトシティ」であり、その街に見合った「コンパクトな暮らし方」を理想としている。行政のそんな街づくり計画が遅々としていて、今のところ満足するレベルではないにしても、一足先に自らそういうスタイルをこつこつと実践していけばいいと思っている。

シティという都市の概念は生活の基本ステージである。暮らしに目を向けずに発展や効率を重視するとシティは消滅する。大阪市をなくして大阪都にするという都構想にぼくが反対した理由である。かつての古代や中世の都市国家がそうであったように、暮らしと発展を両立させるのがシティだ。コンパクトシティは人に寄り添う、高密度で多機能な街のカタチにほかならない。


機動力を失わずにコンパクトに生きるにはモノを持ち過ぎてはいけない。必然、公共的な便宜の充実を求めることになる。商業施設、病院、公園、広場、学校、図書館、美術館、駅、余暇などのサービスに近いのが理想だ。中心街は持続可能な再生と活性化を目指し、生活利便性にすぐれた複合的で多機能的な整備がおこなわれる。

地域が繫栄するからこそのコンパクトシティなのである。リッチでゴージャスな生活の質など求めない。スローフードとスローライフを基本とした質素な質に充足する。時には車に依存することもあるが、車は所有しない。街は車の乗り入れを制限して、通行人とコミュニティで暮らす人々を優先する。場から場へと軽快に動ける生活行動を促す。これらは高齢者が元気に暮らせる条件でもある。自然の風景など街にないものを求めるなら旅をすれば済む。

シティとライフは写像関係にある。コンパクトシティの市民として生きる意識と、コンパクトライフを生活者として送る現実は表裏一体。人生観や生活哲学も一本筋が通る。街を家の周縁としてとらえる生き方である。ぼくの場合、職住が近接し、3路線のメトロ駅まで徒歩5分、たいていのことは徒歩圏内でできる。シニアになってよりいっそうコンパクトシティでの住みやすさがわかるようになった。