語句の断章(34)説明

よほどのことがないかぎり、大人が「説明」の意味を辞書で調べることはない。みんなわかっていると思っているし、誰かに突然意味を聞かれることを想定していない。だから万が一誰かに説明の意味を聞かれたら困る。しかし困っても、「説明の説明? 何を今さら」などと居直るのも大人げない。

試してみればわかるが、たどたどしい物言いになり、ついにはことばに詰まる。説明についてよくわかっていなかったことに気づく。しかし、失望しなくてもいい。『新明解』にしてからが、それがどういうものであるか(事情で存在し、また起こったか)を相手に分かるように(順序を立てて)言うこと」と、ずいぶんぎこちないのである。

企画書を書いたり人前で話したりすることを生業としてきた。読む人のために書き、聞く人のために話すのはわかってもらうためである。長年の癖で説明が饒舌気味になりやすい。この癖のお陰で仕事が成り立っているので悪しき癖ではない。しかし、この癖は曲者だ。説明過剰は野暮で美的感覚を損なうからである。

もともと美的感覚には不条理の要素がある。その不条理をほぐしてみせるのが説明だ。わけのわからないまま済ませず、ごまかさない。まるで正義の味方のようだが、説明に躍起になると人間もことばもつまらなくなる。それどころか、説明の根本であるはずの因果関係を見失ったり本末を転倒させてしまったりしかねない。

天気予報では台風の進路を示す「可能性」の円をよく見る。ある気象予報士が言った、「円が大きいと言うことは、進路の方向が定まらず絞られていないということです」。わかりやすい説明なので不都合はない。しかし、因果関係的には正しくない。進路が定まらないから円を大きく描いていると言うべきである。

辞書が言う「あることを筋道を立てて相手が分かるように書いたり話したりすること」は、知識がなければできないことである。しかし、相手の理解を以て完結するなどと考えるとハードルが高くなる。小学生から高齢者まで、素人から専門家まで、相手はいろいろである。相手相応の説明になっているかどうかは、やってみないとわからない。

説明についての説明をほとんどしていないことに気づいた。最後に、苦しまぎれに次のように説明しておきたい。

説明とは自分の知識に応じてできるかぎり物事をかすことであり、相手が分かってくれれば幸いだが、説明の内容や相手の知識によっては説いたことがうまく伝わるとはかぎらない、そんな疎通努力の一つ。

固有名詞を記号に変えてみた

歩いたり電車に乗ったりして過ごしたある日の半日。そのことを技巧を凝らさずに時系列で綴ったことがある。実話なので固有名詞をふんだんに使っている。すべての固有名詞を記号に置き換えてみたらどんな感じになるか……ふと、つまらない好奇心が湧いた。アルファベットで試してみた。

自宅からM線のH駅まで歩き、メトロでO駅へ。そこでF展覧会のチケットをディスカウントショップで買い求めようとしたが、まだ営業時間前だった。
S電車でO駅からK駅までは特急。K駅で普通電車に乗り換えてI駅へ。駅から徒歩67分の所にP美術館がある。建築に工夫のある美術館だ。水辺近くに建つが、海の風景には雑多な建物が入り混じり、必ずしも晴朗美観とは言えない。
帰り道。これと言った食事処がなく、I駅の踏切を通り過ぎてR電車のN駅まで歩いた。その近辺のとある店で「やむなく」という感じで海鮮丼を注文した。可と不可の境界線上にある微妙な味、おまけに微妙な値段。
このN駅、普通電車しか止まらないのに立派過ぎる。一つ戻って特急に乗ることもちらっと考えたが、帰路途上にあるA駅まで普通に乗ることにした。各駅に停車するので所要時間は特急の2倍の約45分。A駅でT線に乗り換えてM駅で下車し、そこから歩いて帰ってきた。
N駅からO駅なら410円だが、O駅手前のA駅を経由してM駅まで乗ると550円になる。ちょっと解せない料金設定だ。
往路の一部は特急に乗ったが、帰路は久しぶりの各駅停車的移動だった。特に急いでいないのなら、普通電車を乗り継いでの近郊半日の小さな旅。まんざら悪くなかった。

ありがたいことを書いているわけではない。固有名詞まみれの個人的なドキュメントだ。固有名詞のすべてを匿名希望的に、一地名や一駅名を一つのアルファベットで表記すると、文章は瞬時に無機的になる。無機的ではあるが、こういうのをクールとは言わない。どちらかと言うと、不気味だ。

ところがである。原文で出てくる固有名詞になじみがないとか、見たり聞いたりしたことはあるが土地勘がないという場合は、アルファベット表記の一文字仮名かめいで書かれた文章を読むのとほとんど変わらないのである。たとえ行ったこともなく土地に不案内だとしても、ニューヨークや上海が出てきたら少しは読み取ろうという気になるものだ。

しかし、ここまで書いてきて、本質的に重要なことに気づいた。リアルな固有名詞であろうと無機的なアルファベットの匿名であろうと、書かれた内容に興味を覚えなければイメージは湧かないし読む気は起こらない。関心があればわかりにくい文章でも読むし、関心がなければどんなに読みやすい文章で書かれていても読まないのである。

酒の嗜みごころ

🍷 コロナ前。杯を持ち上げるジェスチャーをして「今度、飲みに行く?」とよく誘われた。かつて総称的に「酒」と言っていたが、今や酒は多様化した。クラフトビール、白の泡、芋などと具体的に言う人もいる。

🍷 アルコールと総称していた時代もあった。「アルコールはいける口?」というふうに。今やどこに行っても入口にはアルコールが置いてあり、アルコールは消毒を意味するようになった。アルコールと言うと、化合物を飲んで中毒になるイメージがある。

🍺 食を優先して食に合わせることを前提にすれば、酒は嫌いではない。嫌いではないが、つねにほどほどだ。つねにほどほどだが、いろいろ飲むので、割とよく知っている。二日連続飲むと次の日は飲まない。ゆえに、週に23日は休肝することになる。

🍻 ビールだとすぐに顔に出るのでたくさん飲まないし、「とりあえずビール」には異議ありだ。初めから最後までずっと生ビールという連中の気持ちがわからない。お開きの時間が近づくほど酒量が増えていくのがいる。「さあ、そろそろ」という空気を読まずに、「生一丁!」と吠えて一人だけ飲んでいる。苦手なタイプだ。彼らは奢られている時ほどよく飲む。二次会でもずっとビール。

🍶 日本酒党の酒豪の先輩がいた。板わさだけで延々と飲む。「ぼくの奢りだから好きなものを注文したらいいよ」と言われても、主が板わさなのに中トロとは言えない。

🍺 選べるならビールは瓶を注文する。大勢の食事会ではやむなく生中。瓶だとひっきりなしにつがれるからだ。つがれると落ち着かない。箸が動かせない。食べる前に飲まされることになり、酔いのまわりが早くなる。

🍸 食前酒を飲むならギムレットがいいと池波正太郎がどこかで書いていた。ハイボールばかり飲んでいた頃なので、試しに飲んでみた。ジン3に対してライムジュース1という簡単なカクテルなのに、バーごとに、バーテンダーごとに味が違う。カクテルが単純な化合物の混ぜ合わせでないことがわかる。

🍸 食前に自宅でたまにシェリ酒ーを飲む。シェリーはアンダルシアで作られる酒精強化ワインで、普通のワイン約12度に対して、1520度とアルコール度数がやや高め。グラスに氷を入れシェリーを注ぎ、トニックウォーターで割る。ただそれだけ。かなり甘いが、なるべく甘みを抑えたのを選ぶ。

🍾 10年前、バルセロナに滞在した。夜遅く着いても心配なし。彼の地ではレストランは8時や9時にオープンするのが当たり前。食事処には困らない。ホテル近くの垢抜けしたバルに入った。小皿のタパス料理の種類が迷うほど多い。タパス2種類とイカのフリットを注文し、カバ(cava)を合わせた。シャンパンと同じだが、シャンパンと名乗れるのはフランスのシャンパーニュ地方のものだけ。だからカバと名付けた。タパスとカバの合わせ技はこの時の本場体験が初めてだった。

🍾 知人に居酒屋を紹介してもらっていたので、翌々日の夜に行ってみた。狭い通りが入り組んだゴシック地区にある老舗のEl Xampanyetという店。発音しづらいのでノートに「エル・シャンパニェト」とメモしておいた。ここでもカバを飲んだ。

🍾 今年の春先から週に3度ペースでカバを愛飲している。すでに10種類くらい飲んだだろうか。カバは何か月か――場合によっては、12年も――瓶内でゆっくりと二次発酵させるので、シャンパンよりも泡がきめ細かい。口当たりと辛口の度合はわかるようになった。しかし、自宅だと発泡酒を23本開けての飲み比べがままならないから、デリケートな味の違いはまだよくわからない。

「かつら」の話

昨年末にイタリア映画『ほんとうのピノッキオ』を観た。その後、本棚から『ピノッキオの冒険』を取り出してもう一度読んでみた。ある日、大工のアントーニオ親方とジェッペットじいさんが「言った、言ってない」の口ゲンカを始め、ついにほんもののケンカになってしまった。そして……

つかみあい、ひっかきあい、かみつきあい、もみくちゃの大騒動。やっとおさまった時には、アントーニオ親方の手にはジェッペットじいさんの黄色いかつらがにぎられ、ジェッペットじいさんの口には、大工の白髪混じりのかつらがくわえられていた。

その後二人はお互いのかつらを返し、握手をして、以後仲良くやっていこうと誓い合う。男のかつらはハゲを暗示する。ハゲどうしは、仮にもめたとしても関係がこじれないようになっているのだろうか。根拠はないが、ハゲたちは仲が良いような印象がある。

ところで、ウィキペディアは「ハゲ」の解説を次のように始めている。

ハゲ(禿、禿げ)とは、加齢、疾病および投薬の副作用、火傷、遺伝的要因などにより髪の毛が薄い、もしくは全くない頭部などを指す。またハゲた場合頭皮に艶が出やすい。頭部がつるつるに禿げている様を指し、つるっぱげ(つるっ禿げ)もしくはツルハゲ(つる禿げ)とも呼ぶ。頻繁に動詞化するが、その際「禿」の字が使われることは稀である。

上記引用でぼくが引いた下線部に注目。いきなり冒頭からウィキペディアにしては少々はしゃいでいるではないか。おそらく、ハゲと言ったり書いたりした瞬間、人の心理には何らかの異化作用が生じるようである。


かつらについて語ることがハゲの話に発展する必然性はない。しかし、ウィキペディアの記述である「髪の毛が薄い」とか「頭部がつるつるに禿げている様」とか「つるっぱげ」とかの話とかつらは、中年以降の男性の場合にはワンセットになる傾向が強い。ここでひとつ、かつらとハゲに関する持論を問題提起してみたい。

ハゲの市場は大きいにもかかわらず、商品が毛髪剤と植毛とかつらに限られるのは発想力不足だ。ぼくの親しい友人知人にハゲが数人いる。彼らを見て、以前からハゲに似合うメガネ、ネクタイ、スーツがあり、さらにはハゲならではの話し方や立ち居振る舞いがあると考えていた。誰もやらないのなら、どこかのメーカーの新事業部門に話を持ちかけて商品とサービスのコラボ企画をしてもいいとさえ思っている。

劇作家の別役実に『日々の暮らし方』という本気か冗談か判断しづらいエッセイ集がある。その中に「正しい禿げ方」という本気か冗談かわかりかねる一編が収められている。冗談ぽく書かれているが、正しい挨拶のしかたと間違った挨拶のしかたがあるように、禿げ方にも正しい・間違いがあっても何の不思議もない。別役は次のように話を展開する。

ひとまず、これは多くの「禿」が間違えていることなのであるが、テッペン・・・・から禿げてはならない。(……)テッペンから禿げはじめた場合、残存頭髪をドーナツ状に周囲に配置することになる。つまり、「禿」が中央で、独立して異彩を放つことになる。(……)このことが理解出来れば、前頭部、後頭部、側頭部の内でも、前頭部から「禿」を始めるのが最も理想的なことは、誰にでもわかるであろう。

「たかがハゲ」ではない。つねに「されどハゲ」なのである。テッペンから足元まで、一個の人間としてハゲの全体構想が必要なのだ。ハゲを頭部の現象として何とかしようとするからかつらに目が向いてしまう。安易にかつらで何とかしようしてはいけない。かつらはムレるしズレる。そして、ほぼ間違いなくバレることは無数の事例が証明している。かつらであることがバレた瞬間、毛髪に続いて紳士の資格も失うことになるのである。

抜き書き録〈2022/06号〉

空き時間に再読した「古典もの」の抜き書きを集めてみた。まずは福沢諭吉。有名なあの一文、「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり」が象徴する啓蒙主義的言説に少々飽きてはいるが、やっぱり随所でいいことを書いている。

人の見識品行はただ聞見の博きのみにて高尚なるべきに非ず。万巻の書を読み天下の人に交わりなお一己いっこの定見なき者あり。(『学問のすゝめ』)
(見聞を広めるだけで人は立派にならない、読書に勤しんでも著名人と付き合っても自分の意見が持てない者がいる)

昔からのやり方に固守する儒者や洋学者にもこの類が多いと言う。読書はしないよりもする方がいいし、抜き書きもしないよりはする方がいいと思うが、効能の過信には気をつけたい。

「学問」つながりで、17世紀イタリアの哲学者、ジャンバッティスタ・ヴィ―コからの青少年教育に関する抜き書き。

記憶力は、想像力とたとえ同じでなくとも、確実にほとんど同じであり、他に何ら知性の能力の点で秀でていない少年においては熱心に教育される必要がある。(『学問の方法』)

近年、わが国の教育は記憶させることに偏重している、思考力にもっと力を入れるべきだと批判されてきた。ぼくもその主張に与した一人である。しかし、最近では、何が好きで何に適性があるかもわからない少年期は記憶力優先でいいような気がしている。青年になってどの方向に進むにしても、記憶力――ひいてはヴィ―コ言うところの想像力――が役に立たないはずがないからである。

吉田兼好に対しては立ち位置の取り方が難しい。ある段の話には四の五の言わずに共感するが、別の段には不快感を覚えることもある。あるいは、二律背反的な解釈の余地がある段も少なくない。たとえば次の一節。

筆を取れば物書かれ、楽器をとれば音を立てむと思ふ。盃をとれば酒を思ひ、さいをとれば打たむことを思ふ。心は必ず事に触れてきたる。仮にも不善のたはむれをなすべからず。事理もとより二つならず。外相げさうもしそむかざれば内證ないしやう必ず熟す。(『徒然草』第一五七段)
(筆を手にすると書きたい、楽器を手にすると奏でてみたいと思う。さかずきを手にして酒を思い、サイコロに触れると博打をしたくなる。物に触れるから心が動く。だからよろしくない遊びに手を出してはいけない。現れることとあるべきことは別のことではない。外に出てくることが道理に合っているなら、悟りはきっと熟してくる)

こんなふうに言われると、つい「なるほど」と感心させられる。しかし、思いついたことを記そうとしてペンを取り、一曲奏でようと思ってギターを弾くという、動機から行為へという流れもよくあるはず。ところで、酒とギャンブルを書や音楽と同列には語れない。酒飲みは何かにかこつけて飲むだろうし、金を持てば飲み、金がなければ金を借りてでも飲む。ギャンブル好きも同じ。どんな対象でも賭けの対象にする。そして、金を持てば賭け、金がなくなれば金を借りて賭ける。ギャンブル好きはサイコロがなくても馬が走らなくても困らない。とにかく賭博するのである。

ことばがイメージを広げる

インプット量に見合った成果がコンスタントに得られればいいが、なかなかうまくいかない。以前、かなりの読書量を誇る知人がいた。しかし、博覧強記にはほど遠く、また読書は日々の仕事にもあまり役立っていないようだった。「学び多くして知識身につかず、また機智少なし」という結果が常である。

むやみに本を読み他人の話を聴くだけでは、後日再現したり活用したりする取っ掛かりになりにくい。しかし、インプットの時点で、ほんの少しでも考えるとか単語や文章を記すとかしておけば事情は変わってくる。つまり、インプット過程にアウトプットを内蔵させる一工夫。インプットとアウトプットを切り離さないようにするのである。

たった一つのことばが記憶をまさぐるきっかけになる。いま読書室の企画を依頼されているが、〈読書〉というありきたりな一語から知識や経験の扉を開くしかない。一つのことばからイメージを広げるというのは企画の基本である。そして、ことばから導かれた印象的なイメージを起点となったことばの中に折りたためば、ことばとイメージが一体化する。インプットとアウトプットが一つになる。


今はもう廃業してなくなったが、じいさん一人だけの自転車修理専門の小さな店が近くにあった。具合の悪い自転車が持ち込まれると、何はともあれ、じいさんは大きな木箱を持ち出してくる。その中には、自転車の古い部品や、おそらく自転車以外の大小様々な部品が、整理整頓されずに雑然と入っていた。じいさんはその中に手を突っ込んで指先で使えそうな部品を探し出した。

その姿を見ていて、レヴィ⁼ストロースが着眼した〈ブリコラージュ〉という概念を思い出した。「器用仕事」と訳される。深慮遠謀して何かを作るのではなく、ひらめくままに「そのつど主義」で作ったりつくろいに使ったりする。いつか使えるかもしれないと思って残しておいたものといま手に入れたものを直感的に組み合わせて試行錯誤する。

あのじいさんの木箱には、いつか使えるかもしれないと思って貯め込んできたおびただしい部品が入っていた。何に役立つかはわからないが、気になったものや縁を感じたものを手元に置いてスタンバイさせていたのである。どんなアウトプットになるかを深く考えずに、気になるものをひとまずインプットするやり方は、情報のインプットとアウトプットの関係――ひいては、ことばがイメージを広げる様子――にも当てはまる。

最後に。今日の話は「ことばがイメージよりも優位」という主張ではない。ことばがイメージを広げるのと同様に、イメージもことばを広げる役を果たす。しかし、「イメージがことばを広げる」と題して書けばまったく別の話になる。

〈なつ〉と〈しごと〉

🌤 6月になったばかりなのに、ギラギラと太陽が照りつける炎天のイメージが先行する。〈なつ〉に長期休暇があるのは〈なつ〉が〈しごと〉や勉学に向かない証。年に3ヵ月も続く暑さは苦難である。しかし、苦難を試練と見なせば何とか我慢してみようという気になる

🌤 「さんさん」という擬態語は英語の“sun”とは関係ない。「さんさん」は漢字で「燦燦」。おもしろいことに「火へん」である。「ギラギラ」という擬態語も英語とは関係ない。と言いたいところだが、英語の“gl”(グㇽ)という音は紛れもなくギラギラを現している。glareグレアはまぶしい光であり、glassグラースは反射して光るし、glowグロゥは白熱や赤熱の光を輝かせる。複数の言語で“gl”を調べたことがあるが、その音のギラギラ感は人類共通のように思える。

🌤 梅雨入りが早い年は、挨拶も「梅雨入りしたらしいね」になる。

「梅雨入りが半月早くなり、おまけに梅雨明けも半月遅くなったりするとどうなると思う?」
「さあ……。鬱陶しくなる?」
「雨の日が多くなるんだ」

🌤 〈なつ〉になると〈しごと〉のスタミナが続かなくなる。勢い、直線的に取り掛かって効率的に済ませようとする。しかし、経験上これは間違っている。暑い季節の〈しごと〉は、ダメもとの精神で、だらだらと寄り道したり本題から離れて脱線したりするのがいい。

🌤 今年の〈なつ〉もどこか遠くへ出掛ける予定はない。〈しごと〉の後の一杯をささやかに楽しむつもり。
ビールはチェコやベルギーの小瓶。つまみはフィッシュアンドチップスか豚のスペアリブの炙り。ワインは主に白の泡。春先からカバをいろいろ試してきた。つまみには惣菜パン。一口サイズにカットしてタパスに見立てる。ウイスキーはキーンと冷えたバーボンのハイボール。小エビかイカのフリットにレモン汁をたらしてつまむ。