「かつら」の話

昨年末にイタリア映画『ほんとうのピノッキオ』を観た。その後、本棚から『ピノッキオの冒険』を取り出してもう一度読んでみた。ある日、大工のアントーニオ親方とジェッペットじいさんが「言った、言ってない」の口ゲンカを始め、ついにほんもののケンカになってしまった。そして……

つかみあい、ひっかきあい、かみつきあい、もみくちゃの大騒動。やっとおさまった時には、アントーニオ親方の手にはジェッペットじいさんの黄色いかつらがにぎられ、ジェッペットじいさんの口には、大工の白髪混じりのかつらがくわえられていた。

その後二人はお互いのかつらを返し、握手をして、以後仲良くやっていこうと誓い合う。男のかつらはハゲを暗示する。ハゲどうしは、仮にもめたとしても関係がこじれないようになっているのだろうか。根拠はないが、ハゲたちは仲が良いような印象がある。

ところで、ウィキペディアは「ハゲ」の解説を次のように始めている。

ハゲ(禿、禿げ)とは、加齢、疾病および投薬の副作用、火傷、遺伝的要因などにより髪の毛が薄い、もしくは全くない頭部などを指す。またハゲた場合頭皮に艶が出やすい。頭部がつるつるに禿げている様を指し、つるっぱげ(つるっ禿げ)もしくはツルハゲ(つる禿げ)とも呼ぶ。頻繁に動詞化するが、その際「禿」の字が使われることは稀である。

上記引用でぼくが引いた下線部に注目。いきなり冒頭からウィキペディアにしては少々はしゃいでいるではないか。おそらく、ハゲと言ったり書いたりした瞬間、人の心理には何らかの異化作用が生じるようである。


かつらについて語ることがハゲの話に発展する必然性はない。しかし、ウィキペディアの記述である「髪の毛が薄い」とか「頭部がつるつるに禿げている様」とか「つるっぱげ」とかの話とかつらは、中年以降の男性の場合にはワンセットになる傾向が強い。ここでひとつ、かつらとハゲに関する持論を問題提起してみたい。

ハゲの市場は大きいにもかかわらず、商品が毛髪剤と植毛とかつらに限られるのは発想力不足だ。ぼくの親しい友人知人にハゲが数人いる。彼らを見て、以前からハゲに似合うメガネ、ネクタイ、スーツがあり、さらにはハゲならではの話し方や立ち居振る舞いがあると考えていた。誰もやらないのなら、どこかのメーカーの新事業部門に話を持ちかけて商品とサービスのコラボ企画をしてもいいとさえ思っている。

劇作家の別役実に『日々の暮らし方』という本気か冗談か判断しづらいエッセイ集がある。その中に「正しい禿げ方」という本気か冗談かわかりかねる一編が収められている。冗談ぽく書かれているが、正しい挨拶のしかたと間違った挨拶のしかたがあるように、禿げ方にも正しい・間違いがあっても何の不思議もない。別役は次のように話を展開する。

ひとまず、これは多くの「禿」が間違えていることなのであるが、テッペン・・・・から禿げてはならない。(……)テッペンから禿げはじめた場合、残存頭髪をドーナツ状に周囲に配置することになる。つまり、「禿」が中央で、独立して異彩を放つことになる。(……)このことが理解出来れば、前頭部、後頭部、側頭部の内でも、前頭部から「禿」を始めるのが最も理想的なことは、誰にでもわかるであろう。

「たかがハゲ」ではない。つねに「されどハゲ」なのである。テッペンから足元まで、一個の人間としてハゲの全体構想が必要なのだ。ハゲを頭部の現象として何とかしようとするからかつらに目が向いてしまう。安易にかつらで何とかしようしてはいけない。かつらはムレるしズレる。そして、ほぼ間違いなくバレることは無数の事例が証明している。かつらであることがバレた瞬間、毛髪に続いて紳士の資格も失うことになるのである。