付箋紙メモ5題

メモや文章はひとまずノートに手書きしている。システム手帳なので分厚くなりかさばる。ランチやちょっとした雑用で出掛ける時は携えない。しかし、そんな時にかぎってよく気づくし記録したくなる話題に出合う。最近は付箋紙と水性ボールペンだけポケットに入れて出る。付箋紙には見出しか要点だけを記し、長い文章は書かない。

そうしたメモは数日以内に手書きで文章にしておく。かなり日が経ってしまうと、メモをした意図すらわからなくなる。読書量もノートに書くメモの数も減る猛暑の季節。付箋紙由来のメモから雑文を起こしてみた。

📝 いま生きている者はみな時代の最先端にいる。断崖に立って見えない未来に直面しているようなものだ。最先端で生きるなんてカッコいいようだが、不安で落ち着かないし、決して楽観的にはなれない。人類はいつの時代も宇宙の危なっかしい場所に居続けてきて、何とかリレーしてきて今に至っている。

📝 英語の“enjoy”には目的語がいる。日本語の「楽しむ」はそれだけで使える。何を楽しむか言わないのは明快ではない。しかし、文脈や行間からわかることが多いから、「何々を楽しむ」といちいち几帳面に言うのは少々野暮である。

📝 午前10時。全方向をくまなく見渡して空を仰ぐ。薄雲は一条の線も引かず、白雲は小さな欠片かけらも固めず。つまりは、晴れわたり澄み切った青天白日。この光景をいつもいつも「青空」と片付けてしまうのは怠慢ではないか。

📝 マスクという制限、ステイホーム(外出自粛)という制限、少人数の黙食という制限。制限は不自由だ。制限が課されると、制限がなかった過去を思い出す。「自由はいいなあ」とつぶやく。この過去の思い出があるからこそ、制限解除後の未来の自由が想像できる。自由と自由がサンドイッチのように制限を挟んでいる状態をイメージしている。

📝 半年ぶりの他県でのリアル研修だった。テーマは企画。企画について新しい発見があった。即効性と構築性(またはアドリブと計算)、感覚と戦略、瞬発と熟成などの二項概念がもたれ合って一つの形を作っていく。それが企画という仕事である。

見極めの作法

行政の事業やイベントの審査をこの10手伝ってきた。毎年4つか5つの案件を見てきたので、かなりの数になる。コンペやプロポーザル方式で専門事業者の企画提案内容を評価し、複数の審査員で審議して最優秀事業者を選ぶ。審査員は3人~5人。数社がエントリーしてくるので、満場一致で決まることはめったにない。

審査と言えば、ディベート大会には40年以上関わってきた。練習も含めると、たぶん千に近い試合を審査してきたはず。ディベート審査では、3名、5名、7名など、奇数の審査員が一人1票を肯定側か否定側に投じる(引き分け判定はない)。拮抗しても必ずどちらかの票が他方を上回る。

行政の選定会議は投票方式ではなく、個々の事業者を採点して審査員の点数を合計する。合計点の多い事業者が最優秀になる。たとえば、事業者A社、B社、C社を4人の審査員が審査。3人の審査員の採点でA社が1位になったとしても、残る一人の審査員が大差の点数でC社をトップ評価したら、合計点でC社がA社を上回ることがある。実際、そんなことが二度あった。最高点と最低点をつけた審査員の点数を除く「上下カット方式」がフェアだが、あまり採用されない。


最初の事業者のプレゼンテーションはその内容だけを絶対評価する(フィギュアスケートやアーティスティックスイミングの最初の競技者に対する採点と同じ)。しかし、二番目以降は、たとえ絶対評価のつもりで採点しても、先に終えたプレゼンテーションと比較しながらの評価にならざるをえない。天秤にかけながら優劣判断をすることになる。

ある一つの物事だけが対象なら、その物事の本質や出来栄えなどを評価して最終的に「イエスかノー」の判定を下す。他方、二つの物事の評価となると必然的に比較をして優劣を決めることになる。こう書けば簡単そうに見えるが、優劣の判断には感覚や経験が含まれる。また、「鼎立ていりつ」という、三者対立などもあって評価は一筋縄ではいかない。

事業者選定や議論の勝敗に関わる審査は、利害関係を抜きにしたロールプレイ的ミッションである。しかし、仕事や生活上の人柄と所業の見極めや大小様々な意思決定は生身の自分事だ。得失を優先するあまり善悪を棚上げする者がいるし、「美しいと思うから美しいのだ」と短絡的な論法で決めつける者もいる。何を根底に置いて評価すればいいのか、見極めの作法は定まりにくい。しかし、少なくとも、得失の判断を真偽・善悪・幸不幸の見極めよりも優先させてはいけない。自然界に得失はない。得失は人の邪心にほかならないのである。

イズム(–ism)はほどほどに

昨年12月、コンサートに招待された。断っておくが、企画したのは怪しい主催者ではない。大阪に何らかのゆかりがある複数の歌手がそれぞれ23曲歌った。その中の一人はすでに70歳を過ぎ、30数年前に比べて露出は減ったが、ブレることなく今もわが道を歩み続けているらしい。この歌手の、観客を置いてきぼりにする自己陶酔ぶりにうんざりしてしまった。

自己陶酔の英語は“narcissism”。正確な発音は「ナルシシズム」だが、慣習的にはシを一文字落として「ナルシズム」と呼ぶ。己に陶酔しすぎると、他者や景色は見えなくなる。自分が中心で、自分が好きでたまらない困った人だ。ステージに立っているのを忘れているのではないかと思うほどの傍若無人だった。

“ism”は、それ自体が単独で使われることはまずないが、接尾辞としてある用語にくっつくと用語のとんがり感が強くなる。Darwinismダーウィニズムは「ダーウィン進化論説」、feminismフェミニズムは「女性解放思想」、nationalismナショナリズムは「国家主義」という具合に、何とかイズムは主義や先鋭や排他のニュアンスを濃く漂わせることになる。


おなじみのdandyismダンディズムを例に考えてみたい。適訳がないので今も昔も「ダンディズム」が一般的。これは男性に使われることばで、主として服装や身のこなしや付き合い方がスマートで洗練されている様子を表わす。ダンディズムを極めていくと――と言うか、調子に乗り過ぎると――ディレッタンティズムになる。耽美主義だ。人生最上の価値を「美」ととらえ他のことには見向きもしない頑なな姿勢である。

服装や身のこなしだけではない。筆記具などのステーショナリー、靴や鞄や札入れなどの皮製品、時計と眼鏡の使いこなしにも言える。また、食材や料理とその食べ方、酒とその飲み方、店の選び方にも主義がある。愛用するものやスタイルには理由があり、問われれば饒舌にならない程度に蘊蓄を傾けることができる。

ダンディズムは一目で、一言で差異がわかる。品性もさることながら長年培った流儀が感じられる。それは、エステサロン帰りに細身のスーツに身をまといオーデコロンを香らせるのとは別物である。財布から札を取り出して祝儀をはずむのもダンディズムではない。誰が言ったか忘れたが、ポケットに硬貨を入れておいてそっと取り出すのがチップの心得だ。服装もことばも小道具も、これ見よがしではなく、さりげなく。ダンディズムに形だけで頓着すると野暮になる。

語句の断章(35)演繹と帰納

〈演繹〉と〈帰納〉は決してやさしくない哲学用語である。研修で何度か使っているが、中心テーマになったことはなく、周縁的にさらりと使うだけで深く掘り下げていない。質問を受けたこともない。ぼんやりとわかっている、辞書を調べてもあまりピンとこない、わかっているつもりだが「意味は?」と聞かれたら説明できない……演繹と帰納に対してはおおむねこの程度の距離感の人が多いのではないか。

手元の『新明解』によると、演繹とは「一般的な原理から、論理の手続きを踏んで個々の事実や命題を推論すること」、帰納とは「個々の特殊な事柄から一般的原理や法則を導き出すこと(方法)」。この説明を読んで、「ガッテン!」と膝を打つ人はたぶんいない。

ぼくの場合、だいたいの意味がわかるきっかけになったのは英語だった。演繹と帰納はそれぞれ英語で“deduction”“induction”という。使った英英辞典は新明解以上に明解で、演繹は“from general to special”、帰納は“from special to general”と定義されていた。一般から特殊を導くのが演繹、特殊から一般を導くのが帰納。枝葉が省かれてわかりやすかった。

たとえば何かについて話す時、総論から始めて具体的な事柄を紹介するのが演繹的話法。他方、一つまたは複数の具体的な事例を切り口にして一般的な考え方で結ぶのが帰納的話法。演繹と帰納のことを知らなくても、現代人にはこの二つの思考パターンやまとめ方が刷り込まれている。一つの原理をいくつかに分析するか、複数の情報を総合するかのいずれかなのである。


演繹を図で表わすと上記の通り。一つの大きな概念を具体的なコンテンツに小分けする。「横綱を目指す力士は〈心、技、体〉を鍛えなければならない」や「日本の通貨には、一円、五円、十円、百円、五百円の硬貨と、千円札、二千円札、五千円札、一万円札の紙幣がある」。トップダウンの構造になる。


上図は帰納の構造を表したものである。演繹の図とは矢印の方向が逆になっている。小さな情報のいくつかを一括りにして上位の概念にまとめる構成だ。たとえば、「Aさんは時々遅刻する、アポの時間を忘れる、新幹線に乗り間違える。時間にルーズなAさんは社会人失格」とか、「香川、徳島、愛媛、高知の4県を四国という」など。ボトムアップの構造をとる。

どこで何を食べる?

現在の場所(大阪天満橋)で起業してから34年余り。この界隈の何十何百という食事処で、おそらく78千食のランチを食べたりテイクアウトしたりしたはずである。官公庁と中堅中小企業が集中するエリアだが、元々は住宅と商店がおびただしい街で、飲食店も多種多様である。

飲食業は栄枯盛衰、街中に在る店は一方で閉ざしては消え、他方でまた新しく生まれるが、総じて長くはとどまらない……などと書けば『方丈記』の「ゆく河の流れ」のごとし。記憶が正しければ、起業時から変わらず残っているのは牛丼の「吉○家」のみである。

コロナ禍で出張が少なくなり、仕事の本場所にいる日々が増えた。在宅でのテレワークが性に合わないので、ほぼ毎日事務所に来ている。おびただしい食事処から「さて今日の昼はどこがよいだろうか」と迷うのはこれまで楽しみだったが、長い年月を経た今、選択と決断は悩ましい。

どちらかと言うと食性が広いぼくは毎日同じような弁当で済ませることはできない。「昼にどこで何を食べるか?」と思案するのはほぼ毎日のこと、簡単には決まらない。但し、コロナ以降はもっぱら孤食をしているから、「誰と」を考える必要がなくなった。食事相手を気遣うことなくマイペースが保てる。


この一カ月、外に出るだけで暑い。出てから迷い歩きしていては食事にありつく前に熱中症をわずらう。出掛ける前に近場の店のツイッターやインスタグラムで本日のメニューをチェックするようになった。したがって、行ってみるまでメニューがわからない店に行くことはほとんどない。おおよそ56店に行きつけの店を絞り、あらかじめ注文まで決めてから出掛ける。

一番のお気に入りは一か月ちょっと前に初めて入った「Y」。直近の半月だけで4度足を運んでいる。毎日工夫のある7種の定食がメニューで、和風が4種、洋食が2種、中華/エスニックが1種というラインアップ。値段は800円から上限1,400円。おおむね1,000円前後。


今日も行ってきた。目玉の鰻丼定食、1,380円を注文した。三河産の鰻とは良心的である。どの定食にも具だくさんの味噌汁と小鉢2品が付いている(日によってはデザートも)。これまでに注文した食事は以下の通り。この店をマイ食堂に指名してもいいと思うほど変化に富んでいて飽きない。

海鮮竜田揚げ定食
おかあさんの酢豚定食
マグロ/中トロ/イサキ/フエフキダイの漬け丼定食

抜き書き録〈2022/07号〉

異常なほど暑い6月だった。7月も引き続き暑い日が続いている。この先も覚悟しておきたい。冷房を効かせば身体は楽になるが、本を読もうとしてもなかなか根気が続かない。それでも少しは読み、傍線を引き、抜き書きもする。再読の本が多い。

いみじう暑き昼中に、いかなるわざをせむと、あふぎの風もぬるし、氷水ひみずに手をひたしもてさわぐほどに、こちたう赤き薄様うすやうを、唐撫子からなでしこの、いみじう咲きたるにむすびつけて、とり入れたるこそ、かきつらむほどの暑さ、心ざしのほど、浅からずおしはかられて、かつ使ひつるだにあかずおぼゆる扇も、うちをかれぬれ。
(清少納言『枕草子』)
【筆者超訳】かなり暑い日中に、暑さをしのごうと扇であおいでみても風はぬるい。氷水に手を浸してはしゃいでいたその時、立派に咲いたなでしこの花に真っ赤な和紙の手紙を結びつけたものを、取次の者が届けにきた。手紙をお書きになった時の暑さとお気持ちのほどが察せられて、飽きずに持っていた扇を思わず置いてしまったのだった。

平安時代も暑かったのだ。今ほど気温は高くなくても、場所は京都、湿度は高かったはず。暑い昼にラブレターが届く。書き手の飽くなき、恋心という名の精神力に驚く。赤い花に赤い手紙。ああ、想像するだけで体温が上がる。

「とこなつ」はれっきとした日本語らしいが、常夏という漢字と語感から南洋の島が刷り込まれてしまった。中西進の『美しい日本語の風景』に次のくだりがある。

「とこなつ」とは「永遠の夏」という意味。「とこ」は「常」という漢字が当てられたせいで、同じ「常」を当てる「つね」と混同されかねない。「つね」はふつう、標準という意味だからまったく別物である。
「とこ」は「とこしえ」(永遠)「とこよ」(永遠を極める年齢、また世界)のように、無限の時間をいう。

「とこ」としての時間・・は観念だから「無限の時間」という言い方がありうる。他方、「とき」はその時々の時刻・・を象徴するので現実的である。「無限の時刻」とは言わない。ちなみに、夏の間咲き続ける「なでしこ」は「永遠とこよの夏」とも呼ばれたそうである。

「からむし」という言葉がある。『八犬伝』の中の有名な芳流閣上の格闘の場に「ころは水無月みなづき二十一日 きのふもけふもからむしの ほてりを渡る敷瓦しきがはら」というように出てくることばであるが、(……)辞書でこの言葉をひくと「湿気がなくて蒸暑いこと」とある。この解は変ではないか。「蒸暑い」というのは湿気があって暑いことのはずだ。これは、「雨は降らないが蒸暑いこと」とすべきだろう。
(金田一春彦『ことばの歳時記』)

今年の梅雨は短く、あまり雨が降らなかった。それでも例年以上に蒸し暑かった。雨の日が多湿とはかぎらないことを除湿器を置いてから知った。先々週の半ばだったか、前日に雨が上がり気温も30℃を切った。エアコンが効いた部屋の湿度は低かったのに蒸し暑かった。

見ることができないものは、人間にとって、とても扱いにくいものです。しかし、多くの文明や文化は「見えないもの」を何らかの創意と工夫でとらえるようにしたところから生まれてきました。
(佐藤正彦『プチ哲学』)

感じることはできるが、湿度や気温という本来見えないものが、アナログ/デジタル的に計測して数字によって「見える化」した。しかし、数字で表しても見えたことにはならない。湿度と気温の数値を併せ読みしても、体感を表してはいない。それはそうと、最近は不快指数ということばを見聞きしなくなったが、どこに消えてしまったのだろうか。

名と味の照らし合わせ

まぐろの刺身と天ぷら3品をつまみにして生ビール1杯だけのつもりだった。生ビールを飲み干そうとした時、ふと見た壁の貼り紙に「イカのわた焼き」を見つけた。イカは好物で、わたと絡めた焼いたイカなら言うことはない。追加で注文し、これに合いそうなのを地酒の夏メニューから選んだ。岐阜の「涼」がそれ。

そろりと一口すすり、アルミホイルに包まれた熱々のイカ焼きを一切れ頬張る。二口、三口すすった頃にホールの女性が席に来て、「こちら翠になります」と言う。テレビでも宣伝していて、いま少しはやり始めているジンのソーダ割りだ。注文していない。と言うか、この女性、今しがたぼくに涼を届けたばかりである。

「翠? 注文してないよ」と言ったぼくの声が近くのオープンキッチンに聞こえたのか、厨房の男性スタッフが「そちら涼ですよね?」と確認する。酒を指差して「そう、これは涼」とぼく。ホールの女性は「すみません。間違いました」と謝る。ただこれだけのことだが、注文確認のぎこちない様子を見ていると、これで一件落着とは思いづらい。


ぼくが涼を注文し、ホール担当が「こちら涼です」と言ったから、いま飲んでいるこの酒を涼だと思っている。何かのミスで、仮にこの酒が一ランク下の普通の清酒だったとしても、言われるがまま涼だと思うしかない。かなりの飲み手でないかぎり、味の判別はできそうもない。何よりも涼なる酒を飲むのはこの日が初めてだ(いや、何度か飲んでいたとしても、並の清酒との違いがわかったかどうかは疑わしい)。

この初めての酒をゆっくり味わいながら、何口か飲むうちに、この酒が最近飲んだ新潟の地酒と違うことが少しずつわかってくる。「松○梅」と違うこともわかる。わかるが、だからと言って、この酒が涼という確証はない。別の酒が誤ってぼくに運ばれたとしても、「これは注文した酒ではない」と言えるほどの利き酒はできない。この酒が涼とされるのは、ぼくがそれを注文し、店が涼と告げたからにほかならない。

日本酒は稀にしか飲まないが、これまではほとんどの場合、目の前で一升瓶からグラスに注がれたはずである。注文した銘柄と一升瓶のラベルを照合して飲んでいた。イカのわた焼きは正真正銘のイカだったが、すでにグラスに注がれて運ばれてきた酒が、間違いなくぼくの注文した銘柄であるかどうかはわからない。日本酒よりも少しはわかっている赤ワインでも同じだろう。

この話に結論はない。一つ言えるとすれば、酒の味わいの大部分は名の味わいであり、名と味を照らし合わせて楽しんでいるということだ。ところで、あの地酒は何だったのか? 常連ではないが、行けば安くていい料理を出してくれる。それが信頼というもので、イカのわた焼きに合わせたのは注文通りの酒に間違いなかったと思っている。

日常茶飯事の「變」

「變」という難しい字を俗字にしたのが、普段使っている「変」である。これまでずっと普通だったことがおのずから終わること/あらたまること、あるいは、これまでずっと普通だったことを終えること/やめることが元の意味らしい。

その年の世相を漢字一字で表わす「今年の漢字」。2008年、「変」が今年の漢字に選ばれた。発表された時、「いつの年も前年と変わるし、この一年に限ってもこれまで当たり前だったいろんなことが変わった。いつの年も、恒常的に・・・・変ではないか」と思ったのを覚えている。「何か変!」と感じることも、よい意味で変わることも、悪く変化することも日常茶飯事である。

1975年、読者が電話すると作家の録音テープが聞けるサービスを新潮社が始めた。以後30年間続いたらしい。流れたテープのうち、星新一の肉声が数年前にテレビで紹介された。

「アポロ(1969年)以来、宇宙がしらけてしまって書きにくくなった。これからは日常の異常に……」

星新一の肉声の後に当時の新作『たくさんのタブー』が案内された。日常の異常という言い回しが不思議ではない時代になった。「何々の変」という小さなクーデター・・・・・が、日々身の回りで――油断していると気づかないが――確実に起こっている。


宇宙、未来、歴史は知らないことばかりで、知らないがゆえの魅力と不思議に満ちている。想像を馳せてもなお、決定的な何かが見えないし知ることもできない。アポロ11号のように、精度の高い予測のように、オタク史家の博覧強記のように、いろんなことを明らかにしていくとつまらない。星新一の言うように「しらけてしまう」。しらけるとロマンや知的好奇心が消え失せる。

「何かが変」という感覚が生じるのは、今が常態で当たり前という視点に立っているからだ。この時、今の視点に与して変を排他するか、それとも変の感覚に従って今を怪しんでみるかという岐路がある。二者択一なら後者だが、懐疑が過ぎてしまうと、それこそ変なことになってしまう。