旧仮名遣いの響き

あのかぐや姫の話、いったいどのようにして知ったのか、まったく覚えていない。『竹取物語』を読んだのか。読んだとしてもおそらく子ども用にアレンジされた文章だったのだろう。何よりも、自分が知っているあの話はほんとうに竹取物語に書かれているのと同じなのか……まったくわからない。気になったので読んでみた。出だしはこうである。

いまはむかし、たけとりのおきなといふものありけり。野山にまじりて竹をとりつつ、よろづのことにつかひけり。名をば、さぬきのみやつことなむいひける。その竹の中に、もと光る竹なむひとすぢありける。あやしがりて、寄りて見るに、筒の中光りたり。それを見れば、三寸ばかりなる人、いとうつくしうてゐたり。翁いふやう、「我朝ごと夕ごとに見る竹の中におはするにて知りぬ。子になりたまふべき人なめり」とて、手にうち入れて、家へ持ちてぬ。おうなにあづけてやしなはす。うつくしきこと、かぎりなし。いとをさなければ、に入れてやしなふ。

この先も続けて読んでみたが、描写も細かく意味も繊細。自分なりの竹取物語がかなり大雑把だとわかった。何よりもこの仮名遣いが神話的物語性を感じさせる。

二十代の頃、実験的に旧仮名遣いで短編小説を書いたことがある(『犬と猫の夜語り』)。何時代の話かを特定したわけではないが、少なくとも今ではなく、ずいぶん前の話という雰囲気を出すには古めかしく見える仮名遣いが効果的だと思われた。


現代に入ってからも、小林秀雄や丸谷才一は旧仮名遣いで文をしたためていた。いつぞや古書店で手に入れた野上彌生子の『お話』も旧仮名遣い。昭和49年の本だが、昭和15年初版の復刻版である。その中の「花のゑのぐ」と題された一文。

腕いつぱいにかゝへた雛菊の花のしんのやうにまつ黑な少年の目は、街道をまつしぐらにかけて行く騎手のうしろ姿を、うらやましさうにじつと見送つてゐました。
「ねえ、カタリーナ。」
少年は、そばの姉にむかつて叫びました。
「あの人は、あのすばらしい町へ行くんだよ。」
なにをいつてるの、といふふうに、カタリーナは弟を見つめました。イタリヤの青い空のしたを、南にむかつて帶のやうに白く走つてゐる街道にそつて、こゝかしこにちらばつてゐる多くの町は、廣いところかも知れないが、すばらしい町だなどとは、この山むすめにはたうてい考へられないのでした。
「そんなすばらしい町なんて、どこにあるのさ、ティチアーノ。」
(……)

不思議な感覚に引き込まれる。イタリアの山あいなのに、カタリーナにティチアーノなのに、この仮名遣いが異国の知らない村の懐かしい時代をイメージさせる。

戦後教育を受けた者は現代仮名遣いの教科書を使った。古典のみが唯一の例外。その古典を好きで好きでたまらない学生は少数派だった。ぼくが古典に関心を覚え、旧仮名遣いの小説も読むようになったのは、古典授業とおさらばしてからのことだ。

旧仮名遣いはぼくにとってノスタルジーを甦らせる表記。そして、たまにノスタルジーの注入が必要な時がある。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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