小難しいことを書く気はまったくないが、引用する文章の書き手が曲者だ。エドガー・アラン・ポー、その人である。
推理作家の江戸川乱歩の名を聞いたこともない人が、エドガー・アラン・ポーの名をもじったことを知るはずもない。乱歩はポーを敬愛していた。あやかって名前を拝借したのである。
ポーの作品を二十歳前後に読んだが、たぶんあまりよくわかっていなかった。その証拠に7、8年後に別の文庫全集を買って再読している。『モルグ街の殺人事件』という題名で読んだ小説は、二度目には『モルグ街の殺人』に変わっていた。新しい翻訳に興味が湧いたので、最近光文社文庫版を買い求めた。
『モルグ街の殺人』の冒頭は、いきなり分析的知性の分析から始まる。その例としてチェスやホイスト(ブリッジのようなカードゲーム)の話が数ページほど続いた後に、次のくだりが出てくる。
(……)分析家の技量が発揮されるのは、法則を越えた領域だ。そういう達人はいつのまにか大量の観察と推論をこなしている。いや、分析家でなくても観察や推論はするだろうが、どこが違うかというと、推論の当否というよりは観察の質によって、得られる情報量に差がついている。ここで必要なのは、何を観察の対象にするか知ることだ。限定する謂われはない。またゲームという目的のためには、ゲーム以外の論拠も活用すればよい。
興味深い一節である。分析においては観察と推論がものを言う……しかし、観察の質が重要だ……そのためには観察対象を知らねばならない……。さらに、自分の思考に縛られない……当面のテーマ以外にも目を向ける……。
この十数年後に、ぼくは企画研修という仕事を請け負うことになるのだが、研修用に編著したテキストの第1章は今もなお「観察と推論」である。この小説からそこへ直行したのではないが、大きな影響を受けたのは間違いない。あれこれといろんなスキルアップの学習に手を染めることなどない。他の動物同様、人も環境適応しなければならない。環境適応にあたってもっとも重要なのが現象の観察であり、その観察のやり方が選択・活用できる情報を決定する。推論の当たり外れを心配する前に、機会あるごとに、様々なものをよく観察すればいい。観察が推論の蓋然性を高める。そして、分析力・判断力の拠り所を与えてくれるのである。