ことばの揚げ足をとる

昔の漫才ネタで、「屁理屈を言うな」に対して「屁は理屈は言わん」という切り返しがあった。「電話をとる」に対して「電話はとらん。とるのは受話器」というのも、「鍋が煮えた」に対して「鍋は煮えん。煮えるのは具」というのも、ことばの揚げ足とりである。揚げ足とりは愉快である。ことば遊びには欠かせないし、この種のツッコミにめくじらを立てることはない。

慣用化が進むにつれ、ことばというものは省略され誇張され意味が転移する。そこに誤解や誤用が生まれ、ことば遣いが笑いのネタになったり新しいものの見方につながったりしてくれる。ぼくは、そんな「ことばのプチ哲学」が好きだ。そのせいで、ぴったりのことばを探そうと文章を書いているときに、あることばが気になっていろいろと考えてしまい、よく寄り道してしまうことがある。

先週は「五十歩百歩」という表現で、寄り道どころか大脱線してしまった。「五十歩を以て百歩を笑う」という言い方もあって、これが「目くそが鼻くそを笑う」にそっくりである。

中国の寓話ということは知っていたが、出典を確かめてみた。孟子の『梁恵王上』である。我流で解釈すれば、「臆病心から戦場で五十歩逃げた兵がいた。別の兵が百歩逃げた。五十歩逃走兵が百歩逃走兵を臆病者と言って笑いののしる。おいおい、五十歩さんよ、お前だって逃げたじゃないか。退散したことには変わりはないぞ」というようなことになる。

よく似た類語には「似たり寄ったり」がある。「PCなんて使ってみればどれも五十歩百歩だよ」という表現は、「PCなんて使ってみればどれも似たり寄ったりだよ」とほぼ同じニュアンスだ。しかし、「PCなんて使ってみればどれも目くそ鼻くそを笑うだよ」にすると、何か変。

そういえば、ぼくは以前から「目くそが鼻くそを笑う」という成句を変だと思っていた。目くそと鼻くそは五十歩百歩なのだろうか。成人が人前で目がしらの目やにを小指の先で払うのはよくあるが、堂々と面と向かって人差し指で鼻くそをほじくるのはめったにない。生理的インパクトからすると、鼻くそは目くその比ではない。目くそは「目やに」という言い換えもできるが、鼻くそを「鼻やに」とはふつう言わない。そう、目くそと鼻くそは似たり寄ったりではなく、カテゴリー自体が違うのである。正しくは、「目くそが鼻くそをシカトする」か「鼻くそが目くそをねたむ」でなければならない。

よくよく考えれば、「五十歩百歩」も変に思えてきた。たしかに広い戦場では五十歩と百歩は僅差だろう。しかし、短距離走なら大差がつく。決して似たり寄ったりではない。

参考にした辞典には、「どの意見をとっても五十歩百歩だ」という用例が紹介されている。敏感な人ならわかるだろう。意見にはニュアンスがある。こだわる人にとってはそれが重要だ。だが、五十歩百歩には「小さな相違はさておき」という前提がある。「小異はあるだろうが、マクロ的に見ればどれもこれもよく似ている」という含みだ。こういう使い方ができる人間はそのグループのトップに違いない。

もう一つ用例がある。「千円の損も二千円の損も五十歩百歩だ」。これで完璧に明らかになった。五十歩百歩は金持ちのことばなのだ。何十里や何百里という戦場を基準にしているからこそ、五十歩百歩が成り立つのである。同様に、千円と二千円が似たり寄ったりと言える人間は、何十万円や何百万円を基準に置いているのである。時給800円のフリーターはこの用例を使えない。

以上から、五十歩百歩をめぐるプチ哲学の結論――これは、組織のトップの地位にあって金を持っている人間、すなわち「勝ち組」が使う表現である。 

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proconcept

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岡野勝志(おかのかつし) 1951年大阪生まれ 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター 岡野塾主宰 ヒューマンスキルをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。 マーケティング、コミュニケーションにまつわる企業や人

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