幸せな気分になる話

微細なところまで正確には覚えていないが、ユダヤにこんな笑話があった。

その昔、貧しい家族があった。狭い家屋に大所帯。我慢が限界に達して主がラビ(ユダヤ教の聖職者)のところに相談に行く。ラビは言う、「明日から家の中に騾馬を入れなさい」。どう考えても解せない助言だったが、主はこれに従い、一週間ばかり騾馬との生活に耐えた。
案の定、耐えきれない。再びラビのところに赴き、「家族だけでも大変なのに、騾馬との生活なんて無理です」と吐露した。「では、騾馬を家の外に出しなさい」とラビは助言した。言われた通りの生活を送り、しばらくして主はラビを訪ねた。「ラビさま、ありがとうございます! 家族だけの幸せな生活が取り戻せました。」

うまくいって当たり前なはずなのに、ひょんな悪運や失敗が邪魔してうまくいかない。うまくいかないから落ち込んでいると、何かの拍子にうまくいき始める。感激して喜ぶ。ユダヤの別の笑話に、「貧乏人は、落としたお金を見つけて、それを拾ったときに大喜びする」というのもある。貧乏人でなくても喜びはひとしおだろう。

「一万円札を落とす(マイナス)、それを見つける(プラス)」で実はプラス・マイナス・ゼロなのに、「一万円札を落とさずに財布に入っている状態」よりも喜ぶ。正しく言えば、喜びではなく安堵なのだが、ショックと安堵との大きな落差が幸福感を増幅させる。

ノーアウトでランナー一塁。次打者がバントをするも投手がすばやくさばいてランナーが二塁でホースアウト。その一瞬、観客は「あ~あ」とため息混じりに落胆。しかし、ダブルプレーを狙って二塁手が一塁へ悪送球。ボールが転々とする間にバントをミスったバッターが二塁へ。この瞬間、観客は一転して歓喜する。その歓喜ぶりは、バントを成功させてランナーを二塁へ送るときの声援どころではない。


快適性や幸福感にどっぷり浸かる日々。日常の当たり前がいかに感受性を鈍らせているかという証である。もう一つは「地獄で仏」や「ピンチはチャンス」や「結果オーライ」という自浄作用だ。「不運の後の幸運」を収支トントンではなく、「幸福の黒字」と錯覚できるように人間のメカニズムは働くのだろう。その代わり、「幸運の後の不運」も収支トントンや赤字どころか、「幸福の倒産」にまで落ち込んでしまう。

柔道やレスリングでは、敗者復活戦を勝ち抜き三位決定戦に勝利する者は「銅メダル」を手にする。早々に負けて泣き、やがて「勝利して銅メダル」。ところが、ずっと勝ち続けて決勝戦まで進んで惜敗する者は「負けて銀メダル」。銅メダリストより上位の銀メダリストに笑顔はない。幸福な人生はバランスシートで説明できないのだろう。連敗の後の一勝をありがたいと感じ、「終わりよければすべてよし」と思いなすのだ。

ちなみに、最近のぼくは、小さなメモを見つけたときに幸せな気分になる。それは自分自身のメモでありながら、そこにはまったく記憶から抜け落ちている内容が記されているからだ。「ふむふむ、なかなかいいことを書いているもんだ」と十数年前の自分を賞賛するとき、気分は最高潮に達する。「それって、ただの自己陶酔ではないか!?」と言うなかれ。幸福には錯覚と陶酔が不可欠なのである。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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