ぬけぬけと棒読み

今に始まったていたらくではない。国会や委員会の棒読み答弁、報道解説委員の棒読み説明、スライドの棒読み講義……。一昨年だったか、スライドがタイトルだけの一枚で、講演者が手元の原稿を棒読みするだけの講演に居合わせた。義理で聞かされたのだが、名の通った先生が一切聴衆の反応をうかがわず、アドリブもなく小一時間を消化した。

いくらか期待もしていたが、がっかりだった。いや、怒りに近い感情すら覚えた。よくぞ小一時間もぬけぬけと原稿を棒読みしたものである。原稿を作った時点では考えもしただろう。しかし、人前に出てからあの先生、まったく考えてなどいなかった。考えないで喋るという厚かましい態度の恥さらし。

目を見開いて聴衆や相手に語りかけず、ひたすら演台に置いた原稿に視線を落として読むなら、ライブの必要はない。それこそ自宅でリモートで読み上げれば済む。映像もいらない。講義や講演でスライドを使うのが標準仕様になった現在、なければないで喋れる講師でも、掲示資料を棒読みする傾向が強くなった。


その場で何もかもアドリブで喋るのがベストだとは言わない。しかし、よく考えてきたのなら、一言一句を原稿にして棒読みせずとも、話の順番や用語をチラ見する程度の小さなメモさえあれば、人前でも「自分のことば」で喋ることができる。少々流暢さを欠いてもいいではないか。パスカルも言う通り、「立てつづけの雄弁は、退屈させる」のだから。

棒読みでいいのなら、もはや講演者の個性などいらない。声がよくてもっとスムーズに語れる代弁者を起用すればいい。優秀な人がなぜ棒読みに甘んじるのか、まったく考えずに文字だけを追えるのか、不思議でならない。棒読みするために大臣や解説委員になったわけではあるまい。

上記でパスカルを引いたので『パンセ』の当該箇所の前後を再読してみた。第六章の哲学者について綴る断章である。

三三九  (……)私は、考えない人間を思ってみることができない。そんなものは、石か、獣であろう。

ちなみに、この八つ後の断章が、あのあまりにも有名な「人間は考える葦」である。なお、パスカルは「思考万歳!」とばかり言っているわけではない。三六五では、考えることの偉大と尊厳性と同時に、考えの愚かしさと卑しさについても指摘する。つまり、考えに潜む二律背反性を踏まえている。

ともあれ、考えた末に書いたのが手元原稿だと言うのなら、人前で読み上げるその手元原稿はすでに「死に体しにたい」であり、原稿以上の上積みはない。そうそう、その丸読みの原稿を事前に配付する場合もある。話者も聴衆も資料の文字を追うばかり。誰も顔を見ない。棒読みは厚かましいが、何よりもけしからんのは他人に対して開かれていないことだ。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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