自重と自制の日々

「自粛」。この文字をこれほど頻繁に目にしたのはおそらく初めて。これで書けなかったら「チコちゃんに叱られる!」

遠出したり外食したりするのを慎もうとの要請を機に、生活や仕事のこと、ものの考え方や見方、他人との付き合い方――ついでに、他人にとっての自分の不要不急度も――見直してみた。自粛が一段落した後に続いたのが「自省」の日々だった。

自粛じしゅく】自分の言動に対する反省に基づき、自分から進んで慎むこと。
自省じせい】自分の言動を静かに反省し、自ら責めるようにあれこれと検討を加えること。

『新明解』にあたってみたら、上記のようなニュアンスの違いがあった。しかし、語釈文の前段がほぼ同じ。後段の相違も明快ではないが、自省が反省の類語であることはわかる。

自粛し自省していると、他人と会わなくなり、会わなければことばを交わす機会もない。昨年新聞の月極購読をやめたので、世間の動向はテレビのニュースか時折り覗くネットで知る程度。あまり刺激を受けないので、本ブログでも極言しなくなったし、必死に持論をこね回すこともなくなった。自粛と自省から「自重と自制」へシフトしているような気がする。同じく『新明解』から自重と自制について。

自重じちょう】(品位を保つように)自分の言動を慎むこと。
自制じせい】むき出しにしたくなる自分の感情や欲望を抑えること。


大半は人畜無害だが、SNSという「自由メディア」らしき場では自重と自制がなりをひそめる投稿も少なくない。デリカシーに脇目もふらず、とにかく度を越して威勢よく吠える。吠えた自分の声に鼓舞されていっそうテンションが上がる。やがて持論が正論顔をして仮想敵への批判に向けられる。

言ったもん勝ちの様相を呈するのだが、おおむね言ったもん負けか言ったもんが消えて終わる。気が作動すると品位を保てなくなる。品位は無視できない。ショート・・・・メッセージの発信だからといって、絡的であったり気であったりしてはいけないのである。

世相批評の基本は、怒ったり吠えたりすることではなく、呆れたり苦笑したりすることだろう。呆れたり苦笑したりしている時のほうが世相がよく見えるものだし、それぞれが正しいと考えている彼我の立場も認識しやすい。

憎き権威や体制に火炎瓶を放り投げるような弁舌ではどうにもならないのだ。そもそも何でもアンチとか体制という概念がとうの昔に陳腐化している。そんなものにいつまでも食らいついて批判するのを常としていたら、それこそ己でない何か別の存在に知らず知らずのうちに変えられていくのではないか。と言うわけで、自重と自制の日々。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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