街と「まち」という響き

差異を辞書的に探るつもりはなく、また詳しく知っているわけでもないが、街と都市を無意識のうちに使い分けている。都市の論理と書いても街の論理とは書かないし、街の佇まいとは言ってみるが、都市の佇まいとはたぶん言ったことはない。

先日、シニアの暮らしと生き方、趣味や交流などについて、ホームページに掲載するコラムを依頼され、8編書いた。そのうちの一編で「街」と表記したところ、「まち」にしたいと言われた。その文章では代替しても問題はないので了承した。行政では「まちづくり」と書く。それに、街や町でイメージが拘束されるよりは「まち」のほうが含みもある。

街と都市は互換性があるものの、都市がより造形的かつ機能的寄りで、街がより庶民的で日常的寄りという印象がある。これはあくまでも、対義語となりそうな自然や田舎や村を一切考慮せずに考える、ぼくの個人的なイメージにほかならない。

ちなみに、都市をマクロ、街をミクロととらえるなら、今住む場所から歩いて行ければ、仮にそこが一般的に大都市や大都会と呼ばれているエリアであっても、自分にとっては街に仕分けられる。大阪都心で暮らすぼくにとっては、御堂筋のオフィス街も心斎橋のショッピング街も、楽々の徒歩圏内なので、がいまちになる。

日暮れ時の御堂筋の大丸前。
心斎橋、かつての橋の名残り。

人が消えて無機的な光景になると、街は街でなくなる。街が街であるためには足し算が必要だ。実景から動く人々を引き算して俯瞰すると、街は模型になってしまう。盆の時期の数日間、人気ひとけのない模型になるのが例年、しかし今年はそこそこ人がいて模型にならずに済んでいる。ただ、大勢の観光客でごった返していた界隈の昨夏の賑わいにはまったく及ばない。

回りに造形物が一つもない自然の中で夕陽を見送り朝陽を迎えたことがある。自然から受けるこの印象に街が手も足も出ないわけではないと思った。建造物のシルエットが邪魔をして、眺める夕空の面積が小さくなる。それは愛すべき光景でもある。そして、実際に街に住むのと同じくらいかそれ以上に「まち」という響きが気に入っている。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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